曾根崎心中/リトル・モア
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角田光代『曽根崎心中』(リトルモア)を読みました。
「曽根崎心中」というタイトルは、みなさんもどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。元々は、近松門左衛門という、江戸時代の人形浄瑠璃作者の作品です。
実際にあった曽根崎天神でのお初、徳兵衛の心中(愛しあう男女が一緒に死ぬこと)事件を題材にした人形浄瑠璃「曽根崎心中」は、話題を呼んで大ヒットとなり、後には歌舞伎にもなりました。
その近松門左衛門の原作を元に、『八日目の蟬』など、女性のどろどろした情念を描かせたら右に出るものはいない角田光代が小説へと翻案したのが、今回紹介する『曽根崎心中』です。
ぼくは元々、口語訳(現代語訳)ではない、作家による古典の翻案はどんどんやってほしいと思っているんですよ。翻案作品には、色んなバリエーションがあっていいと思うので。
勿論、翻案作品には、翻案をした作家独特の色がついてしまわざるをえないわけですが、口語訳や解説本よりも、物語を直に楽しめるので、古典入門には最適ではないかと思います。
今回の近松門左衛門×角田光代という組み合わせは、場面としての迫力こそ原典に比べて落ちるものの、遊女として働く初の生々しい生活やその心理が丁寧に描かれていて、かなり引き込まれました。
初には誰にも言えない秘密があったり、原典とはやや違う展開になる部分があったりと、新たな設定がいくつか加わっていて、近松門左衛門ファンをも唸らせる翻案作品になっています。
「曾根崎心中」で最も有名な場面は、2人が心中を決意する場面。
愛しあう初と徳兵衛を窮地に追いやった張本人の九平次が、初を口説きにかかります。縁の下に隠れていた徳兵衛が怒りのあまり飛び出そうとしますが、初はそれを足で押しとどめるんですね。
そして、自分は愛する徳兵衛と死ぬ覚悟が出来ていると言い放つのです。では、その場面を近松門左衛門の原典で見てみましょう。
徳様に離れて、片時も生きてゐようか.そこな九平次のどうずりめ.阿呆口をたゝいて、人が聞いても不審が立つ.どうで徳様、一所に死ぬる、わしも一所に死ぬるぞやいのと.足にて突けば、縁の下には涙を流し.足を取って、おしいたゞき.膝に抱きつき、焦がれ泣き。女も色に包みかね.互いに物は言はねども.肝と肝とにこたへつゝ、しめり.泣きにぞ泣きゐたる.
(新編日本古典文学全集『近松門左衛門集②』小学館、33ページ。くの字点は出ないので、表記を改めました。)
「どうずり」は相手をののしる語です。「どう」は勢いを強めるだけで意味はなく、「ずり」はそのまま「スリ」のこと。「そこな〇〇のどうずりめ」は、いつかどこかで使ってみたいですねえ。
九平次を罵倒して、九平次に向かって語るようでありながら、実は縁の下の徳兵衛に語っている初。徳兵衛は初の足を取って涙を流し、お互いに心が通い合うという場面です。
足を触りながら、心を通わせるというこの場面には、妙なエロティックさもあって、とても印象に残ると思うのですが、どうでしょうか。
角田光代がこの場面をどんな風に翻案しているのか、気になった方は、ぜひ実際に『曽根崎心中』を読んでみてくださいね。
角田光代の翻案作品が気に入ったという方には、折角なので、近松門左衛門の原典にも触れてもらいたいと思うんですよ。
江戸時代の作品ですから、読みづらさは勿論あるのですが、原文には独特のリズムがありますよね。たとえば、「泣きにぞ泣きゐたる」だけ取っても、口語訳では消えてしまう魅力があります。
手に入りやすいものでは、岩波文庫に『曾根崎心中・冥途の飛脚 他五篇』が入っていますが、これは現代語訳がないので、相当ハードルが高いです。あまりおすすめはしません。
どうしても文庫でということなら、現代語訳がついている角川ソフィア文庫の『曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島』がいいでしょう。
そして、一番おすすめなのは、買おうとするとかなり高いですが、注と訳がついている新編日本古典文学全集です。ぼくが引用で使った本ですね。3巻ある『近松門左衛門集』の2巻に収録されています。
新編日本古典文学全集 (75) 近松門左衛門集 (2)/小学館

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新編日本古典文学全集は、上に注、本文、下に口語訳という、とても見やすい構成になっている全集。「曽根崎心中」はこの全集で、30ページほどの短い作品なので、ぜひあわせて読んでみてください。
作品のあらすじ
堂島新地で遊女をしている初は、あの人がいつ来るかいつ来るかと待っていました。これだけ長い間来てくれないということは、もう心変わりをしてしまったのかと、そんなことを考えてみたりもします。
自分たちの恋がうまく行くように、あの人と添い遂げられるように、そんなことをお願いしに、33か所の観音さまをお参りし終わった時のこと。
茶屋で休んでいた初の口から、思わず「徳さま、徳さま」(34ページ)という声が洩れました。そこには、初が会いたい会いたいと思い続けていた徳兵衛の姿があったから。
初に気付いて、編み笠を脱ごうとする徳兵衛を押しとどめます。馴染みの客が観音さまめぐりに出してくれたので、徳兵衛と一緒にいる所を誰かに見られるわけにはいかないのです。
愛しい恋人、徳兵衛の手を握った初は、思わずうっとりとします。
徳兵衛。
初は笠に隠れた男の顔を、上目遣いに見つめる。ああなんてうつくしい男。澄んだやさしげな目、通った鼻筋。何度見てもそう思う。徳兵衛はいつも、初はきれいだ、初みたいにきれいな女を見たことがないと言うけれど、わたしなんて、徳兵衛に比べたらどうってことないと初は思う。ただ着飾っているだけだもの。ああ本当に、きれいな生きもの。そのきれいなものがじっとこちらに目を注いでいると思うと、それだけでもう初は体の芯がしびれたようになる。(37ページ)
徳兵衛は、叔父が経営する醤油問屋で手代(丁稚と番頭の中間)として働く25歳の若者です。一年ほど前からの、初の馴染み客でした。
初めて会った時から、初と徳兵衛の心は通い合い、いつかお金がたまったら所帯を持とうと約束する、深い間柄になりました。
しばらく音沙汰がなかったので、初はすねて見せます。「徳さま、なんぞ言うとくんなはれ。もしかして徳さまは、あてのことなんかもうどうなったかてかまわんて思てはりますのか」(46ページ)と。
すると徳兵衛は、やむにやまれぬ事情があったのだと話します。主人である叔父に人物を認められたのはいいものの、叔父の姪にあたる女性との縁談を持ち掛けられてしまったんですね。
二貫(およそ300万円)の持参金つきで、ゆくゆくは江戸に出す予定の店を任せようという、思いがけない話です。
徳兵衛には心に決めた初という女がいますから、縁談を受けるわけにはいかず、かといって角が立つので、はっきり断るわけにもいきません。ただ日だけが過ぎていってしまいました。
そうこうしている内に、継母が徳兵衛を説得すると話を請け負って、二貫を受け取ってしまったのです。
これはまずいと思った徳兵衛が、叔父に縁談を断る旨を伝えたのですが、それが叔父の逆鱗に触れてしまったのでした。
おまえがそない依怙地になって結婚が嫌やゆうんは、新地で遊びくさってるからやろ。おまえが天満屋の初とかいう女に骨抜きにされてんのは町じゅうに知れ渡ってるんやぞ。どこぞの馬の骨ともわからん遊女ごときにだまされとるんがわからんか。そこまで言う阿呆にもう姪はやらん。ここからも出ていってもらう。いや、ここからじゃすまぬ。金輪際大阪の地は踏ません。ただし銀は返してもらうで。四月七日までに銀そろえてもってこい。(50~51ページ)
もう使ってしまったと嘘をつく継母から、何とか二貫を返してもらったと聞いた初は、とにかくお金を返して、叔父さんにわびてお店に戻った方がいいと言います。
ところが、徳兵衛はその肝心の二貫が手元にないと言うんですね。先月の二十八日、友達の油屋九平次にばったり出くわし、お金に困っている九平次に貸してやったというのです。
ところが、約束していた3日はおろか、叔父との約束を前日に控えた6日の今日まで、九平次はお金を返しに来てくれなかったのでした。
そこへ、ちょうど噂をしていた九平次が現れます。仲間たちと酒を飲んで来たらしい九平次のご機嫌な姿を見ると、徳兵衛は腹を立てて、貸した金を返せと詰め寄りました。
ところがなんと、九平次は金なんか借りた覚えはないと言い張るのです。徳兵衛が借用手形を出してみせても涼しい顔。
九平次は、自分は25日に印判の入った財布を落としてしまい、悪用されないように新しい印判の届を出しているのだと言うのです。徳兵衛の借用手形は、古い印判を使って勝手にこしらえたのだろうと。
「な……」言いかけた徳兵衛を遮って、九平次は続ける。
「なんやったらお役所いきまっか? わてが出した届け、確認したほうがよろしおますか? そしたら、徳ちゃん、偽判よりもおっきな罪になるのが道理、拾うた判でこないな証文まで勝手にこさえて銀取ろうとは、引廻しの上、獄門より重い刑やで。いやいや、わいかて、大事な友だちがそないな目に遭うのはたまらんわいな。日頃のよしみに大目に見たるさかい、こないなまね、二度としてけつかるんやないで。へ、貸してもない銀とれるもんならとってみんかい」(65ページ)
徳兵衛は、九平次の取り巻き連中にぼこぼこに殴られてしまいます。助けにいこうとする初でしたが、おかみと客に止められて、そのまま天満屋に連れ戻されてしまったのでした。
思い悩みながら、自分が島原の遊郭に入った12歳の時のことを思い出していった初は、徳兵衛が一体どうなったのか心を痛め、これからどうしたらいいのかを考え続けて・・・。
はたして、初は先輩の遊女たちからどんなことを学んできたのか、そして、窮地に追いやられていく初と徳兵衛の運命はいかに!?
とまあそんなお話です。初の遊女屋での生活の物語は原典にはなく、ほとんどすべて角田光代の筆によるものです。
遊女たちの、愛をめぐる物語がとても印象的で、それがこの『曽根崎心中』の最も特徴的な部分ではないかと思います。
たとえば、初によくとてもよくしてくれた先輩の遊女の島は、相手に思いを伝えるのに、起請文だけでは満足できなくて、生爪まではがして誠意を見せました。
遊女の起請文は、どのお客にもいい顔をするという意味合いで、「三枚起請」など古典落語のネタになったりもするのですが、ここまでシリアスに描かれるのはぼくも初めてで、結構びっくりしましたねえ。
それだけ熱い思いを持っていた島と相手との仲はどうなるのか、それぞれの遊女の恋愛の行方からも目が離せません。
近松門左衛門の人形浄瑠璃の世界を、読みやすく面白い小説に翻案したこの『曽根崎心中』。
古典の入門として、とてもいいですし、恋愛小説としてもかなり引き込まれる作品だろうと思います。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。おすすめです。
明日は、高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』を紹介する予定です。