沖で待つ (文春文庫)/文藝春秋
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絲山秋子『沖で待つ』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作。
男性が女性作家の小説を読む時と、女性が女性作家の小説を読む時とでは、やはり共感の度合いが違いますから、自ずから受け取り方も変わって来ると思います。この「沖で待つ」もそういう作品でしょう。
「沖で待つ」は、住宅設備機器メーカーで働く女性社員である〈私〉と同期入社の太っちゃんこと牧原太との奇妙な絆を描いた中編です。
男性社員の手伝いという位置づけではなく総合職として入社しているので男性社員と同じように転勤があり重要な仕事を任される〈私〉。むしろ不器用な太っちゃんよりもバリバリ仕事をこなしているほど。
仕事の様子や、性質的には正反対ながらお互いに支え合う同期の絆など、おそらくは作者自身の経験が投影されているだけにとてもリアルで、同じ境遇の女性から、かなり共感を呼ぶのではないでしょうか。
そして、絲山秋子の小説が面白いのは、女性読者が読んで共感出来るというだけでなく、男性読者が読んでも突き刺さるものがあること。
女性作家の作品と言えば、やわらかく詩的な印象のものも多いですが、絲山秋子の作品はそれとは対照的に、強く握ったら手の平を傷つけるくらい、文体にせよ内容にせよ、尖っている感じがあるのです。
独特の言葉のセンスで紡がれていく、ぎざぎざした異質感のある世界に共感の有無とは関係なく引き込まれてしまうのでした。それは必ずしも心地いいものでもないのですが、忘れられない印象を残します。
「沖で待つ」ではやがて飲みに行った〈私〉と太っちゃんとで、自分以外に見られたくないものについての話を交わすこととなりました。
太っちゃんがトイレから戻ってきたところで、帰る? という意味で百円ライターをタバコの箱に詰め込んでみせましたが、太っちゃんは自分の箱からもう一本タバコを出すと、店の人にレモンハートを頼みました。終電までは時間があったので、私も同じものを頼みました。
太っちゃんが低い声で、
「おまえさ、秘密ってある?」と言いました。
「秘密?」
「家族とかさ、恋人とかにも言えないようなこと」
太っちゃんは秘密の話がしたくて、今日私を誘ったのだな、と思いました。けれど聞いてどうなるもんじゃなし、まあ話して気が楽になるんだったら聞いてやるか、くらいの気持ちでした。
「まあ、ないとは言えないけど……見られて困るものとか?」
「おまえもある? そうかそうか」
太っちゃんは嬉しそうな顔をしました。(85~86ページ)
太っちゃんは秘密を打ち明けたいのではなく、誰にも見られたくないものを、ずっと誰にも見られないようにするために、家族でも恋人でもない〈私〉だからこそ出来ることを、頼もうとしていたのでした。
そのこと自体はさほど大したことではありませんが、それをきっかけに人間が生きること、そして死ぬことについて描かれていくのです。意表をつく始まり方をして、不思議な余韻が残る面白さのある作品。
リアルな生活が描かれながら、そこにファンタジックでもある異質なものが混じり込んで来るという興味深い作品で、共感しやすい女性読者は勿論、一風変わった小説が読みたい男性読者にもおすすめです。
作品のあらすじ
『沖で待つ』には、「勤労感謝の日」「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」の3編が収録されています。
「勤労感謝の日」
二ヶ月前、自転車に乗っていた時に一時停止無視で出て来た車にはねられてしまった36歳現在無職の〈私〉。ただおろおろしていただけの運転手の代わりに救急車を手配してくれたのが長谷川さんでした。その長谷川さんが、〈私〉と同じ大学の出身でジャパンイースト商事につとめる38歳の男性、野辺山清を紹介してくれることになりました。十一月二十三日、勤労感謝の日、大安吉日。日取りは完璧です。
母と長谷川さんの元を訪れ、窓から外を見ながら相手を待っていると「アイツじゃないな、ないといいな、ありませんように」(16ページ)と思っていたガムを噛んでいる太り気味の男がやって来ました。
野辺山氏は、敢えて表現するとあんパンの真ん中をグーで殴ったような顔をしていた。あんが寄ってふくれた部分に水っぽい眼と膨らんだ紅い唇がついていて、ほほは垂れ下がっている。髪が中途半端に伸びていて、洗ったのかもしれないがキタナイ感じだ。しかし愛があれば多少の不細工は補える。ここは礼儀としても人となりに触れてみよう。もしかしたらこんなご面相でも、すごいいい人かもしれないよ。(17~18ページ)
しかし、最初の質問が〈私〉のスリーサイズを尋ねる下品なものだったり、自分の自慢話だけを延々するわりにこちらの話を全く聞いていなかったりと、話せば話すほど野辺山氏に幻滅を感じてしまい……。
「沖で待つ」
転勤が決まり来月の初めには浜松に行ってしまう〈私〉は、思い切って五反田にある太っちゃんの部屋に行ってみることにしました。あっさりとドアは開きましたが、部屋には机もベッドも何もありません。「太っちゃん」
私は、子供に言い聞かせるようにゆっくりと言いました。
「どうしてこんなところにいるの?」
「、わからない」
怖さを感じることはありませんでした。
「タバコ吸ってたんだ?」
「おう。ひろった、んだ、前で。それで吸ったけ、ど味ねえや」
「お腹は? すいてない?」
「ああ腹はだいじょうぶ」
まるでそれは、福岡営業所で机を並べて残業していたときの会話の一部を切り取ってきたようで、私はなんとも言えない気持ちになりました。
なぜかと言うと、太っちゃんは三ヶ月前に死んでいたからです。
(59ページ)
東京の大学を出て住宅設備機器メーカーに就職した〈私〉。牧原太は同期入社でした。感覚で仕事をこなす〈私〉とは対照的で、不器用でミスばかりしている太っちゃんでしたが、何故か馬があったのです。
福岡に配属された〈私〉と太っちゃんは、外からやって来たことによる仲間意識もあり、何よりも同期のよしみでお互いに支え合いながら仕事に励みました。ご飯がおいしいと、どんどん太った太っちゃん。
そんな太っちゃんが周りを驚かせたのは、井口珠恵というベテランの事務職の女性とこっそりつきあっていて、結婚までこぎつけたこと。
仕事が出来、きびきびした性格で知られる井口さんは太っちゃんにはもったいないと誰もが思い、〈私〉は「捨てないでやって下さいね、かわいそうだから」(67ページ)と思わず口にしてしまいました。
〈私〉の転勤でしばらく疎遠になっていましたが、やがて太っちゃんも東京に転勤になり、妻子を福岡に置いて単身赴任で出て来ます。久し振りに飲んだ時、〈私〉と太っちゃんはある約束を交わして……。
「みなみのしまのぶんたろう」
デンエンチョーフというまちにすんでいる、しいはらぶんたろう。ブンガクもやればヨットにものり、マツリゴトもするさまざまなさいのうにめぐまれたじんぶつで、でんりょくだいじんをつとめています。そして、だいにほんブンガクしょうというしょうのせんこういいんもしているのでした。せんこうかいはいつもちゅうかりょうりてんでおこなわれるきまりなので、ねこじたのぶんたろうはくしんさんたん。
だから、ブンガクしょうのせんこうかいのとき、ぶんたろうはいつもふきげんで、くちにいれるといたいくらいからいマーボドーフや、ぐつぐつにえたスープがなかにはいったショーロンポーをくちにいれるたびに、ふぇほふぇほしながらまっかなかおをして、
「そもそもだいめいがきにくわんのだ!」
とか、
「みじかすぎてしょうせつとはおもえんな!」
などとどなりちらすのでした。(130~131ページ)
ぶんだんでいちばんきむずかしいせんこういいんとしてしられるようになったぶんたろうは、わなにかかって、そうりだいじんのおべんとうをたべてしまい、げんぱつのあるしまでくらすこととなって……。
とまあそんな3編が収録されています。小説として面白いのは「勤労感謝の日」。女性が充実して生きることの難しさを巧みに描いた作品で、痛快さとまでは言えませんが、突き抜けている魅力があります。
働くことの難しさ、結婚という幸せの形を押し付けられることの窮屈さ、半ば女性を捨てながら女性であることを意識せずにはいられない苦しみ。男性作家では描けない観点が描かれた面白さがありました。
「あんパンの真ん中をグーで殴ったような顔」などユニークかつシニカルな表現もこの作品の醍醐味。一番絲山秋子らしい作品でしょう。
「みなみのしまのぶんたろう」は勿論「だいにほんブンガクしょう」を「芥川賞」に入れ替えれば「しいはらぶんたろう」にあたる文学者兼政治家が浮かび上がるという、かなりおちょくってる短編ですね。
ユーモアを感じて楽しめるかどうか、絲山秋子のメッセージを読み取ってにやりとさせられるかどうかは受け取り手次第ですが、あえて受賞作とこの短編を併録する所が、絲山秋子のすごさかも知れません。
『沖で待つ』は「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」がですます調で書かれていて、自ずから勢いが封じられてしまっていることもあって、絲山秋子のベストではないですが、興味を持った方はぜひ。
明日は、メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』を紹介します。