蛇を踏む (文春文庫)/文藝春秋
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川上弘美『蛇を踏む』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作。
大切な人が死んでしまうことで号泣させられたり、苦心惨憺の末に夢を叶えた姿を見て感動させられたり、波瀾万丈の恋が実ってこちらまで嬉しくなったり、よく理解できる物語というのも小説の面白い所。
そして、それとは対照的に、なんだかよく分からないけど面白いというのもまた、それはそれで小説の醍醐味なのです。川上弘美という作家はそちらの、なんだかよく分からないけど面白いという作家です。
「蛇を踏む」は公園で蛇を踏んでしまうお話。踏まれた蛇は「踏まれたので仕方ありません」(10ページ)と言い、なんだか中年の女性みたいな姿になると、〈私〉の部屋へやって来てしまったのでした。
なんとも妙な話ですよね。蛇はどうやら普通の蛇ではなくて、うまく説明出来ませんけども、どことなく変な存在という感じです。夢の世界を描いたような作品というとイメージとして一番近いでしょうか。
江戸時代の読本作者、上田秋成の『雨月物語』の中の「蛇性の婬」にも、中国の古い伝説を元にした蛇が化身した女の話が登場しますし、変身譚自体はそれこそ、古代ギリシャ・ローマの時代からあります。
雨月物語 癇癖談 新潮日本古典集成 第22回/新潮社
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しかしながら、ただ単に変身したというだけではなくて、それがメタファー(別のなにかを表していること)になっているような、どことなく寓話的な雰囲気が漂っているのが「蛇を踏む」の面白い所です。
〈私〉と蛇が姿を変えた女との奇妙な共同生活を通して、人間が生きていく時に抱えざるを得ない重みや面倒くささを描いたような作品。
作品の雰囲気は、たとえばこんな感じです。女に姿を変えた蛇に、母親だと名乗られ、何度も何度も蛇の世界に誘われる〈私〉、ヒワ子。
「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことはある?」
誘うような目をして訊いた。
何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、はて、今までにあっただろうか。
(中略)
「ないような」
そう答えると、女は口を広げて笑った。
それから女が重ねて訊ねるかと待ったが、もう何も訊ねない。訊ねず、天井にするりと登って私を見下ろした。
「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」としきりに叫びながら、蛇のかたちに戻った。蛇のかたちになっても、
「ヒワ子ちゃん」
そういう音が止まない。
蛇のたてる衣擦れみたいな摩擦音に混じって、「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」とも「シュルルルウシュルルルルウルウルウ」とも聞こえる音が鳴りつづけている。
強風の晩に聞こえるような、不思議な音だった。
(37~38ページ)
おかしな状況に巻き込まれているにもかかわらず、パニックになったり感情的になったりせずに、それを淡々と見つめているような描写。
作品の雰囲気としては、夏目漱石の『夢十夜』、内田百閒の『冥途・旅順入城式』、稲垣足穂の『一千一秒物語』など、夢の世界を描いたような幻想的な作品にわりとよく似たシュールな面白さがあります。
なので、その辺りの作品をあわせて読むとより楽しめると思いますが、川上弘美ファンにぜひ読んでもらいたい作家がいて、それが倉橋由美子。カフカ的な、安部公房にかなり近い雰囲気を持つ作家です。
蛇・愛の陰画 (講談社文芸文庫)/講談社

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幻想的というよりはもっと意図的に「シュールレアリスム」を組み込んでおり、まどろむようなゆるやかな雰囲気が魅力の川上弘美よりも攻撃的な感じのする作家ですが、倉橋由美子も機会があれば、ぜひ。
作品のあらすじ
『蛇を踏む』には、「蛇を踏む」「消える」「惜夜記」の3編が収録されています。
「蛇を踏む」
こんな書き出しで始まります。 ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。
ミドリ公園を突っきって丘を一つ越え横町をいくつか過ぎたところに私の勤める数珠屋「カナカナ堂」がある。カナカナ堂に勤める以前は女学校で理科の教師をしていた。教師が身につかずに四年で辞めて、それから失業保険で食いつないだ後カナカナ堂に雇われたのである。(9ページ)
柔らかく、踏んでもきりがないような蛇はどろりととけて五十歳ほどの女性のかたちになると〈私〉の部屋のある方角へ歩き去りました。
甲府のお寺に数珠を納品しにいくのに同行して家に帰ると、食事の支度をして待っていたのが女の姿をした蛇。誰なのか尋ねると「ああ。わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」(17ページ)と言うのです。
実家に電話をすると母が出ました。女は気にせずぱくぱくとご飯を食べ、「ヒワ子ちゃんはどうして教師をやめたの」(18ページ)などと聞いてきます。食べ終わると女は、天井で蛇になって眠りました。
女はそのまま居座ってしまい、〈私〉の知らない思い出話をしてきます。母は別にいるのだと言っても「それはそうだけど、でもあたしだってヒワ子ちゃんのお母さんなのよ」(26ページ)と言うばかり。
女は何度も執拗に〈私〉を蛇の世界へ誘い続けてきたのですが……。
「消える」
こんな書き出しで始まります。 このごろずいぶんよく消える。
いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。
消えている間どうしているかというと、しかとは判らぬがついそこらで動き回っているらしいことは、気配から感じられる。風がないのに次の間への扉ががたがたいったり、箸や茶碗がいつの間にか汚れていたり、朝起きてみると違い棚に積もっていた埃が綺麗にぬぐわれていたりするのが、兄なのであろう。(69ページ)
困るのが、兄は見合いで出会ったヒロ子さんともうすぐ結婚することになっていること。ヒロ子さんには兄が消えたことは話しておらず、次の兄が上の兄のふりをして電話で睦言を言い合っているのでした。
ヒロ子さんの家は昔の祈祷師が竹の筒に入れて運んだといわれる通力を持った想像上の狐、管狐(くだぎつね)を三匹も飼っているという話で、それ故に父と母はヒロ子さんの家との縁談に乗り気なのです。
ただ、ヒロ子さんがうちにやって来るということは、また新たな問題を引き起こします。誰かが一人出て行かなければならないのでした。
家族は五人でなければならないという決まりがいつからかあって、ヒロ子さんと兄が結婚するなら、ヒロ子さんの家は一人増やさなければなりませんし、〈私〉の家族は一人減らさなければならないのです。
もっともそれは、今となっては形骸化した決まりでもあるので、書類上だけなんとかしておけば、なんとでもなる問題でもあるのでした。
やがて次の兄とヒロ子さんの縁談が進められていったのですが……。
「惜夜記」
1 馬「背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいる」(105ページ)のでした。まだ黄昏時ですが密度の濃い暗がりが背中の辺りに集まってしまったようです。なんとか夜を離そうとしますが……。
8 シュレジンガーの猫
少女とはぐれ、探す内に少女が入ったらしき箱を見つけたのでした。
今この箱の中にある少女とはいったい何であろうか。いるようでいない。いないようでいる。いるといないが半分ずつ混じったような、そんなものであろうか。(131ページ)
ナイフを使っても箱はあけられず、斧で叩き割れば少女を傷つけてしまいそうです。迷いながらいつしか箱を壊したい衝動に駆られ……。
とまあそんな3編が収録されています。「消える」も「蛇を踏む」に負けず劣らず書き出しが魅力的で、ちょっとおかしな、かつ曖昧なものに支配されているような、不思議な雰囲気漂う面白さがあります。
「惜夜記」は、夢のような幻想のような話が綴られた19の短い章からなる作品で、奇数の章が幻想譚、偶数の章が少女との話という構成。それぞれ特に印象に残ったものを一つずつ紹介しておきました。
はっきりしたストーリー展開やテーマ性を求める読者にはあまり向きませんが、シュールさや幻想性が強い物語が好きな方、ゆったりした雰囲気の小説が好きな方には自信を持っておすすめできる一冊です。
興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、キシュ/カルヴィーノ『庭、灰/見えない都市』を紹介する予定です。