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ルードウィヒ・ティーク(大畑末吉訳)『長靴をはいた牡猫』(岩波文庫)を読みました。
昨日紹介した『ペロー童話集』の中に、「ねこ先生または長靴をはいた猫」というお話がありました。
粉ひきが亡くなり、息子たちは遺産をもらいます。ところが、一番下の弟は何の役にも立たない猫しかもらえなかったので、がっかり。
するとその猫が、袋と長靴さえくれれば、自分だってそんなに捨てたものじゃないことを証明しますよと言って、出かけて行くんです。
猫の知恵とちょっとした冒険が、やがて粉ひきの一番下の弟と王女様を出会わせることになって・・・。
可愛らしい猫が、まさに大胆不敵な行動によってご主人様を成功に導くという非常にユーモラスなストーリー。長靴をはいた猫は、今なお愛され続けている、かなり有名なキャラクターだろうと思います。
1970年前後には、日本でもアニメになっていたようですし、最近では童話のお約束そのものをパロディにしたような、ドリームワークスの『シュレック』シリーズにも登場しています。
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初登場は、『シュレック2』で、初めは敵側の殺し屋でした。後に、かっこよさとかわいさのギャップが激しい、愉快な愛すべきキャラクターとして、頼りになる仲間になります。
ぼくはまだ見ていませんが、シリーズのスピンオフ作品『長ぐつをはいたネコ』では主役もつとめたようです。その映画の内容はオリジナルのもので、原典の童話とは、全く違うものみたいですね。
そんな風に愛され続けて来たキャラクター「長靴をはいた猫」のお話を、ドイツの劇作家ルードウィヒ・ティークが演劇にしたのが、今回紹介する『長靴をはいた牡猫』です。
今回、読んでみて驚いたのが、ただ単に童話を演劇にしたものではなく、演劇であること自体をネタにしたものになっていたこと。
劇の中には演劇を観ている「観客」がいて、途中しっちゃかめっちゃかになってしまった演劇を何とかしようと「作者」が登場し、場の空気を変えるために、唐突にバレーが始まっちゃったりするんです。
そんな風なとんでもない作品で、楽屋落ち(関係者など、分かる人にだけ分かるもの)のような感じもありますが、こういう演劇のフレームワーク(お約束)を逸脱したものって、ぼくは嫌いじゃないです。
脱線してばかりでストーリーが進んでいかないので、「長靴をはいた猫」ファンにとっては微妙かも知れませんが、ポストモダン的な、既存の文学形式を打ち壊したものが読みたい方にはおすすめです。
演劇の形式として面白いなあと、ぼくはただそんな風に思いながら読んでいたのですが、大畑末吉の訳者解説によると、これにはどうやら当時のベルリンの演劇界を諷刺する狙いがあったようです。
ティークはドイツ・ロマン派の劇作家ということもあり、この演劇は当時流行していた「浅薄な啓蒙主義的な趣味」(121ページ)を激しく批判したものだったんですね。
ロマン派/ロマン主義というのは、ヨーロッパを中心に世界中に広がった芸術運動で、理性ではなく、愛や理想など、感覚的なものを重んじた流れのこと。
特にドイツでは、童話を元にした、幻想性の強い作品が多く生み出されました。中でもノヴァーリスの『青い花』が有名ですね。
それに対して、啓蒙主義/啓蒙思想というのは、人間の理性によってもう一度世界をとらえ直そうとした運動であり、ドイツ・ロマン派とは、大事だと思うものが全く違っていたわけです。
まとめると、ティークは一見すると、しっちゃかめっちゃかになった演劇の中で、当時価値があるとされていたものを叩き、無価値とされていたものに光を当てようとしたのだということ。
その時代に何が常識だったのか、ティークが何を乗り越えようとしたのかは、正直現代ではもう分かりづらいです。ぼくも感覚としては全然分かりません。
それでも、今なお新しさを感じる、形式としての面白さがある演劇なことは確かで、そうした点でとても興味深い一冊でした。
作品のあらすじ
平土間の観客たちの会話で、幕が開きます。
フィッシェル だが、どうもわからんなあ。――ミュレルさん、今日の出し物は、いったいどういうんでしょうな。
ミュレル こんなものをこの舞台で見ようとは思いませんでしたよ。
フィッシェル この芝居をご存じなんですか。
ミュレル いやいや、少しも。――変った題ですな。『長靴をはいた牡猫』か。――まさか子供だましの茶番を舞台にのせるんじゃないだろうな。(7ページ)
そうこう話している内に、演劇が始まりました。
ある百姓家で父親が亡くなり、三人の息子は残された3つの物を分けることにします。長男は馬を、次男は牛を、三男のゴットリープは猫をもらい、それぞれ別の道を行くこととなりました。
兄2人と別れたゴットリープはこれからどうしたものか、途方に暮れてしまいます。馬なら畑仕事に使えますし、牛なら塩漬けにして当分の間食べていけますが、猫ではどうしようもありません。
すると突然、つい先程まですやすや眠っていた猫が喋り出したのです。「牡猫が口をきくって? ――いったい、こりゃ何だ!」(19ページ)と仰天する観客席の芸術批評家。
一方フィッシェルは「こんなことじゃ、合理的なイリュージョンの世界へは、はいってゆけませんよ」(19ページ)と落ち着いた様子。
猫のヒンツェは、ゴットリープが幸せになれる道を、自分が探してみせるから、心配するなと言うのでした。
ヒンツェ よろしい。ではさっそくですが、靴屋をよんできて長靴を一足つくらせてください。
ゴットリープ 靴屋を? ――長靴だって?
ヒンツェ 変におもっていますね。だが、あなたのためにやろうと考えている計画は、東奔西走の必要があるんです。どうしたって長靴をはかなけりゃならないんです。
ゴットリープ だけど、なぜ短靴じゃいけないんだ。
ヒンツェ ゴットリープさん、あなたにはわからないんだ。わたしはそれをはいて威厳をつけなけりゃならないんです。堂々たる風采をね。要するに、短靴をはいてちゃ一生涯かかっても持てっこない一種の風格ですな。(23~24ページ)
長靴を作ってもらい、意気揚々と出かけていったヒンツェはウサギを捕まえて、それをカラバス伯爵からの贈り物だと言って、王様に献上します。
ウサギを欲しがっていた王様は大喜びしますが、段々と調子がおかしくなっていきました。発作が起こり、シラーやレッシング、シェイクスピアなど、他の演劇の台詞を口走ってしまうのです。
平土間で、はげしい足踏みと口笛とがおこる。せきばらいと、
シッシッ! という声。大向うの笑い声。王は、からだをおこ
し、外套をととのえ、笏をとり威厳をつくろって腰をおろす。
しかし、すべては徒労である。騒ぎはますます大きくなる。俳
優たちは皆、役を忘れ、舞台にはおそろしい空白が生ずる。ヒ
ンツェは柱によじのぼっている。
(作者、狼狽して舞台に出る。)
作者 皆様――尊敬すべきお客さまがた――ほんのひとこと。
平土間 静かに。静かにしろ。阿呆が何か言うぞ。
(65~66ページ)
作者が出て来て口上を述べても、なかなか事態の収拾はつきませんが、音楽が流れ、バレーが始まると、観客たちの目はそちらに釘付けになり、なんとか場がおさまったのでした。
ヒンツェは次の作戦に取り掛かります。百姓たちを脅して、馬車で移動中の王様が話し掛けた時に、ここはカラバス伯爵の領地だと何度も答えさせたのです。
王様と王女様は、その美しく立派な領地にすっかり感心させられてしまい、まだ見ぬカラバス伯爵への尊敬の念は深まるばかり。
自分がカラバス伯爵なぞというものになっているとはつゆ知らず、ゴットリープがぼんやりヒンツェの帰りを待っていると、そのヒンツェが慌てた様子でやって来ました。
一体何事かと思っていると、身にまとっているぼろぼろの着物を脱いで、川の中へ飛び込めと言うんですね。
ヒンツェ それで、君の苦労が消えるんだよ。
ゴットリープ おれだって、そう思うだ。溺れ死んで、着物がなくなりゃ、苦労も消えるだろうて。
ヒンツェ そんな、じょうだんを言ってる時じゃない。
(96~97ページ)
ヒンツェの言う通りにゴットリープが着物を脱いで川に入ると、ヒンツェは馬車で通りかかった王様にカラバス伯爵が溺れたと叫びます。
そうして水浴び途中に何者かに着物を盗まれたということになったカラバス伯爵ことゴットリープは、王様の豪華な服を着替えとして貸してもらい、その立派な姿で王女様の心を見事にとらえたのでした。
すべてがうまくいきそうでしたが、大きな問題が一つありました。カラバス伯爵の領地だと偽ったこの場所は、変身が得意な、怖ろしい化物が支配している土地だったのです。
ヒンツェはゴットリープの成功のために勇気を振り絞り、化物の宮殿へ乗り込んでいって・・・。
はたして、ヒンツェは化物を前にして何をしようというのか? そして、ゴットリープは幸せを手に入れることが出来るのか!?
とまあそんなお話です。劇の筋自体はわりと童話通りですが、観客席の様子が描かれたりと、どんどん脱線していくのがユニークな演劇。
特に注目してもらいたいのが、王様の家臣の宮廷学者レアンデルと宮廷道化師ハンスウルストが、『長靴をはいた牡猫』という演劇について議論する場面。
作品の中でその作品について議論が交わされるという面白さもありますが、「観客」についての議論になると、「観客」であるフィッシェルとミュレルは、不思議がるのです。
フィッシェル 観客? この芝居には、観客なんか出ていやしないじゃないか。
ハンスウルスト ますます結構。では、全然、観客なんて、出ちゃいないのですね。
ミュレル 出ていて、たまるもんか。たぶん、そのなかに出て来る阿呆どものことを言うのだろう。
ハンスウルスト さて、いかがです? 学者どの。あの下にいらっしゃる紳士がたのおっしゃることは、まさか、うそではありますまい。
レアンデル 何が何だかわからなくなった――しかし、まだ勝ちは譲らんぞ。(86ページ)
作品の中で作品について議論が交わされ、そこに「観客」が入り込み、知らず知らず自分自身を馬鹿にしてしまうという、まさかの展開で、まさに「何が何だかわからなくなった」ような感じですよね。
こうした既存の演劇のお約束を逸脱した感じを楽しめるか否かで、この作品を面白く感じるかどうかが変わって来ます。なんだか面白そうだなあと思った方は、ぜひ読んでみてください。
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ムーミン谷の夏まつり (ムーミン童話全集 4)/講談社

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物語の中で、ムーミン谷のみんなは演劇をしようとするのですが、誰も演劇とは何かがよく分かっていないんですね。
いざ演劇が始まると、襲われた人を助けに入ってしまったり、舞台上でご飯を食べ始めてしまったりするのですが、観客たちは”そういうものだ”と思って見ていて、そこに奇妙なおかしみが生じています。
ムーミン谷の夏が描かれている作品で、時期的にもちょうどいいと思うので、機会があれば、ぜひこちらも読んでみてください。
明日は、ピエール・コルネイユ『嘘つき男・舞台は夢』を紹介する予定です。