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長嶋有『猛スピードで母は』

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猛スピードで母は (文春文庫)/文藝春秋

¥420
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長嶋有『猛スピードで母は』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

ぼくが今までに読んだ歴代の芥川賞受賞作の中でとりわけ印象に残っているのが、この『猛スピードで母は』です。いや、より正確に言うと長嶋有という作家ですね。初めて読んだ時は、かなり驚きました。

長嶋有は、似た作家が見つからないくらい、独特の雰囲気の作品を書く作家。その魅力を伝えるのはなかなかに難しいのですが、あまり感じたことのない小説の面白さを感じさせてくれる作家だと思います。

物語というのはざっくり言うと喜劇か悲劇かに分けられます。コミカルなタッチやドタバタな展開で大笑いさせてくれるか、或いは、シリアスな雰囲気や衝撃的な出来事で心を揺り動かすものかのどちらか。

コミカルさとシリアスさのどちらが文学賞に向いているかと言えば、それは勿論シリアスさで、芥川賞の受賞作というのは、人間心理に潜む恐ろしさを描き、読者を戦慄へと誘う作品が多い傾向にあります。

長嶋有の受賞作「猛スピードで母は」は小学五年生の少年の目から母子家庭を、併録されている「サイドカーに犬」は小学四年生の少女の目から父が連れ込んだ愛人を描く中編でテーマ的には結構シリアス。

ところがどっこい、本来はシリアスなはずなのに、全然シリアスになっていかないんですよ。かといってコミカルでもないんですが、長嶋有の独特の文体は暗さとは無縁で、ユーモアが滲み出て来るのです。

どことなく豪快なところのあるキャラクターが描かれていることもありますが、真面目でシリアスな雰囲気を保ちながら、どことなく変で、それがなんだかユーモラスな小説なんて、あまりないですよね。

たとえば、「猛スピードで母は」で慎は、母の恋人慎一に紹介された時、将来の夢を聞かれて漫画家だと答えます。深く考えたことはなかったのですが、漫画が好きなのでついそう答えてしまったのでした。

自分の夢がなにかよく分からないという時点でもう面白いですが、翌朝母は突然思い出したように自分も漫画家になりたかったのだと言い出し、Gペンや烏口、雲形定規など漫画の道具を出して来たのです。

「なんで、ならなかったの漫画家」
「反対されたからさ」
「誰に」愚問だった。
「私が反対を押し切ってまでしたのは、結婚してあんたを産んだことだけだ」といった。なんと応じていいか困ったが、母はきにせずにパンをかじった。
「あんたはなんでもやりな。私はなにも反対しないから」そういうとパンを皿に置いて、両手を大きく広げてみせた。
「若いときは、こんなふうに可能性がね。右にいってもいい、左にいってもいいって、広がってるんだ」母はだんだん両手の間隔を狭めながら
「それが、こんなふうにどんどん狭まってくる」とつづけた。
「なんで」
「なんででも」母はそういうと両手の平をあわせてみせた。母が珍しく口にした教訓めいた物言いよりも、その手を広げた動作の方が印象に残った。
 慎は初めて名前を知った雲形定規をもう一度手に取り、天井を覗いてみた。(123~124ページ)


コミカルではありませんが、真面目な場面にしては、「母が珍しく口にした教訓めいた物言いよりも、その手を広げた動作の方が印象に残った」がなんだか妙な感じがしたりもしてどこかユニークですよね。

この場面だけでは長嶋有の味が伝わりづらいかも知れませんが、リアリズム風だけどなんだかちょっとずれていて、そのずれがユーモラスだけどかと言ってコミカルすぎないという絶妙なバランスなんです。

この本を読んで、人生が変わるほどの衝撃を受けることなどはまずないですが、真面目な雰囲気かつ滲み出るユーモアが楽しめるおすすめの一冊。長嶋有ワールドを未体験の方は、ぜひ読んでみてください。

作品のあらすじ


『猛スピードで母は』には、「サイドカーに犬」「猛スピードで母は」の2編が収録されています。

「サイドカーに犬」

高校卒業後に上京し、アメリカに渡ったらしいもののどこで何をしているのかよく分からない弟と数年ぶりに会うことになった〈私〉は、コンビニで麦チョコを見つけて、小学四年の夏休みを思い出します。

その頃、両親は喧嘩ばかりしていて、ついに母が出ていってしまったのでした。冷蔵庫からは食べ物がどんどんなくなっていき、不安に駆られる中、七月の終わりに突然現れたのが、洋子さんだったのです。

盗まれるのが心配だからと自転車の懐中電灯を持ってずかずかとあがりこんで来た洋子さんが「私、今日から晩御飯つくるから。買い物付き合ってくれる」(12ページ)と言うので買い物にでかけました。

何故か麦チョコがはやり、「ムギーチョコ」と「ムーギチョコ」のどちらの銘柄がおいしいか言い争っていた〈私〉と弟。しかし、両方同時に買ったことはなかったので、結局いつも結論は出ないままです。

欲しいものがないか聞かれ、麦チョコと答えると、洋子さんがどさどさと三、四袋くらいカゴに入れたのでびっくりし、いざ食べるという時には、晩御飯用のお皿に入れたので、さらにびっくりした〈私〉。

 深皿はつい先刻までは晩御飯に使われていたものだった。母はカレー皿に菓子を盛るようなことはしなかった。菓子の時は菓子用の器、惣菜には惣菜用の器というのが決まっていた。ずっとそういうものだと思っていた。
 だから洋子さんが晩御飯のカレー皿を洗って布巾で拭うとすぐそこに麦チョコをざらざら盛ったときは驚いた。
「いいのかな」受け取った私は小声でいった。
「なにが」洋子さんはなにをびくついているのだろうという表情だった。
 洋子さんはラーメンの丼にサラダを盛ったり、コーヒーカップにお茶をいれたりした。父はなにもいわなかった。
 一度やぶられると、これまで守っていたルールに守るべき必要性など実はなにもないことに気付いた。そうすると今度は食器に関する母の不文律を不思議に思うようになった。(21ページ)


夕方になると自転車に乗ってやって来て晩御飯を作り、父と仲間たちが麻雀を始めると、台所で煙草を吸いながら本を読んでいた洋子さん。時折おつかいついでに二人で夜、散歩をすることもありました。

ある夜、山口百恵の家を見に行こうという話になったのですが……。

「猛スピードで母は」

北海道の南海岸沿いのM市の団地で暮らしている母と小学五年生の慎。冬が近付いて来たので車のタイヤをスパイクタイヤに変え、冬用の靴を買いに出かけました。慎はタイヤの感触の違いに気付きます。

慎は本当は金具をひっくり返すとスパイクになる靴が欲しかったのに言い出せず、試してみた靴は「きついのかぶかぶかなのか、きついのが我慢できるのかできないのか」(88ページ)よく分かりません。

以前はM市から四十キロ離れたS市にある祖父母の家で暮らしていた母と慎。東京で結婚に失敗し慎を連れて実家に転がり込んだのです。

昼は保母の資格を取るために学校に行き、夜はガソリンスタンドで働いていた母は、わずかな時間を縫って絵本を読んでくれましたが、いつも急ぎ気味の朗読で、しかも、抑揚をつけるのが苦手なのでした。

 手に取ったのがつまらない本だと、母は読みながら作者を小声で罵った。読み終えた後で感想をいうのも慎ではなく母だった。
「面白かったね」とか「こんな王子と私なら結婚しないね」という感想に慎は大抵同意した。自分で自分がどう思ったか分からないこともしばしばだった。教訓めいた話は大抵母にはうけなかった。絵柄の趣味が悪いのも駄目で、そういうのは大抵最初から読まないか、あるいは途中で放り投げてしまった。母はよく物を放る人だった。
 読み終わると、じゃあねといって出かけていった。玄関の扉の閉じる音がすると慎はカーテンをあけ、家の門から原付バイクを押して出ていく母を見送った。(92ページ)


新しいブーツを買いご機嫌な母と映画に行くことになりましたがバイザーから母と見知らぬ男性の写真が落ちて来ます。すると母は「私、結婚するかもしれないから」(95ページ)と言い出したのでした。

慎はびっくりして何故か母が追い抜いた軽自動車を見てしまいましたが少し遅れて「すごいね」と言い、その返事は母を面白がらせます。

母に恋人らしき男性がいたことは何度もあり、紹介されることもありましたが、二度三度と重ねて会うことはあまりなく、いつも母の不機嫌そうな様子から、交際がうまくいかなかったことを察して来た慎。

しかし結婚すると言い出したのは初めてのこと。相手の男性である慎一は、慎がぼんやりと漫画家になる夢を持っていると知ると、「手塚治虫漫画四〇年」と「君も漫画家になろう」という本をくれました。

登下校中にいつも通る水族館に二人で行くなど、少しずつ距離を縮めていきます。やがて、母と慎一は、ジープで富良野に出かけることになりました。食事の支度をしに来てくれた祖母が帰ると、一人きり。

母の帰りを待っていた慎でしたが、いつまで経っても帰って来ません。零時を過ぎても、連絡すらないのです。事故にでもあったのではないかと不吉な想像がめぐり、一時を過ぎる頃には泣き始めました。

しかしやがて、自分は置き去りにされてしまったのだと閃いて……。

とまあそんな2編が収録されています。どちらも重いテーマが長嶋有独特のユーモアが滲み出る文体で綴られた作品。「サイドカーに犬」の洋子さんと「猛スピードで母は」の母はその豪快さが似ています。

洋子さんの豪快さを表すエピソードとして、自転車のサドルの話があります。以前、自転車のサドルを盗まれたことがあったというんですね。当然、疑問を感じた〈私〉は、その後どうしたのかを尋ねます。

すると洋子さんは「隣に停めてあった自転車のサドルを盗んで、取り付けて帰った」(14ページ)というのでした。ひどい話ですよね。

〈私〉はそれからサドルのない自転車とか、サドルのない状態をリレーしていく世界について考え始めて、それもなんだか変で面白いのですが、ともかく洋子さんというのは、そういう豪快な人なんですよ。

そしてそんな洋子さんや、同じく豪快な「猛スピードで母は」の母が見せる意外な一面が描かれたりもして、読者はにやりとさせられて、はっとさせられて、最後には、しみじみと考えさせられるのでした。

芥川賞受賞作というのは無味乾燥でつまらない作品や、難解な作品が多いと思っている方にこそ手に取ってもらいたい、趣深い一冊です。

明日は、ジョン・アップダイク『クーデタ』を紹介する予定です。

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