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吉川英治『宮本武蔵』

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宮本武蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)/講談社

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吉川英治『宮本武蔵』(全8巻、吉川英治歴史文庫)を読みました。Amazonのリンクは、1巻だけを貼っておきます。

強いだけの人間もいなければ、また、弱いだけの人間もいないと思うんですよ。一人の人間の中に強い部分もあれば弱い部分もある、そういう複雑さがあるのが、人間というものなのではないかと思います。

宮本武蔵というのは二刀流で有名な、言わずとしれた日本の歴史上屈指の剣豪ですよね。今回紹介する物語の中でも、剣の技術だけでなく精神的なものも含め、とにかく高みを求めて修業を重ねていきます。

そんな武蔵を慕うのが幼馴染のお通。この物語はお互いに想い合いながら運命に翻弄され、すれ違い続ける武蔵とお通の物語なのでした。

武蔵が強さを、お通が正しさを背負うとするなら、それとは対照的に弱さと汚れを背負う人物がそれぞれいます。本位田又八と朱実です。

又八も武蔵の幼馴染で元々はお通のいいなづけ。しかし朱実の母親お甲の肉体に溺れて道を踏み外し、そこからはめきめきと名をあげていく武蔵とは対照的に、どんどん落ちぶれていってしまったのでした。

出会った時はまだ少女だった朱実は、お通と同じように武蔵に一途な思いを寄せながら成長していきます。しかし、不運な運命から次々と男の慰み者となり、やがては、遊女に身を落としてしまうのでした。

『宮本武蔵』が、武蔵とお通の物語であるとするなら、実はそれと同じくらいの意味合いでもって、又八と朱実の物語でもあるわけです。

物語全体から見ると、強さと弱さ、正しさと汚れ、それらの要素が交じり合うまさに人間の複雑さそのものが描かれている感じがあり、だからこそこの作品は、多くの人の心をとらえ続けているのでしょう。

今回紹介する吉川英治の『宮本武蔵』は、1935年に朝日新聞で連載が始まった言わずと知れた大ベストセラー。映画やドラマになり、井上武雄のマンガ『バガボンド』の原作としても知られていますね。

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みなさんが持つ宮本武蔵のイメージは、多かれ少なかれこの作品からの影響があるだろうと思います。たとえば、この小説で使われて武蔵のすごさを表すエピソードとして有名になったのが、次の場面です。

弟子の伊織を連れて旅をしている武蔵は、旅籠でそばを食べている時に博労(馬の売買をする仕事)の熊から、からまれてしまいました。

 てんで相手にされていないふうなので、熊は青筋を太らせて、ぐいと眼だまを剥き直したが、武蔵はなお黙然と、蕎麦のうえの塵を箸で取り退けている。
「……?」
 ふと、その箸の先に気のついた熊は、剥いた眼を、いやが上にも大きくして、息もせずに、武蔵の箸に、気もたましいも抜かれてしまった。
 蕎麦の上にたかっている黒いものは、無数の蠅であった。武蔵の箸が行くとその蠅は、逃げもせず、黒豆を挟むように素直に挟まれてしまうのだった。
「……限りがないわい。伊織、この箸を洗って来い」
 伊織が、それを持って、外へ出ると、その隙間に、博労の熊も、消えるように隣の部屋へ逃げこんで行った。
(6巻、130~131ページ)


この作品の武蔵は、迷い苦しみながら少しずつ人間として成長していく求道的なヒーロー。それが読者から圧倒的な共感を呼んだのです。

吉川英治の後に書かれた武蔵の小説は、そのイメージを継ぐにせよ、また覆すにせよ、この作品を意識せずにはいられませんでした。それだけ大きな影響力を持った、大衆文学の金字塔と言うべき作品です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 ――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
 もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。
 武蔵は、そう思った。
 屍と屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。
「――今、動いてみたって、仕方がない」
 けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。(1巻、15ページ)


慶長五年九月十五日。十七歳の新免武蔵(たけぞう)は関ヶ原の戦場で寝ていました。出世を目指して故郷宮本村から出て来たものの、戦は敗れてしまったのです。もうどうにでもなれという気持ちでした。

そんな武蔵の心を奮い立たせたのは、一緒に村を飛び出してきた幼馴染の本位田又八。二人はお互いの無事を喜び合い、なんとか戦場を逃げ出すと、偶然出会った十五歳の少女朱実の家にお世話になります。

戦場から物を盗んで生計を営んでいた朱実と母親のお甲は、野武士の辻風組から狙われていました。武蔵と又八は野武士と戦い、一家は平穏な日々を取り戻しますが、武蔵を置いて、みんないなくなります。

いつの間にか、お甲の色香に惑わされ、その肉体に溺れるようになっていた又八は、お甲と一緒に生きることを決めてしまったのでした。

又八の無事を知らせるために宮本村に戻った武蔵ですが、負けた側なので、おたずね者になっていたのです。山へ逃げ込んだものの、宗彭沢庵という坊主に捕えられ、千年杉に縛り付けられてしまいました。

死ぬのは怖くない、どうせなら首を刎ねろと騒ぎ、散々悪態をついていた武蔵でしたが、日をおうごとに色々なことを省みて、許されるならば、もう一度しっかり生きてみたいと願うようになっていきます。

十六歳の少女お通は、武蔵の姿を見ながら色々と考えていました。元々捨て子なので身寄りがなく、又八のいいなづけとして育ったお通は、お甲を通して絶縁状が届いたことで、絶望してしまったのです。

「……武蔵さん……武蔵さん……」
 武蔵は、眼だけまだ生きている髑髏のような顔を向けて、
「……オ?」
「わたしです」
「……お通さん? ……」
「逃げましょう。……あなたは、生命が惜しいと先刻いいましたね」
「逃げる?」
「え……。わたしも、もうこの村にはいられないんです。……いれば……ああ堪えられない。……武蔵さん、わたしは、あなたを救いますよ。あなたは、私の救いを受けてくれますか」
「おうっ、切ってくれ! 切ってくれ! この縄目を」
「お待ちなさい」
 お通は、小さな旅包みを片襷に負い、髪から足ごしらえまで、すっかり旅出の身支度をしているのである。
 短刀を抜いて、武蔵の縄目を、ぶつりと断った。武蔵は、手も脚も知覚がなくなっていたのである。お通が抱き支えはしたが、却って、彼女も共に足を踏み外し、大地へ向って、二つの体は勢いよく落ちて行った。(1巻、192ページ)


一緒に逃げる約束はしたものの、人質となった姉を救うため別行動を取った武蔵は捕えられ、沢庵の配慮で池田輝政の白鷺城の天守閣開かずの間に幽閉され、三年もの間書物を読みながら過ごしたのでした。

二十一歳になる春、幽閉を解かれた武蔵。流浪を望むという武蔵に輝政は路銀をくれ、故郷を忘れないよう宮本と名乗ることをすすめます。そして沢庵は名も「むさし」の読みがいいと言ってくれました。

新免武蔵(たけぞう)から宮本武蔵(むさし)となり、新しい旅立ちの時。しかしそんな武蔵を待っていた女性がいました。お通です。武蔵と生涯をともにすることを心に決め、ずっと待っていたのでした。

橋の上で再会し、お通のことを憎からず思っているだけに、迷う武蔵でしたが、お通が旅支度を終えて戻るともう武蔵の姿はなく、橋の欄干には小柄で彫った、「ゆるしてたもれ」の文字があったのでした。

京都で吉岡一門と一悶着を起こしたのち奈良に行き、槍で有名な宝蔵院、そして徳川将軍家の剣術指南役をつとめる柳生一族の住む柳生の庄をめぐった武蔵。武蔵を慕い、その後を追うお通も旅を続けます。

一方、息子を堕落させた武蔵、そして息子を裏切って逃げ出したお通の二人に復讐するために、又八の母お杉婆も旅へ出ていたのでした。

吉岡一門の高弟で、茶屋の店をやっているお甲と関係がある祇園藤次はある時船上で、三尺の長剣を持つ美少年と出会います。飛燕を斬って修業したという話をきくと、海鳥を斬ってみろとからかいました。

「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」
「なんだ」
「あなたのお首を拝借したい。私が法螺ふきか否かを試せといったそのお首だ。罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから」
「ばッ、ばかいえっ」
 思わず藤次はその首をすくめた。――とたんに美少年の肱は弦の刎ねたように、背の大剣を抜いたのであった。ぱっと空気の斬れる音がした。三尺の長剣が、針ほどな光にしか見えないくらい迅かったのである。
「――な、なにするかッ」
 よろめきながら藤次は襟くびへ手をやった。
 首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。
(中略)
 美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。それは、刷毛のような小さな毛の束だ、アッと、初めて気づいて、自分の髪へ手をやってみると、髷がない。
「や、や? ……」
 撫でまわして驚き顔をしている間に、根の元結がほぐれて、鬢の毛はばらりと顔にちらかった。(2巻、303~304ページ)


長剣の名は、物干竿。美少年の名は、佐々木小次郎。吉岡一門と揉めたことで、かえって当主吉岡清十郎と意気投合した小次郎でしたが、吉岡一門は、激しい戦いの末に、武蔵に潰されてしまったのでした。

操を清十郎に奪われながら、心では武蔵を慕い続ける朱実に想いを寄せるようになった小次郎は、巌流を名乗り、剣での名声をあげていきますが、悪名と交じり合いつつも、武蔵の剣名も高まっていきます。

仕官を願う大名家では武蔵が高く評価されており、二人の「この世における面識は、宿怨といえないまでも、決して再び溶けないほどな、対立的な渠を深めて来つつある」(6巻、234ページ)のでした。

旅の途中で出会った城太郎という少年を弟子にし、はぐれてしまった後は、伊織というやはり侍の子を弟子にして、旅をしながら修業に励む武蔵はやがて、祭りの太鼓の二本の撥から、あることを閃きます。

剣の技ではなく剣の道を歩もうとする武蔵、武蔵を慕って後を追うもすれ違い続けるお通。怠けることを覚えたが故に何をやってもうまくいかない又八、叶わぬ恋を抱えながら不運な人生を歩んでいく朱実。

武蔵とお通を敵と思いその後を執拗に狙い続けるお杉婆、武蔵とお通をあたたかく見守りなにかと助ける沢庵。そして、武蔵とはいくつもの因縁で結ばれ、技のすごさでは天下に並ぶもののいない、小次郎。

様々な登場人物たちが、それぞれの旅で出会い、別れ、また出会い、次第に武蔵と小次郎との、宿命の対決の日が近づいていって・・・。

はたして、武蔵と小次郎との決闘の行方は? そして、お互いに想い合いながら離ればなれになっている、武蔵とお通の恋の結末は!?

とまあそんなお話です。なにしろ8巻にも及ぶ大作なので、さわりしか紹介出来ませんでしたが、主要な登場人物はおおよそ出ています。

拾った免許皆伝の目録を使って、その人のふりをしてしまうなど、又八は駄目人間ぶりがどこか憎めなくていいですねえ。しかもその目録は小次郎のなんですよ。そして、本人の前で名乗ってしまうという。

いい者も悪い者もとにかく登場人物が魅力的な作品で、肝心の戦いの場面も大迫力。筋が一本通った物語というよりは、複数の主人公の物語という感じですが、それも、大衆文学ならではの醍醐味でしょう。

読み始めると止まらなくなる物語だと思うので、ぜひ手に取ってみてください。映画やドラマ、マンガなどから入るのもいいと思います。

BEST BOUT――『宮本武蔵』最高の名勝負――


最後におまけ的に『宮本武蔵』の中の「ベストバウト」、つまり一番の名勝負を紹介しましょう。まあぼくが勝手に選んだんですけども。

数々の強敵と戦いをくり広げた武蔵ですが、中でも印象的な相手は、杖使いの夢想権之助、鎖鎌の使い手宍戸梅軒、そして宿敵佐々木小次郎。最終決戦である佐々木小次郎との戦いを選ぶのは野暮でしょう。

そこで今回選んだのは、宍戸梅軒との戦い。剣とは違い軌道が読めない鎖鎌は、避けると次は分銅が飛んで来ます。慣れない武器にさしもの武蔵も大苦戦。絶体絶命の状況に追いこまれてしまったのでした。

 鎌か、分銅か。
 そのどっちに対しても、身を交わすことは甚だしい危険だった。なぜならば、鎌を交わした位置へ、ちょうど、分銅の速度が間に合うようになるからだった。
 体ぐるみ、武蔵は、絶えまなく位置を移した。それも、目にとまらないほどな迅さをもってしなければならない。――また、後ろへ後ろへと、狙け廻っている他の敵に対しても、身構えを必要とする。
(われ、遂に、敗れるか)
 彼の五体は、漸次硬ばってくる。意識ではない、それは生理的にである。あぶら汗も流れないほど皮膚と筋肉とは、本能的に死闘するのだ。そして髪の毛も総身の毛穴も、そそけ立つのだった。
(7巻、141~142ページ)


武蔵は敗れ命を落としてしまうのか? それとも起死回生の一手を思いつくのか!? 手に汗を握るベストバウトの結末はぜひ本編にて。

吉川英治は死後50年が経過して、その作品は今年からパブリック・ドメイン(著作権切れ)となりました。なので色んな出版社から文庫が出ていますし、また「青空文庫」で、無料で読むことも出来ます。

8巻もあるのでなにしろ長い作品ですが、様々な人間ドラマが描かれた面白い作品なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、藤沢周平『竹光始末』を紹介する予定です。

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