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ポケットマスターピース02『ゲーテ』

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ポケットマスターピース02(大宮勘一郎編)『ゲーテ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読みました。

 

「ポケットマスターピース」は、新訳というよりかは、既存の訳を使ったものが多いシリーズなのですが、次回紹介する予定の『カフカ』と今回紹介する『ゲーテ』の巻は、かなり挑戦的な新訳が収録されています。

 

とりわけこの『ゲーテ』の巻における大宮勘一郎による「若きヴェルターの悩み」の新訳はかなり衝撃的で、これはめちゃくちゃ賛否が分かれるだろうなと思いました。まさに主人公像が百八十度変わっています。

 

このブログでも以前(2011.06.16)新潮文庫の高橋義孝訳『若きウェルテルの悩み』を紹介したことがありましたが、そこでは主人公というか手紙の書き手は「ぼく」と訳され、ナイーヴな印象を受ける、それ故に共感しやすい人物でした。

 

 

一方、今回の新訳では手紙の書き手は「俺」と訳され、その言動は荒々しさを感じさせるものになっています。個人的にはまったく感情移入できない人物。もちろんそれは意図的なもので、訳者による「作品解題」ではこう書かれています。

 

 従来多く『若きウェルテルの悩み』と訳されてきた本作品には、著名な先達による訳業が数多く存在する。そのなかで今回の新訳が敢えて試みるのは、〔……〕ではなく、人生の意味に取り憑かれて徐々に破滅する知的アウトローという、ヴェルターのもう一つの側面を強調することである。彼にやや乱暴な言葉遣いをしてもらっているのは、彼自身にも判然としないおのれの内面を叩き出すように語られ書かれるその言葉にこそ、この側面が宿るからである。(745頁)

 

十八世紀の、しかもかなり有名な作品なので、ネタバレもなにもないようなものですが、一応結末部分は伏せて引用しましたけれども、「人生の意味に取り憑かれて徐々に破滅する知的アウトロー」としての新しい解釈を試みるというのは、非常に興味深いですよね。

 

その企みは見事に成功していると思いますが、ではその「知的アウトロー」が多くの読者の、とりわけ青少年の、共感を呼ぶかというと、それは必ずしもそうではないでしょう。荒々しい言動にせよ、その崇高な思考にせよ、ついていけない感じがしてしまうおそれがあります。

 

つまり、今までの訳では、そのナイーヴな主人公像に共鳴し、「ウェルテルはぼくだ」と思いやすかったのに対し、この新訳では「ヴェルターってなんか変な奴だな」という感想で終わってしまう場合があるということです。少なくとも僕はそうでした。

 

こういう新しい解釈の訳もあるよということで、二回目、あるいは三回目に読むというのはもちろんありだし、よいと思います。ただ、初めからこの訳で読むというのは、個人的にはあまりおすすめはしないですかね。

 

その新訳「若きヴェルターの悩み」の他には、長編小説「親和力」の後半部分である第二部と、戯曲「ファウスト」の第二部の抄訳(ところどころがダイジェストになっています)が収録された巻になっています。

 

作品のあらすじ◆

 

若きヴェルターの悩み(大宮勘一郎訳)

 

田舎の村で過ごすことになった〈俺〉ヴェルターは、友人のヴィルヘルム宛てに手紙を書きます。舞踏会に向かう途中で、他の娘と一緒にシャルロッテ・S某というお嬢さんを馬車で拾ってあげることになった時のこと。

 

〈俺〉は娘たちから、ロッテは美しいけれど、好きになってはいけないと言われます。「もう決まった方がいらっしゃるの」(31頁)と。しかし、子供たちに黒パンを切り分けているロッテの姿を見た〈俺〉は釘付けになってしまいました。

 

馬車での移動中、読んだ本やダンスの楽しさについて話をするロッテを夢中で見つめる〈俺〉。本人からも婚約者の話をされて気持ちがぐらつきますが、ロッテとダンスをし、その出会いをきっかけに〈俺〉とロッテとの交流が始まります。

 

七月十八日
 ヴィルヘルム! 俺たちの心にとって愛のない世界ってのは何なんだい! 光のない幻灯機(ラテルナ・マギカ)みたいなものじゃないか! ちっぽけな灯りを入れてやった途端に、白壁には色とりどりの絵が現れる! たとえその場限りの幻だったとしても、俺たちが元気いっぱいの若者みたいにその前に立って不思議な映像にうっとりするなら、そのたびごとに俺たちの幸せを作り出してくれるじゃないか。今日はロッテのところに行けなかった。どうしても反故にできない会合があったのさ。どうしたかって? 召使を遣いにやったのさ。そうすれば、今日彼女に近寄った人間が俺のそばにいるってことになるだろ。どれだけしびれを切らしてそいつの帰りを待っていたか、帰って来たときどれだけ嬉しかったか! 頭を掻きいだいてキスしてやりたいぐらいだったが、さすがに恥ずかしくてやめた。(60頁)

 

やがて、ロッテの婚約者であるアルベルトがやって来ますが、アルベルトは〈俺〉のことを心からの友情で受け入れてくれます。散歩をしながらロッテの話をした時には、「世の中これくらい可笑しくこしらえられた関係もない。それなのに俺は、よく眼に涙を浮かべちまう」(68頁)〈俺〉だったのでした。

 

もうここにはいられないと、村から離れ、新しい仕事を見つけた〈俺〉ですが、人間関係などでなかなかうまくいきません。やがて、ロッテとアルベルトの結婚の知らせが届き、〈俺〉は再びロッテの元を訪ねることにしたのですが……。

 

親和力 第二部(松井尚興訳)

 

男爵エドアルトとその妻シャルロッテの元に、エドアルトの友人で仕事を失ったばかりの大尉と、シャルロッテの姪のオティーリエが身を寄せることになりますが、エドアルトとオティーリエ、大尉とシャルロッテはそれぞれ心惹かれあってしまいます。

 

大尉は仕事を見つけて城館を去り、エドアルトは離婚を決意しながら外国の戦争へと身を投じました。計画されていた庭園造りを続けながら過ごしていたシャルロッテとオティーリエでしたが、やがてシャルロッテの娘ルチアーネがやって来ます。

 

交際好きのルチアーネは、多くの荷物を荷馬車で運ばせ、友達や求婚者をたくさん引き連れてやって来たのでした。近隣の領地を訪問し、「ずっと、長い尾を引いて燃えさかる彗星のように目立っていた」(228頁)ルチアーネ。

 

やがて、ファン・ダイクの『ベリサリオス』など、絵に描かれた人物の姿勢を真似して名画の情景を再現する遊びが行われます。その後、自らは親切と信じ切っている、ありがた迷惑な行為で周りの人々に混乱を与えながら、ルチアーネとのその一行は嵐のように去っていったのでした。

 

オティーリエは名画の再現をする仲間からは外されていたのですが、オティーリエが参加した姿も見たいという、庭園造りを手掛ける建築家の頼みによって、飼い葉桶の図を再現することとなり、オティーリエは聖母の役を担いました。

 

 しかしオティーリエの姿、身ぶり、表情、眼差しは、今まで絵描きが表したもののいずれにも勝っていた。感受性豊かな絵画通がこの姿を見たとしたら、何かが動いてしまいはせぬかと恐れ、こんな好機にまた巡り合えるのだろうかなどと気にしてしまったことだろう。不幸にして、この効果をあまさず把握できる者はその場にいなかった。すらりとした長身の牧人に扮して、跪く人々の頭越しに脇から覗きこんでいる建築家だけは、少しずれた位置にいたものの、皆よりも眺めを享受できた。しかし、この新たに創造された天の女王の表情を、一体誰が描写できようか? 労せずして過分の栄誉に浴した彼女は、捉えがたく測り知れぬ幸福に直面して、清純な謙虚さと、この上なく愛らしい慎ましさを顔に浮かべていた。そこには彼女自身の感情も、また彼女が自分の役について思い描いたことも表れていたのである。(260頁)

 

ルチアーネとオティーリエが育った女子寄宿学校の助教は、高齢の女性校長から後継者に指名されたことで自身の結婚について考え初め、伴侶としてオティーリエが理想的だと思うようになります。そんな中、エドアルトが帰郷することとなって……。

 

ファウスト 第二部 抄(粂川麻里生訳)

 

様々な学問を身につけたものの、満足する答えが得られずに惑うファウスト博士の前に、悪魔メフィストフェレスが現れます。メフィストフェレスは、ファウストを悪の道に誘惑できるか、神と賭けていたのでした。

 

悪魔と契約し、若返りの秘薬を飲んで美青年へと若返ったファウストは町娘のグレートヒェンと恋に落ちますが、グレートヒェンには悲劇的な出来事が待ち受けています。その後、皇帝につかえることとなったファウスト。

 

皇帝の国は財政難に陥っていましたが、数字の書かれた紙片をばらまけばいいというメフィストフェレスの案によって盛り返しました。皇帝は「民にとって、これが金(きん)の代わりになるのか?」(527頁)といぶかしげですが、経済を回す紙幣の勢いは、もう誰にも止められません。

 

古代ギリシャの美女を見たいという皇帝の願いによって、かつてトロイア戦争の原因となったほどの美女ヘレナを呼び寄せます。メフィストフェレスは気に食わない様子ですが、ファウストはその美しさに圧倒されてしまいました。

 

ファウスト 私には、まだ眼があるのか? それとも意識の奥底で、美の源泉が滾々と湧き出しているのか?
   私の恐怖の旅は、至福の土産をもたらした。
   私にとって、以前の世界はなんと閉ざされ、無意味であったことだろう!
   神官のごとき冥界めぐりをして以来、それがどうだ?
   世界はようやく望ましく、たしかに存続するものとなった!
   〔中略〕
   あなたにこそ、私は、あらゆる力の高まりを、
   情熱のすべてを、
   思慕を、愛を、崇敬を、狂気を捧げよう!(562頁)

 

歴史通りパリスによって奪われたヘレナを追って、メフィストフェレス、そして人造人間ホムンクルスとともに古代ギリシャの世界へと向かったファウスト。やがてファウストは埋め立てた地によって自分の領土を手に入れ、そこに理想の国を作ろうとするのですが……。

 

とまあそんな三編が収録されています。「若きヴェルターの悩み」は意欲的な新訳であり、そして「親和力」と「ファウスト」は一部分のみの収録であるが故に全体像が見えづらいので、なかなかおすすめしづらい一冊ではあります。

 

ただ、この本が面白いのは、作品の形式が三つとも違うこと。まず、「若きヴェルターの悩み」は書簡体小説といって、手紙が主になっている形式の作品で、当然一人称(一人の目線から語られる)のものです。

 

途中で友達の目線も入りますが、それもまた一人称なわけです。すなわち一人称の連なりから構成されていて、小説の原型という感じですね。一方、「親和力」は普通の小説の形式というか、三人称の(書き手による客観的な視点から書かれた)ものです。

 

そして、「ファウスト」は戯曲といって、演劇の台本のような形式をとっています。そのため心理描写はありませんが、その代わりたくさんの人物(時には人物でないものも)が登場したり、演劇風ならではのドラマチックな効果が生まれたりしています。

 

あらすじ紹介で三作品とも、愛をめぐるようなところからの引用を入れたので、書簡体小説、三人称小説、戯曲と、三者三様の形式の違いは少し味わってもらえたと思うのですが、そういった文学作品の形式に関心がある方は、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。


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