黒死館殺人事件 (河出文庫)/河出書房新社
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小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(河出文庫)を読みました。
『黒死館殺人事件』は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、中井英夫の『虚無への供物』と並んで、日本探偵小説の「三大奇書」に数えられている作品です。
「三大奇書」では、記憶を失った精神病院の患者が、記憶を取り戻すことが事件の解決に繋がるとして、過去の猟奇殺人事件について、少しずつ知らされていく『ドグラ・マグラ』もなかなかに難解な作品。
ですが、最後まで読み通せない難しさがあるという点では、その名の通り”黒死館”と呼ばれる館で起こる連続殺人事件を描いたこの『黒死館殺人事件』が、「三大奇書」の中で、おそらく一番でしょう。
『黒死館殺人事件』の何がそんなに難しいかと言うとですね、刑事弁護士であり、探偵役をつとめる法水麟太郎が、物知りかつ頭が良すぎて、何を言ってるのかもうさっぱり分からないんです。
「それが、あの水精よ蜿くれ――さ。」と法水は、始めて問題の一句を闡明する態度に出た。「あの一句は、ゲーテの『ファウスト』の中で、尨犬に化けたメフィストの魔力を破ろうと、あの全能博士が唱える呪文の中にある、勿論その時代を風靡した加勒底亜五芒星術の一文で、火精・水精・風精・地精の四妖に呼び掛けているんだ。(中略)それからもう一つ、あの一句には薄気味悪い意思表示が含まれているのだよ。」
「それは……」
「第一に、連続殺人の暗示なんだ。犯人は、すでに甲冑武者の位置を変えて、それで殺人を宣言しているが、この方はもっと具体的だ。殺される人間の数とその方法とが明らかに語られている。(以下略)」
(89ページ、本文では「水精よ蜿くれ」に、「ウンディヌス・ジッヒ・ヴィンデン」、「加勒底亜」に「カルデア」、「火精」に「サラマンダー」、「水精」に「ウンディーネ」、「風精」に「ジルフェ」、「地精」に「コボルト」のルビ)
黒死館で起こった殺人事件を、様々な手がかりから解明していく法水は、文学や音楽などの芸術は勿論、歴史や神秘思想、占星術(アストロジイ)や錬金術(アルケミイ)などについても語っていきます。
出て来る暗号の時点でかなり難解というか、もはや意味不明ですが、それが法水によって見事に解読されても、結局よく分からないというものすごさ。常人が理解出来るレベルをはるかに超えています。
もう本筋であるはずの連続殺人事件の謎の解明よりも、法水の学術的講義がむしろメインになってしまっているのが、この作品の大きな特徴なんですね。本末転倒と言えば、確かに本末転倒かも知れません。
解説を担当している澁澤龍彦をして、「この『黒死館』では、トリックはあくまで装飾的かつ抽象的であり、読者をして謎解きの興味へ赴かしめる要素はほとんどないと思われる」(514ページ、「解説」より)と言わしめ、迷いなく犯人の名前を書かせたほど。
そうした、法水のまくしたてる難解な言葉や、物語全体を漂う衒学(ペダントリー。学識をひけらかすこと)な雰囲気が、この作品の最も大きな特徴であり、”奇書”に数えられる大きな理由なのです。
そう聞くと、なんだか自分には難しそうだから、読むのをやめておこうかなと思われたかも知れませんね。でもちょっと待ってください。あれなんですよ、法水の言ってることは分からなくていいんです。
なんだかオカルトチックなすごいことが語られているということは分かりますし、そうした雰囲気だけでもかなりわくわくさせられるので、難しいことはあまり気にしないで読むといいと思います。
むしろ注目してもらいたいのは、法水の語る言葉よりも、黒死館という建物そのものや、建物の内部の様々な装飾品です。これが何とも言えない魅力があるんですよ。
以前、ホレス・ウォルポールの『オトラント城』を紹介しましたね。
[第4巻 ゴシック] オトラント城 / 崇高と美の起源 (英国十八世紀文学叢書)/研究社

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中世の古い城など、ゴシック建築の建物の中で怪奇現象が起こる「ゴシック小説」の先駆けでした。
『黒死館殺人事件』の魅力というのは、この『オトラント城』など、「ゴシック小説」の魅力ととてもよく似ていて、館自体が持つおどろおどろしい雰囲気がたまらなくいいんです。
ただ殺人が起こるのではなく、黒死館という特殊な場所で殺人が起こること。これが何より重要なんですね。
自動人形テレーズの不気味さ、鐘鳴器(カリルロン)の荘厳さ、外国から赤ん坊の時に連れて来られ、楽器奏者として成長させられた四人など、黒死館の住人の奇妙さ――。
確かに難解さがある”奇書”なのですが、この黒死館の雰囲気というのは他の小説では味わえない独特のものがあります。おどろおどろしくて、ものすごくて、とにかく魅力的。
ミステリ好きの方には、ぜひ一度は挑戦してもらいたい日本探偵小説の金字塔です。
作品のあらすじ
1月28日の朝。支倉検事が訪ねて来て、新たな殺人事件が起こったと聞かされた法水麟太郎は露骨に嫌そうな顔をしました。
難事件を解決したばかりで、まだ疲れが取れていませんし、体調もなんだか思わしくないから。しかし、どこで起こった殺人事件かを聞かされると、とたんに興味を持ったようです。
「所が法水君、それが降矢木家なんだよ。しかも、第一提琴奏者のグレーテ・ダンネベルグ夫人が毒殺されたのだ。」と云った後の、検事の瞳に映った法水の顔には、俄かに満更でもなさそうな輝きが現れていた。
(10ページ、本文では「提琴」に「ヴィオリン」のルビ)
天正遣欧使の一人、千々石清左衛門直員とフランチェスコ大公妃カペルロ・ビアンコとの間に生まれた女児の子孫である降矢木家。呪われた血筋なのか、今までにも不可解な事件が何度も起こっています。
幾度かの変死事件の果てに、当主の算哲博士は亡くなった妻テレーズの思い出に、有名な人形工に作らせたテレーズそっくりの西洋婦人人形を抱き、短剣で胸を突き刺すという奇怪な自殺を遂げました。
その後は、算哲の愛人の子である17歳の旗太郎と、赤ん坊の頃から館で育てられ、外に出たことがない4人の外国人による弦楽四重奏団(ストリング・クワルテット)と使用人らが暮らしていたのです。
豪壮を極めたケルト・ルネサンス式の城館(シャトウ)であり、黒死病(ペスト)死者を詰め込んだようだということから”黒死館”の異名を持つ降矢木家の館。
何が起こってもおかしくないその黒死館で、弦楽四重奏の第一提琴奏者が、何者かに毒殺されてしまったというわけなのでした。法水と支倉検事は早速捜査に乗り出します。
銀色の髪毛を無雑作に束ねて、黒い綾織の一重服を纏い、鼻先が上唇まで垂れ下って猶太式の人相をしているこの婦人は、顔をSの字なりに引ん歪め、実に滑稽な顔をして死んでいた。しかし不思議と云うのは、両側の顳顬に現れている、紋様状の切り創だった。(37ページ、本文では「猶太」には「ユダヤ」のルビ)
不思議なことにその傷は、降矢木家の紋章の一部をつくっている、フィレンツェ市章の二十八葉橄欖冠にとてもよく似ていました。
青酸カリの仕込まれていた洋橙(オレンジ)を食べて死んだダンネベルグ夫人が、死の間際に残したらしきメモから、法水は自動人形テレーズがその傷をつけたのではないかと考えます。
法水と支倉検事、そして熊城捜査局長の3人はテレーズを見に行き、その人間そっくりの様子に、はっと驚かされ、この人形が動いたのかと思うと、不気味ささえ感じたのでした。
テレーズは、精巧な機械装置で作られていて、「歩き、停り、手を振り、物を握って離す」(54ページ)ことなどが出来ますが、あの傷をつけたり、部屋を密室状態にすることまでは出来なさそうです。
やがて、館の設計者クロード・ディグスビイの死を悼んで、鐘鳴器(カリルロン。音調の異なる鐘を鳴らすもの)が鳴り響きます。そして、弦楽四重奏団の演奏が始まりました。
亡くなったダンネベルグ夫人の代わりは、旗太郎がつとめています。鎮魂楽(レキエム)が終わると、再び鐘鳴器が鳴り始めましたが、その音を聞いていた法水の表情が変わっていきます。
そして法水は、「支倉君、拱廓へ行かなけりゃならんよ。彼処の吊具足の中で、たしか易介が殺されているんだ」(115ページ)と言ったのでした。
音の変化から法水が察した通り、甲冑を身に着け、宙吊りになって殺されていた給仕長の川那部易介。何故か、死後にたくさんの傷がつけられていることも分かります。
未だ連続殺人事件の解決への糸口が見えぬ中、算哲が遺言状を残していたことが、執事の田郷真斎の口から語られました。
「所で、お訊ねしたいのは、遺産相続の実状なんです。」
「それが不幸にして明らかではないのですよ」真斎は沈鬱な顔になって答えた。「勿論その点が、この館に暗影を投げていると云えましょう。算哲様はお歿りになる二週間程前に、遺言状を作成して、それを館の大金庫の中に保管させました。そして、鍵も文字合わせの符表も共に、津多子様の御夫君押銅鐘吉博士にお預けになったのですが、何か条件があると見えて、未だ以って開封されては居りません。儂は相続管理人に指定されているとは云い条、本質的には全然無力な人間に過ぎんのですよ。」
「では、遺産の配分に預かる人達は?」
「それが奇怪な事には、旗太郎様以外に、四人の帰化入籍をされた方々が加わって居ります。しかし、人員はその五人だけですが、その内容となると、知ってか知らずか、誰しも一言半句さえ洩らそうとはせんのです。」(188~189ページ)
「津多子様」というのは、大正末期の新劇大女優で、算哲の異母姪にあたります。4人の帰化入籍とは勿論、弦楽四重奏団の4人のこと。
黒死館の連続殺人事件は、遺産相続をめぐって行われているのでしょうか?
血縁関係にもかかわらず、相続人から除外されている津多子に疑いの目が向けられますが、やがて津多子も思いも寄らぬ姿で発見されることとなり・・・。
はたして、法水は連続殺人事件の犯人を捕まえることが出来るのか? そして、黒死館に秘められた謎とはいかに!?
とまあそんなお話です。武者装束で宙づりになって殺されているなど、殺人事件自体もなかなか風変わりですが、とにかく法水のもの凄い知識に圧倒されます。
人間そっくりの自動人形、弦楽四重奏団など、一つ一つの設定が非常に凝っていて面白く、他にはない雰囲気を持った唯一無二の作品。黒死館を包む独特の雰囲気がたまりません。
難解さのある小説ではありますが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、イェレミアス・ゴットヘルフ『黒い蜘蛛』を紹介する予定です。