人間の運命 (角川文庫)/角川グループパブリッシング
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ミハイル・ショーロホフ(米川正夫/漆原隆子訳)『人間の運命』(角川文庫)を読みました。
優れた文学作品はいつまでも残っていてほしいと思うものですが、特に海外文学は、意外と本そのものが手に入りづらくなってしまうことがよくあります。理由は簡単で、あまり読まれず売れなくなるから。
今回紹介するショーロホフは、ノーベル文学賞を受賞したソ連の作家で、岩波文庫などからかつて『静かなドン』や『開かれた処女地』などの代表作が出版されていましたが、今は手に入りづらい状況です。
ショーロホフの場合は長さもネックで、『静かなドン』は岩波文庫で八巻。コサックについてや、赤軍と白衛軍の戦いなど、歴史的な背景をある程度知らないと厳しいこともあって、人気がないのでしょう。
いずれ新訳が出てもらいたいと思いますが、それはまあともかく、今回紹介する『人間の運命』は1960年当時のままの訳ですが、佐藤優の解説がつき、カバーが一新された改版が2008年に出ました。
『人間の運命』のおすすめポイントは二つあります。まず170ページの作品集という薄さ。ぼく自身そうでしたが、どの文学作品を読んでいいか分からない場合、とりあえず薄い本を手に取るんですよね。
ちなみにぼくが薄さを理由に手に取った世界の文学作品にはカフカの『変身』、カミュの『異邦人』、ヘッセの『車輪の下で』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などがあります。いずれもおすすめです。
それから二つ目のポイントはそのものずばり、タイトルのよさ。「人間の運命」だなんて、なんだか重々しくて壮大で、一体どんなことが書かれた作品なんだろうと、思わず惹きつけられてしまいませんか?
進路や将来に悩む学生や、日々の生活に追われ疲れを感じている社会人の胸に響くフレーズであろう「人間の運命」。タイトルで気になった方が読んで損をしない、心がずしんと揺さぶられる作品集ですよ。
今では崩壊してしまいましたが、ソ連というのは革命によって生まれた社会主義の国でしたね。なのでその直前には国の中で争いが起こっていました。革命を起こそうとしていたのが赤軍(せきぐん)です。
裕福な特権階級と、いつまでも搾取され続ける労働者の階級が生まれる資本主義には問題がある、誰もが平等な社会主義の世の中を作ろうというマルクスの考え方を受けて、革命を目指していたのでした。
当然ながら帝政など元々の社会体制を維持しようという動きもあるわけで、赤軍と戦ったのが白衛軍(はくえいぐん)。『人間の運命』では、赤軍と白衛軍の争いに巻き込まれた人々の姿が描かれています。
民族の争いではなく考え方の違いの争いですから、子の代は赤軍、親の代は白衛軍に入って両者が戦うということが起こりうるわけです。それぞれが幸せを目指して戦うわけですから、やるせないですよね。
ショーロホフはソ連側、つまり赤軍の立場の作家であり、そうすると本来ならば、反革命に属する白衛軍の立場を取った人々を批判的に描いてもいいはずですが、必ずしもそういう描き方はされていません。
立場の違いのよしあしではなく、時代の流れに翻弄される人々の姿、抱え込んだそのジレンマを通して人間が生きるとはなにかが描かれている作品ばかり。だからこそいつの時代の読者の心も動かすのです。
ページ数が短いので読みやすいですし、どの作品も考えさせられるものばかり。興味を持った方にはぜひ手に取ってもらいたい一冊です。
作品のあらすじ
『人間の運命』には、「人間の運命」「夫の二人いる女」「子持ちの男」「るり色のステップ」「他人の血」の五編が収録されています。
「人間の運命」
〈私〉は歳の頃五、六歳の男の子を連れた男と出会います。男の子は簡単なものながら、女の心配りが働いた、体にあった服を着ているのに対して、男は不器用なつぎはぎの服を着ているのが、不思議です。男の子が遊んでいる間〈私〉たちは煙草を吸い始め、男は身の上話を始めます。ヴォロネジ県で指物師をしていたこと。陽気で愛想のいい女房をもらい、三人の子供にも恵まれて、幸せに暮らしていたこと。
この時、あれが、戦争が起ったんだ。翌日、軍事委員部から通達が来て、そのまた翌日には――どうぞ軍用列車へ、っていうわけさ。(中略)指揮官は乗車しろと命令しているのに、女房は俺の胸に顔を押しつけて、両手で首にしがみつきながら、切られて倒れかけた木みたいに、全身ブルブル震えている……子供も、それから俺も、いろいろいって聞かせるのだが、どうにもならない! ほかの女たちは、亭主や息子と話し合ってるのに、うちのやつは、枝に着いた木の葉のように、俺にぴったり身を寄せて、全身震えているばかり、口をきくこともできない。俺が『可愛いイリーンカ、しっかしなよ! 別れの言葉なりときかせてくれよ』というと、あれは一言いっては啜りあげながら、『あんた……アンドリューシャ……私たちは……もう……この……世じゃ……会えないわ……』
(18~19ページ)
ドイツ軍の捕虜になった男は何年も辛い思いをしますが、家族の元に帰ることだけを考え、脱走の機会を待ち続けていました。ようやく脱走に成功し家に手紙を書くと、戻って来たのは思わぬ知らせで……。
「夫の二人いる女」
亭主が戦地で消息不明になったアンナに恋した二十七歳のアルセーニイ。口説き落として一緒になり、カチャーロフ集団(コルホーズ)で暮らし始めます。トラクターを導入し耕作はうまくいっていました。やがて子供も産まれますが、産婆は「ねえ、アルセーニイ、女房が共産党員を産んだよ……多分、洗礼はしないんだろ?」(85ページ)と言います。そんな中アンナの夫アレクサンドルが帰って来ました。
暴力を振るわれていたことも忘れ、楽しかった思い出だけが甦り、元の夫に心を動かされたアンナは、アレセーニイに対してそっけなくなり、赤ん坊を連れてアレクサンドルの所へ行くか、迷い始めて……。
「子持ちの男」
軍隊から休暇をもらって帰郷する〈私〉は、ドン河を渡る渡し舟に乗りましたが、途中で流れが強くなり、渡し舟は森に入り込んでしまいます。そこで夜を明かすことになり、船頭は身の上話を始めました。ナターシカというもうすぐ十七歳になる娘がいるが、一緒にご飯を食べたくないと言われること。「その手でお父が兄さんたちを殺したのを、すぐ思い出して、吐き気がすんのよ……」(101ページ)と。
息子のイワンとダニーラは赤軍に加わりました。〈わし〉も誘われましたが、残りの七人の子供を食べさせなければならないからと断ります。しかしやがて白軍に入れられた〈わし〉は前線へ送られて……。
「るり色のステップ」
七十になるザハール爺さんは〈私〉に、自分が馭者をしていたトミーリン旦那の領地トポリョフカの話を始めます。孫の所で、静かに余生を送ろうと思っていた〈わし〉でしたが、革命が起こったのでした。百姓たちは若旦那を追い払い、田畑や家具をみんなで分配することにしたのです。ところがやがて若旦那は騎兵隊を連れて戻って来て革命に参加した者は捕えられてしまったのでした。〈わし〉の孫たちも。
命乞いをしろと頼む〈わし〉ですが「ザハール爺さんは一生膝をついて這いずり廻った、息子も這いずり廻った、が孫たちはもうそんなことはいやだってな」(123ページ)と言えと孫たちは聞かず……。
「他人の血」
戦争で行方知れずになった一人息子ペドロのことを考え続けているガブリーラ。赤軍がやって来て生活は一変しますが、ガブリーラは面当てに、君主に仕えるために与えられた勲章をつけて教会へ通います。 息子は消えてしまって、――誰のために稼ぐいわれもなくなった。納屋はくずれ、牛馬の小舎はこわれ、嵐に吹きさらされた小家畜用の小舎のたるきは朽ちて行った。厩のからっぽの仕切の中では、鼠が勝手に営みを始め、廂の下では草刈り機が錆びて行った。
(中略)
数十年かけて稼ぎ上げたもの一切が、けむりとなり灰となった。仕事をしていても、手はだらりと垂れるのだった。しかし春が来て、――不毛になっていくステップが、足下におとなしく、疲れて横たわった時、――土が爺さんを、夜毎、力強い耳に聞えぬ呼び声で、呼び招いた。さからうことはできなかった。雄牛を犂につけて、出かけて行き、鋼鉄でステップを切り裂き、飽くことをしらぬ黒土の胎に大粒の錘のような小麦をまきつけた。(138ページ)
食糧徴発隊に出せるものなどないとガブリーラが反発していると、騎兵のクバン・コサックが現れます。騒ぎが終ると、肌着まで奪われ、傷だらけになった食糧徴発員たちは、死臭を漂わせていたのでした。
その中の一人、十九歳ばかりの少年に目を止めたガブリーラは、少年を連れて帰り、妻と一緒に熱心に看病を始めます。夫妻は目覚めた少年をペトロと呼び、ずっと一緒にいてくれるように頼みますが……。
とまあそんな五編が収録されています。「何のために生きるか?」という問いに対して「家族のために」と答える方も多いでしょう。しかしこの作品集ではそれが時代の流れに逆らうジレンマが描かれます。
たとえば「子持ちの男」で身の上話を始めた船頭は、「お前さんはここの者じゃねえ、よそもんだから、一つ判断してくれ。わしゃどんな具合に首を吊ったらいいかよ?」(101ページ)と話し始めます。
妻は亡くなっており、七人の子供を育てている船頭。船頭に何かあれば七人の子供が死んでしまうことを意味します。そんな中船頭は息子二人が加わる赤軍と対立する白衛軍に徴兵されてしまったのでした。
自分のためでなく子供たちのためになんとしてでも生き延びなければならない船頭に、時代はあまりに過酷な選択肢を突きつけるのです。
「人間の運命」ではごく当たり前の平和な暮らしが戦争によって壊されてしまった男の人生が語られます。辛い出来事が起こっても人生は続いていくこと。短いながらも心を動かされるお話になっています。
革命や戦争が描かれた作品ばかりなので内容的には重いですが、考えさせられることの多い一冊。興味を持った方は読んでみてください。