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保坂和志『この人の閾』

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この人の閾 (新潮文庫)/新潮社

¥420
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保坂和志『この人の閾』(新潮文庫)を読みました。芥川賞受賞作。

ぼくが海外の作家の小説を手に取るきっかけというのは、意外と日本の作家を通してということが多いのですが、ロシアの作家アントン・チェーホフを読むきっかけになったのが何を隠そう保坂和志でした。

遠回りで、やや込み入った話になってしまうのですが、その迂遠さに結構意味があると思うのでその話を少し書きましょう。最近はまた新作を発表し始めてくれましたが、保坂和志はわりと寡作な作家です。

近年目立っていた活動は、『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』三部作(いずれも中公文庫)などの小説論でした。

小説の自由 (中公文庫)/中央公論新社

¥880
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保坂和志の小説論はノウハウ的なものではなく、思索的なものなので、小説を書きたいという人よりは、むしろ小説をいかに読むかを考えている方におすすめなかなり歯ごたえのあるものになっています。

そしてもう一つ重要なのは、小島信夫再評価のために動いていること。日本文学史で言うと戦後文学の後の「第三の新人」に属する小島信夫の絶版本を個人出版で出したり共著を出したりしているのです。

そうしてぼくは保坂和志がきっかけで小島信夫に興味を持つようになり、なにげない日常が描かれていること、くねくねと曲がる思考の動きそのものを描き出そうとしていることなどに共通点を感じました。

そしてその小島信夫が『小説の楽しみ』(水声社)という本の中で語っていたのがチェーホフの「曠野」という中編のこと。馬車で移動する少年を描く「曠野」がまた妙なお話で、劇的な筋がないんですね。

小説の楽しみ (水声文庫)/水声社

¥1,575
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そうした保坂和志―小島信夫―チェーホフという流れでぼくは興味を持ち、それがきっかけで、チェーホフを読むようになったのでした。

この三人の作家は筋がない小説を書くと言われます。ではなにが小説を成り立たせているのかというと、短編作家のチェーホフは観察眼と描写力、長編作家の保坂和志と小島信夫は、思索のうねりでしょう。

関心のある方はかなり長い作品ですが、物語がどんどん破綻し、逸脱し、虚実の境が曖昧になっていく小島信夫の『別れる理由』とチェーホフの「曠野」、そして保坂和志の小説を読み比べてみてください。

ではここからは少し保坂和志に焦点を絞っていきたいと思いますが、ぼくが思索のうねりと言うのは保坂和志の文章からあげると、たとえばこんな描写のことです。「東京画」という短編から引いて来ます。

新しい町で暮らすようになった主人公が、ぼんやりとパイプ椅子に座った老人を見かけるも何を思っているかまったく読み取れない場面。

 それでもたとえばこのパイプ椅子の老人が夏の夜にこの道に出てある時間をすごすようになったとき、それを自分の習慣として繰り返すようになったときにはここに一人だけでいたのではなかったはずで、そういう何十年か前に誰かと共有していた時間が確かにあってそのときにはこの場所もこの老人自身もいまとまったくちがう何かとしてざわめきに包まれざわめきを自分自身でもつくり出しながら、何かを語ったとか語らなかったとかそんなことではなくてただざわめきをつくり出すことだけが時間というものなのだろうし、その中にいるかぎりざわめきはいつまでもつづいていくように見えても現にこうして一人残されたそのときにはざわめきとともに時間も自分からは遠いものになっていて、それでもこうして毎晩繰り返すことでそれを一人で再現しようと意識していなくても結果としてそれをしているんだと考えることは必ずしもぼくの勝手な想像とも言いきれなくて、このパイプ椅子に力なく貼りつくようにしている老人を見なければぼくがこんなことを考えることもなかった。(114ページ)


これがうまい文章かどうかは微妙で、学校の作文だったら赤が入れられそうだと思いますが、描写しようとしているものがとても面白いですよね。そう、時間だったり、存在についてだったりするわけです。

目の前の出来事について思索をめぐらす、しかもそれがどこかくねくねと入り組んだものであること。これは好き嫌いは分かれますが保坂和志の魅力であり、そしてまた小島信夫の大きな魅力でもあります。

保坂和志の芥川賞受賞作「この人の閾」は、恋愛関係にない男女の日常的な姿を描き出したことが評価され、また同時に小説的な出来事がほとんど何も起こらないことに疑問が呈された作品でもありました。

そうした変わった評価がされた作品なので、どれくらい何も起こらないのか、それで小説が成立するのか見てやろうという方は、ぜひ手にとってみてください。巧みに空間が作られた作品になっていますよ。

作品のあらすじ


『この人の閾』には、「この人の閾」「東京画」「夏の終わりの林の中」「夢のあと」の4編が収録されています。

「この人の閾」

こんな書き出しで始まります。

「小田原、一時」という約束の時間に着いて駅前から電話を入れると、すでに電話でだけは何度も話している奥さんが驚いた声で、小島さんは今日は朝から真鶴の方へ出掛けてしまって戻るのは四時か五時だと言うので、ぼくは「それならまたその頃電話します」と答えた。(8ページ)


東京から小田原まで一時間半かかったので出直すのも億劫ですし、なにかと忙しい小島さんのことも考えて、日を改めずに時間をつぶすことを決め、大学の先輩の真紀さんを訪ねてみることにしたのでした。

電話をしてみると、驚いた様子もなく「おいでよ、おいでよ」と言ってくれたので、本当に真紀さんに会いに行くことにしたのですが、やり取りは続けていたものの、実際に会うのは十年ぶりぐらいのこと。

学生時代、映画を鑑賞するサークルで一緒だった真紀さんは、〈ぼく〉の一つ年上なので、38歳ということになります。結婚して、今では二人の子供を持つ母親。共通の知り合いの近況などを話します。

誰にでも愛想がいいゴールデン・リトリーバーらしき犬のニコベエと一緒に〈ぼく〉は真紀さんと庭の草むしりをすることになって……。

「東京画」

一九八八年、どうせならと思って玉川上水近くに住み始めた〈ぼく〉は、隣の飼い猫プニャと顔馴染みになったことで、河合君と奥さんのヨッちゃんと仲良くなり、一緒に出かけたりするようになりました。

町で見かけた物事について河合君夫婦と話し合います。やがて、定食屋が突然店をやめてしまったことで、あてにしていた生ゴミが食べられなくなり、やせてしまった白い野良猫をほっておけなくなり……。

「夏の終わりの林の中」

昔からの知り合いのひろ子に誘われた〈ぼく〉は、夏の終わりに「自然教育園」を訪れました。園内には様々な植物があり、名前などが書かれた立札があります。ふと一年ほど前に見た夢を思い出しました。

それは初めて見た夢であるにもかかわらず、強く既視感を感じさせ、ある家にどうしても帰らなければならないのだがその家は自分の家ではなく、生理的に嫌いだということが分かっているという夢で……。

「夢のあと」

シンポジウムのような所でちょっと話すために自宅周りを探索するという鎌倉に住む知り合いの笠井さんにつきそうことになった〈ぼく〉とれい子。まずは由比ヶ浜銀座という細い商店街を歩いていきます。

笠井さんが子供の頃に遊んだという公園に着いて、笠井さんの少年時代の野球の思い出、自然と生まれたルールなどの話を聞かされた〈ぼく〉とれい子も、それぞれの子供時代を思い出していくようで……。

とまあそんな4編が収録されています。どの作品も筋らしい筋というか劇的な展開のない小説なのですが、ゆるやかな会話はユーモラスですし、描き出されている思索のうねりがとても興味深い作品ばかり。

特に面白いキャラクターが「夢のあと」の笠井さんで意味のないことを堂々と言ったりするような人物。たとえばこんな場面があります。

「『あんなもん』なんだよ。涙なんて。
『スプーン曲げで曲がったスプーンと自分の涙は信じちゃいけない』って、言うだろ?」
「誰が言ったの? そんなこと」
「おれが言ったの。いま」
「まだ笠井さんのことがわかってないね」
「なんでそこにスプーン曲げのスプーンが出てくるの?
 ウソだって意味?」
「ウソってことじゃないよ。どっちも本当なの。でも、そんなのどうだっていいじゃん、っていうこと。
『あ、曲がったね』とか、『あ、涙でたね』とか言って、ほっときゃいいんだよ。――って、こと」(211~212ページ)


この場面は、笠井さん、〈ぼく〉、れい子の三人が話しているのですが、普通はこういう風な書き方はしないので、そうした点も興味深いですね。会話文の途中で改行があるスタイルも珍しい感じがします。

何気ない日常を描いた物語なので、さらりと読める感じがありつつも、こんな風に結構色んな部分で、工夫が凝らされている小説です。

保坂和志ならではの雰囲気というものがある作家なので、好き嫌いが分かれる作家ですが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

池澤夏樹『池澤夏樹の世界文学リミックス』

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池澤夏樹の世界文学リミックス/河出書房新社

¥1,470
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池澤夏樹『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出書房新社)を読みました。



すみません、最近まさかの体調不良で少し寝込んでいて、予定していた保坂和志『この人の閾』と石牟礼道子『苦海浄土』の記事が書けませんでした。年内に「世界文学全集」を片付けたかったのですが…。

また年が明けて、体調が戻ってからその2作品については書くつもりでいるので、しばしお待ちを。ではここからは大晦日はどうせパタパタするだろうと思って書いておいた「世界文学全集」のまとめです。



「世界文学」あるいは「世界の文学」という言葉を本好きの間でも意外と使わないと思うんですよ。「ロシア文学で何が好き?」ならまだ通じますが、「世界の文学で何が好き?」では範囲が広すぎるので。

やはり「世界文学」は「全集」とセットになった「世界文学全集」として使う時が一番しっくり来ますよね。「世界文学全集」を書棚にそろえること、それを少しずつ読むことは読書家の憧れだと思います。

日本文学史を紐解くと1926年(大正15年)に始まる「円本ブーム」がありまして、改造社が出した文学全集が大ヒットしたんです。一冊一円だから円本(えんぽん)。勿論他の出版社も追撃しました。

そんな風にして実際に読まれたかはともかく、文学全集が知の象徴であり、文学史を形作る重要な役割を担っていた時代があったわけです。しかし価格もボリュームもすごいので次第に廃れていきました。

そんな中21世紀に入って面白い企画が持ち上がりました。芥川賞を受賞している小説家で、翻訳家でもあり、すぐれた書評を多く書いている池澤夏樹が個人編集で「世界文学全集」を出そうというのです。

2007年から河出書房新社で刊行が始まり、2011年に全30巻で無事に完結しました。全集の刊行にあわせて全集に収録されている作品を中心に紹介した書評のコラムが『世界文学リミックス』です。

池澤夏樹曰く「自分で自分の援護射撃」をするため、週一で「夕刊フジ」に連載されていたもの。「夕刊フジ」に掲載されたコラムを全部収録した『世界文学全集リミックス 完全版』というのもあります。

完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス/河出書房新社

¥2,940
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量が多い分値段も高いので、どちらを買うかはみなさん次第ですが、ブックガイドとして使いたい場合は通常版を、「世界文学全集」を持っている方はデザインの統一がある完全版を買うのがおすすめです。

ケルアックの『オン・ザ・ロード』からサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を連想し、さらにトウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』に繋がるなど全集以外の小説の紹介も楽しい本。

ただ、ヤングアダルト(中学生や高校生)でも読めるような、やわらかい語り口であり、コラムの一つ一つは短いものなので、根っからの文学好きという方には、少し物足りない感じがあるかもしれません。

そういう方におすすめなのは「スタンダールからピンチョンまで」と副題のつけられた京都大学文学部での講義録、『世界文学を読みほどく』です。こちらではよりディープな世界文学の世界が味わえます。

世界文学を読みほどく (新潮選書)/新潮社

¥1,680
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『世界文学を読みほどく』が難しく感じた方は『世界文学リミックス』を、そして『世界文学リミックス』がやわらかすぎると感じた方は『世界文学を読みほどく』を手に取ってみてはいかがでしょうか。

池澤夏樹「世界文学全集」のおすすめ


さて、ここからはもう『世界文学リミックス』から離れて、「池澤夏樹個人編集=世界文学全集」のおすすめ本について書いていきます。

このブログで初めてこの「世界文学全集」を取り上げたのが2011年の4月。来年の年末にも「今年も読み終わらなかったなあ」と言っていそうだったので、残っていた巻を、一気に読んでしまいました。

いやあ、正直、なにかとイベントの多い年末に「世界文学全集」なんて読むもんじゃないです。読んでも読んでも全然読み終わらなくて、もう何回「読み終わらないよう…」とページが涙で歪んだことやら。

ただ、大変だったのはたしかですが、ここ数年で最も充実した読書経験が出来たことは間違いなく、みなさんにおすすめしたい全集です。

30巻のラインナップはこちら。→池澤夏樹=個人編集世界文学全集

他の「世界文学全集」にはない特徴があるのがこの「世界文学全集」。個人編集であることもそうですし第二次世界大戦後の世界は文学でどう説明できるかを念頭に選んだという方針でもそうでしょう。

いわゆる「世界文学全集」らしい古典的名作が収録されているのではなく政治的な問題を孕んだ様々な国の作品が収録されているのです。

たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰』は、本来の「世界文学全集」の定番ですが、キリスト教的な倫理観を共有できるかはともかく読者は作品のテーマを、自分自身の問題として受け止めるでしょう。

要するに、今までの「世界文学」が表していたのは「どこの国でも通じるものがある」という、普遍的な価値を持つ「世界文学」であり、極論を言えば、どこの国の作品かはあまり重要ではなかったのです。

しかし池澤夏樹編の「世界文学全集」ではどこの国の作品かが最も重要で、物語の中で様々な国の文化が描かれる驚きがあり、またそのことによって、裏返しのアメリカなどが浮かび上がってくるのでした。

つまり、この「世界文学全集」の「世界文学」は、まさに多種多様な文化を内包しているという意味での「世界文学」と言えるでしょう。

なので、読者対象としては、これから世界の名作を読んでいきたい人というよりは、現代の社会はどんな風に動いているのか、現代の世界にはどんな文学があるのかを知りたい人向けという感じの全集です。

この「世界文学全集」が自分にあうかあわないかの試金石にしてもらいたいのがクンデラの『存在の耐えられない軽さ』。深いテーマが、複雑な時系列で描かれる作品なのであわない人は全然あわないです。

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)/河出書房新社

¥2,520
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ただ、この全集は同じように語りが複雑な作品が多いので、この作品がもし駄目なら、もしかしたらちょっとこの全集自体敬遠した方がいいかも知れません。逆にこの作品がハマれば他の作品もハマるはず。

読みやすさで最初の一冊におすすめなのが、デュラス/サガン『太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよこんにちは』か、モランテ/ギンズブルグ『アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家』です。

どちらの巻もわりとスタンダードな叙述でありながら、性愛のようなものがテーマになっているので、興味を引かれて読み進められます。

とにかくとてつもなくすごい文学を読みたいという方におすすめの三巻はブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』、アジェンデ『精霊たちの家』、グラス『ブリキの太鼓』。価値観を揺さぶられる作品ですよ。

これはきつかったベスト3はナボコフ『賜物』、ピンチョン『ヴァインランド』、コンラッド『ロード・ジム』。ボリューム自体もすごいですが、内容もなかなかに難解でついていくのがかなり大変でした。

では最後に、ぼくが選んだ「世界文学全集」ベスト3の発表です。

第1位 エリアーデ/モラヴィア『マイトレイ/軽蔑』


マイトレイ/軽蔑 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-3)/河出書房新社

¥2,520
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マイトレイ/軽蔑』はどちらも文化や考え方の違いからすれ違う男女の心を描いた作品。感情や心の揺れが描かれるという、まさに小説の醍醐味を感じさせてくれる巻で心に突き刺さるものがありました。

第2位 残雪/バオ・ニン『暗夜/戦争の悲しみ』


暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)/河出書房新社

¥2,940
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暗夜/戦争の悲しみ』はそれぞれ違った魅力があります。「暗夜」はシュールな物語世界が面白く、「戦争の悲しみ」は同じ出来事がくり返されながら少しずつ形を変えて語られる素晴らしい作品でした。

第3位 カプシチンスキ『黒檀』


黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)/河出書房新社

¥2,730
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黒檀』は小説ではなくアフリカを取材したルポルタージュですが、これが興奮ものの面白さなんです。見知らぬ場所の未知の文化が描かれることがこれほどまでに魅力的な作品は他にあまりないはずです。

巻全体のベストなので、作品単体で言えばとても美しい印象が残るウルフ「灯台へ」と民話を思わせる荒唐無稽な冒険譚チュツオーラ「やし酒飲み」も際立った面白さがあって、それぞれ印象に残りました。

ああ、他にも触れたい巻はあったのですが、情報量が多くなるとまとめの意味がないので、この辺りにしておきます。読みやすさ、文学的すごさ、きつかったもの、個人的に好きなものを紹介してみました。

好きな入口を見つけて、ぜひみなさんも「世界文学」の魅力を味わってみてください。文体、内容ともに骨が折れる重厚な作品が多い全集ですが、それだけ読書から得るものもまた大きいだろうと思います。

そうそう今日の新聞に来秋「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」の刊行が開始されるという予告が載っていました。楽しみですね。ではこれにて、今年の「文学どうでしょう」も幕。みなさまよいお年を。

新年のごあいさつ 2014

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あけましておめでとうございます。

昨年は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いします。

昨年の目標は、大衆文学、ファンタジー、女流文学をもう少し読みたいというものだったのですが、達成できたようなできてないような。

2014年の目標はずばり、「原点回帰」にしようと思います。

このブログは元々、「立宮翔太と素晴らしき日本古典文学の世界」というタイトルで始まったもので、実は記念すべき第一回は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』だったんですよ。2010年の7月でした。

今年は「文学どうでしょうルネッサンス」の年にして、もう一度日本の古典や明治時代の文学などを読み返していきたいと思っています。

また、何か取り上げてほしい小説がありましたら、あしあと帳の方でひき続き募集しているので、そちらに書き込んでおいてもらえると、時間はかかるかも知れませんが、随時取り上げていけると思います。

今年もみなさまと面白い本との、素敵な出会いがありますように。


立宮翔太

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』

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ハリー・ポッターと賢者の石 (1)/静山社

¥1,995
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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと賢者の石』(静山社)を読みました。シリーズ第一巻です。

ぼくよりも少し若い世代と本の話をすると、必ずと言っていいほど出て来るのが「ハリポタ」。普段本を読まない人も夢中にさせた、すごいシリーズです。「ハリポタ」で読書好きになった方も多いのでは?

「ハリポタ」ブームによって「あの『ハリポタ』を越えた!」と散々色んな本でキャッチコピーとして使われ、邦訳であえてそうしたのかも知れませんが「〇〇と××」というシリーズが一気に増えました。

ブームになりすぎたが故に、ブームそのものにうんざりさせられたり、色々な弊害もあったりしたように思いますが、何より素晴らしいのは他の名作ファンタジーにも再び注目が集まるようになったこと。

いわゆる三大ファンタジー、J・R・R・トールキン『指輪物語』、C.S.ルイス『ナルニア国物語』、アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』も映画化されたり、読まれたりするようになりました。

そんな「ハリポタ」の第一巻『ハリー・ポッターと賢者の石』がイギリスで出版されたのは、1997年。1999年に静山社から翻訳が出ると話題を呼び、たちまち日本でも大ベストセラーになりました。

知名度も宣伝力もない小さな出版社からベストセラーが出るというのは極めてまれなこと。それだけ読者から愛された小説なのでしょう。

ぼくもリアルタイムで読んではいるのですが、その当時もう高校生だったので、むしろ第121回直木賞受賞の二作品、佐藤賢一『王妃の離婚』と桐野夏生『柔らかな頬』の方が印象に残っていたりします。

高校生もしくは大人でも楽しめるシリーズですが、冷静になって読んでしまう所があるので、やはり主人公のハリー・ポッターと同世代の小学生か中学生ぐらいが、物語に入り込みやすいだろうと思います。

さて、「ハリポタ」はハリー・ポッターという魔法使いの少年と、最強の闇の魔法使いであり、今は姿を消している「名前を呼んではいけないあの人」ことヴォルデモート卿との宿命の対決を描くシリーズ。

ハリーの両親はヴォルデモート卿に殺されてしまったのですが、何故か赤ん坊のハリーをヴォルデモート卿は殺すことが出来ず、逆に自らが姿を消すこととなりました。ハリーの額に残ったのは稲妻型の傷。

ホグワーツ魔法魔術学校に入学したハリーは仲間と魔法を学んでいきますが、一方ヴォルデモート卿も復活を目指して暗躍し始めて……。

「ハリポタ」の魅力は色々ありますが、何といっても物語に入り込みやすいこと。魔法界では「例のあの人」を倒した英雄であるハリーは人間の親戚の家で育ったので、魔法のことを全然知らないんですね。

ハリーにはやがて、ロン・ウィーズリーという親友が出来るのですが、魔法使いの一家に育ったロンが、ハリーに魔法界のことを色々と教えてくれます。たとえば、カードつきのチョコを買った時のこと。

 ハリーがまたカードの表を返してみると、驚いたことにダンブルドアの顔が消えていた。
「いなくなっちゃったよ!」
「そりゃ、一日中その中にいるはずないよ」とロンが言った。
「また帰ってくるよ。あ、だめだ。また魔女モルガナだ。もう六枚も持ってるよ……君、欲しい? これから集めるといいよ」
 ロンは、蛙チョコの山を開けたそうに、チラチラと見ている。
「開けていいよ」ハリーは促した。
「でもね、ほら、何て言ったっけ、そう、マグルの世界では、ズーッと写真の中にいるよ」
「そう? じゃ、全然動かないの? 変なの!」ロンは驚いたように言った。(155ページ、本文では「変なの!」は太字)


マグルとは人間のこと。魔法界ではカードの中の人物が勝手に動くのは当たり前なんですね。こんな風に人間界で育ったハリーが一々驚いて、周りが説明してくれるので、物語の設定が分かりやすいのです。

いきなり自分が魔法使いと知らされ、ホグワーツ魔法魔術学校に通うことになったハリー。右も左も分からないどきどきと、少しずつ魔法のことが分かって成長していく感じを、読者も体験出来る物語です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 プリベット通り四番地の住人ダーズリー夫妻は、「おかげさまで、私どもはどこからみてもまともな人間です」と言うのが自慢だった。不思議とか神秘とかそんな非常識はまるっきり認めない人種で、まか不思議な出来事が彼らの周辺で起こるなんて、とうてい考えられなかった。(6ページ、本文では「まともな」に傍点)


いつものように会社に行こうとしたダーズリー氏は、奇妙な出来事と遭遇します。トラ猫が標識を読み、街外れではマントを来た人々が、「例のあの人が」ついにいなくなったと大騒ぎをしていたのでした。

しかもどうやらそれにはポッター家のハリーが関わっていると耳に挟んだのでぞっとします。妻のちょっとおかしな妹の息子の名前がハリーだったような気がしたから。気のせいだと自分に言い聞かせます。

一方、ハードリー夫妻が眠りについた頃、プリペッド通りに現れたのは街灯の光を自由自在に操れる不思議なライターを持つ一人の年寄り。年寄りはトラ猫に話しかけ、トラ猫は女性へと姿を変えました。

年寄りのアルバス・ダンブルドアとトラ猫に姿を変えていたマクゴナガル先生は昨夜起こった事件について話をします。ゴドリックの谷に「例のあの人」と誰からも恐れられるヴォルデモートが現れたこと。

優秀な魔法使いのリリーとジェームズというポッター夫妻は殺されてしまったが、赤ん坊のハリーは殺されずに、かえってヴォルデモートの力が打ち砕かれて姿を消してしまったという噂が流れていること。

マクゴナガル先生は、身寄りのいなくなったハリーを、いくら親戚とはいえ、人間の家族に預けることは反対でした。なんといってもハリーはもう魔法界では知らない人のいないほどの有名人なのですから。

しかし、小さい頃からちやほやされるより、本人が受け入れ準備できるまでは知らない方がいいと考えたダンブルドアは、巨大な体を持つハグリッドに命じて、ハリーをハードリー夫妻に届けさせたのです。

それから10年が経ち、年の割には小柄でやせた、額に稲妻形の傷を持つ少年ハリーは、物置でひっそりと、いとこのダドリーからお気に入りのサンドバッグのようにいじめられながら、暮らしていました。

ところが11歳になった時、ハリーの元に思わぬ手紙が届いたのです。それは、ホグワーツ魔法魔術学校からの入学案内でした。おかしなことを嫌っているハードリー夫妻はなんとか行かせまいとします。

そこへハグリッドがやって来て、ハリーは魔法使いであること、ハリーの両親に起こった本当のことを話してくれ、ハードリー家から連れ出してホグワーツに入学するための準備を手伝ってくれたのでした。

ホグワーツでは「組分け帽子」によって組が分けられる決まりです。

「ポッター・ハリー!」
 ハリーが前に進み出ると、突然広間中にシーッというささやきが波のように広がった。
「ポッターって、そう言った?」
「あのハリー・ポッターなの?」
 帽子がハリーの目の上に落ちる直前までハリーが見ていたのは、広間中の人たちが首を伸ばしてハリーをよく見ようとしている様子だった。次の瞬間、ハリーは帽子の内側の闇を見ていた。ハリーはじっと待った。
「フーム」低い声がハリーの耳の中で聞こえた。
「むずかしい。非常にむずかしい。ふむ、勇気に満ちている。頭も悪くない。才能もある。おう、なんと、なるほど……自分の力を試したいというすばらしい欲望もある。いや、おもしろい……さて、どこに入れたものかな?」
 ハリーは椅子の縁を握りしめ、「スリザリンはダメ、スリザリンはダメ」と思い続けた。
「スリザリンは嫌なのかね?」小さな声が言った。
「確かかね? 君は偉大になれる可能性があるんだよ。そのすべては君の頭の中にある。スリザリンに入れば間違いなく偉大になる道が開ける。嫌かね? よろしい、君がそう確信しているなら……むしろ、グリフィンドール!」
 ハリーは帽子が最後の言葉を広間全体に向かって叫ぶのを聞いた。(180~181ページ、本文では「グリフィンドール!」は太字)


こうして生徒たちはそれぞれグリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリンのいずれかに分けられクィディッチ(ホウキを使った球技)や寮対抗優勝カップをめぐって戦うこととなります。

この組分けによってハリーには心強い仲間と宿敵が出来ることとなりました。キングズ・クロス駅9と3/4番線から出るホグワーツ行き特急列車で出会いすぐ仲良くなったのが赤毛のロン・ウィーズリー。

魔法使い一家の生まれですがちょっと不器用なのと、兄たちが優秀な上にお下がりばかりで少しコンプレックスを抱えているロンは、やさしい人柄で、魔法界について知らないハリーに色々教えてくれます。

同じグリフィンドールに入ったロンとは親友になりましたが、スリザリンに入った魔法使いの名門の生まれドラコ・マルフォイはとにかくプライドが高くハリーのことを目の敵にするようになったのでした。

おまけにスリザリンの寮監で魔法薬学の先生スネイプもなにかとハリーに対して冷たい態度を取ります。最も厳しさで言えば、グリフィンドールの寮監で変身術のマクゴナガル先生も変わりませんでしたが。

やがて、学校内の『禁じられた廊下』で頭が三つある犬が何かを守っていることに気付いたハリーとロンは、それが何かを調べ始めますが、二人の好奇心に水をさしたのがハーマイオニー・グレンジャー。

人間の両親を持つハーマイオニーは人一倍努力家をする優等生で、二人にグリフィンドールの減点になるようなことをさせたがらないのです。真面目なあまりに、嫌われてしまうこともあるハーマイオニー。

ハーマイオニーが褒められた授業の後「だから、誰だってあいつには我慢できないっていうんだ。まったく悪夢みたいなヤツさ」(251ページ)と言ってロンは、ハーマイオニーを傷つけてしまいました。

ところが、泣きながらハーマイオニーが駆け込んで行った先のトイレに、恐ろしきモンスター、トロールが現れたと知ることとなり……。

はたして、ハリーとロンは、ハーマイオニーを救えるのか!?

とまあそんなお話です。ハリーがクィディッチのメンバーに抜擢されたり、他にも色々と魅力的な人物や設定が登場したりしていくのですが、まあそれらについては、おいおい紹介していくことにしまして。

この巻で重要なのは、三つの頭を持つ犬が守っているもの。その謎を追うハリーに謎の差出人から「君のお父さんが亡くなる前にこれを私に預けた」(295ページ)とクリスマスプレゼントが贈られます。

そのプレゼントとはなんと、水を織物にしたような輝く銀色の布で、「透明マント」という、かぶると体が見えなくなる不思議なマント。このマントを使ってハリーとロンは学校中を探検していくのでした。

ハリーたちにどんな冒険が待ち受けているのか、様々な困難を乗り越えたハリーたちが目にするのは一体何なのか、読みながら一緒に体験できるわくわくの物語。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を紹介する予定です。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと秘密の部屋』

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ハリー・ポッターと秘密の部屋/静山社

¥1,995
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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(静山社)を読みました。「ハリポタ」シリーズ第二巻です。

第一巻『賢者の石』の紹介で、「ハリポタ」の魅力の一つは物語への入り込みやすさと書きました。主人公のハリー・ポッターは魔法界では有名人ですが、人間界では見事なまでにいじめられっ子なのです。

しかも人間界で育ったため、魔法界のことをハリーは全然知りません。それだけに読者は等身大に感じられる少年と一緒に魔法について色々学び大いなる敵と戦える、そんな共感しやすい物語なのでした。

ただ、感情移入しやすい物語ならたくさんある、というか児童文学の多くはそうですから、大ベストセラーになった謎を解く鍵にはなりません。実は「ハリポタ」最大の醍醐味はミステリ要素にあるのです。

賢者の石』でホグワーツ魔法魔術学校には、四つの学寮があると紹介しましたね。ハリー、ロン、ハーマイオニーがグリフィンドール。

そして、ハリーを目の敵にするドラコがいるのがスリザリンでした。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリンというのは元々千年以上前にホグワーツを創設した魔法使いの名前です。

しかし意見の食い違いでスリザリンは学校を去ることになりました。

 ビンズ先生はここでまたいったん口を閉じた。口をすぼめると、しわくちゃな年寄り亀のような顔になった。
「信頼できる歴史的資料はここまでしか語ってくれんのであります。しかしこうした真摯な事実が、『秘密の部屋』という空想の伝説により、曖昧なものになっておる。スリザリンがこの城に、他の創設者にはまったく知られていない、隠された部屋を作ったという話がある」
「その伝説によれば、スリザリンは『秘密の部屋』を密封し、この学校に彼の真の継承者が現れるときまで、何人もその部屋を開けることができないようにしたという。その継承者のみが『秘密の部屋』の封印を解き、その中の恐怖を解き放ち、それを用いてこの学校から魔法を学ぶにふさわしからざる者を追放するという」
 先生が語り終えると、沈黙が満ちた。(225~226ページ)


意見の食い違いというのは、人間を親に持つ生徒を受け入れるかどうか。スリザリンは、受け入れるべきではないと思っていたんですね。

つまり、スリザリンの継承者が現れて、『秘密の部屋』が開けられると、人間を親に持つ生徒は、なんらかの方法で淘汰されてしまうことになるわけです。そしてそう、ハーマイオニーの両親も人間でした。

やがて不可解な事件が続けて起こり『秘密の部屋』が開けられたと知ったハリーとロンはハーマイオニーを守るため、”誰が”開けたのか、そして、過去に開けられた時には”何が”起こったかを探り始めます。

しかし、あろうことかハリーが継承者だと疑われてしまって――。

まあここまででもう大体お分かりだと思いますが、過去の出来事の謎を追う物語であり、出来事が誰によって起こったかを追及する物語であり、犯人に間違えられてしまう物語と、ミステリ要素が盛り沢山。

さとうふみやのマンガ『金田一少年の事件簿』における「金田一少年の殺人」、いや、その元ネタであるヒッチコック監督の映画『北北西に進路を取れ』を思わせるようなスリリングさがある物語なのです。

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ちなみに『北北西に進路を取れ』は、スパイに間違えられてしまった会社重役の逃走劇。面白いですよ。場面としてのオマージュが結構あるので、「金田一少年の殺人」が好きな方もぜひ観てみてください。

そんな風に、「ハリポタ」は叙述トリック(作者が文章で読者を騙すトリック)まで張り巡らされたミステリの魅力あふれる小説で、続きが気になって、読者は思わずページをめくらされてしまうのでした。

ファンタジー×学園もの×ミステリというそれぞれの要素がバランスよく融合されているのが「ハリポタ」醍醐味で、それが物語への入り込みやすさ、ハマりやすさの大きな理由なのではないかと思います。

作品のあらすじ


新年度前にホグワーツ魔法魔術学校は夏休みに入りました。親戚のダーズリー夫妻の元で、魔法を禁じられ、虐げられた、とてもみじめな生活を送っていたハリー・ポッターの前に、奇妙な存在が現れます。

ベッドにいたのは「コウモリのような長い耳をして、テニスボールぐらいの緑の目がギョロリと飛び出した小さな生物」(20ページ)。

魔法界では知らない者がいない有名人ハリーと会えて感激している様子を示した生物は、主人に仕える『屋敷しもべ妖精』のドビーと名乗り、危険だから、ホグワーツに戻ってはいけないと言ったのでした。

「どうして?」ハリーは驚いて尋ねた。
「罠です、ハリー・ポッター。今学期、ホグワーツ魔法魔術学校で世にも恐ろしいことが起こるよう仕掛けられた罠でございます。ドビーめはそのことを何ヶ月も前から知っておりました。ハリー・ポッターは危険に身をさらしてはなりません。ハリー・ポッターはあまりにも大切なお方です!」
「世にも恐ろしいことって?」ハリーは聞き返した。「誰がそんな罠を?」
 ドビーは喉を締めつけられたような奇妙な声をあげ、狂ったように壁にバンバン頭を打ちつけた。(26ページ)


ドビーには禁じられていて言えないことがあるのです。ドビーはハリーをホグワーツに戻らせないために、ロンやハーマイオニーからの手紙を止めたり、家で暴れ回ったりして、ハリーを困らせたのでした。

去年のように、キングズ・クロス駅の9番線と10番線の間にある柵を通り抜けようとしたハリーとロンでしたが、何故だか、柵を通り抜けることが出来ずに、ホグワーツ特急に乗り遅れてしまったのです。

困ってしまった二人は、ロンの父親が改造して、空を飛べるようになった車を使って、ホグワーツ特急に追いつこうとしたのですが……。

新しく「闇の魔術に対する防衛術」の担当教授になったのが、数々の偉大な行動を綴った著書で知られる大スター、ギルデロイ・ロックハートでした。特に女性ファンが多くて、ハーマイオニーもその一人。

しかし、ピクシー小妖精を使った授業でとんだ失敗をしたので、ハリーとロンはロックハートにうさんくさいものを感じ始めます。ロックハートを弁護したのは、熱心な本の愛読者である、ハーマイオニー。

一方、ハリーは彼は自分が何をやろうとしたかすら分かっていなかったと言い、ロンもまた、本での様々な活躍に対して、「ご本人はやったとおっしゃいますがね」(152ページ)とつぶやいたのでした。

やがてハリーは学校の中で奇妙な声を耳にするようになります。それは冷たく、残忍に響く声で、「……引き裂いてやる……八つ裂きにしてやる……殺してやる……」(204ページ)などと言うのでした。

一体どこから聞こえるのか分かりませんし、不思議なのは、一緒にいるロンやハーマイオニーの耳には聞こえないこと。そして、ついには学校内で恐ろしい事件が相次いで起こっていくこととなったのです。

「秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ、気をつけよ」(206ページ)という文字と一緒に見つかったのは、管理人の飼い猫ミセス・ノリス。目を見開き板のように硬直した石の状態になっていました。

かつてホグワーツが出来る時、人間の両親を持つ「穢れた血」を学校に受け入れるべきではないと考えていたスリザリンが作ったのが『秘密の部屋』。それが開かれたなら、恐ろしいことが起こりそうです。

ハーマイオニーの両親は人間なので、なにかあると心配ということもあり、ハリーとロンは、『秘密の部屋』を一体誰が開けたのか、かつて開けられた時には、何が起こったのかを調べることを決めました。

なにかを知っていそうなのが、ハリーと衝突してばかりのドラコ・マルフォイ。代々スリザリンの名門で、ハーマイオニーを「穢れた血」と呼ぶドラコなら、『秘密の部屋』のことに、かなり詳しそうです。

「何をやらなければならないかというとね、わたしたちがスリザリンの談話室に入り込んで、マルフォイに正体を気づかれずに、いくつか質問することなのよ」
「だけど、不可能だよ」ハリーが言った。ロンは笑った。
「いいえ、そんなことないわ」ハーマイオニーが言った。
「ポリジュース薬が少し必要なだけよ」
「それ、なに?」ロンとハリーが同時に聞いた。
「数週間前、スネイプがクラスで話してた――」
「魔法薬の授業中に、僕たち、スネイプの話を聞いてると思ってるの? もっとましなことをやってるよ」ロンがぶつぶつ言った。
「自分以外の誰かに変身できる薬なの。考えてもみてよ! わたしたち三人で、スリザリンの誰か三人に変身するの。誰もわたしたちの正体を知らない。マルフォイはたぶん、なんでも話してくれるわ。今ごろ、スリザリン寮の談話室で、マルフォイがその自慢話の真っ最中かもしれない。それさえ聞ければ」
(238~239ページ)


しかし、最大の問題は、作戦の肝心要のポリジュース薬を手に入れるのが大変なこと。材料を集めること自体難しそうですが、そもそも作り方が書かれた本は、図書館の『禁書』の棚に収められていて……。

はたして、ハリーたちは『秘密の部屋』の謎を解けるのか!?

とまあそんなお話です。ぼくが「ハリポタ」で好きな登場人物については、また最終巻の時に少し書こうと思っているのですが、その人物を除いたなら、実は、かなり好きなのが、ロックハートなんですよ。

鳥山明のマンガ『ドラゴンボール』でいうところのミスター・サタン的なキャラクターですが、言うことは大きく、空気を一切読まず、行動はちょっとずれているという、うさんくさい感じがたまりません。

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ロックハートが好きという人は多くないだろうと思いますが、嫌いという人もまた多くないはずで、まあ憎めないキャラクターですよね。

ロックハートには思いがけない出来事が待ち受けているのですが、それがそうなるためには、あれがあれしてなければならず、しかし、そもそもあんなことがなければ、そうなることはなかったわけでした。

という具合に、分からない人は分からないと思いますが、見事に伏線が張られている作品で、もしかしたら意外な展開や、いくつもの伏線が一気に回収されていく痛快さは、シリーズで随一かも知れません。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』を紹介する予定です。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』

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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(静山社)を読みました。「ハリポタ」シリーズ第三巻。

そろそろ映画について書かなければなりません。みなさんもご存じの通り、「ハリポタ」は小説が大ベストセラーになっただけでなく、映画化作品も大成功しました。これもかなりすごいことだと思います。

全作品は観に行けませんでしたが、ぼくも何作かは劇場に観に行きまして、特に、最終作である『死の秘宝 PART2』を、原作はあえて読まずに楽しみにとっておいて、観に行ったことを覚えています。

映画の特徴は監督が変わったことによってそれぞれ作風が違うこと。『賢者の石』と『秘密の部屋』はクリス・コロンバス監督で『ホーム・アローン』の監督だけに、アットホームな雰囲気の作品でした。

『アズカバンの囚人』の監督をつとめたのはアルフォンソ・キュアロン。今まさに監督最新作『ゼロ・グラビティ』が大ヒット中ですね。

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前二作から一転して、どことなく暗い雰囲気で、リアリズム風の映画になったのですが、それがぼくにとってはかえってよくて、子供向けの映画だというイメージを一新する、鮮烈な印象を受けたのでした。

そして、これはあまり触れられませんが、SF好きにはたまらない展開のあるストーリーになってまして、『アズカバンの囚人』以降、ぼくは小説よりもむしろ映画の公開を楽しみするようになったのです。

今作はタイトル通り、アズカバンという監獄から脱走者が出てハリーの命が危険にさらされるという物語。しかし脱走者を追ってホグワーツへ来た吸魂鬼(ディメンター)たちに、ハリーは苦しめられます。

ハリーはかつて死を身近に感じた人間なので、吸魂鬼がハリーに吸い寄せられてしまうから。そこでハリーはルーピンという新しく来た先生から吸魂鬼を撃退する魔法を特別に教えてもらうことになります。

「ハリー、わたしがこれから君に教えようと思っている呪文は、非常に高度な魔法だ――いわゆる”標準魔法レベル”(O・W・L)資格をはるかに超える。『守護霊の呪文』と呼ばれるものだ」
「どんな力を持っているのですか?」ハリーは不安げに聞いた。
「そう、呪文がうまく効けば、守護霊が出てくる。いわば、吸魂鬼を祓う者――保護者だ。これが君と吸魂鬼との間で盾になってくれる」
 ハリーの頭の中で、とたんに、ハグリッドくらいの姿が大きな混紡を持って立ち、その陰にうずくまる自分の姿が目に浮かんだ。ルーピン先生が話を続けた。
「守護霊は一種のプラスのエネルギーで、吸魂鬼はまさにそれを貪り食らって生きる――希望、幸福、生きようとする意欲などを――しかし守護霊は本物の人間なら感じる絶望というものを感じることができない。だから吸魂鬼は守護霊を傷つけることもできない。ただし、ハリー、一言言っておかねばならないが、この呪文は君にはまだ高度過ぎるかもしれない。一人前の魔法使いでさえ、この魔法にはてこずるほどだ」(308~309ページ)


守護霊(パトローナス)を出すための呪文は、「エクスペクト・パトローナム」。2004年の個人的な流行語大賞は、この「エクスペクト・パトローナム」だったと言えるぐらい映画を観てハマりまして。

今でも懐中電灯とか、部屋の電気とか、なにか光をつける時は「エクスペクト・パトローナアアアム!!」と叫んでふざけるぐらいです。

原作にも守護霊を出す場面は勿論あるわけですが、映像だとそれをより一層、美しく感じさせてくれました。映画は映画で、文章では表すことの出来ないビジュアルの魅力があるので、機会があれば、ぜひ。

親戚のダーズリー一家とうまくいかずにハリーが家出する所から始まるこの『アズカバンの囚人』は、様々なジレンマが感じられることもあり、SF的な展開も魅力で、ぼくがシリーズで最も好きな巻です。

作品のあらすじ


ホグワーツ魔法魔術学校の生徒は三年生になると、週末にホグズミード村に遊びに行けます。ところがそれには保護者の同意署名が必要なのでした。しかし、そう簡単に同意署名はもらえそうにありません。

なにしろバーノンおじさんは、魔法などという得体の知れないものが大嫌いですし、そもそもが厄介者のハリーをよく思っていないので。

バーノンおじさんの妹のマージおばさんが遊びに来ました。おとなしくしていれば署名をもらえる約束でしたが、亡くなった父親を侮辱されたハリーは、カッとなって騒ぎを起こしてしまい、すべて水の泡。

その頃、魔法界のみならず人間界をも巻き込んで大きな話題となっていたのは、アズカバンの要塞監獄から脱獄した凶悪犯シリウス・ブラックのこと。12年前に13人を虐殺したという恐ろしい人物です。

ブラックを追ってアズカバンから派遣された吸魂鬼と、学校へ向かう特急電車の中で遭遇したハリーは気絶してしまい、なにかと衝突するドラコ・マルフォイから、からかわれることとなってしまいました。

今年度からの新しい先生は二人。まず「闇の魔術に対する防衛術」の担当はリーマス・ルーピン先生。そして、「魔法生物飼育学」の担当になったのは、ハリーたちと仲良しのルビウス・ハグリッドでした。

ハリーたちはそれぞれどの科目を取るかで頭を悩ませていましたが、勉強好きのハーマイオニーの時間割を見たロンは目を白黒させます。たくさん詰め込まれている上に、同じ時間の授業をとっていたから。

「なんとかなるわ。マクゴナガル先生と一緒にちゃんと決めたんだから」
「でも、ほら」ロンが笑い出した。
「この日の午前中、わかるか? 九時、『占い学』。そして、その下だ。九時、『マグル学』。それから――」
 まさか、とロンは身を乗り出して、よくよく時間割を見た。
「おいおい――その下に、『数占い額』、九時ときたもんだ。そりゃ、君が優秀なのは知ってるよ、ハーマイオニー。だけど、そこまで優秀な人間がいるわけないだろ。三つの授業にいっぺんにどうやって出席するんだ?」
「バカ言わないで。一度に三つのクラスに出るわけないでしょ」ハーマイオニーは口早に答えた。
「じゃ、どうなんだ――」
「ママレード取ってくれない」ハーマイオニーが言った。
「だけど――」
「ねえ、ロン。私の時間割がちょっと詰まってるからって、あなたには関係ないでしょ?」
 ハーマイオニーがぴしゃりと言った。
「言ったでしょ。私、マクゴナガル先生と一緒に決めたの」(130ページ)


それからというもの、ハーマイオニーはさっきまで後ろにいたのに急にいなくなったり、なんだかちょっと混乱した様子を見せたりと、変な態度になる時があるようになって、ハリーとロンを心配させます。

ハグリッドが先生になったことをよく思わなかったのがマルフォイ。おまけに授業中、鳥の頭と馬の体を持つヒッポグリフのバックビークに襲われて恐い思いをし、怪我もしたので、父親に言いつけました。

週末になるとみんなはホグズミードへ遊びに行きますが、保護者の同意署名がえられなかったハリーはいつも寮でひとりぼっち。ロンとハーマイオニーがなにかと気を使ってくれますが、楽しくありません。

そんな時、ロンの兄でいつもいたずらばかりしているフレッドとジョージが、自分たちには用済みだからと、古い羊皮紙の切れっぱしをくれました。それはホグワーツの抜け道が書かれた地図だったのです。

しかもその「忍びの地図」は、決まった呪文をとなえなければ地図にはならないので、先生には見つかりっこありませんし、おまけに何より素晴らしいのは、人々の動きが、名前つきの点で把握できること。

そうして秘密の抜け道を通ってホグズミードへ行ったハリーはブラックが自分の両親の死に大きく関与していることを知ってしまいます。

クィディッチ(ホウキを使った球技)の試合中に吸魂鬼に襲われたハリーはホウキを壊してしまったのですが、クリスマスプレゼントに炎の雷(ファイアボルト)という高級のすごいホウキをもらいました。

欲しかったホウキを手にして大喜びのハリーでしたが、差出人が不明なことに危惧を覚えたハーマイオニーが先生に言い、悪い魔法がかかっていないか調査をするため、炎の雷は取り上げられてしまいます。

そしてロンのねずみスキャバーズが血を残して姿を消し、床にハーマイオニーの猫クルックシャンクスのオレンジ色の毛が落ちていたことでハリーとロン、ハーマイオニーの仲は険悪になってしまいました。

さらにそんな中、マルフォイの例の訴えで、ハグリッドが窮地においやられます。先生をクビにはならなかったものの、バックビークをどうするか、「危険生物処理委員会」で裁かれることになったのです。

どうやら処刑されることになりそうな雲行き。なんとかしてバックビークの命を救おうとする奮闘するハリーたちでしたが、学校ではハリーのことを狙うブラックが侵入したらしき形跡が残されていて……。

はたして、ハリーたちはバックビークを救うことが出来るのか? そして、絶体絶命に追いやられてしまったハリーの運命はいかに!?

とまあそんなお話です。ハーマイオニーという女の子は、真面目でがんばりやさんなのですが、なんだかちょっとずれてるところがあるんですよね。その性質が出ていて面白いのがクルックシャンクスです。

ハーマイオニーは「魔法動物ペットショップ」で長い間売れ残っていた、ガニマタでレンガの壁に衝突したような顔をした猫をわざわざ選んで飼い始めたのですが、本気で可愛いと思ってのことなんですね。

授業中に手をあげすぎて先生に煙たがられたり、試験がなくなったことに一人だけ落胆したりと、ハーマイオニーの変人ぶりというか、イタい感じも「ハリポタ」の魅力なので、ぜひ注目してみてください。

それにしても相変わらずいいのはダンブルドア。すべてを分かっていて、包み込んでくれるような素晴らしい校長先生で、ダンブルドアのハリーへの温かい言葉には、思わず涙しそうになってしまいました。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』を紹介する予定です。

石牟礼道子『苦海浄土』

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苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)/河出書房新社

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石牟礼道子『苦海浄土』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

おそらく今『苦海浄土』を読む人で、福島第一原子力発電所の事故を連想しない人はいないだろうと思います。東京電力の対応の問題が浮き彫りになり、原発は必要なのか様々な議論を呼び起こしましたね。

今から60年ほど前、九州の工場で有機合成の原料アセトアルデヒドが製造されていました。当時の日本の化学工業にとってなくてはならないものであり、人々の生活のための産業だったと言えるでしょう。

ところが、周辺の地域で体の変調を来す者が増え、後に工場の廃液にはメチル水銀化合物が含まれていて、汚染された魚介類を摂取した人々の中枢神経系に中毒性疾患を引き起こしたことが分かりました。

水俣病です。公害と認定されたもののどの患者を水俣病と判断するか、症状にあわせてどう補償するべきかの話し合いは遅々として進まず、患者たちは長く続く裁判にも苦しめられ続けることとなります。

『苦海浄土』は、その水俣病についての記録文学。患者たちからの聞き書き、裁判をめぐる動向、様々な資料の引用からなる本文二段組みかつ750ページの大作で、読み通すにはかなりの力がいりました。

「世界文学全集」にたった一冊だけ収められた日本の巻ということからも分かるように、編者の池澤夏樹は『世界文学リミックス』の中でこの作品を、「戦後日本文学第一の傑作だと思う」と評しています。

単なる聞き書きではない文学的豊穣さをこの作品から感じ取ったのでしょう。ただ、淡々とした記録ではなく、患者の悲惨な生活が生々しく描かれているだけに、読んでいて苦しくなる作品でもありました。

 ある家では、うら若いきりょうよしが、全身紐のようにねじれて縁の下にころげ落ち、一人では起き上がれない事態になり、失禁も月のものも隠しおおせない家々はほかにもざらにあった。
 時代から忘れられた村の古道や渚辺を不自由な躰であちこちし、小学校への道さえ覚えられない子らを抱えてきて、大方の者は特急列車なるものにはじめて乗せられ、ここまで辿りついたのだ。その歳月をどういえばよいか。
「すなわち患者の方々には誠意をもって円満な解決を計ることを……」
 またもやどっとヤジがあがる。お互い何をいっているのか聴きとれない。
 人それぞれの重層化した歳月が円型劇場のような会場の中で波立ち、渦をつくってまわりはじめた。ただただ眺めるだけの観客もいたことだろう。チッソの従業員も幹部も右翼も警備員も、ことの成りゆきについてひたすら身をひき、内心忸怩たる念いをひそめ、あるいは無知な漁民らがと思ってきたにしても、それ自体、凝縮したこの一幕の重要な劇的要員となっていたのである。心も躰も全員中腰になっている中で、中心はやはり舞台の上にあった。患者たちが身動きする度に骨のきしる音がした。(442ページ)


物語を楽しむ読書をしたい方にはおすすめできませんが、「四大公害病の一つ」など教科書的な理解しかされていない水俣病の恐ろしい現実が描かれた作品なので、多くの方に読んでもらいたい気はします。

情報の隠蔽などがあったにせよ会社が悪かったというだけでは済まない問題を孕んでいるのが公害。まず産業自体は人々の生活のためなわけですから、快適な生活を求めれば必ず出て来る問題でもあります。

そして、水俣が工場から恩恵を受けていたこと。財政的にもそうですし、都会から人の流れがあることで地域は間違いなく活性化しました。ある意味では工場なしではやっていけない部分もあるわけです。

安全のために便利な生活を捨てられるのか、もしもなにかが起こってしまった時、補償されるならどんな風に補償されるべきなのか。原発事故が起こった今だからこそ、読まれるべき本なのかも知れません。

作品のあらすじ


〈わたし〉が山中九平少年と出会ったのは、1963年の秋のことでした。老人のように曲がった腰を持つ少年は、目が見えないので、両手に持った棒きれを使いながらでなければ、歩くことが出来ません。

石ころを拾い上げては棒きれで打つ、野球の練習をする九平の姿を見ていた〈わたし〉は、同じ年齢の息子がいるだけに「激情的になり、ひきゆがむような母性」(13ページ)を感じさせられたのでした。

16歳になる九平は水俣病ですが、市役所衛生課が病院に来るよう言っても、「いやばい、殺さるるもね」(21ページ)とかたくなに拒否し続けます。家族はみな病院に行ったまま帰って来なかったから。

まず手足の異常から症状が出る水俣病。ボタンがとめられずうまく歩けなくなるのです。次第に言語もうまく発せられなくなるのでした。

住人たちの間で水俣病の症状が現れ出した頃、漁師たちは不漁に悩まされていました。ボラもえびもコノシロも鯛もめっきり取れなくなったのです。網についてくるのはベットリとしたドベ(泥土)ばかり。

魚が岩にあたり、体をひっくり返して泳ぐ姿を目撃するようにも。

 そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。
 はだか瀬ちゅうて、水俣湾に出入りする潮の道が、恋路島と、坊主ガ半島の間に通っとる。その潮の道さね、ぷかぷか浮いてゆくとですたい。その道筋で、魚どんが、そげんしたふうに泳ぎよったな。そして、その油のごたる塊りが、鉾突きしよる肩やら、手やらにひっつくですどが。何ちゅうか、きちゃきちゃするような、そいつがひっついたところの皮膚が、ちょろりとむけそうな、気色の悪かりよったばい、あれが、ひっつくと。急いで、じゃなかところ(別のところ)の海水ばすくうて、洗いよりましたナ。昼は見よらんだった。(51ページ)


やがて国の調査が入るようになり、住人らの病気の原因が工場の廃液であることが分かっていきます。廃液の中にはメチル水銀化合物が含まれており、それを飲んだ魚を食べた住民らに症状が出たのでした。

杉原彦次の次女のゆりは17歳ですが、重度の水俣病で、もう身動きすら出来ません。新聞は、魂のない”ミルクのみ人形”と書きました。

発症前、元気だった娘を思い、「木にも草にも、魂はあるとうちは思うとに。魚にもめずにも魂はあると思うとに。うちげのゆりにはそれがなかとはどういうことな」(148ページ)と納得できない母親。

健康な人が水俣病になることが多かったですが、母親は無事でも生まれてきた子供が水俣病におかされていたというケースもありました。

 山本富士夫・十三歳、胎児性水俣病。生まれてこの方、一語も発せず、一語もききわけぬ十三歳なのだ。両方の手の親指を同時に口に含み、絶えまなくおしゃぶりし、のこりの指と掌を、ひらひら、ひらひら、魚のひれのように動かすだけが、この少年の、すべての生存表現である。
 中村千鶴・十三歳、胎児性水俣病。炎のような怜悧さに生まれつきながら、水俣病によって、人間の属性を、言葉を発する機能も身動きする機能も、全部溶かし去られ、怜悧さの精となり、さえざえと生き残ったかとさえ思われるほど、この少女のうつくしさ。
 水俣病の胎児性の子どもたちが、なにゆえ、非常にうつくしい容貌であるかと、子どもたちに逢う人びとはいう。それは通俗的な容貌の美醜に対する問いばかりでもない。
 松永久美子をはじめとして、手足や身体のいちじるしい変形に反比例して、なにゆえこの子たちの表情が、全人間的な訴えを持ち、その表情のまま、人のこころの中に極限のやわらかさで、移り入ってしまうのだろうか。(210ページ)


水俣病事件発生から二十年近くが経った、昭和四十四年六月十四日。廃液を流した会社チッソや国の対応に納得できなかった水俣病患者の二十八世帯が、チッソを相手取り、熊本地方裁判所に訴え出ました。

会社が潰れることは水俣市が潰れることだ、水俣市四万五千人と水俣病患者百人のどちらが大切なのかという反対の声も聞こえてきます。

訴訟に至るまでには、様々な出来事がありました。互助会を作って、チッソと具体的な救済策を話し合おうとしたのですが、交渉は遅々として進みません。やがて国からは、ある奇妙な知らせが届きました。

水俣病の紛争処理を厚生省にまかせるなら、委員の人選を一任し、委員が出した結論には、異議なく従わなければならないというのです。そしてそのためにはそれぞれが確約書に署名しなければならないと。

公害として認定し、自分たち水俣病患者に力を貸してくれると思っていた国の思いがけない対応に、互助会は戸惑いを隠せません。署名をするべきか、するべきでないか、対応をめぐる議論は紛糾して……。

はたして、長く続くことになる水俣病の裁判の結末はいかに!?

とまあそんなお話です。時系列順の分かりやすい作品ではないので、もしかすると、水俣病の歴史についてある程度調べておくか、参考になる本を横に置いて読み進めた方が、理解しやすいかも知れません。

とにかく読んでいて辛い内容ですし、ボリュームもものすごいので、読むにはかなりの覚悟が入りますが、やはり一度読んだら忘れることの出来ない衝撃を感じさせてくれる、そんな一冊だろうと思います。

作品に興味を持った方、水俣病について知りたい方、原発事故の問題とからめてこの問題を考えてみたい方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、池澤夏樹『池澤夏樹の世界文学リミックス』を紹介します。

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J・K・ローリング『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』

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ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上下巻2冊セット (4)/静山社

¥3,990
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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(上下、静山社)を読みました。シリーズ第四巻になります。

この第四巻辺りになると「ハリポタ」ならではの興味深い現象が起こりました。『炎のゴブレット』がイギリスで発売されたのは2000年ですが、翻訳はタイムラグが当然生じるので、2002年のこと。

つまり、「ハリポタ」続きが読みたいけれどまだ出ておらず、しかしながら原書なら手に入るという状況があったわけです。そしてこれが「ハリポタ」のすごい所ですが、この原書まで売れ出したんですよ。

当然英語ですから、英語が読めなければ読めませんし、しかも子供向けとは言え、「ハリポタ」は決して読みやすくはないのですが、さほど大きくない本屋でも原書を入荷するということがよくありました。

ぼくにとって、この出来事はかなりインパクトが大きかったです。電子書籍でわりと簡単に洋書が手に入る現在とは全然違って、当時なかなか洋書は手に取ることが出来ないものだったので、なおさらです。

言わば一つのブレイクスルーになりました。それまで考えたこともなかったですが、翻訳がないものは洋書で読めばいいし、手に入れようと思えば洋書は手に入ると。あとは、英語さえ出来ればいいわけで。

ぼくが洋書に興味を抱くようになったきっかけの一つで、フランスに旅行に行った時には、余ったユーロでフランス語版も思い切って全巻買ってしまいました。→フランス旅行記3.パリの本屋さんめぐり

自分が好きな本を読みながら語学の勉強をすることほど楽しいことはないので、「ハリポタ」が好きな方はぜひ勉強してみてください。今はもう全巻翻訳があるので比較対照しながら読むのがおすすめです。

一口に「ハリポタ」の洋書と言ってもハードカバーとペーパーバック(やわらかい表紙の廉価版)がありその中でさらに色々なサイズがあるので、セットで一気にそろえてしまった方がいいかも知れません。

また、今は電子書籍があるので、そちらで買うのもおすすめですが、電子書籍については、明日のマクラで詳しく書くことにしましょう。

「ハリポタ」の洋書に関して、ぼくがもう一つ驚いたのは、どちらも英語の本なのに、何故だか違うタイトルで二冊の本が出ていたこと。

第一巻『賢者の石』の英語版が、"Harry Potter and the Philosopher’s Stone"と" Harry Potter and the Sorcerer’s Stone"の二種類で売り出されていたんです。何故だと思いますか?

Harry Potter and the Philosopher’s Stone/J. K. Rowling

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Harry Potter and the Sorcerer’s Stone/J. K. Rowling

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正解は、イギリス版とアメリカ版。元々イギリスの児童文学なので、"Philosopher’s Stone"でしたが、アメリカ版では"Sorcerer’s Stone"で、「哲学者の石」から「魔法使いの石」に直されました。

「賢者の石」自体が古くからの伝説としてあるものですが、どうもアメリカでは馴染みがないということで分かりやすく「魔法使い」に変えたみたいです。そんな風に中の語がちょこちょこ変わっています。

あまり意識しないことですが、イギリス英語とアメリカ英語の違いがあるものなんですよね。それに気付かされたのも面白い経験でした。

さて、『炎のゴブレット』はホグワーツ魔法魔術学校が、三大魔法学校対抗試合(トライウィザード・トーナメント)に参加する物語。ハリーは年齢が足らず、代表者に選ばれないはずだったのですが……。

この巻から「ハリポタ」シリーズはボリューム倍増の上下巻となり、出版界では異例の上下セットの販売が当時大きな話題となりました。

作品のあらすじ


新学期前の夏休み、ハリーはロンの一家に誘われてクィディッチ(ホウキを使った球技)のワールドカップを見に行きます。人間の交通機関を使うと大騒ぎになるので、使ったのは「移動(ポート)キー」。

「移動キー」は、ある地点から別の地点へと魔法使いを移動させるアイテムです。ワールドカップでは、ヴィーラという美しい種族が踊りを披露し、ブルガリア代表のビクトール・クラムが大活躍しました。

ハリーも学校ではクィディッチの選手なので、興奮する楽しい一時を過ごしましたが、不吉な出来事も起こります。それはヴォルデモート卿の「闇の印」である髑髏(ドクロ)マークが夜空に浮かんだこと。

新学期から新しく「闇の魔術に対する防衛術」を教えることになったのは、闇の魔法使いを捕まえる「闇祓い(オーラー)」として名高いマッド‐アイ・ムーディ。「透明マント」をも見透かす人物でした。

いつものように新学期が始まりましたが、今年はなんだか雰囲気が違います。やがてダンブルドア校長から驚きの知らせが発表されました。三大魔法学校対抗試合が開催されることになったというのです。

「三大魔法学校対抗試合はおよそ七百年前、ヨーロッパの三大魔法学校の親善試合として始まったものじゃ――ホグワーツ、ボーバトン、ダームストラングの三校での。各校から代表選手が一人ずつ選ばれ、三人が三つの魔法競技を争った。五年ごとに三校が回り持ちで競技を主催しての。若い魔法使い、魔女たちが国を越えての絆を築くには、これが最も優れた方法だと、衆目の一致するところじゃった――夥しい死者が出るにいたって、競技そのものが中止されるまではの」
「夥しい死者?」
 ハーマイオニーが目を見開いて呟いた。しかし、大広間の大半の学生は、ハーマイオニーの心配などどこ吹く風で、興奮して瞬き合っていた。ハリーも、何百年前にだれかが死んだことを心配するより、試合のことがもっと聞きたかった。(上巻、291ページ)


そうした危険な競技なので、17歳以下は代表選手に立候補できないことに決まりました。14歳のハリーたちも当然参加はできません。

一方、その頃ハーマイオニーが頭を悩ませていたのは、屋敷しもべ妖精の問題でした。魔法使いには生活になくてはならない存在ですが、ハーマイオニーから見れば、奴隷制度以外の何物でもないんですね。

そこで、休みもなく賃金もないままにずっと労働させられ続けている屋敷しもべ妖精を解放させようと、「しもべ妖精福祉振興協会(SPEW)」を立ち上げ、周りへ運動の協力を呼びかけ始めたのでした。

十月末になり、ダームストラング校が城ごと空から、ボーバトン校が湖から船でホグワーツへやって来ました。ハリーとロンは驚きます。ダームストラングにはワールドカップで活躍したクラムがいたから。

ダンブルドアは荒削りの木の杯にしか見えないものの、中では青白い炎が踊っている「炎のゴブレット」を取り出し、代表選手への立候補者は羊皮紙に所属と名前を書いてここに投げ込むようにと言います。

「炎のゴブレット」の周りには「年齢線」が引かれていて、17歳以下は近くへ行くことが出来ません。17歳に少し足りないロンの兄たちフレッドとジョージがいかさまを試みるも、失敗に終わりました。

いよいよ発表の日。「炎のゴブレット」から、選ばれし者の羊皮紙が飛び出します。ダームストラングの代表はクラムに、ボーバトンの代表はヴィーラを思わせる美少女フラー・デラクールに決まりました。

ホグワーツの代表はハップルパフ寮のセドリック・ディゴリーになります。ところが、三人で終わりのはずなのに、「炎のゴブレット」からもう一枚飛び出します。そこにはハリーの名前があったのでした。

「炎のゴブレット」が決めたことなので、今さらもう変更は出来ません。やむをえず大会は四人の代表選手で競われることになります。先生方も当惑していましたが、一番困っていたのは当のハリーでした。

自分で名前を入れた覚えはないだけに、一体どうやって入れたのかと尋ねるロンと口論になり、いつも一緒にいて、ともに苦難を乗り越えて来た一番の親友ロンと、ぎくしゃくするようになってしまいます。

ハーマイオニーと散歩したハリーは、思わぬことを聞かされました。

「ロンを見かけた?」ハリーが話の腰を折った。
 ハーマイオニーは口ごもった。
「え……ええ……朝食に来てたわ」
「僕が自分の名前を入れたと、まだそう思ってる?」
「そうね……ううん。そうじゃないと思う……そういうことじゃなくって」
 ハーマイオニーは歯切れが悪い。
「『そういうことじゃない』って、それ、どういう意味?」
「ねえ、ハリー。わからない?」
 ハーマイオニーは、捨て鉢な言い方をした。
「嫉妬してるのよ!」
「嫉妬してる?」ハリーはまさか、と思った。
「なにに嫉妬するんだ? 全校生の前で笑いものになることをかい?」
「あのね」ハーマイオニーが辛抱強く言った。「注目を浴びるのは、いつだって、あなただわ。わかってるわよね。そりゃ、あなたの責任じゃないわ」
(中略)
「ほんとに大傑作だ。ロンに僕からの伝言だって、伝えてくれ。いつでもお好きなときに入れ替わってやるって。僕がいつでもどうぞって言ってたって、伝えてくれ……どこに行ってもみんなが僕の額をジロジロ見るんだ……」
「私はなんにも言わないわ」ハーマイオニーがきっぱり言った。
「自分でロンに言いなさい。それしか解決の道はないわ」
(上巻、447~448ページ)


やがて三大魔法学校対抗試合が始まり、ハリーは三つの魔法競技で他の三人の代表選手と熾烈な争いをくり広げていくこととなるのですが、やがてマクゴナガル先生から思いも寄らぬことを告げられます。

なんと、代表選手とそのパートナーはクリスマス・ダンスパーティーで最初に踊る決まりだというのでした。必ずパートナーを連れて来るよう命じられたポッターは、どうすればいいか悩んでしまって……。

はたして、三大魔法学校対抗試合で勝利するのはどこなのか!?

とまあそんなお話です。海外の物語には、結構こういうダンス・パーティーが出て来ますね。特にアメリカの高校では「プロム」と言って、卒業記念のダンス・パーティーがあるらしくわりと目にします。

誰を、そして、どんな風に誘えばいいか悩んでしまうハリーの姿はかわいらしいですが、自分が誘うと思うとやはり大変ですね。ドラゴンに立ち向かう方がましかもと思ったハリーの気持ちも、分かります。

ちやほやされる友達に嫉妬してしまったロン、ダンス・パーティーの相手探しに右往左往する生徒たち。大人へ成長しつつある登場人物たちは恋やアイデンティティなど、青春の悩みを抱え始めるのでした。

イベントごとが多いこともあり、前三作ほどの凝った作りにはなっていませんが、その分、登場人物の成長が感じられるような巻でした。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』を紹介する予定です。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』

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ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 ハリー・ポッターシリーズ第五巻 上下巻2冊セット(5)/静山社

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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(上下、静山社)を読みました。シリーズ五巻目になります。

ここ数年で本をめぐる環境は大きく変わりました。電子書籍端末が登場したからです。ぼくが最初に買った時は輸入しなければなりませんでしたが、今ではkindleも、日本で普通に買えるようになりました。

不思議なもので、読書好きであればあるほど紙の本への愛着が強いものなんです。読めればなんでもいいというのではなくて、本そのものが好きという感じで。なので、自然と電子書籍に抵抗が生まれます。

ぼくもその気持ちは分からないでもないですが、もしもみなさんが英語を勉強したい、あるいは、英語で小説を読んでみたいというのなら、電子書籍端末は間違いなく買いですよ。特におすすめがkindle。

Kindle Paperwhite(ニューモデル)/Amazon

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文字サイズが自由に変更できるので、英語が苦手な方は文字を大きくして読めますし、もしも分からない単語があったら、その単語を長押しするだけで搭載されている英和辞書が意味を教えてくれるのです。

昔は紙の辞書を使って読まざるをえず、後に電子辞書が出て少しは楽になりましたが、それでも単語を調べるのに時間がかかりました。それがすべて指一本で出来るわけですから、時代は変わりましたねえ。

新しいkindle Paperwhiteには「単語帳機能」が加わったので、調べた語が自動的に登録されていて、後で単語帳形式で復習しなおすことが出来ます。これが結構よくて、勉強には役立つ機能だと思います。

日本に「青空文庫」があるように、著作権が切れた小説(日本は作者の死後50年、アメリカなど世界の多くの国では作者の死後70年)が読めるサイトに、「プロジェクト・グーテンベルク」があります。

 → Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)

いわゆる古典的名作というような文学作品は、ここでもうほとんどが無料で読めるので、英語が多少出来れば、世界の名作が無料で読み放題なわけです。なので、電子書籍端末があるとすごく楽しいですよ。

kindle Paperwhiteには、5000円ほど高い3Gモデルもあります。どう違うかというと、3Gモデルの方は常にネットに繋がるもので、普通の方はWi-Fiを使わなければネットに繋げないものになります。

パソコンや携帯など、他になにかしらネットに繋がるものがあるならそちらでも本を買うことは出来るので、基本的には3Gモデルの必要はないと思います。ぼくが持っているのも、3Gモデルではない方。

ただ、「Wi-Fiってなに?」という方は、Wi-Fiを使える環境(喫茶店など)を見つけるのが大変かもしれないので、3Gモデルを買っておくと楽かも知れません。月々のランニングコストはかからないので。

あとみなさんが迷うのは、純正のカバーを買うかどうかだと思いますが、カバーをつけると正直重くなるので、ぼくは使ってません。持ち歩く時は百均で買った袋に入れています。まあその辺りはお好みで。

この辺りで話を「ハリポタ」と繋げていきますが、小説家の中には電子書籍での販売を嫌う人も結構多く、「ハリポタ」シリーズの作者であるJ・K・ローリングもずっと電子書籍化を拒み続けて来ました。

2012年に、ようやく全世界待望の電子書籍解禁となったのですが、それがすごいんですよ。「Pottermore(ポッターモア)」というサイトを立ち上げて、そこでの独占販売という形を取ったんです。

「ポッターモア」で買った電子書籍は、KindleやiPadなど色々な端末で読むことが出来るわけですが、サイトを立ち上げての独占販売というのは他にあまり例がなく、やはり大人気シリーズならではですね。

さて、シリーズ第五作にあたる『不死鳥の騎士団』は、完全ではないものの復活を遂げた恐るべき闇の魔法使いヴォルデモート卿に立ち向かうため「不死鳥の騎士団」という組織が再結成されるという物語。

この辺りからこのシリーズはどんどんシリアスさを増していきます。

作品のあらすじ


新学期前の夏休み、いつものように親戚のダーズリー一家と過ごしていたハリーはありえない出来事に遭遇します。アズカバンの監獄を守る吸魂鬼(ディメンター)たちが、プリベット通りに現れたのです。

いとこのダドリーを守るため、守護霊を呼び出して吸魂鬼を追い払ったハリーは、学校の外で魔法を使ってはいけないという決まりを破ったため、魔法省不適使用取締局から退学を命じられてしまいました。

動揺しているハリーの元へ異変を察知した人々、かつて先生として教えてくれていたルーピンやマッド‐アイ・ムーディたちが駆けつけてハリーを、グリモールド・プレイス十二番地へと案内してくれます。

人間の世界には十二番地はなく、十一番地と十三番地の間にふくれあがるようにして家が現れました。そこに会いたかったロンとハーマイオニーの姿もありましたが、二人を見たハリーは怒りを隠せません。

ヴォルデモート卿が復活を遂げ、忠誠を誓う闇の魔法使いら「死喰い人(デスイーター)」が動き始めていることは確かなのに、自分だけ何も知らされずに、ダーズリー一家の元に押し込められていたから。

ようやくハリーは、ヴォルデモートに立ち向かうための「不死鳥の騎士団」が再結成されたこと、ここが本拠地であることを知らされましたが、成人になっていないため、詳しいことは教えてもらえません。

魔法省の尋問で、自衛のための魔法だったと認められて退学は免れたものの、ヴォルデモートの復活を訴えるハリーとダンブルドアと、ヴォルデモートの復活を認めようとしない魔法省の意見は対立します。

その対立により新しい「闇の魔術に対する防衛術」の先生は魔法省から派遣されることとなり、魔法大臣上級次官でガマガエルのような顔をした魔女ドローレス・アンブリッジに決まってしまったのでした。

必要はないからと実技は教えず、ひたすら教科書を読ませるだけのアンブリッジ先生の退屈な授業に生徒たちは反発しますが、魔法省をバックに持つアンブリッジ先生は、権力で生徒たちを押さえつけます。

「さて、いくつかはっきりさせておきましょう」
 アンブリッジ先生が立ち上がり、ずんぐりした指を広げて机の上につき、身を乗り出した。
「みなさんは、ある闇の魔法使いが戻ってきたという話を聞かされてきました。死から蘇ったと――」
「あいつは死んでいなかった」ハリーが怒った。「だけど、ああ、蘇ったんだ!」
(中略)
「罰則です。ミスター・ポッター!」アンブリッジ先生が勝ち誇ったように言った。
「明日の夕方。五時。わたくしの部屋で。もう一度言いましょう。これは嘘です。魔法省は、みなさんに闇の魔法使いの危険はないと保証します。まだ心配なら、授業時間外に、遠慮なくわたくしに話をしにきてください。闇の魔法使い復活など、たわいのない嘘でみなさんを脅かす者がいたら、わたくしに知らせにきてください。わたくしはみなさんを助けるためにいるのです。みなさんのお友達です。さて、ではどうぞ読み続けてください。五ページ、『初心者の基礎』」(上巻、387ページ)


アンブリッジ先生がハリーに与えたのは恐ろしい罰でした。「僕は嘘をついてはいけない」と何度も書かせたのですが、書く度手の甲にメスで切り裂かれたような痛みが走り、その血がインクになるのです。

やがて、アンブリッジ先生は高等尋問官に任命され、ホグワーツ魔法魔術学校の改革に取りかかりました。授業を見て査定し、ふさわしくないと判断した先生を辞めさせることも出来るようになったのです。

魔法省の意向に沿って書かれている「日刊予言者新聞」も、ヴォルデモートの復活に懐疑的でした。おのずから、ハリーは嘘つきの少年で、ダンブルドアは老いぼれてしまったと思う人が増えていきます。

そんな中、ハリーとダンブルドアを信じるハーマイオニーは危機に立ち向かうためハリーを先生に自分たちで「闇の魔術に対する防衛術」を学ぶグループ、「ダンブルドア軍団(DA)」を発足させました。

特に中心となるメンバーはハリー、ロン、ハーマイオニーと同じくグリフィンドール寮の生徒の、ネビル・ロングボトム。「不死鳥の騎士団」のメンバーだった優秀な両親を持ちながら、いつもどじばかり。

ところが両親の敵の「死喰い人」がアズカバンを脱獄したと知って人一倍練習に励み、ハリーが驚くような進歩を遂げることとなります。

一つ下の学年なのは、同じくグリフィンドールで、ロンの妹のジニー、そしてジニーの友達でレイブンクロー寮のルーナ・ラブグッド。

眉唾ものの記事ばかりのせている雑誌「ザ・クィブラー」の編集長を父に持つルーナは、普通の人がなかなか信じないものを信じ、しゃべり方がなんだか妙にとろくさいので、周りから変に思われています。

屋敷しもべ妖精ドビーによって「必要の部屋」の存在を知った「ダンブルドア軍団」は定期的にひそかに集まり練習に励んでいきました。

しかし、そんな動きが気にくわないアンブリッジ先生は、様々な規則で封じようとし、やがてドラコ・マルフォイの挑発に乗ったハリーは、クィディッチ(ホウキを使った球技)を禁止されてしまいます。

ヴォルデモートの復活、ホグワーツの改革だけで不安で胸が締め付けられそうなハリーたちですが、五年生は「O・W・L(ふくろう)試験」という、将来を左右する重要な試験があり、勉強も休めません。

そして、ハリーにはある悩みがありました。それは、最近ダンブルドアが自分を遠ざけようとしているように感じること。以前のように親しげに話してくれず、監督生には自分ではなくロンが選ばれました。

ヴォルデモートと繋がるような悪夢にうなされるようになったハリーは、ハリーのことを目の敵にしているスネイプ先生から、「閉心術」を習うよう、ダンブルドアに命じられることとなったのですが……。

はたして、暗躍するヴォルデモートの狙いはなんなのか? 魔法省の改革の嵐吹き荒れるホグワーツでのハリーたちの運命はいかに!?

とまあそんなお話です。「O・W・L試験」はかなり大変な試験で、ここで優秀な成績をおさめないと7年生の時に受ける「N・E・W・T試験」のための授業を取ることが出来なくなってしまうんですね。

しかも、「O・W・L試験」や「N・E・W・T試験」の成績というのは、そのまま就職の時にも使われるので、ある一定以上の成績を治めておかなければ、希望する仕事にはつけなかったりするわけです。

試験どころではない状況にもかかわらず、言わば将来を決める重要な試験を受けなければならないハリーたちは、本当に大変そうでした。

魔法省から来たアンブリッジ先生の横暴ぶりには、読んでいていらいらさせられるんですが、ロンの兄たちで、型破りな双子フレッドとジョージが豪快にぶちかましてくれるので、二人の行動にぜひ注目を。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を紹介する予定です。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと謎のプリンス』

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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(上下、静山社)を読みました。「ハリポタ」シリーズ第六巻。

「ハリポタ」空前のブーム以降、ファアンタジーは大きく変わりました。読者を獲得したのは異世界の物語というよりも、極めて現実的な物語の中に、魔法やアイテムなどのファンタジー要素が混ざるもの。

「ハリポタ」は特に後半がそうですが、ファンタジーというよりは、ティーンエイジャーの青春物語という感じに近い作品で、学校の試験に苦しみ、恋や将来に悩む姿が多くの読者の共感を呼んだんですね。

学校生活など現実に近いものが描かれ、登場人物を等身大の存在に感じて感情移入が出来ること。これは当たり前のようではありますが、実は「ハリポタ」以前にはあまり見られなかった特徴だと思います。

それ以前でファンタジーを大きく変えたと言われているのは、J・R・R・トールキンによる『指輪物語』(1954~1955年)。

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ホビットやゴブリンなどそれぞれの種族、そしてその文化が綿密に作り上げられた物語で、RPG(ロールプレイングゲーム)など、いわゆる”ファンタジー”のイメージの多くは、この作品から来ています。

指輪物語』は異世界の物語であり、冒険や登場人物の心理的葛藤は描かれますが、当然ながら漠然としたティーンエイジャーの悩みが描かれることはなく、共感しやすい物語ではなかったように思います。

「ハリポタ」と『指輪物語』は比較するとファンタジー観の違いが分かって面白いので、興味のある方は、ぜひ読み比べてみてください。

さて、今回は「ハリポタ」にハマった方のために、『指輪物語』以前のファンタジーについて触れようと思います。それ以前となると、神話や英雄譚、叙事詩、昔話などがファンタジー的なものになります。

中でも非常に興味深いのが、「アーサー王と円卓の騎士」の伝説。アーサー王は5世紀か6世紀頃のブリタニアの伝説上の王で、「円卓の騎士」とはランスロットなど、アーサー王に仕えた騎士たちのこと。

なにしろ古い伝説なので、原典と言える作品はないのですが、様々な小説が出ているのでぜひ色々と調べてみてください。古いもの(15世紀)で定番なのは、トマス・マロリーの『アーサー王の死』です。

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魔術師マーリンや、石に刺さった剣を抜いた者が王に選ばれるというエピソード、あるいは、伝説の剣エクスカリバーなどを、みなさんもどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。面白いですよ。

一方、モンスターと戦う物語で非常にわくわくさせられるのが、ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』です。竜の血を浴びたことで一か所を除いて無敵になった英雄ジークフリートの驚くべき冒険譚。

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小説ではなく詩の形式の叙事詩なので、読みづらさはありますが、魔法や財宝が登場する、RPG好きにはたまらない物語だと思います。

伝説の時代から少しくだって、ファンタジーの要素を児童文学に組み込んだのが、1800年代半ばに活躍したスコットランドの作家で『お姫さまとゴブリンの物語』が有名な、ジョージ・マクドナルド。

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奇妙な存在が登場するなんだかちょっと変な物語で、現在のファンタジーとはまた少し違う、味のある作品になっています。『指輪物語』以前のファンタジーが読んでみたい方はぜひ読んでみてください。

ファンタジーのルーツとも言うべき三作品を紹介して来ました。感情移入がしやすい現代的なファンタジーも読みやすくて面白いですが、こうした古典的作品もまた興味深い作品ばかりなので、ぜひ注目を。

さて、「ハリポタ」シリーズもいよいよ大詰めが近づいて来ました。

今回の『謎のプリンス』は、「半純血のプリンス」を名乗る人物のものだった古い教科書をハリーが手にするという物語。教科書には様々な書き込みがあって……。驚きと謎に満ちたシリーズ第六作目です。

作品のあらすじ


新学期前の夏休み、親戚のダーズリー一家と過ごしていたハリーの元へ、ホグワーツ魔法魔術学校のダンブルドア校長がやって来ます。残りの休みはロン一家の家「隠れ穴」で過ごすことになっていたので。

ハリーを迎えにきたダンブルドアでしたが、寄り道すると言ってホラス・スラグホーンの元を訪ねました。スラグホーンはかつてはスリザリン寮の寮監をつとめており、ハリーの母を教えたこともある先生。

闇の帝王ヴォルデモート卿の力を恐れなかなか新しい先生が決まらなかったので、ダンブルドアは引退していたスラグホーンに戻って来てくれるように頼みに来たのでした。スラグホーンは渋々了承します。

「隠れ穴」に入る前ダンブルドアは思いがけないことを言いました。

「話は変わるが、関連のあることじゃ。今学年、きみはわしの個人教授を受けてほしい」
「個人――先生と?」黙って考え込んでいたハリーは、驚いて聞いた。
「そうじゃ。きみの教育に、わしがより大きく関わるときが来たと思う」
「先生、何を教えてくださるのですか?」
「あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこじゃ」
 ダンブルドアは気楽そうに言った。
(上巻、118~119ページ)


「日刊預言者新聞」は連日のように失踪事件や奇妙な事故を告げており、ヴォルデモートと彼に忠誠を誓う闇の魔法使い「死喰い人(デスイーター)」らが暗躍しているらしき不穏な情勢が続いていました。

新学期の準備のために「ダイアゴン横町」へ行ったハリーたちは、いつもなにかと対立している相手のドラコ・マルフォイが、闇の魔術専門の「夜の闇(ノクターン)横町」へ入っていったのを目撃します。

マルフォイが邪悪な物を扱う「ボージン・アンド・バークス」の店主となんらかのやり取りをしているのを見たハリーは、マルフォイが既に「死喰い人」の一人になっているのではないかと疑い始めました。

新学期が始まると、新しい先生としてスラグホーンが紹介されます。ところが思いがけなかったのは、それがハリーが想像していた「闇の魔術に対する防衛術」ではなく、魔法薬学の先生としてだったこと。

新しく「闇の魔術に対する防衛術」の先生になったのは元々は魔法薬学の先生で、ハリーに対して厳しい態度を取り、ずっと対立し続けて来たスリザリン寮の寮監、セブルス・スネイプ先生だったのでした。

魔法薬学の「O・W・L試験」でいい成績が残せなかったハリーは、闇の魔法使いを捕まえる「闇祓い(オーラー)」になる道を諦めざるをえませんでしたが、担当教授が変わったことで状況が変わります。

スラグホーンはスネイプよりも低い基準でも認める方針を出したので、ハリーもロンも上の段階であるN・E・W・Tレベルの魔法薬学に進めることになったのでした。しかし教科書を準備していません。

そこで、古い教科書を借りて授業を受けることになったのですが、その古い教科書にはたくさんの書き込みがあって、教科書の記述ではなくその書き込みの通りに薬を作ると、すべてうまくいったのでした。

ハリーはこの教科書の持ち主、裏表紙に書かれた「半純血のプリンス」が一体誰なのか想像をめぐらせます。もしかしたら自分の父や母あるいは父の親友で自分の名付け親である人物のものではないかと。

そして約束通り、ダンブルドアの個人教授が始まりました。用意されていたのは、「憂いの篩(ペンシーブ)」という道具。想いや記憶を蓄えられる水盆で、中に入ると、その記憶を再体験できるものです。

ダンブルドアとともに記憶を見ていったハリーは、初めはなんのことか分かりませんでしたが、次第にそれらの記憶がなんらかの形で、幼少時代のヴォルデモートと繋がりがあることが分かっていきました。

ダンブルドアはどうやら、知られざるヴォルデモートの過去を探ることで、ヴォルデモートが抱える秘密に、迫ろうとしているようです。

やがて、ハリーの危惧通り、ホグワーツで恐ろしい事件が起こり始めました。ケイティ・ベルという女の子は呪われたネックレスに苦しめられ、毒の入った蜂蜜酒を飲んだロンは、命を落とすところでした。

ハリーはマルフォイがなにかを企んでいると確信し、スネイプがその手助けをしていると思いますが、スネイプはダンブルドアからの信頼が厚いため、ハリー以外はみなスネイプのことを信じようとします。

ヴォルデモートに立ち向かうための組織「不死鳥の騎士団」のメンバーである、ロンの父ウィーズリーおじさんもルーピンもそうでした。

「こうは思わないかね、ハリー」おじさんが言った。
「スネイプはただ、そういうふりを――」
「援助を申し出るふりをして、マルフォイの企みを聞き出そうとした?」
 ハリーは早口に言った。
「ええ、そうおっしゃるだろうと思いました。でも、僕たちにはどっちだか判断できないでしょう?」
「私たちは判断する必要がないんだ」
 ルーピンが意外なことを言った。ルーピンは、こんどは暖炉に背を向けて、おじさんを挟んでハリーと向かい合っていた。
「それはダンブルドアの役目だ。ダンブルドアがセブルスを信用している。それだけで我々にとっては十分なのだ」
「でも」ハリーが言った。
「たとえば――たとえばだけど、スネイプのことでダンブルドアが間違っていたら――」
「みんなそう言った。何度もね。結局、ダンブルドアの判断を信じるかどうかだ。私は信じる。だから私はセブルスを信じる」
(下巻、17ページ)


ダンブルドアの個人教授を続けていたハリーは、スラグホーンの記憶、学生時代のヴォルデモートとの会話の記憶を目撃しました。スラグホーンにホークラックスについて尋ねた若き日のヴォルデモート。

「ホークラックスのことは何も知らんし、知っていても君に教えたりはせん! さあ、すぐにここを出ていくんだ。そんな話は二度と聞きたくない!」(下巻、75~76ページ)スラグホーンは叫びます。

しかしダンブルドアはこの記憶は手が加えられていると言いました。スラグホーンは記憶を改竄したのだと。ダンブルドアに頼まれたハリーはスラグホーンの本当の記憶を手に入れようとするのですが……。

はたして、スラグホーンの記憶に隠されていた真実とは? そして、闇の魔術に関するものらしいホークラックスとは一体何なのか!?

とまあそんなお話です。この巻で最も重要なのは、実は恋愛的な要素で、ハリー、ロン、ハーマイオニーには、それぞれ気になる人が出来たり、恋人が出来たりと恋愛の面で色々と思い悩むようになります。

誰と誰がくっつくのかは「ハリポタ」シリーズである意味最も気になる部分だと思うのでその辺りはぜひ実際に読んで楽しんでください。

『謎のプリンス』を読んだ人は、もう最終巻を読まずにはいられません。それだけすごいラストになってます。今はもうすぐに読めるのでいいですね。当時はやきもきしながら、最終作を待ったものでした。

明日もJ・K・ローリングで、『ハリー・ポッターと死の秘宝』を紹介する予定です。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと死の秘宝』

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「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)/静山社

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J・K・ローリング(松岡佑子訳)『ハリー・ポッターと死の秘宝』(上下、静山社)を読みました。「ハリポタ」シリーズ最終巻です。

なにしろタイトルに名前がつけられているくらいですから、勿論このシリーズは、ホグワーツ魔法魔術学校で学ぶ魔法使いの少年ハリー・ポッターが主人公。一巻につき、一学年の出来事が描かれています。

ですが、このシリーズを読み終わった人が誰もが思うであろうことは、この物語は決してハリーだけの物語ではないということ。むしろハリー本人よりも読者の心に強く残る人物がいたりするぐらいです。

「ハリポタ」は、善が悪を正義の名のもとに打ち倒すという単純明快なストーリーではなく、善と悪に単純に分類出来ない人間の複雑さが描かれているが故にキャラクターには深みが生まれているのでした。

たとえば、ハリーの宿敵であり、魔法界を恐怖に陥れた闇の帝王ヴォルデモート卿でさえも、その秘められた過去が明かされていくに従って、単純に憎むべき存在からは印象が変わっていくこととなります。

一人一人のキャラクターがそれぞれの人生で抱えているものがあるだけに、ある意味では、誰もが主人公と言えるような作品なのでした。

本当は色々と語りたいキャラクターがいるのですが、まだ「ハリポタ」を読んだことがない人がいることも想定しながらこの記事を書いているので、ここではぼくが好きな登場人物について書きましょう。

最終作であるこの第七巻で思わぬ活躍を見せるのがネビル・ロングボトム。ハリー、ロン、ハーマイオニーと同じグリフィンドール寮の生徒ですが、このネビルは昔はまあ本当にひどいやつだったんですよ。

第一作『賢者の石』での初登場時は、ヒキガエルをなくしてめそめそ泣いており、なにをやらせても不器用で、どんな授業でも失敗ばかり。物忘れがひどくて、おばあちゃんからは怒られてばかりでした。

そんなどじのネビルがハリーもびっくりの進歩をとげたのが、第五作『不死鳥の騎士団』。ハリーを先生に自分たちで魔法を学ぶグループ「ダンブルドア軍団」に入り、めきめきと腕をあげていったのです。

『死の秘宝』ではハリー、ロン、ハーマイオニーはダンブルドアから任せられた使命をやり遂げるためホグワーツを離れるのですが、学校に残った生徒の中心に成長したのが、そう、ネビルだったのでした。

「学校は……そうだな、もう以前のホグワーツじゃない」ネビルが言った。
 話しながら笑顔が消えていった。
「カロー兄妹のことは知ってる?」
「ここで教えている、死喰い人の兄妹のこと?」
(中略)
「妹のアレクトのほうはマグル学を教えていて、これは必須科目。僕たち全員があいつの講義を聞かないといけないんだ。マグルは獣だ、間抜けで汚い、魔法使いにひどい仕打ちをして追い立て、隠れさせたとか、自然の秩序がいま再構築されつつある、なんてさ。この傷は――」
 ネビルは、もう一つの顔の切り傷を指した。
「アレクトに質問したら、やられた。おまえにもアミカスにも、どのくらいマグルの血が流れてるかって、聞いてやったんだ」
「おっどろいたなぁ、ネビル」ロンが言った。「気の利いた科白は、時と場所を選んで言うもんだ」
「君は、あいつの言うことを聞いてないから」ネビルが言った。「君だってきっと我慢できなかったよ。それより、あいつらに抵抗して誰かが立ち上がるのは、いいことなんだ。それがみんなに希望を与える。僕はね、ハリー、君がそうするのを見て、それに気づいていたんだ」(下巻、276~277ページ)


「死喰い人(デスイーター)」はヴォルデモートに忠誠を誓う闇の魔法使いのこと。ヴォルデモートらは純血を尊ぶので、マグル(人間)生まれの魔法使いを排除した魔法世界を作ろうとしていたのでした。

罰を受け肉体を傷付けられながらも、そんな恐ろしい先生に刃向うことで、かつてのハリーのようにみんなの希望の光になったネビル。いやあ、かっこいいですよねえ。ある意味、主人公のような輝きぶり。

そして、ネビルは実は、非常にハリーに境遇が近い少年なんですよ。ヴォルデモートに立ち向かう組織「不死鳥の騎士団」の一員だった両親は「死喰い人」にやられてしまったので、祖母に育てられました。

もしかしたらハリーではなく、ネビルの額に傷跡が残され、『ネビル・ロングボトムと賢者の石』だったかもしれないほどの存在であるだけに、ネビルが見せた勇気ある姿はぼくの心に深く残ったのです。

ぼくが好きな登場人物であるネビルについて書きましたが、こんな風に、思わずそれぞれの登場人物について語りたくなる作品なんです。

これだけ読んだ人同士で登場人物について語り合いたくなる小説はまれで、その魅力だけでも「ハリポタ」シリーズは読む価値があると思います。まだ読んだことがないという方はぜひ読んでみてください。

この巻のためにすべてが書かれたと言っても過言ではない、思いがけない展開が待ち受ける最終巻。最終決戦の行方から目が離せません。

作品のあらすじ


「死喰い人」たちに追いつめられたハリーを守るため「不死鳥の騎士団」は、プリペット通りのダーズリー一家の元へ集まっていました。逃亡作戦は、ポリジュース薬を使って、ハリーの影武者を作ること。

ポリジュース薬は本人そのままに変身出来る薬なので、六人の囮を作ってハリーを逃がすことにしたのです。結局本物のハリーはヴォルデモートに見つかってしまったのですが、思わぬことが起こりました。

ヴォルデモートが死の呪文を唱えようとしたその瞬間、ハリーの杖がひとりでに動き金色の炎をヴォルデモートにぶつけたのです。みんなはハリーの力だと思いますが、ハリー自身はどこか納得できません。

ハリーは無事にロン一家の住む「隠れ穴」に着くことが出来たのですが、この作戦で負傷をした者、そして死んだ者も出てしまいました。

ハリーはヴォルデモートを倒すために必要な使命をダンブルドア校長から託されたのですが、命の危険もあるであろうその使命に、ロンとハーマイオニーを巻き込んでいいものかどうか迷い続けていました。

しかしハーマイオニーは両親に娘がいたことを忘れさせるなど嘘の記憶を植え込ませて国外へ逃亡させ、ロンは屋敷裏お化けを病気になった自分のように見せかけて旅立ちの準備をしていたことを知ります。

ダンブルドアからロンは「灯消しライター」、ハーマイオニーは『吟遊詩人ビードルの物語』、ハリーはクィディッチ(ホウキを使った球技)でハリーが最初に取った「スニッチ」という球を託されました。

しかし、ダンブルドアがなんの目的で三人にそれらを託したのかは謎めいていて、よく分かりません。一方、闇の勢力に押されつつある魔法省のスクリムジョール大臣が、ハリーたちに協力を求めて来ます。

しかし、魔法省のことを信頼していないハリーは協力を断りました。

「言葉がすぎるぞ!」
 スクリムジョールが立ち上がって大声を出した。ハリーもさっと立ち上がった。スクリムジョールは足を引きずってハリーに近づき、杖の先で強くハリーの胸を突いた。火の点いたタバコを押しつけられたように、ハリーのTシャツが焦げて穴があいた。
「おい!」
 ロンがぱっと立ち上がって、杖を上げた。しかしハリーが制した。
「やめろ! 僕たちを逮捕する口実を与えたいのか?」
「ここは学校じゃない、ということを思い出したかね?」スクリムジョールは、ハリーの顔に荒い息を吹きかけた。「私が、君の傲慢さも不服従をも許してきたダンブルドアではないということを、思い出したかね? ポッター。その傷跡を王冠のように被っているのはいい。しかし、十七歳の青二才が、私の仕事に口出しするのはお門違いだ! そろそろ敬意というものを学ぶべきだ!」
「そろそろあなたが、それを勝ち取るべきです」ハリーが言った。(上巻、187~188ページ)


間もなく「服従の呪文」によってヴォルデモートの傀儡となったシックスネスが新たな魔法大臣となり、反マグル(人間)の動きが加速しました。今では、純血以外の魔法使いは認められなくなったのです。

「穢れた血」と呼ばれる人間の親を持つ魔法使いが魔法省によって捕えられ、尋問される恐ろしい世界になってしまったのでした。ヴォルデモートと「死喰い人」たちが、魔法の世界を牛耳り始めたのです。

ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人はどこに敵がいるか分からない状況の中、キャンプなどをして「死喰い人」たちから逃げつつ、ダンブルドアから任せられた使命を果たそうと、奮闘していくのでした。

ポリジュース薬を使って魔法省に潜入したり、小鬼が管理しており、強盗は不可能と言われる「グリンゴッツ魔法銀行」に乗り込んだり。

一方、ヴォルデモートは自分がハリーを倒せないことを不思議に思い、杖作りらをとらえて尋問し、なにかを探し始めます。そうしたヴォルデモートの行動を、時折ハリーは夢のように目にするのでした。

「不死鳥の騎士団」の面々が無事なのか、今どうしているのか分からなかったのですが、パスワードが分からなければ聴くことの出来ないラジオ番組「ポッターウォッチ」で、消息を知ることが出来ました。

 これもよく知っている声だった。ロンは口を開きかけたが、ハーマイオニーが囁き声で封じた。
「ルーピンだってわかるわよ!」
「ロムルス、あなたは、この番組に出ていただくたびにそうおっしゃいますが、ハリー・ポッターはまだ生きているというご意見ですね?」
「そのとおりです」ルーピンがきっぱりと言った。「もしハリーが死んでいれば、死喰い人たちが大々的にその死を宣言するであろうと、確信しています。なぜならば、それが新体制に抵抗する人々の士気に、致命的な打撃を与えるからです。『生き残った男の子』は、いまでも、我々がそのために戦っているあらゆるもの、つまり、善の勝利、無垢の力、抵抗し続ける必要性などの象徴なのです」
 ハリーの胸に、感謝と恥ずかしさが湧き上がってきた。最後にルーピンに会ったとき、ハリーはひどいことを言った。ルーピンはそれを許してくれたのだろうか?
「では、ロムルス、もしハリーがこの放送を聞いていたら、何と言いたいですか?」
「我々は全員、心はハリーとともにある、そう言いたいですね」
 ルーピンはそのあとに、少し躊躇しながらつけ加えた。
「それから、こうも言いたい。自分の直感に従え。それはよいことだし、ほとんど常に正しい」
 ハリーはハーマイオニーを見た。ハーマイオニーの目に涙が溜まっていた。
「ほとんど常に正しい」ハーマイオニーが繰り返した。
(下巻、80~81ページ)


やがて、どうやらダンブルドアが気付かせたかったのは伝説だと思われていた「死の秘宝」のことらしいと知ったハリーたちは、注意を払って旅を続けながら「死の秘宝」についての調べを進めていきます。

そしてついにヴォルデモートを倒すために必要なものがホグワーツに隠されていると知ったハリーたちは、今は「死喰い人」たちが管理している危険なホグワーツへ、どうしても行かざるをえなくなりした。

それはそのままハリーを抹殺するべく、望み通り最強の武器を手にしたヴォルデモートとの最終決戦の地へ赴くことを意味していて……。

はたして、ハリーとヴォルデモートとの宿命の対決の結末は!?

とまあそんなお話です。明るくコミカルさのある学園ものとして始まった「ハリポタ」がこれほど壮大な物語になるとは、誰が予想したでしょうか。辛く悲しいこともありますが、その分感動的な物語です。

ミステリ的なトリックに驚かされ、凝った作りの面白さがあるのは前半の三巻ですが、上下巻になる中盤から後半にかけての巻は、登場人物それぞれの人生の物語になるので、それはまたそれで面白いです。

しかしなんといっても、この七巻が素晴らしい。普通、シリーズものというのは、なんとなく尻切れトンボになってしまいがちなものですが、このシリーズは、まさにこの巻が書かれるために書かれたもの。

予想外の展開というミステリ的な面白さもある巻になっているので、まだ内容を知らない方は、知らない内に読むことをおすすめします。

七回にわたって「ハリポタ」シリーズを紹介して来ました。なにしろこれだけの長い作品なので、いつかやろうと思いつつ、もう何年も経ってしまいましたが、ようやく紹介することが出来てよかったです。

「ハリポタ」は熱烈なファンがたくさんいる一方で、児童文学であること、そして、あまりにも有名作過ぎることもあって、意外とまだ読んだことがないという方も、実は結構多いのではないかと思います。

ビジュアルの面で分かりやすい映画もかなりいいので、映画で全作観るというのもおすすめですが、機会があれば、ぜひ原作の方も手に取ってみてください。今では全19巻で文庫版も出版されていますよ。

明日は、新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』の中から、「竹取物語」を紹介する予定です。

「竹取物語」(新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』)

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新編日本古典文学全集 (12) 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語/小学館

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新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』の「竹取物語」を読みました。

今ちょうど、「竹取物語」を元にしたスタジオジブリの最新アニメ映画『かぐや姫の物語』が上演中です。観に行くかどうか迷っているという方は、ぜひ観に行ってください。とても素晴らしい映画でした。

監督をつとめているのは、ぼくが大好きなあの名作『おもひでぽろぽろ』の高畑勲で、『ホーホケキョ となりの山田くん』以来十四年ぶりの作品になります。とにかくディティールにこだわるのが高畑勲。

予告編でご覧になった方も多いかと思いますが、赤ん坊時代のかぐや姫がはいはいする様子など、そういう細かな描写にとにかく圧倒される作品でした。アニメらしくない独特の絵のタッチもよかったです。

「竹取物語」をよく知らないという方も勿論楽しめますが、実は「竹取物語」を知っている方が観て楽しめる映画ではないかと思います。

何故かというと、ほとんど忠実に「竹取物語」を取り入れつつも、オリジナル要素の強い作品になっているからです。客観的な視点で紡がれる原典と比べて、映画ではかぐや姫の視点が中心となっています。

みんなの兄貴分、オリジナルキャラクター捨丸が登場し、自然の中でみんなと一緒に遊ぶかぐや姫の子供時代が描かれるのが大きな特徴。やがて、育ての父が裕福になったため、都へ行くこととなりました。

そして、娘の幸せを願う育ての父の願いの通り、かぐや姫は高貴な娘としての教育を受けることとなるのです。自然を愛するかぐや姫にとっては、しきたりの多い都での暮らしは、窮屈なものでしたが……。

原典の「竹取物語」でのかぐや姫は、あくまで特殊な存在ですが、それに対して『かぐや姫の物語』では、親の望むことと自分の望むことの違いにジレンマを抱える、感情移入しやすい存在になっています。

それだけに、ほとんどストーリーとしての軸は原典と映画で同じながら、まったく違う物語のように感じられて、非常に面白かったです。

わりと淡々とした雰囲気の作品なので、DVDなどで観るよりも、やはり集中できる劇場で観るのがおすすめ。そして、折角ならば、ぜひ原典の「竹取物語」を手に取って、色々な違いを発見してください。

さて、ここからは映画を離れて、「竹取物語」について書いていきます。「竹取物語」は平安前期、9世紀か10世紀頃に成立したとされる日本最古の物語で、あの『源氏物語』にも影響を与えた作品です。

作者がどんな人物なのか、一人なのか複数なのか、後世の筆が入っているのかどうなのか、詳しいことはよく分かっていないのですが、漢文の素養があるらしいことから、男性ではないかと言われています。

ぜひ原典を読んでみたいという方は、注と訳が充実しているので、今回紹介する全集もおすすめですが、手に入りやすいという点では、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスが、一番いいでしょう。

竹取物語(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)/角川書店

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また、角川文庫には星新一の、新潮文庫には川端康成の訳が収録されているので、訳で読みたい方はぜひそちらを。星新一の訳は軽みがあり、川端康成の訳はしっとりとしていて、それぞれに味があります。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 いまはむかし、たけとりの翁といふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一すぢありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。(17ページ)


竹を取り、様々なものを作って暮らしていた、たけとりの翁(さぬきのみやつこ)はある時、根元が光る竹の中に三寸(約九センチ)ほどのかわいらしい人を見つけました。妻と一緒に育てることにします。

育て始めてから、不思議なことが起こりました。竹を取ると中から黄金が出ることがあったのです。そしてどんなに気分が悪くても、その子を見ると気分が治まるのでした。三か月で一人前の姿になります。

成人のお祝いをし、御室戸斎部(みむろどいむべ)の秋田を招いて、「なよ竹のかぐや姫」と名付けてもらいました。宴が開かれると、かぐや姫の美しさの噂を耳にした求婚者がやって来るようになります。

かぐや姫は求婚者を相手にしようとしないので、諦める者たちも多かったのですが、決して諦めようとしない五人の求婚者が残りました。

石作(いしつくり)の皇子、くらもちの皇子、右大臣阿部御主人(あべのみうし)、大納言大伴御行(おおとものみゆき)、中納言石上麿足(いそのかみのまろたり)の五人で返事がなくともやって来ます。

翁は自分はもう七十を越えた明日をも知れぬ身だからと、かぐや姫に結婚を促すのでした。やむをえず、かぐや姫は五人の内で最も愛情をしめしてくれた人と結婚すると約束して、それぞれ条件を出します。

 かぐや姫、石作の皇子には、「仏の御石の鉢といふ物あり。それを取りて賜へ」といふ。くらもちの皇子には、「東の海に蓬莱といふ山あるなり。それに、銀を根とし、金を茎とし、白き玉を実として立てる木あり。それ一枝折りて賜はらむ」といふ。いま一人には、「唐土にある火鼠の皮衣を賜へ」。大伴の大納言には、「龍の頸に五色に光る玉あり。それを取りて賜へ」。石上の中納言には、「燕の持たる子安の貝取りて賜へ」といふ。(24ページ)


お釈迦さまが持っていたという光る鉢の仏の御石の鉢、銀の根と金の茎と白玉の実を持つ蓬莱の玉の枝、火で決して燃えない火鼠の皮衣、龍の首にあるという五色の珠、燕が持っているという燕の子安貝。

かぐや姫は五人それぞれに、この世に二つとはない宝とされている伝説の品を持って来るように言ったのでした。石作の皇子は、初めから諦めていて、三年経った時に大和の山寺にあった鉢を持ってきます。

しかし、当然ながら本物ならあるはずの光がないので、自分がどんなに苦労したかの歌を送った石作の皇子は、かぐや姫から鋭い皮肉のこめられた歌を返されて、ほうほうの体で逃げ出して行ったのでした。

くらもちの皇子は素晴らしい腕前の職人をやとい、金銀財宝で蓬莱の玉の枝を作らせることにします。伝説の通りの品が完成したので、それを持ってやって来ました。翁は大喜びで、床入りの支度をします。

くらもちの皇子から、蓬莱の玉の枝を手に入れるまでの冒険譚を聞かされていたかぐや姫は結婚が決まったと思い、絶望的な心境で……。

阿部御主人は大金をはたいて、人に頼んで火鼠の皮衣を探させました。ようやく手に入れたのは、金色に輝く美しい布。本当に火をつけても燃えないかどうか、かぐや姫は燃やしてみるように言って……。

腕に覚えのある大伴御行は、家中の家臣を集めて、龍の首にある五色の玉を取るため、自ら海へと出かけていきました。しかし船はなにかの祟りかと思われるほどの激しい嵐に巻き込まれることとなり……。

石上麿足は高い足場を作って、燕の巣から子安貝を取らせようとしていました。人が見ると消えてしまうという子安貝。家来ではうまくいかず、ついに自ら挑戦し、それらしきものを手でつかみますが……。

やがてかぐや姫の噂は帝の耳にも入りました。かぐや姫は帝の元へ行くことは拒みますが、三年ほど親しい手紙のやり取りをします。そしていつしかかぐや姫は何故か月を見ると嘆くようになったのでした。

 かぐや姫の在る所にいたりて、見れば、なほ物思へる気色なり。これを見て、「あが仏、何事思ひたまふぞ。思すらむこと、何事ぞ」といへば、「思ふこともなし。物なむ心細くおぼゆる」といへば、翁「月な見たまひそ。これ見たまへば、物思す気色はあるぞ」といへば、「いかで月を見ではあらむ」とて、なほ月いづれば、いでゐつつ嘆き思へり。夕やみには、物思はぬ気色なり。月のほどになりぬれば、なほ時々はうち嘆き、泣きなどす。これを、使ふ者ども、「なほ物思すことあるべし」と、ささやけど、親をはじめて、何事とも知らず。(64~65ページ)


憂いている様子のかぐや姫に翁が何を悩んでいるか尋ねてもただ心細い感じがするとだけ答えるかぐや姫。翁は月を見なければいいと言いますが、かぐや姫はどうして見ないでいられるでしょうと答えます。

夕方はなんともないのに月が出ると涙に暮れるかぐや姫の嘆きの理由を誰も知りませんでしたが、ついに明かされる時がやって来て……。

はたして、かぐや姫が月を見て嘆いていたその理由とは一体!?

とまあそんなお話です。まあもうみなさんあらすじはご存知の作品ですよね。ただ、原典には和歌の贈答があり、この和歌が結構皮肉が聞いていて面白いことと、様々な語の由来が出てくる魅力があります。

たとえば、石作の皇子が、偽物の鉢を捨ててからもあつかましく言い寄ったことから、恥を恥とも感じない鉄面皮のことをさす「はぢをすつ」(鉢を捨つ/恥を捨つの掛詞)が生まれたと書かれていました。

本当か嘘かは分かりませんが、ともかくそれぞれのエピソードの最後がそうした語の由来で終わっていて、中でも、帝とのエピソードがとても印象深いんですよ。これは映画にはなかったので、ぜひ原典で。

五人の求婚者は、それぞれアプローチが違っていて面白いですが、特に思わず笑ってしまうのが、くらもちの皇子の話。偽物を作らせておきながら、あそこまで嘘の話をでっちあげられるのはすごいですよ。

蓬莱の山で出会った「我が名はうかんるり」と名乗る天女の話をしたりするんです。大袈裟でいかにも嘘くさい話なんですが、蓬莱の玉の枝が偽物であると気が付かなければ、その話を信じる他ありません。

それだけにかぐや姫は最大に追いつめられて、ついには結婚を覚悟してしまったほど。その後で何が起こるのか、注目してみてください。

知っているようで意外と知らないのが日本の古典というもの。興味を持った方は映画を観たり本を読んだりしてみてはいかがでしょうか。

明日は、谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』を紹介する予定です。

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

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涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)/角川書店

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谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)を読みました。「涼宮ハルヒ」シリーズの第一巻です。イラストは、いとうのいぢ。

「ライトノベル」を定義するのは結構難しいものですが、鮮やかな色彩の表紙を中心に、アニメ風のイラストが印象的に使われている、読みやすい小説と言うのが、とりあえずの共通認識だろうと思います。

レーベルで見分けるというのも結構いい手段で「ライトノベル」レーベルには電撃文庫、角川スニーカー文庫、ガガガ文庫、MF文庫J、ファミ通文庫、富士見ファンタジア文庫、GA文庫などがあります。

最近わりとよくあるのが、乙一や有川浩、冲方丁の「ライトノベル」レーベルの作品が単行本など別形態でイラストをなくして再発売されること。それを「ライトノベル」と呼べるかは、結構微妙ですよね。

なので、レーベルで見分けるのはある程度有効な見分け方なのですが、そうすると講談社ノベルズから出た西尾維新の「戯言シリーズ」は、「ライトノベル」なのかどうなのかということになるわけです。

そんな風に、定義しようとするとなかなか厄介なのですが、ともかく若者を中心に絶大な人気のある「ライトノベル」を、平安時代の古典と交互という形でとりあえず五作品ほど紹介してみようと思います。

「ライトノベル」の大きな特徴として、元々イラストが多用されていることもあって、マンガやアニメになりやすいことがあります。そうしたメディアミックスで評判になったのが、「涼宮ハルヒ」でした。

意外に思われるかどうか分かりませんが、「涼宮ハルヒ」を題材にした授業が、大学の文学部で普通に行われていましたよ。単に話題作というだけでなく、それだけ興味深いテーマを内包した作品なんです。

ゼロ年代(2000~2009年)にサブカルチャー(マンガ、アニメ、ゲームなど)を中心に話題になったキーワードが「セカイ系」。

「セカイ系」もこれまた定義が難しいのですが、今までの物語というか普通の物語では、登場人物は世界の中にいる一人なわけです。極端なことを言えばたとえ登場人物が死んでも世界は何も変わりません。

ところが、ゼロ年代には、描かれるのは登場人物の日常生活でありながらも、それが世界そのものと繋がっていて、登場人物の行動や心理の動きによって、世界の崩壊が起こりかねない物語が生まれました。

「セカイ系」は『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が大きいと言われていて、世界の危機に立ち向かう少年少女が描かれることも多いですが、村上春樹の作品などを含めて、幅広く語られることもあります。

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本来なら自分と世界の間に存在するはずの社会が描かれていないと批判もされる「セカイ系」ですが、自分のトラウマや行動が世界の動きそのものと直結している物語は多くの読者の共感を呼んだのでした。

さて、今回紹介する『涼宮ハルヒの憂鬱』は「SOS団」というクラブを作ったちょっとおかしな涼宮ハルヒに振り回される〈俺〉の物語で、ユニークなキャラクターたちが登場するよくある学園コメディ。

しかし、それでいて「SOS団」と世界の繋がり方は極めて異質なもので、荒唐無稽ながら哲学的に考えさせられる内容になっています。

作品のあらすじ


山の上にある県立高校へ進学した〈俺〉が、無難な自己紹介を終えてほっとしながら座ると、後ろの席から聞こえてきたのは仰天の発言。

「東中学出身、涼宮ハルヒ」
 ここまでは普通だった。真後ろの席を身体をよじって見るのもおっくうなので俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
 さすがに振り向いたね。
 長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、淡桃色の唇を固く引き結んだ女。
 ハルヒの白い喉がやけにまばゆかったのを覚えている。えらい美人がそこにいた。(11ページ)


中学時代から変人として名を馳せたハルヒは、本当に人間には興味がないらしく、興味のない話題で話しかけられてもまったく相手にしようとしません。おかしな奴がいるという噂は学校中に広まりました。

ハルヒが曜日によって髪型を変えていることに気が付いたことがきっかけで、〈俺〉はHR前のわずかな時間に会話をするようになりました。色んな部活に入ったけれど、望んでいたものがなかったハルヒ。

結局人間はあるもので満足するしかないと〈俺〉が言うと、ハルヒはついになければ自分で作ってしまえばいいと言い出して、〈俺〉はハルヒの新クラブ作りを手伝わされることになってしまったのでした。

ハルヒは部員が一人しかいない文芸部に目をつけ、その部室をのっとることにします。〈俺〉はその一人の部員長門有希(ながとゆき)の気持ちを気にしますが、長門は本が読めればなんでもいいとのこと。

なにをするかも分からないまま、「これから放課後、この部屋に集合ね。絶対来なさいよ。来ないと死刑だから」(54ページ)と新クラブの集合が決まり、ハルヒは童顔で巨乳の女の子を連れて来ました。

それは、朝比奈みくるという二年生で、「萌えでロリっぽいキャラ」(61ページ)が必要ということで、強引に連れて来られ、所属していた書道部を辞めさせられて新クラブに入れられてしまったのです。

こうして「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」通称「SOS団」が発足したのでした。コンピュータ研究部の部長に朝比奈さんの胸を触らせて写真を撮り、脅すことでパソコンも手に入れます。

この世の不思議の体験談を募集するホームページを作り、ハルヒと朝比奈さんでバニーガールのコスプレをして、ビラを配って宣伝活動をしましたが、学校から怒られただけで、体験談は全然集まりません。

やがて古泉一樹という転校生がやって来ると転校生というのは謎に満ちた存在に違いないとこれまたハルヒは強引に入れてしまいました。

当然のことながら、古泉から一体何をするクラブなのかと尋ねられたハルヒは不敵な笑みを浮かべて「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」(165ページ)と仰天の発言をします。

そうしてハルヒに振り回されるままに「SOS団」のよく分からない活動に参加していた〈俺〉でしたが、ある時長門から公園に呼び出されて、自宅に案内され、おかしな話を聞かされることになりました。

実は長門は人間ではなく「この銀河を統括する情報統合思年体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インダーフェース」(119ページ)だというのです。目的は涼宮ハルヒの観察。

三年前に起こった情報爆発の中心にいたのが涼宮ハルヒだったから。

そして、朝比奈さんからも思いがけない話を聞かされることとなりました。実は朝比奈さんはこの時代の人間ではなくて、それ以上過去に戻れない大きな時間振動の調査のために未来からやって来たのだと。

時空の歪みが起こったのは三年前。真ん中にいたのは、涼宮ハルヒ。

そして、やがては古泉からも〈俺〉は秘密の話を打ち明けられました。古泉は三年前からある種の超能力を持つようになった人々が集まる『機関』に属する人間で、ハルヒのことを守るために来たのだと。

 自嘲的な笑みと一緒にコーヒーを飲み込んだ古泉は不意に真顔になった。
「あなたは、世界がいつから存在していると思いますか?」
 えらくマクロな話に飛んだな。
「遥か昔にビッグバンとかいう爆発が起きてからじゃないのか」
 「そういうことになってますね。ですが我々は一つの可能性として、世界が三年前から始まったという仮説を捨てきれないのですよ」
 俺は古泉の顔を見返した。正気の沙汰とは思えんな。
「そんなわけがないだろ。俺は三年前より以前の記憶だってちゃんとあるし、親だって健在だ。ガキの頃にドブに落ちて三針縫った傷跡だってちゃんと残ってる。日本史で必死こいて覚えている歴史はどうなるんだよ」
「もし、あなたを含める全人類が、それまでの記憶を持ったまま、ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定するんですか? 三年前にこだわることもない。いまからたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されて世界が生まれ、そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠などこの世のどこにもありません」
「…………」(166~167ページ)


当然ながら、今いち彼らの言うことが信じられないまま、この世の不思議を探索する目的で、「SOS団」の面々と町をぶらついたりする〈俺〉でしたが、やがて次々と信じられない出来事が起こって……。

はたして、〈俺〉とハルヒが目にした、驚愕すべき光景とは一体!?

とまあそんなお話です。「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶ」目的で作られた「SOS団」には宇宙人と未来人と超能力者が所属していて、それというのもつまりハルヒが……という物語。

世界が五分前に作られたという仮説を否定することはできないというのは、バートランド・ラッセルの「五分前仮説」で、それが物語に組み込まれているわけですが、非常に哲学的で、興味深い話ですよね。

周りを振り回すハルヒ、いつもクールな長門、恥ずかしがりながらもコスプレが似合う朝比奈さんと、キャラクターに萌えるのもよし、世界をめぐる哲学的なテーマを考えるのもよしの作品になっています。

「ライトノベル」って聞いたことがあるけど、まだ読んだことがないなあなにか読んでみたいなあという方は、手に取ってみてはいかがでしょうか。今のところハルヒのシリーズは、11巻まで出ています。

明日は、新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』の中から、「伊勢物語」を紹介する予定です。

「伊勢物語」(新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』)

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新編日本古典文学全集 (12) 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語/小学館

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新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』(小学館)の「伊勢物語」を読みました。

今回取り上げるのは、高校の国語の授業でもお馴染みの「伊勢物語」です。おそらく教科書に載っていて有名な章段は、「一 初冠」「六 芥河」「九 東下り」「二十三 筒井筒」辺りではないでしょうか。

ぼくは国語の教員免許を取る時に、教育実習で「東下り」をやりました。予習が大変だったり、授業をするのに緊張したりしただけに「東下り」が印象に残っています。みなさんはどの章段がお好きですか?

「伊勢物語」はいつ頃できたのかはっきりしていないのですが、平安時代、9世紀か10世紀頃に作られたものではないかと言われています。和歌が中心となった物語である「歌物語」を代表する作品です。

作中の和歌は、六歌仙や三十六歌仙に数えられる歌人、在原業平(ありわらのなりひら)と関わりが深いものが多く、「伊勢物語」は在原業平を思わせる人物が主人公のゆるやかな一代記としても読めます。

折角なので、在原業平の有名な和歌を二首、紹介しておきましょう。

おそらくもっとも有名なのは、『古今和歌集』に入っている和歌で『百人一首』にもとられている「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」です。聞いたことがありますか?

ちょっと意味をとるのが難しいかもしれませんが、まるで唐紅色のくくり染めがされたかのように竜田川の川面を紅葉が彩っている情景を詠んだ歌。こんな不思議なことは神代の昔でも聞いたことがないと。

元々は「屏風歌」(屏風の絵に歌をつけたもの)ですが「伊勢物語」(「百六 龍田河」)では散策の途中見かけた風景になっています。

ではもう一首。おそらくもっとも親しまれているのは『古今和歌集』に入っている和歌で「世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし」でしょう。これは分かりやすい歌ですよね。

花見となると色々大変なことが多いものですし、もし散ってしまったらと思うと心の落ち着く暇がありません。もしも桜というものがなかったならば、春に人々の心はのどかだったろうになあという歌です。

この歌など花見でのやり取りが「伊勢物語」(「八十二 渚の院」)で描かれているので、関心のある方は、そちらを見てみてください。

さて、現代の読者であるみなさんにとって、もっとも気になることは「歌物語」である「伊勢物語」が、今読んで面白いかどうかでしょう。実際に読んでみると、意外と楽しめる作品だろうと思いますよ。

たとえば「九十四 紅葉も花も」は別れてしまった男女のお話。子供がいるので時々連絡をとりあっており、男は衣装の絵を描いてほしいなどと女に頼みごとをしたりしますが、女に新しい男ができました。

かの男、いとつらく、「おのが聞ゆることをば、いままでたまはねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、ろうじてよみてやれりける。時は秋になむありける。
  秋の夜は春日わするるものなれやかすみにきりや千重まさるらむ
となむよめりける。女、返し、
  千々の秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ
(196ページ)


つらく思った男は、頼んだことをやってくれないのはもっともなことではありながら恨みたくもなる、秋になると春のことは忘れてしまうくらい秋の霧は春の霞よりも素晴らしいのでしょうと歌を送ります。

春が自分、秋が新しい男と重なっているわけですね。それに対して女は、秋をどんなに集めても春にはかないませんと返します。ただし、紅葉もいずれは、春の花と同じように散ってしまうものだけれどと。

「紅葉も花もともにこそ散れ」は捨てられてしまうさみしさを感じさせると同時に、皮肉めいたことを言ってきた昔の男(つまりは去っていった男)に対する鋭い反撃にもなっているようで面白いですよね。

こうした男女の複雑な心理というのは、どれくらい時が経っても変わらないものなんだなあと思います。こんな風に古臭いというよりは今なお共感できるような話がたくさんあるのが「伊勢物語」なのです。

「伊勢物語」はそれぞれ独立した短い章段、百二十五段からなる物語なので、最初から読まなくても大丈夫です。どこから読んでもいいという読みやすい古典なので、気軽に読んでみてはいかがでしょうか。

出会いや別れ、身分違いの恋、旅先での恋、老女との恋など、様々なバリエーションの恋愛が歌とともに紡がれていく、そんな物語です。

作品のあらすじ


有名なものやぼくがとりわけ印象に残ったいくつかの章段を簡単に紹介していきます。興味を持った章段は原典で読んでみてくださいね。

「一 初冠」

元服したある男が奈良の春日に鷹狩に行きました。古い都に似つかわしくないほどの美しい姉妹が住んでいるのを垣間見した男は心惹かれ、着ていた狩衣(かりぎぬ)のすそを切って歌を書いて送ります。

  春日野の若むらさきのすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず
となむおひつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
  みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。(113~114ページ)


男が詠んだのは、春日野の若い紫草のように美しいあなた方に出会って、自分が着ている信夫摺(しのぶずり)の模様のように心は乱れていますという歌。その歌にはイメージを借りた元の歌がありました。

それは陸奥のしのぶもじずりの模様のようにあなたのせいで心が乱れ始めてしまったという『百人一首』にもとられた河原左大臣(源融)の歌。若き日の男が、熱情をこめた風雅な振る舞いをしたという話。

「六 芥河」

ある男が女を盗んで暗い中を逃げます。草の上の露を「かれは何ぞ」と尋ねる女。夜も更けてきたので倉に女を入れ男が戸口を守りますが、そこは鬼がいる所だったので女は食べられてしまったのでした。

女の悲鳴は雷のせいで男には届かず、夜が明けてから気が付きます。

「白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを」(118ページ)女から尋ねられた時、露と答えて自分が消えてしまっていたら、これほど悲しむことはなかったろうと男は思いました。

この話は、二条の后高子(たかいこ)が入内する前に男が盗み出した時の話で、后の兄たちが取り返して行ったのを、鬼と呼んだのです。

「九 東下り」

自分の身を無用なものだと思い込んだ男は東国へと向かいます。途中の沢でかきつばたを見かけた時に、かきつばたの五文字を句の頭に置いて歌を詠んでみてはと同行の者が言うので、男は歌を詠みました。

  から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり。(120~121ページ)


唐衣が着ているとなれるように、なれ親しんだ妻を都に置いて来たので、はるばるやって来たこの旅を悲しく思うというその歌を聞いて、みんなは乾飯の上に涙を落とし、乾飯はふやけてしまったのでした。

駿河では富士山を歌に詠み、武蔵の国と下総の国の間のすみだ河では都鳥という名だというくちばしと脚が赤い白い鳥を歌に詠んで……。

「二十三 筒井筒」

水のわき出る井の所で一緒に遊んでいた男の子と女の子がお互いに想い合って、ついに念願適って夫婦になりました。しかし女の親が亡くなったことで貧しくなり、男は別の女の元へと通うようになります。

それでも女の態度に変わりがないので、他に男が出来たのではないかと新しい女の元へ行くふりをして庭の植え込みに隠れ様子を見ます。

さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて、前栽のなかにかくれゐて、河内へいぬるかほにて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、
  風吹けば沖つしら浪たつた山夜半にや君がひとりこゆらむ
とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。(137ページ)


女が物思いに沈みながら、夜中に龍田山を越えていく自分のことを心配している歌を詠んだのを聞いた男は心を揺さぶられます。一方、次第にだらしない態度を取るようになった新しい女には幻滅して……。

「六十 花橘」

男が宮廷仕えに忙しかった時に、他の男について他国へ行ってしまった女がいました。やがて、宇佐の使いという仕事で、ある国を訪ねた所、自分の接待をする役人の妻になっていた女と、再会したのです。

男はさかなとして出された橘を手にし「さつき待つたちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする」(162ページ)五月を待って咲く橘の花の香は昔親しんだ人の袖の香りを思い出させると歌いました。

昔の夫であると気付いた女は、我が身を恥じて尼になったという話。

「六十九 狩の使」

ある男が、狩の使という仕事で伊勢の国を訪れました。親からよくもてなすように言われていたこともあり、斎宮(さいぐう。伊勢神宮に奉仕する皇女)と男はいつしか心を通わせるようになっていきます。

ある夜女が男の元を訪ねて来ますが、心打ち解けて話す間もなく、女は帰っていってしまったのでした。翌朝、女の元から歌が届きます。

  君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか
男、いといたう泣きてよめる、
  かきくらす心のやみにまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ
(173~174ページ)


あなたが来たのかわたしが行ったのか夢なのかそうでないのかという歌に対して、男は泣きながら、悲しみに心乱れて分からないから夢か現実かはどうぞ今晩やって来て確かめてほしいという歌を送ります。

しかし、人々が酒宴を催してくれたせいで会うことが適わずに……。

とまあそんなお話です。やはり教科書にのっているものがベストという感じがあって、和歌の技巧として卓越しているのは「東下り」、物語としてしみじみと面白いのは「筒井筒」になるだろうと思います。

かなり面白い構造をしているのが「芥河」。愛する女性が鬼に食べられる残酷な話だと思っていると実はそれは女性の家族が奪い返しに来たのだという話。真相は何なのか虚実入り混じる面白さがあります。

「伊勢物語」が何故「伊勢物語」というかはよく分かっていないのですが、当時は禁忌だったはずの伊勢の斎宮との恋を描いた「狩の使」が、なんらかの形で関係しているのではないかと考えられています。

「伊勢物語」の章段は、それぞれどれも数ページほどの短いものなので、興味を持った章段から気軽に読んでみてください。和歌からは普通の小説とはまた違う男女の心の動きが感じられて、面白いですよ。

明日は、筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』を紹介します。

筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』

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ビアンカ・オーバースタディ (星海社FICTIONS)/講談社

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筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』(星海社)を読みました。

「ライトノベル」のレーベルが誕生する前「ライトノベル」と重なる読者層を持っていたのは、中学生や高校生などのティーンエイジャーを読者対象にしていたジャンル「ジュブナイル」だったと思います。

最近ではわりと「ヤングアダルト」という言葉が一般的になりましたが、「ヤングアダルト」の本が小説に限らないのに対し、「ジュブナイル」はフィクションなので、よりわくわくする感じがありますね。

そして、「ジュブナイル」の中でも一際輝く名作が、タイム・リープ(時間跳躍)してしまう少女を描いた『時をかける少女』。1967年の小説ですが、アニメや映画など今なお映像化され続けています。

時をかける少女 〈新装版〉 (角川文庫)/角川書店

¥460
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作者の筒井康隆はこうした「ジュブナイル」のようにまっすぐな気持ちを描いた小説はむしろ少なくて、ラテンアメリカ文学に影響を受けた実験小説が多く、SFや純文学などのジャンルを超えた作家です。

星新一、小松左京と並んで「日本SFの御三家」と称される存在でありながら、小松左京の『日本沈没』に対抗して『日本以外全部沈没』というパロディを書くなど、ブラックなユーモアもその大きな魅力。

直球というよりは変化球勝負の作家筒井康隆に、「ジュブナイル」と共通する部分もある「ライトノベル」を書かせてみようということで生まれたのが、今回紹介する『ビアンカ・オーバースタディ』です。

カバーや中身のイラストは「涼宮ハルヒ」シリーズでお馴染みのいとうのいぢという力の入れ具合で77歳のラノベ作家が誕生しました。

当然のことながらというかなんというか、筒井康隆が「ライトノベル」らしい「ライトノベル」を書くわけもなく、いかにも「ライトノベル」風の世界を構築しながらそれを揶揄する物語になっています。

まず「ライトノベル」風として設定されているのが、登場人物。主人公は誰もが認める美少女(かわいいタイプ)のビアンカ北町。ライバル的に登場するのもこれまた美少女(きれいなタイプ)の沼田耀子。

男たちはみなビアンカや耀子に振り回され、半ば無理矢理に未来の危機を救うための実験の手伝いをさせられることとなります。美少女、振り回される男、SF的な展開とラノベ要素三拍子がそろった作品。

そうしていかにも「ライトノベル」風の物語世界を作り上げておいて、その世界そのものの異常さ、そして何よりも、「ライトノベル」を愛する読者の歪みを指摘するかのような物語展開になっています。

筒井康隆いわく、「メタラノベ」(ラノベであることをネタにしたラノベ)として読める小説ですが、そういう読み方ができる読者は限られていて、「ライトノベル」ファンにあまりおすすめはできません。

登場人物の配置としてはよく似ていても、振り回される男が主人公ではないので、「ライトノベル」的な萌えの要素はあまり感じられませんし、ストーリーとしてそれほど興味をひかれる作品でもないので。

ただ、意図的なコピー&ペーストの文体、巨大カマキリの登場、身近にいた未来人と、筒井康隆の他の作品が意図的に組み込まれている面白さはあるので、筒井康隆ファンは結構楽しめるだろうと思います。

「あの筒井康隆がラノベを書いた!」といううたい文句に興味を引かれた方はぜひ手にとってみてください。読んで損はしない一冊です。

作品のあらすじ


※ それほどでもありませんが、美少女が実験のために精子を採取するという物語なので、性的な事柄が苦手な方は、注意してください。


こんな書き出しで始まります。

 見られている。
 でも、気がつかないふりをしていよう。
 気がつかないふりをしていると思われてもかまわない。
 いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。
 実際、もう慣れっこになってしまっているし、慣れっこにされてしまっているのだ。男の子たちの視線に。みんながわたしを見る。その何かを恋い願うような視線、慕い寄るような視線、粘りつき、からみついてくるような視線に。
 わたしは知っている。わたしがこの高校でいちばん美しい、いちばん綺麗な女の子だということを。(8ページ)


〈わたし〉ビアンカ北町は、生物研究部の部室である生物学実験室に向かっていました。今もっとも夢中になっている実験はウニの生殖。ウニの精子と卵子を人工的に受精させてその様子を観察するのです。

しかし、実験をくり返す内にウニでは物足りなくなって来ました。やはり人間の受精が見てみたい。そこで閃いたのは〈わたし〉が通りかかるのをいつも本を読みながら待っている文芸部の塩崎哲也のこと。

かわいらしい後輩だと思っていた塩崎に実験への協力を求めると、快く引き受けてくれました。しかし、その頼みが精子の提供だと知るとビアンカ様の前で自分ですることなんて出来ないと言い出します。

やむをえず〈わたし〉は、無理やり襲われた時のことを想定して持ち歩いているコンドームを塩崎のものに装着して手を使って精子を出させました。顕微鏡で観察すると、新たなアイディアが湧いてきます。

翌日になると、〈わたし〉と同学年で塩崎をかわいがっている沼田耀子が実験室に押しかけて来て「あたしの哲也に何をしたんだ」(32ページ)と言いました。しかし耀子も実験のことを知ると興味津々。

それからは〈わたし〉と耀子でかわるがわる塩崎から精子を採取していましたが、次第にそれも物足りなくなってきて、他の精子とはどう違うのか比較検討してみたくなり、目をつけたのが先輩の千原信忠。

生物研究部は〈わたし〉と千原しかいないのですが、大学の研究室にいる従兄を持っていると言って、なにかと必要な道具をもらい下げて来てくれるので、頼れる存在です。千原からも精子を採取しました。

「何だかぞくぞくして。あ。君に恋する気持ちの、湧きあがるこの、砂漠。ずらずらと雪崩のように。跳ぶ。跳ぶ。寂しくて、侘しくて。原始的な。せつせつとぼくに訴えかけてくるこの何かの。深い深い。一瞬の花。もうあの。この開くような。け」
 彼は大きくのけぞった。わたしはここぞとばかり、勢いよく前後にこする。彼は次第に遠い眼になっていく。わたしの眼を覗きこみながら、わたしの顔を見ながら、ほんとはもっと遠いところを見ている眼だ。
「ビアンカ。ビアンカ。君の髪の匂いと、胸のふくらみ。もうどうしようもなく、おれはもうこれはたまらなくて。あは。あははは。あは。背骨の中から。来た。来た。下に来て、頭にも。あっ。うぬ。もう我慢。まだ。いやもっと。あ。駄目だ。ビアンカ」
 彼は両手をのばしてわたしの両方の肩をつかんだ。わたしの顔を恨めしげに睨みつけ、ぐぐ、と、咽喉を鳴らすと、そのままの姿勢で身を固くし、ひく、ひくと腰を動かした。(58~59ページ)


千原は日にやけた浅黒い顔を持つたくましい男子なのですが、意外なことに精子を観察してみると、それはとても数が少なく弱々しいものだったのでした。塩崎の精子と交ぜるととたんに攻撃され始めます。

そこで〈わたし〉ははっと閃きました。誰も見たことがない様々な実験器具を手に入れられること、遠くにしか生息していない動物を短時間で手に入れてくること、生殖能力が低下している人間であること。

「先輩って、もしかして、未来人じゃないの」(60ページ)と〈わたし〉が追及すると、千原は渋々自分が未来からやって来た人間であることを認め未来では大変なことが起こっているのだと言いました。

それは、体長が五十センチもある巨大カマキリの大量発生。巨大カマキリをなんとかするため、未来の世界では既にいなくなってしまったカマキリの天敵アフリカツメガエルを探しにこの世界へ来たのです。

〈わたし〉はどうせならアフリカツメガエルと人間を混ぜ合わせようと言ますが、塩崎が気が進まない様子をしめしたので、シュワちゃんによく似た生物研究部顧問、工藤の精子を実験に使うことにします。

ところが、人間の赤ん坊そっくりの顔のシュワちゃん蛙は予想以上の大きさとなり群れをなして飛び回り、学校はパニックとなって……。

はたして、〈わたし〉たちはこの混乱を治めることが出来るのか? そして、絶望の危機に瀕した人類の未来を救うことが出来るのか!?

とまあそんなお話です。物語の後半には〈わたし〉の妹で中学生のロッサも登場しさらなる美少女キャラクターが増えることとなります。

まあこんなエロいようなエロくないようなへんてこな話で、多少グロテスクで気持ち悪い感じがなくはない物語。後半結構盛り上がっていって、揶揄的な要素を含む「メタラノベ」の感じも増していきます。

「ライトノベル」は文庫本サイズで中のイラストは白黒というものが多いですが『ビアンカ・オーバースタディ』は単行本と同じサイズのソフトカバーで中のイラストもカラー。ちょっと豪華な感じでした。

ストーリーはともかく設定やテーマなどは面白いので、筒井康隆が書いた「メタラノベ」に興味を持った方は、手にとってみてください。

明日は、新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』の中から、「平中物語」を紹介する予定です。

「平中物語」(新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』)

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新編日本古典文学全集 (12) 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語/小学館

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新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』(小学館)の「平中物語」を読みました。

伊勢物語」が在原業平(ありわらのなりひら)を思わせる人物の物語だったように、「平中物語」は平中(へいちゅう)こと平貞文(たいらのさだぶん)を思わせる人物の様々な恋が描かれた「歌物語」。

異本(内容がやや異なるもの)もあったようですが、鎌倉時代の写本が一冊しか残されておらず、作者や成立年代などの詳しいことはよく分かっていませんが、平安中期に成立したものと考えられています。

「平中物語」自体は今ではあまり読まれていませんが、日本文学が好きな方はもしかしたら平中のことをご存じなのではないでしょうか。

『今昔物語』や『宇治拾遺集』などで「色好み」故に失敗する滑稽なキャラクターとして描かれるようになった平中は、芥川龍之介の短編「好色」や谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』などに登場するからです。

羅生門・鼻 (新潮文庫)/新潮社

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中でも印象的なのは、やはり「好色」で描かれているエピソード。想いを寄せるようになった女性が全然振り向いてくれず思い悩んだ平中。そこで想いを断ち切るためその女性の糞尿を見ようとして……。

発想がちょっともうあれな感じですが、その後おまるを奪った平中には思いも寄らないことが起こるので、興味を持った方は芥川龍之介の短編を読んでみてください。「青空文庫」でも読むことができます。

他にも、涙を流しているように見せかけようとして、水と間違って墨をつけてしまうなど、あの手この手を使う恋愛上手が故に失敗してしまう、間抜けなキャラクターとして描かれることが多いのが、平中。

ところが意外にも「平中物語」ではまだそうした滑稽なキャラクターにはなっていないんです。なので、いい時もあれば悪い時もあるという、しっとりとした恋愛の情緒を感じさせてくれる物語なのでした。

ほとんど和歌が中心になっている「伊勢物語」と比べると、「平中物語」はより物語的な色彩が強く、それだけに非常に面白かったです。

そして、もう一つの大きな特徴が、恋愛だけではなく友情も描かれていること。恋愛もいいですが、友情というのもなんだかぐっと来ていいものなんですよねえ。実際に平中は歌人の友達が多かったようで。

友情を感じさせてくれる場面としては、たとえば冒頭にこんな場面があります。恋愛がうまくいかずに平中はとにかく心沈んでいました。

 さて、またの夜の、月世に知らずおもしろきに、よろづのことおぼえて、簀子にいでゐて、空をながめけるほどに、夜のふけゆけば、風はいと心細く吹きて、苦しきまでおぼえければ、もののゆゑ知れる友だちのもとに、寝で月は見るらむと思ひていひやる。
  嘆きつつ空なる月をながむればなみだぞ天の川とながるる
とてやりたりければ、かのやりたりける人も、たまさかに思ひてやりたりけるに、やうに月見るとて、まだ寝でぞあるに、かかるに持て来たれば、いとをかしみて、返しす。
  天の川君がなみだの水ならばいろことにてや落ちたぎるらむ
(453~454ページ)


ある夜、月が美しいので板敷の縁側から眺めていると、風がさびしく吹いて心がしめつけられるような思いがします。そこで友達に、嘆きながら空を見ていると天の川のように涙が流れると歌を送りました。

すると向こうもたまたま月を見ていて、天の川があなたの涙なら、苦しみのあまりあふれる血の涙の色で、滝のように激しく流れることでしょうと、気持ちを理解し、慰めてくれる歌を返してくれたのです。

落ち込んでいる時に味方になり、励ましてくれる友達がいるのはとてもいいものですよね。今ならメールや電話、あるいはSNSで、わりと簡単に繋がれますが、相手が何をしているか分からない平安時代。

それにもかかわらず自分が見ていた月を相手もたまたま一緒に眺めていたなんてすごいことですよ。風情があっていいですよね。きっと花鳥風月の情緒を解する相手だからこそ、友情が生まれたのでしょう。

他にも春雨について歌い、変わらぬ友情を誓い合う「五 友」など、友情をテーマにした章段がいくつかあって、それが微笑ましいというかなんというか、今とは少し違った友情の形を、面白く感じました。

作品のあらすじ


では、印象に残ったいくつかの章段を簡単に紹介していきましょう。

「一 恋の禍」

二人の男が一人の女を取り合いました。女が選んだのは、帝の母后の血筋ながら官職は低い方の男。初めの男は恨みに思って帝にその男の中傷を始め、その男は結局官職を取り上げられてしまったのでした。

心寂しく思うことばかりで、男は仏道修行の道に入りたいと言うようになりましたが、親は正月に行われる司召(つかさめし。官職を任命する儀式)で駄目だったなら、どこへでも行きなさいと言って……。

「九 ある恋のてんまつ」

恋にたくみなことで名高いこの男の噂を聞いて、歌を送ってきた女がありました。面白く思った男とその女の関係は深まっていきますが、やがて男は、難波の方へ遠出をしに行きたいと思うようになります。

 かくてありわたるに、逍遙せまほしかりければ、難波の方へぞいきける。「そのほど、たひらかにものしたまへ。これは、但馬の国より持て来たるたにもかくといふものをやる」とて、
  かたときの別れだにかくわびしきを
といひたれば、女、
「ゆき帰るまにわれは消ぬべし
さらば」などいひて、また、女
  難波潟満つ潮のはやく来ねどまばみの泡たへず消ぬべし
男、返し、
  干る潮の満ち返る間に消ぬべくはなにか難波の潟をだに見む
といひて、難波へもいかず、あはれがりて、とどまりぬ。
(472ページ)


但馬の国の「たにもかく」(ひきがえる)を置いていくと言う男。「但馬の国のたにもかく」→「たぢまぢのかへる」→「たちまちかへる」のしゃれ。「別れだにかく」にも、「たにかく」を潜ませます。

待ちきれずに焦がれ死にしてしまうという返事の「帰るまに」に女は「かへる」を潜ませ、難波潟の満ち潮のように早く帰ってくれなければわたしは泡のように死んでしまうことでしょうと歌を送りました。

男は、潮が満ち引きする間にでも死んでしまうというくらいなら、どうして難波の潟を見る必要があるだろうかと返歌をし、女をいとしく思って、京にとどまったのでした。しかし、やがて心は離れて……。

「十八 たよれぬ文使い」

ある時男は、さだかではないものの、なんとか繋がりが持てそうな人を仲立ちにして、身分の高い姫君に恋をしかけます。ところがどれだけ想いを込めた歌や恋文を送っても、返事は返って来ないのでした。

どうなっているのだろうといぶかしく思っていると、実は、姫君は字が下手で、歌も詠めないために返事がなかったのだと分かって……。

「十九 菊盗人」

男は菊作りの名人で庭の植込みには美しい菊が咲いていました。するとさる女房たちがやって来て菊が欲しそうな和歌を残していきます。

これはいい出会いのきっかけだと思い、返歌を残してその女房たちが取りに来るのを待っていたのですが、知らぬ間に菊を取っていかれてしまい、交際に発展しなかったのでがっかりしてしまったのでした。

「二十五 歌のしるべ」

志賀寺へお参りに行く途中、逢坂の関で、同じく志賀寺へ向かう女車と出くわします。和歌のやり取りをして女と再会を誓いますが、女は男のよからぬ噂を聞いて、それきり連絡を絶ってしまったのでした。

女のことを忘れられない男が、女が送ってくれた和歌を歌っていると女がそれを聞きつけたことで、偶然、朱雀大路で再会をはたします。

さて、夜、やうやう暁がたになりにければ、この女「いまはいなむ」とて、「ゆめ、今宵だに、また、人にかかりとな、うつつとはさらに」とて、
  秋の夜の夢ははかなくあふといふを
といへば、男、
  春にかへりて正しかるらむ
といひけるほどに、すくすくあかくなりにければ、「いまは、はや、おはせむところへおはしね」といへば、この女の入らむところを見むとて、男いかざりければ、女、家を見せじと思ひて、せちに怨じけり。されば、かくなむ。
  ことならば明かしはててよ衣でに降れる涙の色も見すべく
返し、
  衣でに降れる涙の色見むと明かさばわれもあらはれねとや
(500ページ)


夜が明けていくので女は帰ろうとし、今宵のことは人には言わないでと言い、秋の夜の夢のはかなさを口にします。男は春になれば正夢になると言いました。明るくなってきたので女は男を帰そうとします。

しかし男は女の住む所を確かめたいと思い、どうせならわたしの袖を濡らす血のような涙の色が見えるほど明るくなればいいと歌います。

一方女は、袖の涙の色が分かるほど明るくなるまでいれば、わたしのことも世間に分かってしまうという歌を返したのでした。男は童に女の入る家を確かめて来いと言い残して帰ることにしたのですが……。

「二十七 親の守る人」

男がある女に恋文を送り始めますが、その女の母親の監視が厳しくてうまくいきません。そこで親戚の女が協力をしてくれることになり、その母親の部屋で琴を弾いている間に、女と会うことが出来ました。

ところがその母親が「あな、さがな。などて寝られざらむ。もし、あややある」(503ページ)どうして寝られないのだろう何かあるかもしれないと言って起き出して来たのでさあ大変。慌てて隠れます。

なんとかことなきをえましたが、声を聞きつけて「いづこなりし盗人の鬼の、わが子をば、からむ」(504ページ)どこにいたのだ盗人の鬼めが、わたしの子供を捕まえようとしてと追いかけて来て……。

「二十八 名を借りられる」

男は知り合いの女房から新しい恋人についてあてこすりを言われますが、身に覚えのないことだったので不思議に思い「なほ、うかがひても見よ」(505ページ)引き続き様子を見ているように言います。

注意深く様子を伺うと男の名を語る別人であることが分かって……。

「三十四 目に見す見す」

自分が通っている女がどうやら高貴な男ともやり取りをしているらしいことに気付き男は歌で文句を言いますが、女は「里へいでぬ」(518ページ)実家へ帰りましたと言い返事も来なくなりました。

やがて、その女の家の辺りを通ると、供をたくさんつれた貴公子を格子戸を押し上げて送り出している所。男はつらく情けなく思います。

この男、かう、うつつに見つることの心憂きことと思ひて、よに知らず心憂かりけれど、もの一言をだにいはむ、さても、はた、見けりとこそは思はれめとて、板敷の端に立ち寄りて、声高く「あな、おもしろの花や」といへば、この女、奥へも入りはてざりければ、あやしがりて、さしのぞきたり。見合はせて、「いかがかは、ここに、かうは」といへば、「この前栽の花の、見す見すうつろふ、見はてになむ、まゐり来つる」とぞいひける。その家の前に、桜のいとおもしろく咲きて、春のはてがたにやありけむ、散りけり。それを見て、男、
  あらはなることあらがふな桜花春をかぎりと散るは見えつつ
といひて、ふといでてゆきければ、「えこそ。しばしや」といひけれど、いとかう憂しと思ひて、とまらざりければ、しひてかくなむ。
  色にいでてあだに見ゆとも桜花風し吹かずは散らじとぞ思ふ
といへりけれど、「ものへいでぬ」とて、返りこともえざりけり。
(519~520ページ)


随分つらいけれど、現場を見たとだけは知らせたいと思って、男はああ、きれいな花だなあと声をあげ、女がどうしてここにいるのかと慌てると、庭前の花が散っていくのを見届けるために来たと言います。

男は、二人の仲が終わったことを知らせるように、春の終わりをつげて桜の花が散っていると歌いました。女は待ってと追いすがり、うつろいやすい花でも、風さえ吹かなければ散ることはないと歌います。

身分の高い人に言いよられたらどうしようもない身だと、風に吹かれる花にたとえたのでした。男は留守だと言わせて返事もせずに……。

「三十八 尼になる人」

市に出かけ受領の娘を見初めた男。しかし、翌朝送る決まりの後朝(きぬぎぬ)の文もなければ、三日間通ってくるのが結婚の作法なのに、とんと訪れがありません。悲観した娘はついに尼になりました。

ところが実は、男が行けなかったのには、様々な事情があって……。

とまあそんなお話です。平中は身分がそれほど高くはないので、恋の相手もおのずから女房などの、それほど身分が高くない相手になるのが、「伊勢物語」や『源氏物語』とは大きく違うところになります。

貴公子の物語ではあまり語られることのない、どたばたした様子が描かれることもあって、後には滑稽譚へと発展していったのでしょう。

どの章段もいつの時代も男女の仲の複雑さは変わらないものだなあと思わされるものばかりですが、特に「目に見す見す」などはもうまさに現代の不倫劇となんら変わる所がない感じがあって面白いですね。

和歌の面白さというのは相手の歌の句を取り込んで返したりする所。そういった意味でとりわけ興味深いのが「ある恋のてんまつ」でした。ざっくばらんに言ってしまえば、かえるを使った駄洒落の応酬。

現代だったらなに寒いこと言ってんだと思われそうなやり取りですがさすが平安時代なだけにどことなく風流な感じがあっていいですね。

それぞれの章段は短く、独立した話ばかりなので、興味を持った所から読んでみてください。「平中物語」なかなかに面白かったですよ。

明日は、平坂読『僕は友達が少ない』を紹介する予定です。

平坂読『僕は友達が少ない』

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僕は友達が少ない (MF文庫J)/メディアファクトリー

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平坂読『僕は友達が少ない』(MF文庫J)を読みました。

タイトル通り友達がまったくいない主人公が、美少女ながら同じく友達がまったくいないヒロインたちと友達を作るためのクラブ「隣人部」を作って日々を過ごす、まさにザ・王道「ライトノベル」です。

背表紙のキャッチコピーは「残念系青春ラブコメディ」。2月1日から瀬戸康史と北乃きい主演の映画版も公開になる大ヒット作ですね。

売れれば何巻にも及ぶシリーズになるのが当たり前ということからも分かるように「ライトノベル」はストーリーよりもキャラクターがむしろ重要。そしてこの小説もキャラクターに何より魅力があります。

まず主人公の〈俺〉長瀬川小鷹は真面目でいい奴にもかかわらずイギリス人の母を持つハーフで見た目はどう見てもヤンキーなんですね。

地毛なのにその髪の色は「ワルぶった高校生が金髪にしたかったけどちゃんと美容院で染めてもらうお金がなくてとりあえず市販のスプレーで染めたら案の定失敗してしまった」(46ページ)感じだから。

おかげで何もしていないのに周りから怖がられてしまい、恐るべきヤンキーとしての伝説だけが一人歩きしてずっと友達は出来ないまま。

なかなかに面白い設定ですよね。これほど分かりやすいことはないでしょうけども、見た目で周りから誤解されてしまうということは誰にでも起こりうることなので、感情移入がしやすい設定だと思います。

そんな〈俺〉が出会うことになるのが、美しい黒髪を持つ美少女ながらやはり友達がおらず空想上の友達と話していた三日月夜空と、金髪碧眼の美少女で成績優秀スポーツ万能ただし友達はいない柏崎星奈。

はたから見ればうらやましいハーレム状態ですが、夜空と星奈は友達がいないだけに屈折した性格なので、〈俺〉は振り回され、苦しめられ続けます。それでも時折二人から思わぬ気持ちが垣間見えて……。

「ツンデレなヒロイン」「一風変わった妹」「メイド服」など様々な萌え要素が詰め込まれた作品。短い話の詰め合わせという感じなので、ストーリーの面白さはさほどありませんが、設定が面白い一冊。

ところで、2010年にニュースになったのが東京大学の駒場キャンパス生協の文庫本売り上げ1位が『僕は友達が少ない』の4巻だったこと。東大生が「ライトノベル」を読んでいると話題になりました。

ただ、考えてみれば、勉強などなにかに秀でたものを持ちながら、人間関係がうまくいかずに悩んでいるという人が惹きつけられるタイトルと内容の小説だと思うんですよ。特に、友達がうまく作れない人。

物語では、友達がいないという共通の悩みを抱える〈俺〉と三日月夜空が友達はどうやったら作れるのか、その方法を真剣に相談します。

 再び沈黙。
「……普通に友達になろうって言うのは?」
 俺が言うと三日月は「ふん」と鼻を鳴らした。
「そういうのはドラマとかでたまに見るけど、よくわからないのだ。友達になろうと言って相手に承諾されたらその瞬間から友人関係が成立するのか? これまでほとんど喋ったこともない者同士でも? 友達になることを承諾されて以降まったく会話しなくても友達状態は続いてると判断していいのか?」
「……まあ、そういうのがしっくりこないのは俺も同じなんだけどな」
「だろう? あ、そうだ」
 三日月がぽんと手を叩いた。
「何か名案でも?」
「うん」
 自信ありげに頷く。
「お金をあげて友達になってもらうというのはどうだ? ただの口約束よりも現実的な拘束力がありそうだろう」
「寂しすぎるだろそれは!」(38~39ページ)


そう言われてみれば、確かにどこからが友達でどこからが友達でないのかというのは難しい問題ですよね。友達と思えれば友達でしょうが、そう思える相手すら見つからない場合一体どうすればよいのか。

そうした悩みを解決してくれる小説でもないのですが、地味に友達がいないことが描かれる物語ではなく、とにかくど派手に友達がいないことが描かれる物語なので、読んでいて楽しい作品になっています。

堂々と友達がいないことが語られるので、小さなことで悩んでいるのが馬鹿らしくなる、そういう楽しさがある小説なのかも知れません。

作品のあらすじ


カトリック系のキリスト教学校(ミッションスクール)、聖クロニカ学園二年五組に転校して来た〈俺〉長瀬川小鷹。ハーフだから金髪なのに、その強面の影響もあってまわりからヤンキーだと思われがち。

おまけに単にバスを乗り間違えただけなのですが、初日に遅刻したことが反抗的な態度を取る生徒だと思われ、転校して来てから一ヶ月が経つのに、いまだに友達どころか、会話をする相手すら出来ません。

その日の放課後も一人で図書室で過ごし、体操服を忘れたことに気づいて教室に取りに戻りました。教室からは楽しそうな話し声が聞こえて来ます。一人分の声なので、どうやら電話をしているようでした。

 どうしようかなあ……電話が終わって彼女が教室を去るまで待つべきか……。
 いや待て、べつにやましいことがあるわけじゃない。堂々と入ってさっさと忘れ物を回収して出て行けばそれで済む話じゃないか。
 そんなことを考えつつ、俺はそっと教室の扉を少しだけ開いた。
 教室の中には一人の女子生徒がいた。
 窓を開けて桟に腰掛け、夕陽に染まる白い足をぱたぱたさせながら楽しげに談笑している。
 夕風になびく藍色がかった黒髪。
 背は高くもなく、かなり細身。
 やたら整った顔立ちの、いわゆるひとつの美少女である。
 名前はたしか――三日月夜空。
 人の名前と顔を覚えるのがかなり苦手で、同級生の男子はともかく女子の名前と顔はまだ数人しか一致していない俺だったが、それでも彼女のことは印象に残っていた。(27ページ)


教室ではいつも不機嫌オーラを出している三日月の明るい様子を見て意外に思いましたが、なによりびっくりしたのは、三日月が携帯電話を持っていなかったこと。そう、三日月は一人で喋っていたのです。

〈俺〉は幽霊が見える少女なのかと思いましたが、三日月は「私は友達と話していただけだ。エア友達と!」(32ページ)と、自分で作り上げた友達トモちゃんと楽しく会話をしていたのだと言いました。

そうして思いがけず友達がいないことで意気投合してしまった〈俺〉と三日月。二人とも友達がいないのが嫌なのではなく、友達がいない人間として見られることが何より嫌だと思っている所も似ています。

どうしたら友達が出来るかを相談し合って、自然に交流が深まるであろう部活動が一番いいという案が出ましたが、すでに人間関係が作り上げられたグループには入れないという結論に至ってしまいました。

翌日の昼休み。三日月から、今ある部活に入れないのならばいっそ新しく作ってしまえばいいと、「隣人部」という新たな部活を作ったことを告げられます。いつの間にか〈俺〉も入部させられていました。

「キリスト教の精神に則り、同じ学校に通う仲間の善き隣人となり友誼を深めるべく、誠心誠意、臨機応変に切磋琢磨する」(53ページ)という目的が一応掲げられたいかにもうさんくさい部活動です。

へたくそな絵の部員募集ポスターにはある言葉が隠されていました。

 文字を左上から右下に向かって読んでいくとこうなる。
 『と』にかく臨機応変に隣人
 と『も』善き関係を築くべく
 から『だ』と心を健全に鍛え
 たびだ『ち』のその日まで、
 共に想い『募』らせ励まし合い
 皆の信望を『集』める人間になろう!

 ともだち募集           (63~64ページ)


そんな言葉に誰が気付くだろうかと思っていましたが、礼拝堂(チャペル)の「談話室4」が与えられた部室に、早速入部希望者がやって来ました。金髪碧眼の美少女で、理事長の娘、二年三組の柏崎星奈。

しかし、三日月は「リア充は死ね!」(73ページ)と追い返してしまいます。容姿端麗、スポーツ万能、成績優秀と三拍子そろった柏崎には、憧れを胸に抱くたくさんの男子の取り巻きがいるからでした。

閉め出されても諦めなかった柏崎はどうやったのか窓の方に回り、そこから入ろうとドンドン窓を叩きます。そして「あたしも友達がほしいのよ!」(76ページ)と思いがけないことを口にしたのでした。

実は柏崎は、男子の取り巻きならいますが、それだけに同性から反感を買いやすく、友達と言えるような女の子は、一人もいなかったのです。なので、ポスターを見てすぐにメッセージに気付いたのでした。

こうして友達を作るための部活動「隣人部」は動き出し、一体どうやったら友達が出来るのか、様々な作戦を立てていくこととなります。

三日月は、ファミレスで遊んでいる高校生たちを見たと言い、友達と言えばゲームだろうと言い出します。そこで、プレイングステイツポータブル(PSP)の流行のゲームをやってみることになりました。

「モンスター狩人」通称「モン狩」です。ゲームをする上で必要なアイテムの交換などをすれば、自然にコミュニケーションがとれると。

そこで早速、〈俺〉、三日月、柏崎の三人はゲームを用意して、プレイし始めたのですが、なにかとぶつかりあう三日月と柏崎は操作をミスったと言ってはお互いのキャラクターを攻撃し始めてしまい……。

はたして、「隣人部」は、ちゃんと友達を作ることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。主要キャラ三人だけでも相当アクが強いのにどんどん新キャラが投入されていくからものすごい。ゴスロリの衣装を身にまとう中学二年の妹の小鳩は何故か悪魔になりきっています。

ずっと変な口調で喋り、たとえばおなかがすいた時なら「今の我は血に飢えている……ククク……早く生贄を差し出さねば汝に災いが降りかかることになろう……」(164ページ)とか言い出すんですね。

「真の男」を目指して、ヤンキーに見える〈俺〉を慕う楠幸村という後輩のキャラも面白くて、それらの濃いキャラは、読者の好き嫌いが分かれる所だと思いますが、突き抜けているだけに面白かったです。

ストーリーの魅力はあまりないので「ライトノベル」を読み慣れていない方におすすめかどうかは微妙ですが、キャラクターの魅力という「ライトノベル」らしさがある作品でした。興味を持った方はぜひ。

明日は、間に合えば、またなにかしらの古典を紹介する予定です。

「大和物語」(新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』)

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新編日本古典文学全集 (12) 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語/小学館

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新編日本古典文学全集『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』(小学館)の「大和物語」を読みました。

今回紹介する「大和物語」もまた「伊勢物語」や「平中物語」と同じように、平安時代中期に成立したとされる、歌が中心となった「歌物語」です。ただ、一人の主人公の物語でないことが大きく違います。

伊勢物語」は在原業平(ありわらのなりひら)、「平中物語」は平中(へいちゅう)こと平貞文(たいらのさだぶん)を思わせる男のゆるやかな一代記と読める作品で、様々な形の恋が描かれていました。

「大和物語」は、その性質が前半と後半で大きく分かれているのですが、前半では亭子の帝(ていじのみかど。宇多天皇・法皇)の宮廷にかかわる物語が描かれていきます。章段ごとに主人公は違うのです。

恋というよりは、生老病死(しょうろうびょうし。生きていく上での四つの苦しみ)がテーマという感じがあって、「伊勢物語」や「平中物語」とはまた違った人生の側面が描かれていく面白さがあります。

たとえば、「三十二 武蔵野の草」にはこんなエピソードがありました。右京の太夫が自分の気持ちを込めて、亭子の帝に歌を奉ります。

亭子の帝に、右京の大夫が詠んで奉った歌。
  あはれてふ人もあるべくむさしの野の草とだにこそ生ふべかりけれ
また、
  時雨のみ降る山里の木のしたはをる人からもやもりすぎぬらむ
とありければ、かへりみたまはぬ心ばへなりけり。
(275ページ)


人の心を動かすような武蔵野の草になって生えてくればよかったという歌と誰かが枝を折ったせいか山里の木の下では雨もりがし続けているという歌。自分の存在に気付いてほしい、辛い境遇にいるからと。

つまり、さりげなく官位昇進を願う歌を奉ったわけですが、結果はというと亭子の帝は僧都の君(そうづのきみ。僧正につぐ僧官)にどういう意味だろうと尋ねたとあり、気持ちは伝わらなかったのでした。

この話はひとりよがりの右京の大夫の滑稽さをあらわす話でもありますが、同時に、むくわれない人生のつらさを巧みに描き出していて、恋を描いた「歌物語」とはまた違ったしみじみとした趣があります。

こんな風に亭子の帝に仕える人々の人生の、ちょっとした出来事が綴られていくのが前半の百四十段まで。そして、そこから最後の百七十二段まではがらりと雰囲気が変わって説話的な物語になっています。

説話とは昔話や伝説のこと。「大和物語」の後半は古い時代の物語が歌とともに語られていくことになるのです。特に有名なのが、「百五十六 姥捨」。そう、おば捨て山(うば捨て山とも)のお話ですね。

信濃の国の更級に一人の男が住んでいたのですが、妻が男の年老いた伯母を嫌うようになりました。妻に言われて男は寺の法会に連れていってやると騙し、その年老いた伯母を背負って山へ向かったのです。

高き山のふもとにすみければ、その山にはるはると入りて、高き山の峰の、おり来べくもあらぬに、置きて逃げて来ぬ。「やや」といへど、いらへもせで、逃げて家に来て思ひをるに、いひ腹立てけるをりは、腹立ててかくしつれど、年ごろ親のごと養ひつつあひ添ひにければ、いと悲しくおぼえけり。この山の上より、月もいとかぎりなくあかくいでたるをながめて、夜もひと夜、いも寝られず、悲しうおぼえければ、かくよみたりける。
  わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山に照る月を見て
とよみてなむ、またいきて迎へもてきにける。それよりのちなむ、をばすて山といひける。なぐさめがたしとは、これがよしになむありける。(391~392ページ)


高い山にはるばる入っていって、呼びかける声も聞かずに、山の峰に置き去りにして帰って来ました。しかし、長年親のように養ってくれた伯母なので、妻に言われた時は納得したものの、悲しくなります。

眠ることも出来ずに、更級のおば捨て山を照らす月を見ていると心を慰めることができないと歌を詠むと迎えに行って、連れ帰ったのでした。そうしてこの山はおば捨山と言われるようになったというお話。

おば捨て山の話には様々なバリエーションがありますが、これはハッピーエンドなのでよかったですね。民話などでは、老母が知恵を出して難題を解いて、お年寄りの大切さが分かるというものもあります。

ところで、おば捨て山をテーマにして書かれた小説の白眉が深沢七郎の「楢山節考」。とことんリアルな筆致に圧倒されること請け合いの作品なので、興味にある方はあわせて読むとより楽しめるでしょう。

楢山節考 (新潮文庫)/新潮社

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「大和物語」は亭子の帝時代の宮廷の雰囲気を感じさせてくれる前半と説話からなる後半を持つ、言わば一冊で二度楽しい「歌物語」。特に説話は意外と知らないものが多かったので、興味深く読みました。

作品のあらすじ


では、印象に残ったいくつかの章段を簡単に紹介していきましょう。

「一 亭子の院」

宇多天皇の譲位が決まると、伊勢の御(宇多天皇の寵愛を受けて皇子を産んだ、三十六歌仙の一人)は弘徽殿の壁に歌を書きつけました。

「わかるれどあひも惜しまぬももしきを見ざらむことのなにか悲しき」(253ページ)別れていくわたしを名残惜しんでくれない宮中。それを見られなくなるのがどうしてこんなに悲しいのだろうと。

帝はその歌のかたわらに、また別の帝に仕えるよう返歌を残し……。

「十三 泣く泣くしのぶ」

右馬の允(うまのじょう。右馬寮の三等官)の藤原千兼(ふじわらのちかね)には仲むつまじいとしこという妻がいました。たくさんの子供にも恵まれましたが、としこはやがて亡くなってしまったのです。

としこと親しかった内の蔵人(宮中で雑役に従事した女官)一条の君が訪ねて来てくれないので、その従者の女に歌を取り次がせました。

  「思ひきやすぎにし人の悲しきに君さへつらくならむものとは
と聞えよ」といひければ、返し、
  なき人を君が聞かくにかけじとて泣く泣くしのぶほどな恨みそ
(263~264ページ)


亡くなった人のことを思って悲しいのに、あなたまでわたしにつらい思いをさせるとはと伝えさせたところ、亡き人のことを聞かせないために我慢しているのだから、恨まないでくださいと返って来ました。

「四十 ほたる」

桂の皇子(宇多天皇の皇女)の元へ式部卿の宮が通っていたのですが、宮に仕えていた少女はひそかに宮に想いを寄せていました。ある時のこと。宮は飛びまわっている蛍を捕まえるよう少女に命じます。

袖で蛍をとらえた少女は「つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり」(279ページ)包んでも隠し切れない思いが蛍の光のようにあふれ出してしまうようですと歌を詠んだのでした。

「六十七 雨もる宿」

ある時としこは夫の千兼を待っていましたが、雨が降ったせいか来てくれませんでした。あちらこちら壊れた家なので、雨もりがします。後から、としこの様子をうかがう千兼の手紙だけが届けられました。

その返事。「君を思ふひまなき宿と思へども今宵の雨はもらぬ間ぞなき」(298ページ)あなたを思う気持ちは少しもやむことがなく、同じように家もすきまがないと思いましたが雨は漏れ続けています。

「九十四 巣守」

故中務の宮の北の方(妻)が亡くなったのですが、幼い子供たちもいることから、北の方の妹の九の君との間に結婚の話が持ち上がりました。しかし、九の君の過去の恋愛の話を耳にして、気が変わります。

元の屋敷に戻った宮の所へ、北の方の姉から、歌が届けられました。

  なき人の巣守にだにもなるべきをいまはとかへる今日の悲しさ
宮の御返し、
  巣守にと思ふ心はとどむれどかひあるべくもなしとこそ聞け
となむありける。(317~318ページ)


子供たちのためにも残ってくださらなければならなかったのに、お帰りになるとは悲しいことですという歌に、そうしたい心はありましたが、留まったところでかいがありそうもなかったのでと返しました。

「百二十六 水汲む女」

筑紫に檜垣の御という遊女がいましたが、藤原純友の乱のため家は焼けみじめな暮らしをしていました。討手として派遣された野大弐(やだいに。小野好古)は、名高い檜垣の御に会ってみたいと思います。

やがて水を汲んでいた白髪の老婆こそ檜垣の御だと分かりました。呼びにやっても檜垣の御は恥ずかしがって近くには来ず歌を詠みます。

「むばたまのわが黒髪は白川のみづはくむまでなりにけるかな」(348ページ)黒かったわたしの髪も白川の水を汲むまでに白くなりましたと。野大弐は気の毒に思い、着ていた服を与えたのでした。

「百四十七 生田川」

昔、摂津の国の女に二人の男が思いを寄せていました。女は愛情が勝っている方と結ばれたいと思うものの、どちらも変わらないほど深い愛情を寄せてくれているので、どちらと結婚するか決められません。

そこで、水鳥を見事に射とめた方と結婚することに決めたのでした。

「申さむと思ひたまふるやうは、この川に浮きてはべる水鳥を射たまへ。それを射あてたまへらむ人に奉らむ」といふ時に、「いとよきことなり」といひて射るほどに、ひとりは頭のかたを射つ。いまひとりは、尾のかたを射つ。そのかみ、いづれといふべくもあらぬに、思ひわづらひて、
  すみわびぬわが身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり
とよみて、この平張は川にのぞきてしたりければ、づぶりといち入りぬ。親、あわてさわぎののしるほどに、このよばふ男ふたり、やがておなじ所におち入りぬ。ひとりは足をとらへ、いまひとりは手をとらへて死にけり。(369~370ページ)


女の親から水鳥を射った方が女を得られると聞き、それはいいことだとそれぞれ矢を射ました。一人は水鳥の頭を一人は尾を射ぬきます。またもやどちらが上か選ぶことの出来なかった女は思い悩みました。

そして津の国の生田の川は名前だけだったのですね、わたしはここで身を投げて死んでしまうのですからと歌を詠み川に身を投げます。男二人も後を追いそれぞれ女の足と手をとらえて死んでしまいました。

三人が並んだ塚が作られたという、この生田川伝説を絵に描いたものを元に、宮中では、それぞれの気持ちになって歌を詠み合って……。

「百四十八 蘆刈」

摂津の国の難波のあたりに、仲むつまじく暮らしている夫婦がいました。元々は二人とも身分のいやしいものではなかったのですが、どんどん落ちぶれ、暮らしが成り立たなくなっていってしまったのです。

男は女に都に行って宮仕えをするようすすめました。暮らしを立て直したら、きっと迎えに行くからと。そうして女は身分の高い人の元で働くこととなり、やがて見染められてその人の妻になったのでした。

それでも忘れられないのは摂津と行方知れずになってしまった元の夫のこと。なにか手がかりはないかと、ある時、車で摂津へ訪ねて行くと、乞食のような姿で蘆(あし)をになっている男を見かけました。

よく似ていると思っていたら、それはやはり昔の夫だったのです。女は蘆を買う代金のかわりに物をやろうとしたのですが、男はその立派な女性が元の妻だと気付き、落ちぶれた自分を恥じて逃げ出します。

そして、「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞすみ憂き」(380ページ)あなたがいなくなり、蘆を刈って売る日々。難波の浦に住むのがつらく思われますという歌を届けさせたのでした。

「百五十五 山の井の水」

ある内舎人(うどねり。宮中の雑用などの仕事)が大納言の娘に思いを寄せ、ついにさらってしまいました。馬に乗せて陸奥の国へ向かい、安積山に庵をかまえて暮らし始めると、やがて女は妊娠します。

食料を手に入れるために男が三、四日出かけたきり戻らないことがありました。心細くなった女は山の井(わき水がたまって自然に出来た井戸)に行き、そこですっかり変わった様子の自分を見て驚きます。

鏡もなければ、顔のなりたらむやうも知らでありけるに、にはかに見れば、いとおそろしげなりけるを、いとはづかしと思ひけり。さてよみたりける。
  あさか山影さへ見ゆる山の井のあさくは人を思ふものかは
とよみて、木に書きつけて、庵に来て死にけり。男、物などもとめてもて来て、死にてふせりければ、いとあさましと思ひけり。山の井なりける歌を見てかへり来て、これを思ひ死にに、かたはらにふせりて死にけり。世の古ごとになむありける。(390ページ)


鏡がなかったので顔の変化に気付きませんでしたが、恐ろしい様子になっていたので恥ずかしく思い、安積山の山の井が浅いように、浅い心であの人を思っていたのでしょうかという歌を木に書きつけます。

そして、庵で死んでしまったのでした。帰って来て死んでいる女を見つけた男も驚き、木に書かれた歌を見て帰って思い悩み、やはり女のかたわらで死んでしまいます。古くから伝わっている話なのでした。

とまあそんな物語です。物語として面白いのは特に説話的な後半で、中でも印象に残るのが「蘆刈」。この「大和物語」ではバッド・エンドとは言わないまでも苦みと切なさを感じさせる終わり方ですよね。

当然、心ならずも離れた二人、思いがけない再会というところまでは同じでも、少し違った終わり方というのも考えられうるわけです。そして能の「蘆刈」もその一つ。興味のある方は比べてみてください。

「山の井の水」はぶっ飛んだ話で、「なんでや!」とつっこみだしたら止まりません。井戸に貞子がいたんじゃないかと思うぐらいです。

ただ実はあの歌自体はすごく古く(『万葉集』)から親しまれているものだそうで、歌から生まれた物語と思うと非常に興味深いですね。

なんともすさまじい話ですが、男と女のそれぞれの心理や、起こった出来事の理由や詳細が説明されないという、小説とは違った説話ならではといった感じの味というか、面白さはあるような気がしました。

宮廷のあれこれと説話という、恋の物語とはまた違った魅力のある「大和物語」。これもまた短い章段からなっているのでどこからでも読むことが出来ます。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』を紹介します。

新編日本古典文学全集
『竹取物語/伊勢物語/大和物語/平中物語』

竹取物語伊勢物語平中物語

上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』

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ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))/メディアワークス

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上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』(電撃文庫)を読みました。イラストを担当しているのは、緒方剛志。

ライトノベルについて語られる時によく触れられるのが、「サブカルチャー」であるということ。”サブ”というからには、その上の”メイン”のカルチャー(文化)があるわけで、それがいわゆる芸術です。

文学、絵画などの美術、音楽、演劇などなど。分かりやすく言えば「メインカルチャー」は、学校などアカデミックな場で教えられる権威あるものという感じです。まさに文化的なものと言えるでしょう。

その一方で「メインカルチャー」ではないけれど、多くの人から愛されるものもありますよね。マンガやアニメ、ゲームなど。「メインカルチャー」とは違うということで「サブカルチャー」と言われます。

オタク文化のようなものがあるので、日本ではむしろ「サブカルチャー」の方が「メインカルチャー」よりも盛り上がっていて、「サブカルチャー」という語は、日本独特の意味を持つようにもなりました。

つまり、「メインカルチャー」と比較されたり副次的なものとして扱われたりするのではなく、「オタク文化=サブカルチャー」という形で「サブカルチャー」が大きく取り上げられるようになったのです。

さて、実に興味深いのは、同じ小説なのに、純文学は「メインカルチャー」としてとらえられ、ライトノベルは「サブカルチャー」としてとらえられていること。両者に一体どんな違いがあるのでしょうか?

一つの手がかりとなるのはライトノベルがよく「マンガ的」「ゲーム的」という形容で語られること。言い換えれば、キャラクターや物語の設定などが「非現実的な」小説であるということになるでしょう。

一方で、純文学の新人文学賞である芥川賞の歴代受賞作品を見ると、登場人物やきわめて現実的な設定の中で、人間の心理が深く描かれたものが多いことが分かります。純文学は、現実を写す鏡なんですね。

つまり、海賊王を目指したり、魔王を倒しに行ったりと現実ではないものを楽しめるのが「サブカルチャー」的であり、現実に近いものを感じさせるのが、「メインカルチャー」的なものだと言えそうです。

娯楽として読書をする時にどちらを好むかはみなさんそれぞれだと思いますが、「マンガ的」あるいは「ゲーム的」な突飛な設定が嫌いでなければ、非常におすすめなのが『ブギーポップは笑わない』です。

深陽学園という高校で起こった連続失踪事件を群像劇のようなスタイルで描いた物語ですが、現実ではありえない存在を描いているだけに「メインカルチャー」の純文学とはまた少し違う面白さがあります。

ホラーテイストであることや、不思議な存在の名前のつけ方など、荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』からの影響が語られることの多い作品ですが、なるほど確かにそういう雰囲気がありますね。

ちなみに、「VS JOJO」という企画で、西尾維新や舞城王太郎など有名作家が「ジョジョ」のノベライズを手がけた時に、上遠野浩平は第五部をベースに『恥知らずのパープルヘイズ』を書きました。

恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-/集英社

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ずっと一緒に戦って来たチームの一員だったにもかかわらず途中で脱落するように姿を消してしまったパンナコッタ・フーゴを主人公にしたマンガのその後の物語。それだけでもうファンにはたまりません。

「ジョジョ」が好きな方は『ブギーポップは笑わない』を、そして、上遠野浩平が好きな方は「ジョジョ」を、ぜひ読んでみてください。

作品のあらすじ


秋も中頃にさしかかった日曜日。〈僕〉竹田啓司は、待ち合わせ場所で、ずっと恋人の宮下藤花を待っていました。同じ学校の後輩にあたる藤花は約束の十一時を過ぎても、三時になってもやって来ません。

向こうの親が厳しく、どうしたのか連絡することも出来ないので、ただ待つことしかできないのです。同じ風紀委員会の後輩、早乙女正美が女の子混じりのグループで通りかかったので、少し話をしました。

五時まで待って帰ろうとすると、どう見ても頭のおかしいやつが歩いて来ます。誰もが敬遠するようなその男の前に突然、黒い帽子、大きなマントに身を包み唇には黒いルージュを引いた人物が現れました。

男の言葉に耳を傾け「君たちは、泣いている人を見ても何とも思わないのかね! あきれたものだ。これが文明社会ってわけか!」(22ページ)と叫んだ黒帽子は、警官が来るとそのまま去っていきます。

〈僕〉が驚いたのはそのおかしな黒帽子が藤花そっくりだったから。

翌日、放課後に藤花と話をしようとしますが、またも待ち合わせ場所には現れず、尾上に例の黒帽子がいるのを見たので、追いかけます。

「何のつもりだよ、おまえ!」
 ところが、次の瞬間僕の身体はふわと宙に浮いて、そして床に叩きつけられていた。
「――!?」
 足払いを喰らったのだ――ということは、痛みが全身に走った後で気づいた。
「……? ……な、なにが――どうなって」
 僕が呻くと、黒帽子は静かに言った。
「まず最初に言っておくと、ぼくは宮下藤花ではない。今はブギーポップだ」
「い、今は……?」
 じゃあ、今朝は彼女だったとでも言うのか。
「君も、言葉ぐらいは聞いたことがあるだろうが、手っ取り早く言うなら〈二重人格〉という概念が一番近い。わかるだろう」
 と、その”ブギーポップ”とやらは言った。
「に、二重――」
「君らはまだ誰も気づいていないが、この学園に、いや全人類に危機が迫っているんだ。だから、ぼくが出てきたんだ」
(38~39ページ)


なにかあると自動的に現れる「不気味な泡(ブギーポップ)」は「人を喰うもの」を探していると言います。その頃学校では相次ぐ家出が問題となっていました。もう四人の生徒が帰って来ていないのです。

そうこうする内にお互い校則を破り男女交際をしていることで心を許して話せる紙木城直子も姿を消してしまい、それから間もなく〈僕〉は、コスチュームをぬいだブギーポップから、別れを告げられます。

戸惑う〈僕〉に「仕方ないんだ。ぼくはそれだけのものなんだから。危機が去れば消える。泡のようにね」(62ページ)とブギーポップは言い、自分がやったのではないが、魔物は倒されたと言いました。

何も覚えていない藤花と校門を出る時、風紀委員の後輩の新刻敬と停学が解けたばかりの不良生徒である霧間凪が一緒にいたのでその組み合わせを不思議に思います。霧間は藤花と握手を交わしたのでした。

その少し前のこと。二年生の〈わたし〉末間和子は、一瞬で苦痛もなく人を殺してしまうというブギーポップの噂を気にしていました。連続している女子生徒行方不明事件と、関係があるのかもしれません。

五年前の中学一年生の時、殺人鬼から狙われた経験を持つため、人一番、犯罪事件に関心が強い〈わたし〉。クラスメイトたちは人殺しから連想して「炎の魔女」の異名を持つ、霧間凪の話をし始めました。

霧間凪は同じクラスの生徒ですが不良として有名で、今もタバコが見つかって停学中。ところが友達の木下京子と下校中に〈わたし〉はそんな霧間凪とでくわします。霧間凪は京子に襲いかかったのでした。

工事現場などで使われている安全靴をはくなど、戦闘用の格好をしている霧間凪は、京子の腕をねじあげると、マンティコアと呼びます。

行方不明の女子生徒を殺したことを責め「いいか、オレだけじゃないんだ。エコーズもおまえを捜している! ここで演技のために腕一本失ったら、確実におまえの負けだ!」(97ページ)と言いました。

しかし、京子はクスリを使っていたことを謝り、もうしないと言ったのです。どうやら霧間凪の勘違いのようでした。〈わたし〉にいつまでも五年前のことを引きずらない方がいいと言い残し去った霧間凪。

〈わたし〉は、誰も知らないはずなのに、自分が殺人鬼に狙われたことを知っていたこと、何よりも女子生徒の行方不明事件を調べているらしいことが気になって、霧間凪の家を訪ねてみることにして……。

はたして、深陽学園で起こる女子生徒行方不明事件を止めることが出来るのか? そして、「マンティコア」「エコーズ」とは一体!?

とまあそんなお話です。それからも早乙女正美、失踪した紙木城直子とつきあっていた木村明雄、新刻敬と、様々な視点から事件について描かれていき、断片的な出来事がやがては繋がって一つになる物語。

第一話の語り手、竹田啓司にとっては、事件はいつの間にか始まり、知らぬ間に終わっていたわけです。なにが起こったのかはよく分かりません。しかし他の人々はまた違う出来事を経験しているわけです。

謎めいた雰囲気の中物語が進んでいき、少しずつ明かされていくのが面白いですし、それぞれのキャラクターの立場の違いによって見える景色は違いますから、そうした部分も、とても興味深い作品でした。

好き嫌いは分かれるかも知れませんが、一度描かれた場面がまた違う人物の視点から違った意味合いを持って描かれる感じがぼくは好きで「ここがこう繋がっているのかあ」と、気付く楽しみがありました。

特殊な力を持つ存在が戦うこと、正義と悪について問われ続けること、切なさ漂う文体を持つこと。西尾維新など多くの作家に影響を与え、ライトノベルの流れを作り出した名作。興味を持った方はぜひ。

明日は、間に合えば、またなにかしらの古典を紹介する予定です。
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