ポトスライムの舟 (講談社文庫)/講談社
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津村記久子『ポトスライムの舟』(講談社文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。
2008年に、ある一冊の本が再び脚光を浴びて、ベストセラーになりました。夏目漱石や太宰治のように、コンスタントに売れ続ける作家もいますが、日本文学でこれほど爆発的に売れるのは、稀なこと。
その本はプロレタリア文学を代表する作品である小林多喜二の『蟹工船』。プロレタリアというのは労働者階級のことで、蟹工船(カニの缶詰を作る船)で働く労働者たちの苦しい日々を描いた物語でした。
蟹工船・党生活者 (新潮文庫)/新潮社
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何故、作品発表から79年の時を経て、再び『蟹工船』がベストセラーになったかと言うと、やはり圧倒的な共感を持って読まれたからでしょう。現代社会に生きる会社員も、実は似たような境遇なのだと。
『蟹工船』ブームが覚めやらぬ中、第140回(2008年下半期)の芥川賞が発表されると、また大きな話題となりました。モラルハラスメントで会社を辞め、工場で働く29歳の女性の物語だったから。
一生懸命働いても暮らしが楽にならない「ワーキングプア」の問題を描いた作品として話題になったのです。まさに時代の波に乗った作品。それが今回紹介する津村記久子の「ポトスライムの舟」でした。
主人公の長瀬由紀子は、とあるNGOが主催する世界一周のクルージングのポスターを工場で見つけて、あることに気付きます。そしてそのことを、カフェを経営している女友達のヨシカに話したのでした。
「一六三万やん、あれ。よう考えたらあたしの工場での年収とほとんどおんなじやねん。去年おととしとボーナス出んかったしさ。そしたらほんまに二万六千円とかしか違わんねやんか。帰りのバスで計算したら」
ナガセの言葉に、ヨシカは一瞬だけ顔を上げて、ああー、とぼんやり言った後、食器を拭く作業に戻る。
「あんたの一年は、世界一周とほぼ同じ重さなわけね。なるほど」
二万六千円は、おやつ代とパンツ代やね、とヨシカは一人ごちる。
「それって重いと思う? 軽いと思う?」(26ページ)
生きるために働いているナガセは、「自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分」(27ページ)なったのです。そこで世界一周のための貯金を決めましたが、思わぬことが起こり……。
ナガセは工場勤務の他に、ヨシカの店でパートをさせてもらい、土曜日にはお年寄り相手のパソコン教室の講師をし、家ではデータ入力の内職をしていますが、それでも、行き詰まったような生活なのです。
新卒で入った会社を、心が折れて辞めているだけに正社員で働ける気はせず、交際している男性もいないので、結婚も夢のまた夢の状況。そんなナガセの辛い日々を、ほんの少しの希望と共に綴る物語です。
ナガセの現実が明るいものではないだけに、ちょっと憂鬱な気持ちにさせられますが、誰もが共感出来る物語だろうと思うんですよ。ナガセにとっての世界一周のような憧れを誰もが持っているはずだから。
そして、大学時代の仲良し四人組が、就職、結婚とそれぞれの道を選んだことで、四人四様の幸せ(あるいは不幸せ)の形が浮かび上がるのが、この小説の何より素晴らしい所。しみじみ考えさせられます。
「ワーキングプア」を描いた小説を読みたい方におすすめですが、物語としても引き込まれる、人生の重みを感じさせてくれる本でした。
作品のあらすじ
『ポトスライムの舟』には、「ポトスライムの舟」「十二月の窓辺」の2編が収録されています。
「ポトスライムの舟」
こんな書き出しで始まります。三時の休憩時間の終わりが間もないことを告げる予鈴が鳴ったが、長瀬由紀子はパイプ椅子の背もたれに手を掛け、背後の掲示板を見上げたままだった。いつのまにか、A3サイズのポスターが二枚並んで貼られていたのだった。共用のテーブルの上に飾ってある、百均のコップに差した観葉植物のポトスライムの水を替えた後、そのことに気がついた。(9ページ)
一枚は、世界一周クルージングのポスター。もう一枚は、うつ病患者の相互扶助を呼びかけるポスター。ナガセが見つめていたのは世界一周の方で、かかる費用の一六三万円に釘付けになっていたのでした。
新卒で入った会社を、上司のモラルハラスメントで辞めてしまったナガセは一年間何も出来ずに過ごし、コンベアで流れてきた乳液のキャップを閉める作業などをする工場で働き始めて、四年が経ちました。
月給十三万八千円の契約社員で、生活の足しにするためにいくつかのアルバイトを掛け持ちしています。ポスターを見たナガセは、工場での年収が世界一周にかかる費用とほぼ同じだと気が付いたのでした。
カフェを経営している女友達のヨシカの所でのアルバイトの帰り、誰かが自転車にいたずらをしたらしく、ブレーキがききません。電柱にぶつかって、一瞬死ぬかと思う経験をした後、ナガセは決意します。
「わかった。貯めよう」(30ページ)と呟き、工場のお金は使わずになんとか生活することにしてそっくりそのまま貯め、一六三万円を貯金することにしたのでした。久し振りに生きていると実感します。
やがて大学時代の仲良し四人組で久々に再会することになりました。
工場で働くナガセ、総合職として五年勤めた後念願のカフェを開いたヨシカ、大学卒業後すぐに結婚して七歳になる息子と五歳の娘がいるそよ乃、三年弱経理として勤め来年小学校にあがる娘を持つりつ子。
働くことを選んだナガセとヨシカ、結婚の道を選んだそよ乃とりつ子では生活サイクルや考えに違いが出ていて、ヨシカはしょっちゅう聞かされるそよ乃の家庭の愚痴にうんざりさせられていたりもします。
りつ子は、子供を迎えに行かなければならないと言って、早めに帰ろうとしますが、そよ乃が何気なく言った「えー、旦那は? 日曜休みやないの?」(37ページ)という言葉で、妙な空気になりました。
帰り道、思いの外出費をしてしまったと感じたナガセは、これからはもっと引き締めてお金を貯めようと決め、それから一ヶ月間はなんとかやりくりして、工場の給料を使わずに生活することが出来ました。
そのまま順調にいきそうだと思った矢先、夫とうまくいかなくなって家を飛び出してしまったりつ子が娘を連れて転がり込んで来て……。
「十二月の窓辺」
印刷会社に入社し、都心の支社に配属された女性社員のツガワ。一ヶ月間の工場出向で離れていたこともあり、また職場の先輩のほとんどが高卒で、何歳か年下なこともあって、職場に馴染めずにいました。辺りには通り魔が出るという噂なので、女性社員はまとまって帰りますが、輪にうまく入れず、女性上司のV係長が持って来たヨーグルト菌の培養がはやっているのに、ツガワ一人だけ分けてもらえません。
そんなツガワが心安らぐ一時は、三階上の薬品会社に勤める四歳年上の女性ナガトさんと時折一緒に食べるお昼ご飯でした。心許せる先輩社員がいないツガワの唯一頼れる存在が、ナガトさんだったのです。
V係長からミスを責められる日々。先輩からは「Vさんね、ツガワのことを思ってああ言ってるんだよ。ある意味目をかけられてて幸せだよ」(126ページ)と励まされますが、とてもそうは思えません。
仕事が山場を越えたので、一安心して自宅でくつろいでいると、必要なフィルムが一枚ないとV係長から携帯に電話がかかって来ました。
そこからの三十分は、思い出すだけでも体温が下がるような罵倒の砲火が電波を通して浴びせられた。冷たい汗が足の指の間から湧き出し、腕に鳥肌を立てて目に涙を浮かべながら、ツガワは耳に飛び込んでくる一言一句の語尾にすみませんと添えた。
(中略)
すみません。
すみません以外になんか言うことあんじゃないのっ?
……。
何とか言えよ!
申し訳ありません。
あんたなんかやめてしまえばいいのに。
……。
やめればいいのに。ねえ、やめれば? やめるべきよ、やめれば? 稼いでる金のぶん働かないんだったらやめれば?
……本当に申し訳ないです。
まともにはたらく五感は聴覚だけになり、ツガワは自分が存在しているのかしていないのかすらあいまいになっていくのを感じていた。(139ページ)
V係長のあまりにも理不尽な叱責に、ついに耐えきれなくなったツガワは、退職届を作成して会社に持って行くことにしたのですが……。
とまあそんな2編が収録されています。「ポトスライムの舟」の前日譚のようにも読める「十二月の窓辺」は、恐いくらいリアルな話ですよね。なんとなくの空気で、集団の輪から外されてしまう恐ろしさ。
ツガワはここでうまくやっていけないのならそれはツガワ自身の問題で、どこにいってもうまくやれないと色んな人から言われますが、それが本当なのか、自分に落ち度があるのかどうかよく分かりません。
女性の登場人物が中心となって会社という組織で働くことの辛さが描かれた作品ですが、理不尽な要求に苦しめられる状況というのは誰もが少なからず経験することなので、共感しやすい作品だと思います。
興味を持った方にぜひ読んでもらいたいですが、いくらリアルでもフィクションぐらいは楽しませてほしいという感じもありますよね。だからこそ痛快さのある「倍返しだ!」がはやったのかも知れません。
明日は、間に合えばですが、「世界文学全集」のどれかを紹介しようと思っています。