この人の閾 (新潮文庫)/新潮社
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保坂和志『この人の閾』(新潮文庫)を読みました。芥川賞受賞作。
ぼくが海外の作家の小説を手に取るきっかけというのは、意外と日本の作家を通してということが多いのですが、ロシアの作家アントン・チェーホフを読むきっかけになったのが何を隠そう保坂和志でした。
遠回りで、やや込み入った話になってしまうのですが、その迂遠さに結構意味があると思うのでその話を少し書きましょう。最近はまた新作を発表し始めてくれましたが、保坂和志はわりと寡作な作家です。
近年目立っていた活動は、『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』三部作(いずれも中公文庫)などの小説論でした。
小説の自由 (中公文庫)/中央公論新社
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保坂和志の小説論はノウハウ的なものではなく、思索的なものなので、小説を書きたいという人よりは、むしろ小説をいかに読むかを考えている方におすすめなかなり歯ごたえのあるものになっています。
そしてもう一つ重要なのは、小島信夫再評価のために動いていること。日本文学史で言うと戦後文学の後の「第三の新人」に属する小島信夫の絶版本を個人出版で出したり共著を出したりしているのです。
そうしてぼくは保坂和志がきっかけで小島信夫に興味を持つようになり、なにげない日常が描かれていること、くねくねと曲がる思考の動きそのものを描き出そうとしていることなどに共通点を感じました。
そしてその小島信夫が『小説の楽しみ』(水声社)という本の中で語っていたのがチェーホフの「曠野」という中編のこと。馬車で移動する少年を描く「曠野」がまた妙なお話で、劇的な筋がないんですね。
小説の楽しみ (水声文庫)/水声社
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そうした保坂和志―小島信夫―チェーホフという流れでぼくは興味を持ち、それがきっかけで、チェーホフを読むようになったのでした。
この三人の作家は筋がない小説を書くと言われます。ではなにが小説を成り立たせているのかというと、短編作家のチェーホフは観察眼と描写力、長編作家の保坂和志と小島信夫は、思索のうねりでしょう。
関心のある方はかなり長い作品ですが、物語がどんどん破綻し、逸脱し、虚実の境が曖昧になっていく小島信夫の『別れる理由』とチェーホフの「曠野」、そして保坂和志の小説を読み比べてみてください。
ではここからは少し保坂和志に焦点を絞っていきたいと思いますが、ぼくが思索のうねりと言うのは保坂和志の文章からあげると、たとえばこんな描写のことです。「東京画」という短編から引いて来ます。
新しい町で暮らすようになった主人公が、ぼんやりとパイプ椅子に座った老人を見かけるも何を思っているかまったく読み取れない場面。
それでもたとえばこのパイプ椅子の老人が夏の夜にこの道に出てある時間をすごすようになったとき、それを自分の習慣として繰り返すようになったときにはここに一人だけでいたのではなかったはずで、そういう何十年か前に誰かと共有していた時間が確かにあってそのときにはこの場所もこの老人自身もいまとまったくちがう何かとしてざわめきに包まれざわめきを自分自身でもつくり出しながら、何かを語ったとか語らなかったとかそんなことではなくてただざわめきをつくり出すことだけが時間というものなのだろうし、その中にいるかぎりざわめきはいつまでもつづいていくように見えても現にこうして一人残されたそのときにはざわめきとともに時間も自分からは遠いものになっていて、それでもこうして毎晩繰り返すことでそれを一人で再現しようと意識していなくても結果としてそれをしているんだと考えることは必ずしもぼくの勝手な想像とも言いきれなくて、このパイプ椅子に力なく貼りつくようにしている老人を見なければぼくがこんなことを考えることもなかった。(114ページ)
これがうまい文章かどうかは微妙で、学校の作文だったら赤が入れられそうだと思いますが、描写しようとしているものがとても面白いですよね。そう、時間だったり、存在についてだったりするわけです。
目の前の出来事について思索をめぐらす、しかもそれがどこかくねくねと入り組んだものであること。これは好き嫌いは分かれますが保坂和志の魅力であり、そしてまた小島信夫の大きな魅力でもあります。
保坂和志の芥川賞受賞作「この人の閾」は、恋愛関係にない男女の日常的な姿を描き出したことが評価され、また同時に小説的な出来事がほとんど何も起こらないことに疑問が呈された作品でもありました。
そうした変わった評価がされた作品なので、どれくらい何も起こらないのか、それで小説が成立するのか見てやろうという方は、ぜひ手にとってみてください。巧みに空間が作られた作品になっていますよ。
作品のあらすじ
『この人の閾』には、「この人の閾」「東京画」「夏の終わりの林の中」「夢のあと」の4編が収録されています。
「この人の閾」
こんな書き出しで始まります。「小田原、一時」という約束の時間に着いて駅前から電話を入れると、すでに電話でだけは何度も話している奥さんが驚いた声で、小島さんは今日は朝から真鶴の方へ出掛けてしまって戻るのは四時か五時だと言うので、ぼくは「それならまたその頃電話します」と答えた。(8ページ)
東京から小田原まで一時間半かかったので出直すのも億劫ですし、なにかと忙しい小島さんのことも考えて、日を改めずに時間をつぶすことを決め、大学の先輩の真紀さんを訪ねてみることにしたのでした。
電話をしてみると、驚いた様子もなく「おいでよ、おいでよ」と言ってくれたので、本当に真紀さんに会いに行くことにしたのですが、やり取りは続けていたものの、実際に会うのは十年ぶりぐらいのこと。
学生時代、映画を鑑賞するサークルで一緒だった真紀さんは、〈ぼく〉の一つ年上なので、38歳ということになります。結婚して、今では二人の子供を持つ母親。共通の知り合いの近況などを話します。
誰にでも愛想がいいゴールデン・リトリーバーらしき犬のニコベエと一緒に〈ぼく〉は真紀さんと庭の草むしりをすることになって……。
「東京画」
一九八八年、どうせならと思って玉川上水近くに住み始めた〈ぼく〉は、隣の飼い猫プニャと顔馴染みになったことで、河合君と奥さんのヨッちゃんと仲良くなり、一緒に出かけたりするようになりました。町で見かけた物事について河合君夫婦と話し合います。やがて、定食屋が突然店をやめてしまったことで、あてにしていた生ゴミが食べられなくなり、やせてしまった白い野良猫をほっておけなくなり……。
「夏の終わりの林の中」
昔からの知り合いのひろ子に誘われた〈ぼく〉は、夏の終わりに「自然教育園」を訪れました。園内には様々な植物があり、名前などが書かれた立札があります。ふと一年ほど前に見た夢を思い出しました。それは初めて見た夢であるにもかかわらず、強く既視感を感じさせ、ある家にどうしても帰らなければならないのだがその家は自分の家ではなく、生理的に嫌いだということが分かっているという夢で……。
「夢のあと」
シンポジウムのような所でちょっと話すために自宅周りを探索するという鎌倉に住む知り合いの笠井さんにつきそうことになった〈ぼく〉とれい子。まずは由比ヶ浜銀座という細い商店街を歩いていきます。笠井さんが子供の頃に遊んだという公園に着いて、笠井さんの少年時代の野球の思い出、自然と生まれたルールなどの話を聞かされた〈ぼく〉とれい子も、それぞれの子供時代を思い出していくようで……。
とまあそんな4編が収録されています。どの作品も筋らしい筋というか劇的な展開のない小説なのですが、ゆるやかな会話はユーモラスですし、描き出されている思索のうねりがとても興味深い作品ばかり。
特に面白いキャラクターが「夢のあと」の笠井さんで意味のないことを堂々と言ったりするような人物。たとえばこんな場面があります。
「『あんなもん』なんだよ。涙なんて。
『スプーン曲げで曲がったスプーンと自分の涙は信じちゃいけない』って、言うだろ?」
「誰が言ったの? そんなこと」
「おれが言ったの。いま」
「まだ笠井さんのことがわかってないね」
「なんでそこにスプーン曲げのスプーンが出てくるの?
ウソだって意味?」
「ウソってことじゃないよ。どっちも本当なの。でも、そんなのどうだっていいじゃん、っていうこと。
『あ、曲がったね』とか、『あ、涙でたね』とか言って、ほっときゃいいんだよ。――って、こと」(211~212ページ)
この場面は、笠井さん、〈ぼく〉、れい子の三人が話しているのですが、普通はこういう風な書き方はしないので、そうした点も興味深いですね。会話文の途中で改行があるスタイルも珍しい感じがします。
何気ない日常を描いた物語なので、さらりと読める感じがありつつも、こんな風に結構色んな部分で、工夫が凝らされている小説です。
保坂和志ならではの雰囲気というものがある作家なので、好き嫌いが分かれる作家ですが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。