庭、灰/見えない都市 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)/河出書房新社
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ダニロ・キシュ(山崎佳代子訳)『庭、灰』/イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『見えない都市』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。
子供の目と大人の目はやはり少なからず違います。たとえ同じものを見ていて、同じことを体験しても、とらえ方や感じ方が違うのです。
文学作品には、感受性豊かな子供時代を回想したすぐれたものがあって、たとえばぼくが忘れられないのは、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」。ぼくの時代は中学の国語の教科書に載っていました。
少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集/草思社
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蝶や蛾をコレクションするのがはやっていて、主人公はふとした出来心から友達の蛾を盗んでしまうんですね。返しに行って謝ろうにも、思わず強く握りしめたせいで蛾をばらばらにしてしまっていて……。
手の平で砕け散った蛾の鮮烈なイメージと罪悪感が重なる素晴らしい作品。どこにも逃げ場のない主人公にすごく共感させられただけに、なんだか軽くトラウマみたいな感じもありつつ、心に残っています。
大人だったら悩まないだろうと思うんですよ。お金なり何らかの方法で解決出来ますし、たとえ解決出来なかったとしても、割り切ることで気持ちの整理はつけられます。子供ではそうはいかないのでした。
日本文学で言えば特に印象深いのが、中勘助の『銀の匙』。誰もが少なからず経験するような、ごくありふれた子供時代の出来事が綴られた小説ですが、感覚的な文章がとても美しく、思わず魅了されます。
銀の匙 (岩波文庫)/岩波書店
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さて、今回紹介するダニロ・キシュの『庭、灰』もまさにそうした子供ならではの目と感覚で描かれる、みずみずしい雰囲気を持つ作品です。主人公の少年が、初めて異性を意識する場面を紹介しましょう。
父同士が友人で家に来ることがあるエディット嬢は癲癇(てんかん)持ちで、時折発作を起こすことがありました。母が介抱をするのですが、ブラウスのボタンがはずされた、胸の白さに圧倒されたのです。
エディット嬢は僕たちの家に、硬直した家父長的な空気の中に、異国情緒と厭世観、暗くて濃密な女の香り、どこか都会的で優雅な、言わば貴族的な雰囲気を持ち込んだ。あの都会的な憂鬱が、彼女の声の中や、あこや貝色のマニキュアを塗った爪や、神経質で震えるような仕草や、蒼ざめた顔色や、祭儀と情熱、魅惑的で妖艶な黒猫と、彼女の情熱の紙箱に金文字で記された同名の香水の象徴で始まる貴族病の中にあった。彼女は僕の眠りに不安を持ちこんだ。彼女のレースの揺らめきのように、僕の好奇心と子供らしい安らぎを試す彼女の香りのように、流動的で謎めいた不安を。その香りは僕たちを陶酔させ、その存在によって、僕たちの家の枠組みをこえ、僕の知識の限界をこえ、僕たちの心地よい日常の領域をこえた、何か別の世界について語っていた。
エディット嬢の香り、まぎれもなく人工の香りは、僕の魂に不協和音を持ちこんだ。(31~32ページ)
それまで母にべったりだった少年は初めて別の女性に心惹かれたのでした。こんな風にマルセル・プルーストを思わせる、匂いなど感覚的表現に満ちた文章で、他にも少女との初恋などが綴られていきます。
少年の家族は、何故だか何度も引っ越しをするんですね。そしてある時、父が姿を消してしまいました。子供の目からはその理由がはっきりとは分かりませんが、読み進める内に、読者は理由に気付きます。
少年の父はユダヤ人だったから。第二次世界大戦中、ハンガリーの支配下にあったヴォイヴォディナ地方を舞台に、ユダヤ人の迫害を直接ではなく子供の目を通し、家族の物語として描いた小説なのでした。
感性豊かな文章と、深いテーマ性をあわせ持つ、興味深い作品です。
ダニロ・キシュは旧ユーゴスラヴィア、現在のセルビアのスポティツァ市出身。『庭、灰』は『若き日の哀しみ』(東京創元社)、『砂時計』(松籟社)とあわせて「家族三部作」と呼ばれているそうです。
一方、イタロ・カルヴィーノは”文学の魔術師”と呼ばれる、イタリアを代表する幻想文学作家。ストーリーよりも発想が面白い作家なので、一般受けはしませんが、コアなファンが結構います。ぼくとか。
シュールかつ計算しつくされ、整然とした構成を持つ作品世界は美しく、好きな人にはもうたまりません。『見えない都市』は、モンゴルの皇帝フビライ汗がマルコ・ポーロから世界の都市の話を聞く物語。
どちらも実在した人物ですが、二人の対話はどことなく妙な具合に進んでいきます。そして都市の感想ではなく、イメージについて語られることで、都市は時に荒唐無稽に、時に曖昧になっていくのでした。
あうあわないがありますが、”存在”について、考えさせられる作品。
作品のあらすじ
ダニロ・キシュ『庭、灰』
朝になると、母が肝油と蜂蜜をお盆に乗せてやって来ます。〈僕〉と姉のアンナは時に不満の意を表明しながらも、それを飲むのでした。
ある時、まだ会ったことのない叔父さんが亡くなったと知らされます。もう会うことは出来ない叔父さん。その出来事は〈僕〉に母も父もアンナもそして自分もいつか死んでしまうと気付かせたのでした。
母は、時折やって来るエディット嬢に心惹かれた〈僕〉に、「わかってるわ、坊や、いつかお前はお母さんを永遠に捨ててしまう。天井裏か老人ホームに片付けてしまうのだわ」(32ページ)と言います。
その頃、父が熱心に取り組んでいたのは『バス・汽船・鉄道・飛行機時刻表』の改訂作業で、ちょっとした観光案内や芸術、文化など様々な情報を組み込もうとしたが故に作業は難航を極めていたのでした。
行き詰まった父は冬になると勝手に姿をくらまし、春になるまで帰って来なかったりも。何かと引っ越しが多い〈僕〉の家。明け方村人たちが押し寄せて、母が片言の外国語で言い争ったこともありました。
学校のクラスで気になっていたのがユリアという少女。頭がよく、信奉者の多いユリアを打ち負かすことに熱意を燃やした〈僕〉はついにユリアの心をとらえることに成功し、ひそかに会うようになります。
目覚めた官能の力に導かれ、感覚と認識の新たな空間を前に心うたれて怖気づき、たがいの神秘をみつけあうという事実に誇りを感じ、人体解剖学と鳥肌のたつ秘密に目が眩むほど我を失い、僕たちは前より頻繁に会うよういなって、偶然を装って触れ合った。狭い混みあった教室の入口や運動場や庭で、干草の中やサボーさんの馬小屋で、黄昏どきに。その罪の眩暈の前に試練を味わい、二人の身体の作りや、身体のくびれたところの匂いの違いに気づき、それまでぼんやりと感じてはいてもはっきり気がつかなかった事実に心うたれ、怖くなって、僕たちは、互いに秘密のすべてを明かし、注意深く見せ、説明し合った。色本や人体解剖図でも見るように、僕たちは互いに眺め合い、最初の人間みたいに無邪気に動物や植物と比べた。ああ、なんという信頼。なんという秘密。桃の実みたいに金の産毛に覆われ、老いのもたらす暗い染みなどはまだなく、僕たちは皮をむいたオレンジみたいに裸で向かい合っていた、じきに追われることになる楽園で。(64~65ページ)
やがて父の孤独な散歩が、村人や役人から不審に思われ、国民民間防衛隊と村の青年(ファシスト)団体が、「父の彷徨と変身の意味を解明する」(88ページ)ために、動き出すこととなってしまい……。
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』
広大無辺な領土を持つ韃靼人たちの皇帝であるフビライ汗に、派遣使として訪れた都市の話をするヴェネツィア人の青年マルコ・ポーロ。
東方の言葉に無知なマルコ・ポーロは身振り手振りでフビライ汗に語りかけます。それがはっきりしている時でも曖昧な時でも、すべて表象としての力が備わっていて、フビライの脳裏に形象が浮かびます。
次第にフビライはマルコ・ポーロの話をさえぎるようになりますが、返答や反論はすでにフビライの頭で展開されており、声に出そうとお互いに黙って琥珀の煙管をくゆらせていようと同じことなのでした。
やがてフビライが学んだのか、マルコ・ポーロが学んだのか、言語でのコミュニケーションが出来るようになりますが、そうすることでイメージの伝達はより困難になり、ふたたび身振り手振りになります。
そしてフビライはマルコ・ポーロから話を聞くのではなく、フビライがイメージした都市があるかどうかの確認をマルコ・ポーロにするようになっていきました。ただひたすら都市について語り続ける二人。
二人の議論は、都市や人間の、存在を問うものになっていきます。
ポーロ――「人夫も、石工も、ごみ拾いも、鶏の内臓を掃除する料理女も、石の上に屈み込む洗濯女も、赤児に乳哺ませながら米を炊く主婦も、すべてわれらが思うがゆえに存在するばかりである、と」
フビライ――「ほんとうのことを言えば、朕はついぞそのようなものを思わぬぞ」
ポーロ――「ならば彼らは存在いたしませぬ」
フビライ――「これはどうやら適当な推論のようには朕には思われぬがの。彼らがおらねば、このようにハンモックにくるまってのんびりゆられていることなぞ、よもできまい」
ポーロ――「それならば、この仮定は排されねばなりませぬ。したがって、もう一方が真ということになります、すなわち彼らが存在するのであって、われらが存在するのではない、と」
フビライ――「われわれは証明したわけだな、もしわれわれが存在するというならば、われわれは存在しないことになるのだ、とな」
ポーロ――「いやはや、われらはこのとおり、ここにおります」(291ページ)
読みの深い将棋の指し手であるフビライは、都市から規則性を読み取れば個々の都市を知らなくても帝国を築きあげられると言って……。
とまあそんな2編が収録されています。考えてみれば、都市というのは不思議なものですよね。たとえば「東京」を思い浮かべてみても分かりますが、漠然としたイメージなしには、想像出来ないものです。
そうして思い浮かべたイメージというのは、極めて曖昧なものであり、時には個人的な思い入れが強いもののはず。それを客観性を持たせて誰かに伝えようとするという物語ですからシュールでユニーク。
あらすじ紹介ではざっくり省きましたが、マルコ・ポーロが語る奇妙な都市の短い章で構成されている物語なので、その都市一つ一つの話も興味深いです。どんな不思議な都市なのか注目してみてください。
ストーリーとしての面白さこそないものの、発想としてずば抜けている小説。曖昧なイメージに対する議論がやがては存在の有無という哲学的問答に結びつく面白さのある作品に、関心を持った方は、ぜひ。
明日は、町田康『きれぎれ』を紹介する予定です。