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伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』

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八月の路上に捨てる (文春文庫)/文藝春秋

¥500
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伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

離婚届けの提出を翌日に控えた男のごく普通の一日を綴った物語が、「八月の路上に捨てる」。愛し合って結婚したはずなのに何故人はすれ違い、別れてしまうのだろうというやるせなさに満ちた中編です。

結婚ばかりではなく、夢だった映画の脚本家にもなれないままのアルバイト暮らしで、仕事もうまくいっていない主人公。掛け違えてしまったボタンのようにどこかで人生の道を間違えてしまったのでした。

思い通りの人生を過ごせる人の方が少ないはずで、誰もが「こんなはずじゃなかったのに」「どうしてこうなってしまったんだろう」と後悔を抱えて生きていくもの。なので、とても共感しやすい作品です。

主人公の佐藤敦がしているのは、自動販売機の缶の補充をするアルバイト。同じトラックに乗っている女性水城さんも二人の子供を持つ離婚経験者で、敦は水城さんに色々な打ち明け話をしていくのでした。

水城さんは今大人気の、将棋を題材にした少年マンガの話をします。その中に出て来る「けむりづめ」という、詰め将棋の問題について。

「そのマンガでね、けむりづめってのが紹介されてるんだってさ。知ってる?」
「俺、将棋指せますけど、詳しくないです」
「じゃあ、さっと説明してやる。あのねえ、こっちはがむしゃらに攻めまくんの。玉を追いつめるのに最初の一手を指すじゃん。あとは、駒をどんどん取られながら追いつめてく」
「それじゃ駒がなくなっちゃうじゃないですか」
「そう。駒は煙みたいにぽんぽん消えていく。だけど上手くやったら、最後の最後で玉を追いつめられる。問題はちゃんと解けるんだよ。いつかね」
 その代わり、一手でも間違うとあとはゲームオーバーしかないんだよなあ。水城さんは言った。
(中略)
「じゃあ、それが俺の人生だとか言うんでしょう」
 違うよと、水城さんは言った。塩辛い味付けが好きなので、納豆を落としたどんぶりの上に、さらに醤油を「の」の字にかけ回していた。
「あたしがそっくりなの。色んなものをなくしてなくして、それでも最後は勝つかもって夢見ながらやってんだもん」
(30~31ページ)


色んなものを失いながら、そして、一手でも間違うと終わりでも、それでも、いつかいいことがあると信じて生きていくこと。「けむりづめ」と重なるような生き方って、なんだかよく分かる感じがします。

そんな風に人生のうまくいかなさを、「ワカル、ワカル」と思わせながら読ませるところに面白味のある作品ですが、ぼくがこの小説を好きなのは、敦が結構なダメ男なところ。ダメ男小説好きなんですよ。

日本文学のお家芸とも言うべきものに「自然主義」や「私小説」と呼ばれるものがあります。「自然主義」は起こった出来事をありのままに書くものですが、やがては告白のようなものになっていきました。

そして、そうした「自然主義」の流れを汲んで作者と主人公が重なるものが「私小説」。自分に都合のいいことや劇的なことを書いたらそれはフィクションなので、必然的にダメ男小説が多くなって来ます。

「私小説」のダメ男小説に関心のある方は、正宗白鳥、近松秋江、岩野泡鳴の小説を読んでみてください。三人セットで、注と解説が充実している『明治の文学』(筑摩書房)第24巻が特におすすめです。

まあ全集はボリュームがありますから、ダメ男からは少しずれますが「自然主義」からもおすすめを一冊。「八月の路上に捨てる」が気に入った方にぜひ読んでもらいたいのが田山花袋の『田舎教師』です。

田舎教師 (新潮文庫)/新潮社

¥546
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作家を志しながら生活のために教師になった青年の理想と現実が淡々とした筆致で描かれる小説で、田山花袋と言えば、「自然主義」の代名詞と言うべき『蒲団』が有名ですが、こちらも印象深い作品です。

「八月の路上に捨てる」はそうした「自然主義」あるいは「私小説」を思わせるダメ男の物語を、現代風のおしゃれな雰囲気で包み込んだような作品。「こいつダメだなあ」と思いながら読むのも一興です。

作品のあらすじ


『八月の路上に捨てる』には、「八月の路上に捨てる」「貝からみる風景」「安定期つれづれ」の3編が収録されています。

「八月の路上に捨てる」

八月最後の日。29歳の敦は、いつものように2歳年上の女性水城さんとトラックで自動販売機をまわっていました。水城さんは九月からは総務課に移ることが決まっており、これが一緒にする最後の仕事。

水城さんに離婚のことを聞かれ、智恵子との出会いを思い出した敦。初めて会ったのは大学の体育の授業。敦は映画の脚本家、智恵子は雑誌編集者になるという夢を持っていただけに、すぐ打ち解けました。

大学卒業後、敦は就職もせずに夢を目指し続けましたが、智恵子はマンション販売代理店に就職します。円形脱毛症になるぐらい仕事に辛さを感じていた智恵子は、食品関係企業の出版部門に転職しました。

いつまでも芽の出ない敦は、収入が少ないことを責められたらそれをきっかけに諦めようと思い始めます。ところが、智恵子の口から出たのは意外にも、自分が稼ぐから結婚しようという話だったのでした。

話を聞いていた水城さんは、なにか話せと言われて感想を述べます。

「話聞いてると、佐藤って嫌な男だよなあ。そういうの内に溜めておくタイプじゃないと思ってたけどね、あたしには何でも話すから。エロ話でも平気でするじゃん」
「だって、嫁さんとエロ話なんか普通しないでしょう」
「うちはしてたけど」
 だから捨てられたんだと言うと、こっちが三行半をつきつけたのだと肩の辺りをゲンコツで殴られた。彼女から、三行半などという言葉が出てくるのは意外な気がした。
 水城さんの母親がよく使っていたのではないかと、敦は勝手な空想をする。訊いたことはないが、きっと彼女の母も夫に三行半をつきつけたのだ。
「そんなことまで話しますか?」
「何でも話し合わないと、あとで面倒になるからさ」
「まあ、だからうちはこうなったんでしょうけど」(23ページ)


智恵子が稼いで、敦は自分の夢を追いかける、そんな風に始まった二人の結婚生活の歯車は、思わぬ出来事をきっかけに狂い始めて……。

「貝からみる風景」

ライターとして自宅で働いている淳一の日課は、鮎子の退社にあわせて近所のスーパーで合流し、一緒に夕飯の買い物をすること。少し先に着く淳一がいつも見ているのは、”お客様の声”のコーナーでした。

「『ふう太郎スナック』が売り場から消えてしまいました。もう入荷しないのですか。子供が泣いて困っています」(93ページ)などの投書を見てこれを書いている人はどんな人だろうと空想するのです。

いつまでも古いファックスで要件を伝える父や、仕事を請け負ったもののまだ未入金の会社がつぶれたらしいという噂を聞いて困ったりもしますが、いつものように鮎子と並んで、ベッドに横になりました。

 夜風が届くと、レースのカーテンは淳一の胸元まですっぽりと包み込むように膨らんだ。中に入ると、貝の中にいるようだった。貝の中に寄生して暮らす小さな生き物になった気分になる。生まれて死ぬまで、この風景しか知らないちっぽけな存在。何が欲しいということもないし、何が要らないということもない。流れ込んでくるものをただ食らい、眠って起きて死んで、それが幸せかどうかさえ感じることもない。
 しかし桃源郷を見た気がして、淳一は隣の鮎子に一緒に入ってみなよと誘った。(112ページ)


そして淳一は、スーパーで起こった、ある出来事を話し始めて……。

「安定期つれづれ」

会社を早期退職し、特にやることもない英男はまだ働いている妻の静江を助けるために色々と家事を手伝う日々。チリ産の冷凍ものの鮭の切り身を買って来るともう少しいいものを買って来てと怒られます。

妊娠中の娘の真子がつわりがひどいからと帰って来ているので、タバコをやめることにしました。すぐにやめると体に変調をきたすので、ニコチンをおさえるパイプを使って、禁煙に取り組み始めたのです。

真子の夫である晃一が様子を伺いに来て、食事をしていきますが、真子と晃一の様子から、二人がなんとなくうまくいっていないことが分かりました。娘夫婦を心配する静江はなにかと英男を責め立てます。

「……何だか」
「何だ」
「こんなことなら、禁煙なんかしてもらわないほうが、私、嬉しいわ」
「何を言ってる。初孫に嫌われてもいいのかって脅したのはそっちだろう。ようやく俺も本腰を入れようって気になってきたのに」
 静江にしてみれば、禁煙することで頭がいっぱいになりすぎなのだとか。他のことができていないと言う。
 まったくの言いがかりだと英男は思ったものの、そう思わせておいたほうがすんなりと上手くいく。三十年以上も寄り添っていると、伝えるべきことがあっても、タイミングを外すとまるで駄目になることはよくわかっていた。静江だって同じ思いで、とりあえずはこぶしを引っ込めたことがあったに違いない。
「ほらみろ、お前が煙草の話なんかするから、また吸いたくなった。今日あたりから本数を減らそうと思っていたのに、あーあ」
(153~154ページ)


やがて、両親が自分のことで言い争っていると気付いた真子と、英男は結婚について、赤ちゃんについて腹を割って話すこととなり……。

とまあそんな3編が収録されています。様々な形で夫婦の姿がとらえられた一冊。やや重い内容で、身につまされる話が多かったですが、ウィットのある文体なので、暗くなり過ぎていないのがいいですね。

何も起こらないと言えば何も起こらない「貝からみる風景」もなかなか面白く、こういうゆるやかな雰囲気の小説もぼくは結構好きです。「安定期つれづれ」はまさに、”あるある”という感じの作品でした。

芥川賞受賞作は冷たい印象を受けるものが多いですが、伊藤たかみはテーマ的には重くても、どこか温かみがあるのが特徴。物語として引き込まれる一冊なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、ウルフ/リース『灯台へ/サルガッソーの広い海』を紹介する予定です。

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』/ジーン・リース『サルガッソーの広い海』

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灯台へ/サルガッソーの広い海 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)/河出書房新社

¥2,730
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ヴァージニア・ウルフ(鴻巣友季子訳)『灯台へ』/ジーン・リース(小沢瑞穂訳)『サルガッソーの広い海』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

江戸の戯作から近代的な小説が生まれるまでの間に坪内逍遥が書いた文学論が『小説神髄』。海外の小説から様々な例を挙げ、戯作が持つ勧善懲悪などの劇的な筋や、単純なキャラクター性を否定しました。

よく出来た物語であればあるほど、いい者と悪者ははっきり分かれ、いい者が悪者を倒して終わる物語構造になるわけですが、人間というのは本来複雑なもので、正邪併せ持つのが本当ではないだろうかと。

そうして、日本の近代小説は現実をそのまま描くリアリズム的なものとして始まり、やがて、ありのままに描く「自然主義」の流れや、作者と主人公が結びつく「私小説」を生み出していくこととなります。

物語性と写実性を対立させ、「小説とは何か?」を追究した観点が今なお興味深い『小説神髄』が出たのは19世紀の終わり頃。その少し後の20世紀、世界の文学もまた大きな問題に取り組んでいました。

小説から物語として面白い筋、登場人物の単純なキャラクター性を排除した所は似ていますが、リアリズムから一歩進んで、人間の無意識的な記憶や、複雑に移り変わる意識そのものを描こうとしたのです。

20世紀の世界の文学を代表するのが、無意識にあふれる記憶を描いたマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と、登場人物の意識をそのまま描こうとしたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』。

みなさんも普段生活していて、意識的にものを考えるのではなく、ふととりとめなく色々なことを考えてしまうことがあるはず。単純な心理描写とは違い、そうした意識を描く手法が、「意識の流れ」です。

そしてその手法でジョイスと並んで有名なのが、今回紹介するヴァージニア・ウルフ。何と言っても『ダロウェイ夫人』が有名ですが、この『灯台へ』もウルフを代表する作品の一つ。ある家族の物語です。

明日もし晴れたらみんなで灯台へ行く約束しているラムジー一家。八人の子どもを持ちながら、今なお美しいラムジー夫人を中心に、家族や一家と親しい友人たちの意識の移り変わりが紡がれていって……。

驚かされるのは、実は、とても短い時間を描いた物語であること。間に十年の経過こそあるものの、たった二日間の出来事なのです。これもまた小説の一つの到達点という感じを抱かせてくれる小説でした。

一方、イギリス領ドミニカ島出身の作家であるジーン・リースの『サルガッソーの広い海』は、血筋としては白人ながらイギリスの植民地だったジャマイカのスパニッシュ・タウンで育った女性の物語です。

黒人から「白いゴキブリ」(278ページ)と蔑まれる、植民地での白人の暮らしが描かれた小説ですが、そのテーマ自体感覚として理解しづらい部分がありますし、物語としてさほど面白くはありません。

おそらくポストコロニアリズム(植民地支配を違った観点からとらえ直そうとすること)の観点で価値が生まれて来る小説なのでしょう。

作品のあらすじ


ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』


こんな書き出しで始まります。

 「ええ、いいですとも。あした、晴れるようならね」ラムジー夫人はそう言ってから、つけたした。「でも、うんと早起きしてもらいますよ」
 息子はそう言われただけですっかり舞い上がった。さあこれで決まり、いよいよ探検に乗りだすんだという期待感につつまれ、もうはるか昔から――と言いたくなるぐらい――待ちに待ったあの夢の塔に、ひとつ夜を越し、半日も海を行けば、手がとどくような気になった。(6ページ)


六歳のジェイムズはうきうきしていましたが、父親のラムジーは「まず晴れそうにないがね」(7ページ)と、その喜びに水をさします。

夫の言葉に怒ったラムジー夫人は晴れる気がすると言い、編み上がったら灯台守の坊やにあげようと思っている靴下を編んでいましたが、お客のチャールズ・ダンズリーも、晴れそうにないと言うのでした。

窓辺に座るラムジー夫人とジェイムズをモデルに絵を描こうとしていた三十歳を越えて未婚のリリー・ブリスコウは、顔なじみの植物学者で、やもめのウィリアム・バンクスに誘われて散歩に出かけました。

ラムジー夫妻について話す二人。ラムジーは若い時に書いた哲学書で成功したものの、その後はぱっとせず、八人の子供を抱えて生活が大変そうなこと。二人の姿を見たラムジー夫人は、結婚を連想します。

ラムジー夫人は子供たちの世話が一段落し、夫とも離れた一人きりの時間には、人形をした幻のようなうわべの飾りを捨てて、「くさび形をした闇の芯」のような、本来の自分でいられると感じていました。

日常の姿でいるかぎり、安らぎが見いだせないのは経験上わかっているけど(ここで編み針を器用にくぐらせて)くさび形の闇の芯になればそれができる。人格をなくすことで、人は苛立ちも焦りも動揺もなくしてしまえる。なにもかもがこの平穏、この安らぎ、この永遠のなかでひとつになると、人生に対して勝ち鬨をあげそうになる。夫人はここでちょっと間をおいて、窓の外に目をやり、灯台の光の条をとらえた。長く、しっかりと海面を照らしていく光。あの三つめの条、あれがわたしだわ。などと思うのも自然なことだろう。こんな夕まぐれにこんな気分で灯台の光を見つめていると往々にして、目に入ったなにかにことさらに自分を重ねてしまうものだ。というわけで、あの光、長く、しっかりと撫でていくあの条が、わたし。編み物を手にしたまま、身じろぎもせずなにかを見つめ、じっと見つめているうちに、見ているものと同化してしまう。ふと気がつくと、そんなことがしばしばあった。
(81~82ページ)


灯台を見つめて幸福を感じている妻を美しく感じたラムジーは、一抹のさみしさもありながら、妻の邪魔をしないでおこうと思います。一方、ラムジー夫人は夫の気持ちを察して自らそばに行ったのでした。

夜になるとみんなを招いての晩餐が始まり、文学についてなど会話は盛り上がりましたが、オーガスタス・カーマイケル老人が不作法をしてラムジーをひそかに怒らせ、それにラムジー夫人が気付く一幕も。

淡い想いを寄せているが故に、バンクスのラムジー夫人への感情に気付いているリリーは、ラムジー夫人の本質をつかもうとしますがうまくいきません。十年が経ち、リリーは再びラムジー家を訪れて……。

ジーン・リース『サルガッソーの広い海』


地主だった父が亡くなると〈私〉たち一家は黒人から蔑まれながら暮らすようになりました。弟ピエールが歩けず、言葉もはっきりしないと分かると、痩せて無口になった母は、外出しないようになります。

それでも美しかった母は金持ちのミスター・メイソンに見初められて再婚し、幸せを手にしますが、屋敷に火をつけられてしまいました。

 彼らはまだ静かだったが、草や木が見えないほど大勢がつめかけていた。入江の人たちもたくさんいたはずだが見分けがつかなかった。みんな同じに見えた。目をぎらつかせ、口を開けて叫んでいる同じ顔が並んでいた。乗馬石の横を通りすぎたとき、マニーが馬車を駆って角を曲がってくるのが見えた。サスが馬に乗り、婦人鞍をのせたもう一頭の馬をひいてきた。
 だれかがどなった。「あの黒いイギリス人を見るがいい! 白い黒んぼを見ろよ!」するとみんながいっせいに叫んだ。「白い黒んぼを見ろよ!」(296ページ)


ピエールはこの火事で亡くなり、それで頭がおかしくなってしまった母から引き離されるように〈私〉は修道院へと入れられたのでした。

仕事の取引で西インド諸島にやって来た〈ぼく〉はミスター・メイソンと知り合い、その娘のアントワネットと結婚します。兄がいる故に父から認められていない〈ぼく〉は結婚で財産を手にしたのでした。

イギリスに行ったことがなく「イギリスが夢のような国というのはほんとうなの?」(333ページ)と無邪気に尋ねるアントワネットと〈ぼく〉はドミニカ島マサークルで愛に満ちた新婚生活を始めます。

「なぜ私に生きたいと思わせようとしたの? どうして私にそんなことをしたの?」
「ぼくがそう願ったからさ。それだけじゃたりないのか?」
「いいえ、充分よ。でも、あなたがそう願わなくなる日がくるとしたら。そのときはどうすればいいの? 私が気づかないうちに、あなたがこの幸せを取り去ってしまったら?」
「そしてぼくの幸せもなくすのか? そんなばかなことをするやつがいるかい?」
「私は幸せに慣れていないのよ」彼女は言った。「だから怖くなるの」
「怖がることはないよ。怖くても、それを口に出しちゃいけない」
「わかっているわ。でも自分でもどうしようもないの」
(344~345ページ)


お互いの肉体に溺れ、仲むつまじく暮らしていた〈ぼく〉とアントワネットでしたが、やがて一通の手紙が届きます。それはアントワネットの腹違いの兄を名乗る男からの衝撃の事実が綴られた手紙で……。

とまあそんな2編が収録されています。『灯台へ』はまさにあらすじでは伝えられない魅力がある小説で、それぞれの登場人物の心理が反射しあい波紋が広がって物語が形作られていく素晴らしい作品です。

ストーリーとしての面白さはないですが、家族の小さな世界を見事に描き切っていて、こういう小説もあるのかと、はっとさせられる感じがありました。水彩画のように淡く、美しい印象が読後に残ります。

意識の流れ」が使われた作品の中では、比較的読みやすいですし、岩波文庫の御輿哲也訳、みすず書房の「ヴァージニア・ウルフ・コレクション」の伊吹知勢訳など、翻訳を読み比べても楽しめそうです。

『サルガッソーの広い海』は、イギリス文学の名作であるシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を、モチーフに使っている小説。

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)/光文社

¥860
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独立した作品なので読んでいなくても大丈夫ですが、ポストコロニアリズムに関心がなければ、さほど面白くもない小説なので、やはり「この人物はあの人物なんだ」と知っていて読むのがおすすめです。

かつては篠田綾子訳で『広い藻の海――ジェイン・エア異聞』として出ていたくらい、『ジェイン・エア』と関係の深い物語であり、言わば裏返しの『ジェイン・エア』とも言うべき作品になっていますよ。

興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、磯﨑憲一郎『終の住処』を紹介する予定です。

磯﨑憲一郎『終の住処』

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終の住処 (新潮文庫)/新潮社

¥357
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磯﨑憲一郎『終の住処』(新潮文庫)を読みました。芥川賞受賞作。

なんてシュールな小説だろうと思ったのが第一印象。異質な空間で異常な出来事が起こっていく物語であると。ところが途中でふと、描かれているのはごく当たり前の出来事だと気付いて、驚かされました。

文学を文学たらしめているものを表す文芸用語に、「異化」というものがあります。日常にありふれたものを、文章表現によって未知のもの(非日常的なもの)としてとらえ、異質さを醸し出す技法のこと。

ソ連の文芸評論家ヴィクトル・シクロフスキーがあげた例をそのままあげると、レフ・トルストイの小説で書かれた、舞台の描写方法があります。演劇はそのまま認識したなら、単なる普通の舞台ですよね。

ところが、それを未知なるものとして見た場合、突然舞台上に人が現れ、なにかを叫びだしたということになるわけです。そうして非日常的なものとしてとらえた時に、文章に文学的効果が生まれてきます。

「終の住処」は、なんだかちょっとしっくりいっていない夫婦の物語で、理由もはっきりしないまま妻は十一年間もなにも喋らなくなってしまいました。主人公である夫はつい浮気してしまったりもします。

夫婦間の不和にせよ浮気にせよ、会社での軋轢にせよ、小説の題材として使われているのはどれも陳腐といっていいほどありふれたもの。

ところが固有名詞(人や物の名前)が排されるなど、様々な形で「異化」が行われている文章は、読者に非日常性を感じさせるのでした。

家族の関係を描いた小説でありながら「シュールレアリスム」の小説のような異質性や、或いは国際謀略のスパイものを読んでいるかのようなスリリングさを感じさせてくれる、実に興味深い作品なのです。

文章技法的に面白い分、物語として心動かされる感じではないので、物語性を重んじる読者にはあまりむきませんが、小説はストーリーよりも文章の技巧で読むという方に、自信を持っておすすめできます。

また、ルポルタージュのような文体、すべてが終わってしまった後に生まれた物語のような不思議な時間間隔を持つ点で、ラテンアメリカ文学のG・ガルシア=マルケスの影響が指摘されることも多い小説。

その辺りに関心のある方は、『予告された殺人の記録』が短くて読みやすいので、読み比べてみるとまた色々と楽しいだろうと思います。

予告された殺人の記録 (新潮文庫)/新潮社

¥452
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そして、芥川賞受賞時のインタビューで磯﨑憲一郎がガルシア=マルケスとともにあげた好きな作家に、独特なゆらぎを抱えた文体を持つことで知られるオーストリアの作家ロベルト・ムージルがいました。

ムージルに関しては、ぼくも代表作『特性のない男』をまだ読めていないのでなんとも言えませんが、ムージルの翻訳を手がけ、ムージルの翻訳を通して自分の文体を作り上げた日本の作家がいるんですよ。

それが「内向の世代」(1970年前後に登場してきた日本文学者をさします)を代表する、古井由吉です。古井由吉も芥川賞を受賞しているので、関心のある方は、『杳子・妻隠』を読んでみてください。

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)/新潮社

¥515
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こちらもやはりやや病的な雰囲気こそあるものの、男と女の関係が、独特の文体で綴られることによって非日常性を帯びている作品です。

作品のあらすじ


『終の住処』は、「終の住処」「ペナント」の2編を収録。

「終の住処」

こんな書き出しで始まります。

 彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目遣いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで、こんな歳から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった。じっさい、交際し始めて半年で彼は相手の実家へ挨拶に行ったのだ。それから何十年も経って、もはや死が遠くはないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなお互いの表情だった。(9ページ)


新婚旅行の時から妻は何故か不機嫌で、理由を尋ねても「別にいまに限って怒っているわけではない」(9ページ)と言うだけ。新居で朝目が覚めると、一晩中にらまれていたのではないかと彼は思います。

結婚を望んだのは彼でもなく妻でもなく、お互いの両親でもなく、いずれ結婚するものだというルールに従ったようなものですが、想定していた安定と真逆の不安定で茫漠とした日々に彼は苦しめられます。

何故妻との生活がうまくいかないかその理由を知りたいと願う彼は妻の浮気を疑いますが、その気配はまるでなく出張だといつわっていきなり帰っても妻は朝と同じように台所の流しに立っていたのでした。

安心するどころか、不安定さの理由が見つからないが故に、余計に苦しめられることとなった彼でしたが、製薬会社での仕事の面では、結婚したことでより信頼されるようになり、どんどんうまくいきます。

やがて、彼は同じ会社に勤める女性と浮気をするようになりました。

 向かい側からひとりの女が歩いてきた。頑なに前だけを見て彼と視線を合わせることもなかったが、擦れ違うまさにその瞬間、スカートの裾が彼の右手の中指の爪に、嘘のように微かに、触れた。夏の夕方の、油のように重い質感を持った西日の射し込む廊下だった。ああ、これはまずいな、彼は思った。酷くまずいな、いますぐにではないが、近いうちにとんでもなく面倒なことになるだろう。外回りの営業と寝不足の日々のなかで、彼が本来持っていた美的感覚が麻痺してしまっていたか、もしくは反対に過敏になっていた、そんな理由もあったのかもしれない。女は肉感的だった。少しばかり太っていたのだが、太っていることは服の上からでは誰にも分からなかった。(30ページ)


いつも黒いストッキングをはいているその女と浮気を重ね、離婚を考え始めた彼が、離婚の話を切り出そうとしたまさにその席で、妊娠していることを妻から告げられたのでした。やがて、娘が生まれます。

ある時家族で遊園地に行きます。「せっかく来たのだから、観覧車にだけは乗っておきましょう」(54ページ)と妻が言いました。それが妻の最後の言葉で、それから十一年間彼と口をきこうとせず……。

「ペナント」

少年がこっそり忍び込んだ部屋の壁面には、様々な土地のペナントが貼られていました。百枚はあるように見えましたが、実際に数えてみると六十九枚。服を脱いだ少年は、豪華なベッドにもぐりこみます。

しかし麻袋を引きずるような病気の老人の咳のような音が聞こえ、天井近くに穴があることに気付いた少年は中にヘビがいると思い……。

雨上がりの濡れた階段を上っていた男はコートの前ボタンをどこかでなくしたことに気が付きました。階段を下りて探しにいきますが、何故かいつまで下りてもなかなか下までたどり着くことが出来ません。

やがてボタンを見つけたもののそれは自分のより一回り小さいボタンでした。おなかを空かせた男は繁華街で食堂に入ったのですが……。

とまあそんな2編が収録されています。突然、悪夢的な世界に迷い込んでしまったような「ペナント」は、これはこれでシュールで面白いですね。物語の形にはなっていきませんが、詩的でいいと思います。

中原中也に「月夜の浜辺」という詩があるんですよ。波打ち際に落ちていたボタンを拾うんですが、月夜の晩だけに何故か妙に心に沁みて捨てられないという詩。ああいう感覚と共通するものがありますね。

磯﨑憲一郎は、おそらく好き嫌いが分かれる作家だと思いますが、文章や物語世界が非常に興味深くて、ぼくはとても面白く読みました。

明日は、トゥルニエ/ル・クレジオ『フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者』を紹介する予定です。

ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』/J・M・G・ル・クレジオ『黄金探索者』

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フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-9)/河出書房新社

¥2,940
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ミシェル・トゥルニエ(榊原晃三訳)『フライデーあるいは太平洋の冥界』/J・M・G・ル・クレジオ(中地義和訳)『黄金探索者』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

船が遭難してしまい、無人島で暮らすことになる物語と言えば、そう、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』ですよね。やがては、命を救った黒人をフライデーと名付けて、共に暮らします。

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)/岩波書店

¥945
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ロビンソンは未開人のフライデーに英語を教え、キリスト教の神を信じることを教え、フライデーは立派な従者になっていったのでした。

ロビンソン・クルーソー』は、現在からすると、物語としてはかなり単調で、やや退屈な感じがありますが、様々な示唆に富んだ作品であり、また、近代的な小説の先駆けと言われることもある小説です。

「小説はどのように始まったのか?」という疑問の一つの答えが”本当にあったこと”という形式の手記だったというのは、とても興味深いですよね。意外と読まれていない作品なので、機会があればぜひ。

ところで、現在ではロビンソンとフライデーの関係性は、はたして正しいものなのか? という観点から批判されることがあるんですね。

つまり、意識されていなかったにせよ、前提として、文明化されたイギリスこそが正義であり、フライデーの持つ文化を破壊してでもイギリス化させることが素晴らしいことだという考え方があるからです。

ロビンソン・クルーソー』が発表された18世紀から時代は流れて20世紀。流行した現代思想の流れに「構造主義」がありました。ソシュールの言語学から始まった、研究対象から構造を読み取るもの。

言葉を文字や音節の表現(シニフィアン)とその言葉が指し示しているイメージ(シニフィエ)とに分けて考えるソシュールの言語学は、読書好きのみなさんならきっと、興味を持つ領域だろうと思います。

関心のある方はソシュールの言語学について書かれた町田健の新書が分かりやすくて面白いので、機会があればぜひ読んでみてください。

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)/講談社

¥756
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「構造主義」で言語学とともに大きく盛り上がったのが文化人類学。文化人類学とは、多様な民族の文化を比較研究する学問のことです。中でも有名なのが、フランスの文化人類学者のレヴィ=ストロース。

そして、元々は哲学を学んでいたミシェル・トゥルニエが、レヴィ=ストロースなど現代的な哲学・思想の影響を受けて書いたと言われているのが、今回紹介する『フライデーあるいは太平洋の冥界』です。

物語の時代設定こそ百年後ですが、同じように無人島でロビンソンとフライデーが暮らす物語。しかし20世紀には、18世紀には当たり前に信じられていた文明や信仰に疑問符がつけられていたのでした。

ロビンソンが作り上げた島の秩序はフライデーによっていともたやすく破壊されてしまい、ロビンソンはフライデーに振り回され続けるのです。奇妙な形で入り組んでいく、ロビンソンとフライデーの関係。

そう、お馴染みの漂流記を同じように綴っていきながらも、ほんの少しだけ変容させて描くことによって、文化人類学的な観点からもう一度『ロビンソン・クルーソー』をとらえ直している小説なんですね。

発想がユニークですし、哲学・思想的に興味深い作品ですが、小説として面白いのは、原典が徹底的に排除していた性的なイメージを組み込んでいること。原典にはない豊穣で幻想的な雰囲気が魅力的です。

一方、『黄金探索者』はノーベル文学賞作家のル・クレジオの半自伝的小説で、父から聞かされていた伝説の海賊の宝を探しにいく物語。

宝探しというと、荒唐無稽な冒険譚になってしまいがちですが、第一次世界大戦に巻き込まれるなど、現実的な雰囲気を持っているのが大きな特徴です。美しい風景のイメージが目の前に広がる作品でした。

作品のあらすじ


ミシェル・トゥルニエ
「フライデーあるいは太平洋の冥界」


1759年9月30日。ヴァージニア号は難破して、22歳のロビンソンは気が付くと砂浜の上にいました。青みがかった空には黒と白のカモメが飛び、海岸にはヴァージニア号の残骸が流れ着いています。

生き残ったのはロビンソン一人のようです。無人島にいる状況を脱すべく〈脱出号〉と名付ける予定の船の建造に取りかかるロビンソン。

教会を経由するのではなく、直接心に啓示を受けるというクエーカー教徒の家庭で育ったので、ロビンソンは聖書に詳しくありませんが、改めて聖書を読んで、ノアの箱舟との符合に、はっとさせられます。

長い月日をかけてようやく作り上げた〈脱出号〉でしたが、船出を迎えた時、なんと重すぎて海岸まで運ぶことが出来なかったのでした。

絶望にかられたロビンソンですが、諦めてはいけないとこの島を「希望」を意味する「スペランザ」と名付け、航海日誌をつけながら暮らしていきます。少しずつ、無人島の生活に慣れていったロビンソン。

ある時、雷か風になぎ倒された石鹸木(キマラ)を見つけます。枝が分かれている股の内側は柔らかな苔でおおわれていました。何日もためらった後、ロビンソンは裸になり、木の幹を両腕で抱きしめます。

彼のセックスが二本の枝の分かれ目に開いている苔のついた小さな穴の中に入った。彼は幸せな夢うつつの状態に陥った。彼の半分閉じた目はクリームのように脂肪分の多い肉づきの花の広がりを見ていた。花は重い強烈な匂を発散しながらたわむ花冠を揺らしていた。濡れた粘膜を垣間見せながら、花は昆虫たちの鈍い飛行が横切る空からの贈物を待っているようだった。ロビンソンは生命の植物的な根源への回帰に招かれた最後の人間種族ではなかったろうか?(98ページ)


行為の最中に、赤い斑点のある大きな蜘蛛に性器を刺されたことがあり、それはロビンソンに性病を連想させました。いつしか、精液を洩らした所にマンドラゴラが花を咲かせ、実をつけるようになります。

やがて儀式のいけにえにされそうになっていたアラウカニア族の男を救ったロビンソンは、その値打ちのない男にキリスト教徒の名前を与えたくはないと考え、金曜日だったのでフライデーと名付けました。

フライデーには働きによってヴァージニア号の残骸にあった貨幣を与えることにします。フライデーはロビンソンに服従し、言うことを聞きますが、その服従の仕方が完璧すぎるが故に妙に気に食いません。

見たことのない種、薄茶色の縞模様のマンドラゴラの花を見つけ、フライデーに対して抱いていた漠然とした疑惑は恨みに変わりました。

そして、隠れて吸っていたパイプを、見つからないように放り投げたことで、フライデーは洞窟の火薬樽を爆発させてしまい、ロビンソンが大切にしていた、文明を偲ぶものを吹き飛ばしてしまったのです。

それをきっかけに、二人の関係は、奇妙な形で変化していって……。

J・M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」


モーリシャス島のブーカンの谷あいで、友達のドゥニと自然の中で遊びながら、そして姉のロールと一緒にマムから勉強を習いながら成長していった〈ぼく〉。ところが父の事業がどうもうまくいきません。

父は発電所の建造計画にすべてを賭けていたのですが、島にサイクロンが上陸して、発電機は使い物にならなくなってしまったのでした。借金で家を手放すことになり一家はフォレスト・サイドへ移ります。

ある時父は、モーリシャス島から船で数日かかるロドリゲス島に隠された海賊の宝について話してくれました。普段は入ることが許されない父の書斎に入った〈ぼく〉は、壁にとめられた地図に見入ります。

ぼくが父の話を理解できないのはおそらくは興奮のせい、さもなければ不安のためだ。なにしろこれが世界で一番重要なこと、いつでもぼくたちを救うことも破滅させることもできるような一つの秘密であることは、ぼくにも推測がつくからだ。もう電気も他のどんな計画も問題ではない。ロドリゲス島の財宝の発する光がぼくを眩惑し、他のすべての光を弱めてしまう。その日の午後、父の話は長いこと続く。狭い部屋を縦横に歩いては、書類をめくって眺め、ぼくに見せもしないで元に戻す。その間ぼくは机のそばに突っ立ってじっと動かず、星図と並んで壁に鋲で留められたロドリゲス島の地図をちらちら眺めている。これ以後に起こったいっさいのこと、あの冒険、あの探索が、現実の大地の上ではなしに空の国々で起こったことのように思え、ぼくが旅を始めた船がアルゴ船であったような気がするのは、きっとそのせいだ。(251ページ)


父が脳卒中で急死すると、奨学金が打ち切られてしまった〈ぼく〉は、W・W・ウエスト社で働くようになり、ゼータ号のブラドメール船長と出会います。〈ぼく〉のことをとても気に入ってくれた船長。

一緒に船に乗らないかと誘ってくれたほどでしたが〈ぼく〉は宝を見つけるという夢があるので断ります。船長はロドリゲス島の宝の話を知っており、なおかつ〈ぼく〉の父の妄想だと思っていたのでした。

「ということはつまり、財宝なんて存在しないとお考えということですか?」
 船長は頭を横に振る。
「世界のこの部分に」と言いながら、ぐるっと水平線を示す動作をする。「人間が同類の命を犠牲にすることで大地や海から奪い取った財産以外のものがありえるだなんて、わしにゃ思えませんな」(326ページ)


1911年、〈ぼく〉はついにロドリゲス島へと渡ります。つるはしとスコップ、網、ハリケーン・ランプ、携帯用食料などを携え、地図を頼りに宝を探します。ところがいつまで経っても見つかりません。

画期的な手掛かりを見つけたと思って狂喜したこともありましたが、それが結果には結びつかないのです。それでも諦めずに探索を続ける〈ぼく〉は、フランス語が話せる山の民の娘ウーマと出会いました。

早くに父を亡くしたウーマは、子供の頃修道女に預けられていたのでフランス語が話せるのですが、病気になったのをきっかけに十四歳の時に実母に引き取られ、山の民の暮らしをするようになったのです。

何年経っても宝は見つかりませんが、時折やって来てはよくしてくれる野性的な魅力あふれるウーマとの心の交流は深まっていきました。

しかし1914年、姉のロールから家族が貧乏でみじめな暮らしをしていること。戦争が始まって悪い知らせばかりだと手紙が来て……。

とまあそんな2編が収録されています。『黄金探索者』の主人公も自ら進んでですが、島に渡り、ほとんど誰とも交わらず、今が何年の何日かすら分からない、ロビンソンと似たような暮らしを送るのです。

わくわくする冒険譚ではなく現実的な宝探しが描かれている小説なのですが、姉のロールへの想いやウーマへの感情など、主人公の思いがとても美しく、叙情的に描かれている、ロマンあふれる作品でした。

主人公の一家が暮らしていたモーリシャス島を舞台にした有名な小説があるんですよ。サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』です。

それがこの作品にも印象的に出て来ていました。読んでみたいんですが、いい翻訳がないんですよねえ。その内新訳が出るといいですね。

中地義和の解説によると、『黄金探索者』には続編というか、マスカレーニュ諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)を舞台にした一連の作品があるそうです。”La Quarantaine”は未訳とのこと。

その後の作品には邦訳があって『はじまりの時』(上下、原書房)だそうです。そちらもいつかまた紹介出来る時があるかも知れません。

この巻は本文が二段組みになっていて、「世界文学全集」の中でもかなりボリュームがありますし、どちらの作品も決して読みやすくはないのですが、テーマや物語に興味を持った方は読んでみてください。

明日は、川上弘美『蛇を踏む』を紹介する予定です。

川上弘美『蛇を踏む』

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蛇を踏む (文春文庫)/文藝春秋

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川上弘美『蛇を踏む』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作。

大切な人が死んでしまうことで号泣させられたり、苦心惨憺の末に夢を叶えた姿を見て感動させられたり、波瀾万丈の恋が実ってこちらまで嬉しくなったり、よく理解できる物語というのも小説の面白い所。

そして、それとは対照的に、なんだかよく分からないけど面白いというのもまた、それはそれで小説の醍醐味なのです。川上弘美という作家はそちらの、なんだかよく分からないけど面白いという作家です。

「蛇を踏む」は公園で蛇を踏んでしまうお話。踏まれた蛇は「踏まれたので仕方ありません」(10ページ)と言い、なんだか中年の女性みたいな姿になると、〈私〉の部屋へやって来てしまったのでした。

なんとも妙な話ですよね。蛇はどうやら普通の蛇ではなくて、うまく説明出来ませんけども、どことなく変な存在という感じです。夢の世界を描いたような作品というとイメージとして一番近いでしょうか。

江戸時代の読本作者、上田秋成の『雨月物語』の中の「蛇性の婬」にも、中国の古い伝説を元にした蛇が化身した女の話が登場しますし、変身譚自体はそれこそ、古代ギリシャ・ローマの時代からあります。

雨月物語 癇癖談 新潮日本古典集成 第22回/新潮社

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しかしながら、ただ単に変身したというだけではなくて、それがメタファー(別のなにかを表していること)になっているような、どことなく寓話的な雰囲気が漂っているのが「蛇を踏む」の面白い所です。

〈私〉と蛇が姿を変えた女との奇妙な共同生活を通して、人間が生きていく時に抱えざるを得ない重みや面倒くささを描いたような作品。

作品の雰囲気は、たとえばこんな感じです。女に姿を変えた蛇に、母親だと名乗られ、何度も何度も蛇の世界に誘われる〈私〉、ヒワ子。

「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことはある?」
 誘うような目をして訊いた。
 何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、はて、今までにあっただろうか。
(中略)
「ないような」
 そう答えると、女は口を広げて笑った。
 それから女が重ねて訊ねるかと待ったが、もう何も訊ねない。訊ねず、天井にするりと登って私を見下ろした。
「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」としきりに叫びながら、蛇のかたちに戻った。蛇のかたちになっても、
「ヒワ子ちゃん」
 そういう音が止まない。
 蛇のたてる衣擦れみたいな摩擦音に混じって、「ヒワ子ちゃんヒワ子ちゃん」とも「シュルルルウシュルルルルウルウルウ」とも聞こえる音が鳴りつづけている。
 強風の晩に聞こえるような、不思議な音だった。
(37~38ページ)


おかしな状況に巻き込まれているにもかかわらず、パニックになったり感情的になったりせずに、それを淡々と見つめているような描写。

作品の雰囲気としては、夏目漱石の『夢十夜』、内田百閒の『冥途・旅順入城式』、稲垣足穂の『一千一秒物語』など、夢の世界を描いたような幻想的な作品にわりとよく似たシュールな面白さがあります。

なので、その辺りの作品をあわせて読むとより楽しめると思いますが、川上弘美ファンにぜひ読んでもらいたい作家がいて、それが倉橋由美子。カフカ的な、安部公房にかなり近い雰囲気を持つ作家です。

蛇・愛の陰画 (講談社文芸文庫)/講談社

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幻想的というよりはもっと意図的に「シュールレアリスム」を組み込んでおり、まどろむようなゆるやかな雰囲気が魅力の川上弘美よりも攻撃的な感じのする作家ですが、倉橋由美子も機会があれば、ぜひ。

作品のあらすじ


『蛇を踏む』には、「蛇を踏む」「消える」「惜夜記」の3編が収録されています。

「蛇を踏む」

こんな書き出しで始まります。

 ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。
 ミドリ公園を突っきって丘を一つ越え横町をいくつか過ぎたところに私の勤める数珠屋「カナカナ堂」がある。カナカナ堂に勤める以前は女学校で理科の教師をしていた。教師が身につかずに四年で辞めて、それから失業保険で食いつないだ後カナカナ堂に雇われたのである。(9ページ)


柔らかく、踏んでもきりがないような蛇はどろりととけて五十歳ほどの女性のかたちになると〈私〉の部屋のある方角へ歩き去りました。

甲府のお寺に数珠を納品しにいくのに同行して家に帰ると、食事の支度をして待っていたのが女の姿をした蛇。誰なのか尋ねると「ああ。わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」(17ページ)と言うのです。

実家に電話をすると母が出ました。女は気にせずぱくぱくとご飯を食べ、「ヒワ子ちゃんはどうして教師をやめたの」(18ページ)などと聞いてきます。食べ終わると女は、天井で蛇になって眠りました。

女はそのまま居座ってしまい、〈私〉の知らない思い出話をしてきます。母は別にいるのだと言っても「それはそうだけど、でもあたしだってヒワ子ちゃんのお母さんなのよ」(26ページ)と言うばかり。

女は何度も執拗に〈私〉を蛇の世界へ誘い続けてきたのですが……。

「消える」

こんな書き出しで始まります。

 このごろずいぶんよく消える。
 いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。
 消えている間どうしているかというと、しかとは判らぬがついそこらで動き回っているらしいことは、気配から感じられる。風がないのに次の間への扉ががたがたいったり、箸や茶碗がいつの間にか汚れていたり、朝起きてみると違い棚に積もっていた埃が綺麗にぬぐわれていたりするのが、兄なのであろう。(69ページ)


困るのが、兄は見合いで出会ったヒロ子さんともうすぐ結婚することになっていること。ヒロ子さんには兄が消えたことは話しておらず、次の兄が上の兄のふりをして電話で睦言を言い合っているのでした。

ヒロ子さんの家は昔の祈祷師が竹の筒に入れて運んだといわれる通力を持った想像上の狐、管狐(くだぎつね)を三匹も飼っているという話で、それ故に父と母はヒロ子さんの家との縁談に乗り気なのです。

ただ、ヒロ子さんがうちにやって来るということは、また新たな問題を引き起こします。誰かが一人出て行かなければならないのでした。

家族は五人でなければならないという決まりがいつからかあって、ヒロ子さんと兄が結婚するなら、ヒロ子さんの家は一人増やさなければなりませんし、〈私〉の家族は一人減らさなければならないのです。

もっともそれは、今となっては形骸化した決まりでもあるので、書類上だけなんとかしておけば、なんとでもなる問題でもあるのでした。

やがて次の兄とヒロ子さんの縁談が進められていったのですが……。

「惜夜記」

1 馬

「背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいる」(105ページ)のでした。まだ黄昏時ですが密度の濃い暗がりが背中の辺りに集まってしまったようです。なんとか夜を離そうとしますが……。

8 シュレジンガーの猫

少女とはぐれ、探す内に少女が入ったらしき箱を見つけたのでした。

 今この箱の中にある少女とはいったい何であろうか。いるようでいない。いないようでいる。いるといないが半分ずつ混じったような、そんなものであろうか。(131ページ)


ナイフを使っても箱はあけられず、斧で叩き割れば少女を傷つけてしまいそうです。迷いながらいつしか箱を壊したい衝動に駆られ……。

とまあそんな3編が収録されています。「消える」も「蛇を踏む」に負けず劣らず書き出しが魅力的で、ちょっとおかしな、かつ曖昧なものに支配されているような、不思議な雰囲気漂う面白さがあります。

「惜夜記」は、夢のような幻想のような話が綴られた19の短い章からなる作品で、奇数の章が幻想譚、偶数の章が少女との話という構成。それぞれ特に印象に残ったものを一つずつ紹介しておきました。

はっきりしたストーリー展開やテーマ性を求める読者にはあまり向きませんが、シュールさや幻想性が強い物語が好きな方、ゆったりした雰囲気の小説が好きな方には自信を持っておすすめできる一冊です。

興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、キシュ/カルヴィーノ『庭、灰/見えない都市』を紹介する予定です。

ダニロ・キシュ『庭、灰』/イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

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庭、灰/見えない都市 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)/河出書房新社

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ダニロ・キシュ(山崎佳代子訳)『庭、灰』/イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『見えない都市』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

子供の目と大人の目はやはり少なからず違います。たとえ同じものを見ていて、同じことを体験しても、とらえ方や感じ方が違うのです。

文学作品には、感受性豊かな子供時代を回想したすぐれたものがあって、たとえばぼくが忘れられないのは、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」。ぼくの時代は中学の国語の教科書に載っていました。

少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集/草思社

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蝶や蛾をコレクションするのがはやっていて、主人公はふとした出来心から友達の蛾を盗んでしまうんですね。返しに行って謝ろうにも、思わず強く握りしめたせいで蛾をばらばらにしてしまっていて……。

手の平で砕け散った蛾の鮮烈なイメージと罪悪感が重なる素晴らしい作品。どこにも逃げ場のない主人公にすごく共感させられただけに、なんだか軽くトラウマみたいな感じもありつつ、心に残っています。

大人だったら悩まないだろうと思うんですよ。お金なり何らかの方法で解決出来ますし、たとえ解決出来なかったとしても、割り切ることで気持ちの整理はつけられます。子供ではそうはいかないのでした。

日本文学で言えば特に印象深いのが、中勘助の『銀の匙』。誰もが少なからず経験するような、ごくありふれた子供時代の出来事が綴られた小説ですが、感覚的な文章がとても美しく、思わず魅了されます。

銀の匙 (岩波文庫)/岩波書店

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さて、今回紹介するダニロ・キシュの『庭、灰』もまさにそうした子供ならではの目と感覚で描かれる、みずみずしい雰囲気を持つ作品です。主人公の少年が、初めて異性を意識する場面を紹介しましょう。

父同士が友人で家に来ることがあるエディット嬢は癲癇(てんかん)持ちで、時折発作を起こすことがありました。母が介抱をするのですが、ブラウスのボタンがはずされた、胸の白さに圧倒されたのです。

 エディット嬢は僕たちの家に、硬直した家父長的な空気の中に、異国情緒と厭世観、暗くて濃密な女の香り、どこか都会的で優雅な、言わば貴族的な雰囲気を持ち込んだ。あの都会的な憂鬱が、彼女の声の中や、あこや貝色のマニキュアを塗った爪や、神経質で震えるような仕草や、蒼ざめた顔色や、祭儀と情熱、魅惑的で妖艶な黒猫と、彼女の情熱の紙箱に金文字で記された同名の香水の象徴で始まる貴族病の中にあった。彼女は僕の眠りに不安を持ちこんだ。彼女のレースの揺らめきのように、僕の好奇心と子供らしい安らぎを試す彼女の香りのように、流動的で謎めいた不安を。その香りは僕たちを陶酔させ、その存在によって、僕たちの家の枠組みをこえ、僕の知識の限界をこえ、僕たちの心地よい日常の領域をこえた、何か別の世界について語っていた。
 エディット嬢の香り、まぎれもなく人工の香りは、僕の魂に不協和音を持ちこんだ。(31~32ページ)


それまで母にべったりだった少年は初めて別の女性に心惹かれたのでした。こんな風にマルセル・プルーストを思わせる、匂いなど感覚的表現に満ちた文章で、他にも少女との初恋などが綴られていきます。

少年の家族は、何故だか何度も引っ越しをするんですね。そしてある時、父が姿を消してしまいました。子供の目からはその理由がはっきりとは分かりませんが、読み進める内に、読者は理由に気付きます。

少年の父はユダヤ人だったから。第二次世界大戦中、ハンガリーの支配下にあったヴォイヴォディナ地方を舞台に、ユダヤ人の迫害を直接ではなく子供の目を通し、家族の物語として描いた小説なのでした。

感性豊かな文章と、深いテーマ性をあわせ持つ、興味深い作品です。

ダニロ・キシュは旧ユーゴスラヴィア、現在のセルビアのスポティツァ市出身。『庭、灰』は『若き日の哀しみ』(東京創元社)、『砂時計』(松籟社)とあわせて「家族三部作」と呼ばれているそうです。

一方、イタロ・カルヴィーノは”文学の魔術師”と呼ばれる、イタリアを代表する幻想文学作家。ストーリーよりも発想が面白い作家なので、一般受けはしませんが、コアなファンが結構います。ぼくとか。

シュールかつ計算しつくされ、整然とした構成を持つ作品世界は美しく、好きな人にはもうたまりません。『見えない都市』は、モンゴルの皇帝フビライ汗がマルコ・ポーロから世界の都市の話を聞く物語。

どちらも実在した人物ですが、二人の対話はどことなく妙な具合に進んでいきます。そして都市の感想ではなく、イメージについて語られることで、都市は時に荒唐無稽に、時に曖昧になっていくのでした。

あうあわないがありますが、”存在”について、考えさせられる作品。

作品のあらすじ


ダニロ・キシュ『庭、灰』


朝になると、母が肝油と蜂蜜をお盆に乗せてやって来ます。〈僕〉と姉のアンナは時に不満の意を表明しながらも、それを飲むのでした。

ある時、まだ会ったことのない叔父さんが亡くなったと知らされます。もう会うことは出来ない叔父さん。その出来事は〈僕〉に母も父もアンナもそして自分もいつか死んでしまうと気付かせたのでした。

母は、時折やって来るエディット嬢に心惹かれた〈僕〉に、「わかってるわ、坊や、いつかお前はお母さんを永遠に捨ててしまう。天井裏か老人ホームに片付けてしまうのだわ」(32ページ)と言います。

その頃、父が熱心に取り組んでいたのは『バス・汽船・鉄道・飛行機時刻表』の改訂作業で、ちょっとした観光案内や芸術、文化など様々な情報を組み込もうとしたが故に作業は難航を極めていたのでした。

行き詰まった父は冬になると勝手に姿をくらまし、春になるまで帰って来なかったりも。何かと引っ越しが多い〈僕〉の家。明け方村人たちが押し寄せて、母が片言の外国語で言い争ったこともありました。

学校のクラスで気になっていたのがユリアという少女。頭がよく、信奉者の多いユリアを打ち負かすことに熱意を燃やした〈僕〉はついにユリアの心をとらえることに成功し、ひそかに会うようになります。

 目覚めた官能の力に導かれ、感覚と認識の新たな空間を前に心うたれて怖気づき、たがいの神秘をみつけあうという事実に誇りを感じ、人体解剖学と鳥肌のたつ秘密に目が眩むほど我を失い、僕たちは前より頻繁に会うよういなって、偶然を装って触れ合った。狭い混みあった教室の入口や運動場や庭で、干草の中やサボーさんの馬小屋で、黄昏どきに。その罪の眩暈の前に試練を味わい、二人の身体の作りや、身体のくびれたところの匂いの違いに気づき、それまでぼんやりと感じてはいてもはっきり気がつかなかった事実に心うたれ、怖くなって、僕たちは、互いに秘密のすべてを明かし、注意深く見せ、説明し合った。色本や人体解剖図でも見るように、僕たちは互いに眺め合い、最初の人間みたいに無邪気に動物や植物と比べた。ああ、なんという信頼。なんという秘密。桃の実みたいに金の産毛に覆われ、老いのもたらす暗い染みなどはまだなく、僕たちは皮をむいたオレンジみたいに裸で向かい合っていた、じきに追われることになる楽園で。(64~65ページ)


やがて父の孤独な散歩が、村人や役人から不審に思われ、国民民間防衛隊と村の青年(ファシスト)団体が、「父の彷徨と変身の意味を解明する」(88ページ)ために、動き出すこととなってしまい……。

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』


広大無辺な領土を持つ韃靼人たちの皇帝であるフビライ汗に、派遣使として訪れた都市の話をするヴェネツィア人の青年マルコ・ポーロ。

東方の言葉に無知なマルコ・ポーロは身振り手振りでフビライ汗に語りかけます。それがはっきりしている時でも曖昧な時でも、すべて表象としての力が備わっていて、フビライの脳裏に形象が浮かびます。

次第にフビライはマルコ・ポーロの話をさえぎるようになりますが、返答や反論はすでにフビライの頭で展開されており、声に出そうとお互いに黙って琥珀の煙管をくゆらせていようと同じことなのでした。

やがてフビライが学んだのか、マルコ・ポーロが学んだのか、言語でのコミュニケーションが出来るようになりますが、そうすることでイメージの伝達はより困難になり、ふたたび身振り手振りになります。

そしてフビライはマルコ・ポーロから話を聞くのではなく、フビライがイメージした都市があるかどうかの確認をマルコ・ポーロにするようになっていきました。ただひたすら都市について語り続ける二人。

二人の議論は、都市や人間の、存在を問うものになっていきます。

 ポーロ――「人夫も、石工も、ごみ拾いも、鶏の内臓を掃除する料理女も、石の上に屈み込む洗濯女も、赤児に乳哺ませながら米を炊く主婦も、すべてわれらが思うがゆえに存在するばかりである、と」
 フビライ――「ほんとうのことを言えば、朕はついぞそのようなものを思わぬぞ」
 ポーロ――「ならば彼らは存在いたしませぬ」
 フビライ――「これはどうやら適当な推論のようには朕には思われぬがの。彼らがおらねば、このようにハンモックにくるまってのんびりゆられていることなぞ、よもできまい」
 ポーロ――「それならば、この仮定は排されねばなりませぬ。したがって、もう一方が真ということになります、すなわち彼らが存在するのであって、われらが存在するのではない、と」
 フビライ――「われわれは証明したわけだな、もしわれわれが存在するというならば、われわれは存在しないことになるのだ、とな」
 ポーロ――「いやはや、われらはこのとおり、ここにおります」(291ページ)


読みの深い将棋の指し手であるフビライは、都市から規則性を読み取れば個々の都市を知らなくても帝国を築きあげられると言って……。

とまあそんな2編が収録されています。考えてみれば、都市というのは不思議なものですよね。たとえば「東京」を思い浮かべてみても分かりますが、漠然としたイメージなしには、想像出来ないものです。

そうして思い浮かべたイメージというのは、極めて曖昧なものであり、時には個人的な思い入れが強いもののはず。それを客観性を持たせて誰かに伝えようとするという物語ですからシュールでユニーク。

あらすじ紹介ではざっくり省きましたが、マルコ・ポーロが語る奇妙な都市の短い章で構成されている物語なので、その都市一つ一つの話も興味深いです。どんな不思議な都市なのか注目してみてください。

ストーリーとしての面白さこそないものの、発想としてずば抜けている小説。曖昧なイメージに対する議論がやがては存在の有無という哲学的問答に結びつく面白さのある作品に、関心を持った方は、ぜひ。

明日は、町田康『きれぎれ』を紹介する予定です。

町田康『きれぎれ』

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きれぎれ (文春文庫)/文藝春秋

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町田康『きれぎれ』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

町田康の小説が好きだという人と椎名誠の話で盛り上がって、その後で筒井康隆や中島らもの話で意気投合した、そんな思い出があります。町田康はつまり、そういう面白さがあるタイプの作家なんです。

どういうタイプかというと、独特の癖のある文体でどこか異様な世界を描く作風だということ。椎名誠、筒井康隆、中島らも辺りが好きという方は、ぜひ町田康の小説を読んでみてください。ハマりますよ。

独特の言葉のセンスで作り上げられた、異常な世界に魅了されたファンを持つ一方で、それだけの濃い作風ですから、まったく受け付けないという人もいます。実際に、芥川賞の選評でも評価は割れました。

ちなみにぼくは結構好きなんですよ。これが純文学かどうかの議論はともかく、町田康ならではのパワフルなギャグが面白いです。たとえば、「きれぎれ」の中にはこんな印象的なエピソードがありました。

ランパブで出会って結婚した奥さんのサトエは、どんどん家の中に物を持ち込んで、三ヶ月も経つと足の踏み場もないぐらいになります。

ずぼんを穿こうと思って、衣服の山のなかから探し当てたずぼんに左足を通し、畳に足を着けたところなにか棒のようなものが当たる感触がある。なんだろう、と思いつつ、とりあえずずぼんを穿き、感触のあったあたり、サトエの靴下や俺の猿股、不分明な布などを退けてみると、どういう訳か、畳に鎌が突き刺さっていた。しかし、俺は鎌を突き刺した覚えはないし、やったとしたらサトエだとしか考えられないのだけれども、いったい何のために畳に鎌を突き刺すのか、その理由が分からぬから不気味、といううか、もともと家に鎌などなく、つまり鎌や、その他のものもサトエの嫁入り道具ということになるのだけれども、嫁入りの際、サトエはスーツケースひとつぶら下げていただけだし、いついかなる方法でかかる大量の物品を家に運び込んだのだろうか、というのも謎で、訳が分からない。(45~46ページ)


この後、何故鎌があるのかという主人公の男の想像というか妄想が膨らんでいってどんどん面白さが加速していくのですが、ともかくこんな文体です。あうあわないをここで判断するとよいかも知れません。

「何故、鎌があるのだ?」と眉間にしわを寄せて理由を追い求める読者にはあまり向きませんが、くすっと笑ったり、ナンセンスさにおかしみを感じたりした方は楽しめますので、ぜひ読んでみてください。

町田康はダメ男を描かせたら天下一品で、日本文学で言うと、自分をダメ男として描いた「私小説」の近松秋江や岩野泡鳴、或いはダメ人間界の巨人「無頼派」の太宰治と比較されたりすることが多いです。

勿論、それらの作家ともある程度の共通点を見出せると思いますが、重要なのは、町田康が大阪出身の作家だということ。文体と内容のパワフルさとか、濃さというのはその辺りの要素も大きいと思います。

そして同じく大阪出身であり、太宰治や坂口安吾と共に「無頼派」に数えられる作家が織田作之助。代表作の『夫婦善哉』は身を持ち崩した良家のぼんぼんとそれを支える女を描くまさにダメ男文学の白眉。

夫婦善哉 (新潮文庫)/新潮社

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もし町田康を日本文学の作家と比較するなら、ぜひ読んでもらいたいのが織田作之助です。これまたこてこてというか、独特の文体の作家ですが、『夫婦善哉』を含め残された作品はほとんどすべてが短編。

そうした点では読みやすいので、興味のある方は、あわせて読んでみてはいかがでしょうか。「青空文庫」などでも読むことが出来ます。

作品のあらすじ


「きれぎれ」「人生の聖」の2編が収録されています。

「きれぎれ」

並木町にある老舗の陶器店に生まれた〈俺〉ですが、信頼されていないが故に家業の仕事は任されず、ぼんやりと画家を目指しながらも絵すら描かず、ただ闇雲に年齢だけを重ねている中途半端な人生です。

お金がなくなると店に行っては母親に無心をしていました。不在だというので、店の女の子に「奥にいるから戻ってきたらいっといてちょんまげ」(27ページ)と言いますが、店員はくすりともしません。

前借りは再来年の五月までいっているのですが、さらに借りる条件として、お見合いをさせられることになってしまいました。相手は資産家令嬢の新田富子。しかし〈俺〉はその不細工さが気に入りません。

 と思って。さあ、なんでもそうだが、まとめるのは難しいが、ぶち毀すのは簡単だ、まあ、自分も断るが、相手が、是非に、なんてことにならぬよう、あえて、意図的に滅茶苦茶をやろうと考え、で、やった。
 といっても俺はただ俺についての精確な情報、すなわち、趣味がランパブ通いであること、高校を中途で廃したこと。浪費家であること。夢見がちな性格なうえ、労働が大嫌いなのでこれまでまともに働いたことは一度もないということなどを伝えただけである。しかし効果は覿面だった。新田富子はうつろな表情で窓の外を眺め始め、新田富子の母親は気が狂ったような目で仲人を睨みつけ、仲人は周章狼狽の挙げ句、おほほほ、と笑って場を取り繕おうとして失敗し、母親はひゅうひゅう死にそうな息をした。俺はとどめだとばかりに、「やはり鰻はこうやってちゅるちゅる吸って食うのがいちばん旨いですね」と云い、膳の上にあった鰻重に顔を伏せ、鰻の蒲焼きをちゅるちゅる吸った。(36~37ページ)


翌週、いきおいでランパブで馴染みのサトエと結婚した〈俺〉。賑町の〈俺〉の家に店を辞めて専業主婦となったサトエがやって来ますが、次第に家中物があふれるようになりサトエはどんどん太ります。

初めの方こそ二人の間では口論が絶えませんでしたが、太りすぎて口が圧迫されるのか、喉が絞まるのか、サトエのぼそぼそした言葉はよく聞き取れなくなり、会話はほとんど成立しなくなっていきました。

小学校の時からの知り合いの吉原が画家として成功し、時の人となります。かつては冴えない絵を描いていたはずなのに今では別人のような絵でした。その吉原が結婚したのがかつての見合い相手新田富子。

ところが吉原の隣に立つ新田富子は誰もが認める美人だったのでした。〈俺〉は新田富子に対して自分が抱いていた印象との違いに戸惑いますが、確かに着物の柄は見覚えのあるもののような気もします。

新田富子に惚れてしまった〈俺〉は再び絵筆を持って人生をやり直す決意をしますが、絵の具を買うお金がなく、お金を手に入れるために頼りになりそうな友人や知人を訪ね歩くこととなったのですが……。

「人生の聖」

何においても無能なくせに自慢話ばかりをしていたかつての同僚鰓菱金吾のことなどを思い出しながら、〈僕〉はビル掃除の仕事へと出かけます。ところが約束の時間と場所になっても誰も来ませんでした。

一応、二十分ほど待ってみてから、もう帰ってしまうことにします。

 そうして歩くうち、思ったことに僕は俺は驚いた。驚愕した。おんなじこと二回言うな、吃驚した。キッキョーした。俺は、自動券売機の前で、ほほ、海がみたいと思ったのだ。と、しかし、これも充分に怪しい。なんで。ほほ、つまり、僕は積極的に海を見たいのではなく、実は家に帰りたくなかっただけで、なんとなれば家に帰れば、あの屈辱的なハムの骨がある。掃除屋から電話がある。仕事をしましょうよ/掃除をしましょうおず/と言って約定を交わし、そうして、それをしなかった以上、後はみな弥縫策だ、あ、九時二十分まで待ってたんっすけど。バカヤロー、なんで電話しなかったんだ。僕はこころを曲げてにやにや笑って、ありがとう。むかしからあなたが好きだった。ハムをありがとう。こんな僕にハムを。と二拍三連で歌って。また叱られて。心が擂粉木のやうに摩滅して、俺、コロポックリ。悪戯好きな魔人だぜ。みたいな感じって感じ、になっちゃう事を事前に避けようと。トラブルは事前に回避しようと。というような変な日本語を僕は喋らなかったぜ。と思います。と最後までいったぜ。あの頃。(127~128ページ)


社食で「グランドリッチ定食」を食べていた〈俺〉法界は頭代課長とべったりの鰓菱金吾から、あの成績でそれを食べるということは、第三四半期の成績に相当自信があるんでげしょうと嫌みを言われます。

奮闘してすさまじい勢いで仕事をしていた〈俺〉の脳はパンクしてしまい、求職を余儀なくされてしまいました。やがて求職中の孤独な断裂死を迎えそうになった〈俺〉は、脳の世界に入ってしまって……。

とまあそんな2編が収録されています。「人生の聖」はさらにぶっ飛んでいて意図的な表現なのか誤植なのかよく分からないぐらいです。

語り手を入れ替わらせることによって、ダメ人間の人生を多角的に描いているのだと、言おうと思えば言えなくもない作品ですが、現実ではありえない出来事が起こるだけにわけわからん感じがあったりも。

まあ理解することは諦めて、ただただ奇妙な物語世界に圧倒させるというのが意外と正しい読み方なのではないかなと思います。独特の文体と個性豊かな世界観を持つ作家町田康に興味を持った方は、ぜひ。

明日は、モランテ/ギンズブルグ『アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家』を紹介する予定です。

エルサ・モランテ『アルトゥーロの島』/ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』

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アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)/河出書房新社

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エルサ・モランテ(中山エツコ訳)『アルトゥーロの島』/ナタリア・ギンズブルグ(須賀)『モンテ・フェルモの丘の家』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

愛と憎しみとは表裏一体と言われることがあります。愛するが故に嫉妬など様々な思いに苦しめられるわけですし、憎むということは、それだけ対象へ執着を抱いているということで、愛によく似ています。

そうしたアンビバレンスな(対照的な両極端の)感情を巧みに描き出した作品が、今回紹介する『アルトゥーロの島』。出産で母は亡くなり、父はいつも旅ばかりしているので、いつも孤独な少年が主人公。

そんな主人公が14歳の時にやって来たのが若い継母でした。父がナポリの女性と再婚したのです。父から愛情を注がれたいと思い続けていた少年は、初め継母に激しい敵意をむき出しにするのですが……。

かつては映画化されたタイトルにあわせて、『禁じられた恋の島』というタイトルだったそうですが、相変わらず父は旅ばかりしているので、少年はその継母と二人きりでずっと過ごすことになるわけです。

身近に女性がいたことがなく、愛情に飢えていただけに、少年の継母への想いは強くなれば強くなるほど、どこか憎しみに似ていくのでした。継母と少年の、複雑に揺れ動く心を描いた作品になっています。

引き込まれるテーマの小説ですよね。一歩間違えればポルノになってしまいそうな淫靡な関係性を思わせる物語なだけに、思わず展開が気になってしまいました。ただ、あまりエロティックさはないですね。

この継母が若いんです。2歳上の16歳。なので、フランス文学でよくあるように、性的に成熟した者が未熟な者を導くような物語にはなかなかなっていきません。最終的にどうなるかは伏せておきまして。

作者のエルサ・モランテは、イタリア文学を代表する女性作家です。この「世界文学全集」に『軽蔑』が収録されている、同じくイタリア文学の有名な作家アルベルト・モラヴィアの奥さんでもありました。

モランテより4歳ほど年下ですが、ほぼ同世代のイタリア文学の女性作家が、ナタリア・ギンズブルグ。この巻に収録されている『モンテ・フェルモの丘』は、複数の男女の恋愛を描いた書簡体小説です。

書簡体小説というのは、手紙で構成されている小説のことで、どうしても小説的な勢いには欠けることから、ぼくはこの形式の小説があまり好きではなかったのですが、この小説はすごくよかったですねえ。

楽しい出来事というよりは、人生で起こる悲しい出来事が紡がれる物語ですが、起こる出来事がとてもリアルに感じられるだけに、非常に共感させられました。書簡体小説で一番好きな作品かも知れません。

似ているかどうかはちょっと微妙ですけども、読みながらぼくが連想していたのは、ウォン・カーウァイ(王家衛)の映画でした。さみしさなどの感情を中心にした群像劇を得意とする香港の映画監督です。

個人的には『欲望の翼』が好きで、またウォン・カーウァイのベストだと思っていますが、今回おすすめしたいのは、『恋する惑星』。金城武やトニー・レオン、歌手のフェイ・ウォンらが出演しています。

恋する惑星 [DVD]/角川書店

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香港の街角を舞台に、複数の男女のすれ違う一方通行の想いを描いた群像劇で、どことなくメロウな(ゆったりとして美しい)雰囲気が魅力の、映像と音楽が印象的な作品です。こちらも機会があればぜひ。

また逆に言えば、ウォン・カーウァイの映画が好きな方は『モンテ・フェルモの丘の家』を読むと結構ハマるのではないかなと思います。

作品のあらすじ


エルサ・モランテ『アルトゥーロの島』


18歳に満たぬ若さで出産時に亡くなった母を持つ〈ぼく〉。母を偲ぶものと言えば、幻のような姿で映っている色褪せた小さな写真しかありませんでした。〈ぼく〉が暮らしているのはプロチダという島。

島にはアマルフィからやって来たロメオという男が暮らした館がありました。何故か女性を嫌い、館に女性を近づけようとしないことで有名だったアマルフィ人。唯一親しかったのが、〈ぼく〉の父でした。

祖父とドイツ人の小学校教師との間に私生児として産まれた父は、祖父からずっと放ったらかしにしておかれたのですが、16歳ほどの時に、祖父の名前と遺産とを継ぐために、プロチダに呼ばれたのです。

しかし祖父とは馴染めずに、アマルフィ人と親しくなった父は、やがて祖父の遺産の他に、アマルフィ人の館も受け継いだのでした。母の早すぎる死を、女性を受け入れない館のせいだと人々は噂したりも。

まだ赤ん坊の〈ぼく〉を、15歳ほどの使用人シルヴェストロにまかせて、父は旅に出てばかり。〈ぼく〉は6歳で飼い始めた、月のように真っ白なことからインマコラテッラと名付けた雌犬と過ごします。

14歳になった時〈ぼく〉をめぐる環境は大きく変わりました。父がナポリから16歳の女性を連れてきたのです。父の再婚相手でした。

 花嫁はようやく旅のコートを脱いでいた。ビロードのスカートの上には赤いセーターを着ていたが、これもコート同様に彼女にはもう小さくきつくなっていた。この服装なら、彼女の体形をよく見ることができた。それは、経験のないぼくの目にも、歳のわりにはかなり発達しているように見えたが、でもその女性らしい姿のなかに、まるで彼女自身、自分が成長したことに気づいていないような、どこかあどけない未成熟さと無頓着さがあった。肩はほっそりして胴まわりは小さく、そのまだ未熟な上半身に彼女の胸は重すぎるように見えた。それは、なにやら不思議な、やさしい哀れみを抱かせるのだった。幅広くて少し不格好な腰の重々しさは、彼女に力強さを添えはせず、ぎこちなく無防備な無邪気さを与えていた。(115ページ)


弟や妹がたくさんいるヌンツィアータは、〈ぼく〉の母親代わりをしようとしますが、子供扱いされることが気に食わず、親しく打ち解けて話した後でそれをすぐさま後悔するなど、反発し続ける〈ぼく〉。

ヌンツィアータがパスタを作ってくれても、パスタは嫌いだと言い、「あんたはぼくのなんでもないんだ。あんたとは親戚でも友だちでもない。わかったか?」(160ページ)と〈ぼく〉は叫ぶのでした。

元々愛し合って結婚したわけではないらしく、父は継母を置いて相変わらず旅に出てばかりです。やがて、可愛らしい赤ん坊が産まれたことで、ようやく継母は自分が愛情を注げる対象を見つけたのでした。

継母が弟にキスする姿を見て、〈ぼく〉はいまだかつて誰からもキスされたことがないことを思います。ボートやオレンジにキスしてみますが、それはざらざらの樹皮であり、塩気のある苦い味なのでした。

なんとかして継母の関心を引きたい〈ぼく〉は、致死量を確かめた上で毒を飲み、自殺したように見せかける計画を立てたのですが……。

ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』


ローマからジョゼッペは、アメリカにいる兄フェルッチョへ手紙を書きます。ついに切符を買ったこと。アメリカに来いとは言ってくれたもののフェルッチョが本当に後悔しないかどうか気にしていること。

ジョゼッペはモンテ・フェルモの《マルゲリーテ》という家で暮らしている、別れた愛人ルクレツィアへも手紙を書きました。別れを言いにわざわざローマまで来ないでほしいし、電話もしないでほしいと。

ルクレツィアは、ピエロという男とお互いに干渉しない「開かれた結婚」をしており、ジョゼッペとは一時期愛人関係にあったのでした。

たくさんの子供の中でグラツィーノは自分の子だとルクレツィアから言われたジョゼッペですが、それを信じません。そんなジョゼッペには、離婚した妻との間にアルベリーコという成人した息子がいます。

同性愛者であり、色々と問題を起こしては周りを困らせていたアルベリーコでしたが、今は仲間と映画作りをがんばっているようでした。

ジョゼッペはルクレツィアへの手紙で故郷を離れる思いを綴ります。

 ぼくはローマの町を果てしなく歩く。昨日はバスに乗って、サン・シルヴェストロ広場まで行った。街角に捨ててある破れたゴミ袋、日本人の旅行者、新聞紙をしいて寝ている乞食、郵便局のトラック、救急車のサイレン、警察のオートバイ。どれも、これといって特別なものじゃない。だけどぼくは、ゆっくりと、愛情をこめてさよならを言った。アメリカには、また違った広場があって、そこにも旅行者や乞食がいて、サイレンが鳴ってるだろう。だけどそれはぼくにとって、関係のないものだ。人生で、ほんとうに自分のものと言えるものは、そういくつもあるはずはないのだ。ある年齢まで生きてきた人間にとって、初めて見るものは、もう関係ないのだ。旅行者として眺めるだけで、興味はあっても心はつめたい。他人のものなんだ、それは。(388ページ)


ローマの家を売り払い、期待に胸を膨らませてアメリカへ向かったジョゼッペでしたが、兄と二人、水入らずで暮らせると思っていたのに、兄が結婚することを決めたと知って、戸惑いを隠しきれません。

一方、ジョゼッペの知り合いでもあり、絵画修復のために家へ呼んだイニャツィオ・フェジツと知り合ったルクレツィアは恋に落ちて、ジョゼッペとの関係も含め、今までの恋は思い違いだったと書きます。

あなたと知り合っても、わたしの人生の色が根本的に変ったということはありませんでした。こんどはほんとうに色が変ってしまったのです。ピエロは、あなたとのことはゆるしてくれて、心配もしませんでした。あなたとのことは、いわば血の流れない不倫でした。でも、こんどの不倫は血が流れる種類の不倫です。わたしとアイ・エフは死ぬほど愛しあっていて、ふたりでどこかに行ってしまうつもりです。いつ決行するのか、どこへ行くのかはわからないけれど。どこかの町で家を借りようと思ってます。子供たちは連れて行きます。あなたは子供のことでおじけづいたけれど、彼にはこわいものなどありません。(436ページ)


ルクレンツィアは、ピエロと別れ、モンテ・フェルモの家《マルゲリーテ》も捨てて、愛人と生きていく道を選ぼうとしたのですが……。

とまあそんな2編が収録されています。『モンテ・フェルモの丘の家』はアメリカに渡ったジョゼッペと、そのかつての愛人で、恋に生きようとするルクレンツィアのそれぞれの手紙が軸となる物語です。

他にもジョゼッペの友人のエジスト、セレーナ、アルビーナ、いとこのロベルタ、息子のアルベリーコなどの書き手も登場して、それぞれの人生の悲喜こもごもが少しずつ綴られていくこととなるのでした。

失ってしまった家や、もう取り返しのつかない愛情など、様々なモチーフが散りばめられた物語で、人生というものがリアルに描かれた共感しやすい作品なだけに、しみじみと胸に染み入るものがあります。

書簡体小説というのはどういうものなんだろうと関心を持った方はぜひ読んでみてください。書簡体小説の中で指折りの面白い作品です。

この「世界文学全集」は、政治的に意味があるものや、テーマ的に興味深いものなどどちらかと言えば文学的価値のあるものが多いという感じですが、この巻は物語として面白くとても読みやすい巻でした。

イタリア文学の女性作家をまとめた一冊。興味を持った方は、ぜひ。

明日は、モブ・ノリオ『介護入門』を紹介する予定です。

モブ・ノリオ『介護入門』

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介護入門 (文春文庫)/文藝春秋

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モブ・ノリオ『介護入門』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

最近はわりと受賞会見での発言が話題となることも多い芥川賞ですが、中でもぼくが結構好きなのは、モブ・ノリオが冒頭にぶっかました「どうも、舞城王太郎です」というギャグ。すべりましたけども。

少し説明をすると、舞城王太郎もその時候補にあがっていた作家で、正体が分からない覆面作家なんですね。受賞したら姿を現すかどうかが話題になっていただけに、そういうギャグに結びついたわけです。

そんなモブ・ノリオのデビュー作兼受賞作が「介護入門」。29歳、金髪でほぼ無職、音楽に耽溺しマリファナを吸っている主人公の目を通して、老人の自宅介護という現代の社会問題が綴られた物語です。

自宅介護という、なかなかに語られにくいテーマを、ヒップホップを思わせる饒舌な語りの文体で描いたその手腕が高く評価されました。

俺の命は祖母の襁褓を新たに敷き直すため、熱めのタオルで尻を拭うため、寝汁で湿ったメリヤスの下着を脱がして更に着せ替えるためだけにある、そう言い聞かせなくては、俺はこの夜から復讐を果たすことができないんだ、朋輩。熟睡に常時飢える俺の浅い眠りは、毎回レム睡眠を深夜の目覚ましに破られる度に、羽化に失敗した深夜の蟬の幼虫になって、飛んでいるつもりが開き切らず皺くちゃに固まった青い翅で地を這い回るみたいに、おお、四つん這いで折り畳みベッドから抜け出すのだ。(中略)自らやろうと決めたばあちゃんの下の世話程度でこの有様だ、自宅介護で破綻する奴らもいるだろう、肉親を殺し自分も死のうと考える奴がいたっておかしくないさ、長生きしてくれと思う日々の甲斐甲斐しさの裏で、ふと、この生活がいつまで続くのかと青ざめる、それは未来永劫続くと思われるんだぜ。(52~53ページ)


ラッパーが相手への批判をする、いわゆる「ディスる」ように、深夜の介護の大変さを知らない親戚の、上辺だけのやさしさや、ヘルパーの手抜きなど、介護にまつわる矛盾を徹底的に「ディスる」主人公。

金髪という見た目や、生活態度がちゃらちゃらしているように見えるイメージがとことん悪い主人公なだけに、かえって、そうした「ディする」内容が鮮やかに浮かび上がり、説得力を持って来るのでした。

さて、折角なので、ヒップホップ関連についておすすめをいくつか。

海外で有名なヒップホップ・アーティストと言えばエミネムがいますが、そんなエミネムが主演した映画が『8Mile』。エミネムが歌う主題歌の「ルーズ・ユアセルフ」も、かなりヒットしましたよね。

8 Mile [DVD]/ジェネオン・ユニバーサル

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劣悪な環境で育った青年がラップのバトルの大会に出場して、ラッパーとしての成功を目指すという、エミネムの半自伝的作品と言われる映画ですが、夢を追うシンプルな物語なだけに、かなり面白いです。

ラップのバトルの大会自体が興味深いですし、ブリタニー・マーフィ演じる同じく自分の夢を持つヒロインとの関係もとても印象的でした。話題になった映画ですが、まだ観たことがないという方はぜひ。

続いては、日本のヒップホップのおすすめグループを。「RIP SLYME」や「KICK THE CAN CREW」が聴きやすいですし、人気がありますが、ぼくが好きなのは「RHYMESTER」というグループ。

最近では、宇多丸のラジオの映画評が話題になったり、テレビで露出が増えたりと、結構メジャーになったような感じもありますね。特におすすめというか、ぼくがよく聴いているのは、『ウワサの真相』。

ウワサの真相/キューンレコード

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ラップで韻を踏む見事さというのは、当然文学的技巧の巧みさと重なるので、読書が好きな方は、多少攻撃的だったり、卑猥だったりする部分もありますが、ライムスターは意外とハマるだろうと思います。

作品のあらすじ


『介護入門』には、「介護入門」「市町村合併協議会」「既知との遭遇」の3編が収録されています。

「介護入門」

「YO,FUCKIN,朋輩、俺がこうして語ること自体が死ぬほど胡散臭くて堪らんぜ、朋輩」(11ページ、「朋輩」には「ニガー」のルビ)嘘ばかりになるから、聞き流してくれと〈俺〉は語り始めます。

始まりは祖母の痴呆でした。その頃〈俺〉はマリファナ以外のことはどうでもよかったのですが、祖母はダックスフントのいもしない子供を探し、丼鉢の陰や乾物入れの紙箱の裏を覗くようになったのです。

やがては深夜に失禁するようになった祖母は徘徊で転んで怪我をし、下半身不随の寝たきりの状態になってしまったのでした。昼はヘルパーを頼めますが、夜は〈俺〉が祖母の面倒を見なければなりません。

祖母の枕から一メートル少し離れた寝床から、理想的にことが進めば、俺は夜中から朝までに三回も起床する。だがな、実に面白いことを親戚から言われたりもするのだよ。「アンタ、毎日お昼頃まで寝てんのんか?」ああ、日頃から俺を金髪の穀潰しとしてしか認識せぬそいつの無意識がそう言わしめるのだよ、ha、ha、《寝たきり老人介護=孤独のほったらかし》とは、これはまた通俗的な発想だな。そうしたい奴は勝手にそうすればいいだろうが、まるでどこかの安物の雑誌にでもありそうな言葉に騙されていたなら、俺もばあちゃんの笑う顔なんか拝めはしなかっただろうな。
(39~40ページ)


ヘルパーを頼める昼は楽かと思いきや「おばあちゃんにテレビを見てもらっていますと称して、手の空いた介護士が介護ベッドを背にし低俗なワイドショーに見入っていたりする」(44ページ)のでした。

介護入門、一、直接介護をしない肉親にいっさい期待すべからず。一、派遣介護士の人間の質をしっかり見極めるべし。そんな風に〈俺〉は、自宅介護における教訓を学び、心に刻みつけていきます。

やがて、親戚の伯母の言動が〈俺〉を震撼させることとなって……。

「市町村合併協議会」

〈私〉が暮らす市では近くの町や村との合併の計画があがっており、どうやら「公募で選ばれた嘘っぽい名称」(119ページ)がつけられそうです。日曜日、醤油屋の倅で、幼馴染のブッチを訪ねました。

「わしらの市の名前は、なくなるんかなあ。」
「てぃむぽやねぇ。」
「合併してどないするねん。区長のおっさんとか、『んなもん、借金持ったもん同士の寄り合いやがな。』言うとったで。」
「ほんま、てぃむぽやねぇ。」
「なんか、〈まほろば市〉とか、〈大和市〉とかになるんやろか?」
「んー。〈てぃむぽ市〉とかやったら、まだええねんやけどなあ……。」
「……〈てぃむぽ市〉いうのんは、ないわなあ。」
「カッコイイっしょ?」
 私はわざと、ブッチの普段の口癖を真似て、
「シャレオツやわなあ。」
 と返した。(122~123ページ)


子供の頃の懐かしい話や近況について色々と話し合う内に、〈私〉は変化し、やがては失われていってしまう伝統について考え始め……。

「既知との遭遇」

宇宙人対アメリカ人の戦争を描いた映画を娯楽として楽しむ日本人。「劇場の暗闇にやさしく包まれていると、映画の中で〈核〉が発射されるのも止むを得ぬ」(138ページ)感じがするかのようでした。

政府指定の新世代型携帯電話機の所持が国民全員に義務付けられ、六十数年ぶりに徴兵制が復活すると〈てきこく〉と戦争が始まり……。

とまあそんな3編が収録されています。「介護入門」は小説として面白いかは微妙で、楽しめるというよりは考えさせられる作品。介護を体験している方や、介護に関心のある方の胸に、特に響くでしょう。

重いテーマをヒップホップを思わせる独特の語りの文体で描いた目新しさのある作品なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、チャトウィン/フエンテス『パタゴニア/老いぼれグリンゴ』を紹介する予定です。

ブルース・チャトウィン『パタゴニア』/カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』

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パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8)/河出書房新社

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ブルース・チャトウィン(芹沢真理子訳)『パタゴニア』/カルロス・フエンテス(安藤哲行訳)『老いぼれグリンゴ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

まずはノートの話から。みなさんは「モレスキン」というのをご存知でしょうか。イタリアのモレスキン社のノートのことですが、黒い表紙にゴムバンドがついているのが特徴的。値段はちょっと高めです。

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日本橋に丸善という大きな書店があって、充実した洋書のフロアが何より魅力的で、学生時代にはよく通っていたのですが、たしかぼくが初めて「モレスキン」を見たのは、その丸善だったように思います。

かっこいいなあと思ったんですよ。見た目とかもそうですが、うたい文句がすごくて、ゴッホやピカソ、ヘミングウェイなど芸術家が愛用していたノートだっていうんです。もう速攻で買っちゃいましたよ。

まあ、実を言うと、何を書いたらいいのか分からなくて、今なお全然使ってないんですけど。みなさんもどこかで「モレスキン」の棚を見かけたら、「おっ、これかあ」とちょっと手に取ってみてください。

そんな「モレスキン」を愛用していた人物として有名なのが、ブルース・チャトウィン。「モレスキン」のホームページの「モレスキンの歴史」でも紹介されているので、興味のある方はご参照くださいな。

チャトウィンが、アルゼンチンとチリにまたがる台地パタゴニアを旅行して、自分の旅での経験と、パタゴニアに伝わる様々な物語を混ぜ合わせて書き上げた紀行文学が、今回紹介する『パタゴニア』です。

考えてみれば、タフな構造をしている「モレスキン」は、アイディアを書き留めるよりも、旅の記録をつけるのに最適かもしれませんね。

『パタゴニア』は紀行文学なので、小説としての面白さを期待すると肩透かしを食らいますが、一つ一つのエピソードが、とても印象的なんですよ。たとえば、プッチとサンダンスの後日譚などがあります。

ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドは、実在したアメリカの無法者で、「ワイルド・バンチ」と名乗る強盗団を結成し、列車などを襲いました。何故ここまで有名かと言うと、映画になったからです。

それが、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが出演した1969年公開の『明日に向って撃て!』。挿入歌「雨に濡れても」も、聴いたことがない人はいないというくらいに有名な曲ですよね。

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『明日に向って撃て!』は、ハリウッド方式に背を向けた、反抗的で、リアルさにこだわった流れの「アメリカン・ニューシネマ」を代表する作品なので、今観ると、娯楽性はやや乏しいかも知れません。

しかしながら何といってもラストシーンが有名な作品で、今なお様々な映画で引用されたりするので、知っておくとなにかといいですよ。

また、そのプッチとサンダンス、それから、松尾芭蕉とその弟子を思わせる人物も登場する、とにかく荒唐無稽な冒険(?)小説が日本にあるんです。高橋源一郎の『ゴーストバスターズ 冒険小説』です。

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とにかくぶっ飛んだ内容なので、おすすめかどうかはあれですが、『パタゴニア』の池澤夏樹の解説によると、チャトウィンは英訳された松尾芭蕉の『奥の細道』を読んでいて影響されたらしいんですよ。

これはもうシンクロニシティ(意味ある偶然)以外の何物でもないような感じがなきにしもあらずなので、興味あるなあという方はぜひ。

一方、カルロス・フエンテスはメキシコの作家で、『老いぼれグリンゴ』は、革命に揺れるメキシコを舞台にした、アメリカから国境を越えてやって来た老人、グリンゴ(アメリカ人への蔑称)の物語です。

作品のあらすじ


ブルース・チャトウィン『パタゴニア』


こんな書き出しで始まります。

 祖母の家の食堂にガラス張りの飾り棚があった。飾り棚の中には一片の皮があった。それはほんの小さな切れ端で、ぶ厚くごわごわしており、赤茶色の固い毛がくっついていた。皮には錆びたピンでカードが留めてあった。カードには色あせた黒インクで何か書いてあったが、それを読むには私は幼なすぎた。
「あれなあに?」
「プロントサウルスの皮よ」
 母は先史時代の動物の名前をふたつ知っていた。プロントサウルスとマンモスだ。それがマンモスのものではないことを、彼女は知っていた。マンモスはシベリアにいたのだから。(6ページ)


その皮をパタゴニアの洞窟で見つけたのは、チャーリー・ミルワードという商船の船長でした。後に、正確にはプロントサウルスではなくミロドンという、巨大なナマケモノの皮だということが分かります。

しかし、パタゴニアへの憧れをずっと抱き続けていた〈私〉は、大人になるとついに、憧れの地へと旅立ったのでした。南米の町をまわって歴史を学び、現地で暮らす人々と交流を深めながら旅を続けます。

アルゼンチンのチョリラには、アメリカから逃げてきたワイルド・バンチ・ギャング団のブッチ・キャシディ、サンダンス・キッドらの小屋があり、隣人だった夫人が書き残したものを見せてもらいました。

リオピコで泊まったホテルでは思いがけないことで口論になります。

「部屋はいくらですか?」
「いりません。お客さんが眠らなかったのなら、ほかに誰も泊まらなかったわけですから」
「食事はいくらですか?」
「いりません。お客さんがいらっしゃるなんて、どうして私たちにわかります? 自分たちのためにつくったんですから」
「では、ワインはいくら?」
「いつもお客様にはワインを出すことにしてるんです」
「マテ茶は?」
「マテ茶は無料です」
「では、何をお払いすればいいんです? 残るのはパンとコーヒーだけでしょう」
「パンの代金は受け取れません。でも、カフェオレはグリンゴの飲み物ですから、それだけ払っていただきましょう」
 太陽が昇った。煙突から、薪を燃やした煙が真っすぐに立ち昇っていた。リオピコはかつて新ドイツとして植民地化されたところで、家々はドイツ風の外観を呈していた。ニワトコの花が揺れて板壁をこすっている。柵の横から、伐採トラックが山に向かって出発していった。(85~86ページ)


パソロバージョスでは、「黄金都市」の伝説に思いを馳せます。殺人罪で逃亡中だった二人のスペイン人水夫が見たという銀の宮殿。それを追い求める探検家が何人も険しい山で命を落としてしまったこと。

プエルトデセアドでは、帆船ディザイア号の話を聞きます。キャヴェンディッシュ提督はペンギンの棲む島を見つけ一万四千羽を殺し、船に積みました。天敵のいないペンギンは人間を恐れなかったのです。

しかし赤道に出るとペンギンには長さ一センチほどの虫がわき、その虫は「鉄以外のあらゆるもの――衣類、寝具、長靴、帽子、皮ひも、そして生きている人の肉までも」(133ページ)食い始めて……。

リオガジェゴスでは、チロエ島の魔法使いの集団の話を聞きました。そこでは新入りは、あらゆる感情を捨て去ったことを証明するために親友を殺すなど、恐ろしい修行を六年間積むこととされていて……。

そして、プンタアレナスで、祖母のいとこにあたり、〈私〉にパタゴニアへの憧れを抱かせるにいたった皮を発見した船長、チャーリー・ミルワードの生涯の物語が、詳細に語られていくこととなって……。

カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』


ベーコンのサンドイッチ、剃刀、歯ブラシ、自著二冊、『ドン・キホーテ』、ワイシャツ、下着のあいだに隠したコルト。それだけを持って老人は馬で国境を越え、アメリカからメキシコへと向かいました。

老人は自分の荷物についてこんな風に言う場面を想像します。「これまで、一度も『ドン・キホーテ』を読めなかった。死ぬまでに読んでみたくてね。もう書くのは永久にやめたんだ」(321ページ)と。

国境を越える時、アパッチ族やコンチョ族の襲撃から逃げた人々と同じように自分も逃げていると思ったり「本当の境界は各自が心のなかに持っているのかもしれない」(323ページ)と思ったりします。

革命軍に参加したいと申し出た老人は笑いものにされてしまいましたが、試してくれと言い、将軍は老人に向ってコルト銃を投げました。

 二人はふたたび待ちかまえた。将軍は、農民がはくズボンの深いポケットに手を突っこんで、卵ほどの大きさで懐中時計のように平らな輝く一ペソ銀貨を取りだすと、まっすぐ空中高く放り上げた。老人は身動きもせず待つ。硬貨が将軍の鼻先一メートルのところに落ちてくる。その瞬間、素早く発砲する。女たちは叫び声を上げた。ガルドゥーニャは他の女たちを見つめる。大佐とマンサルポは上官を見る。少年だけがグリンゴを見つめた。
 将軍がわずかに頭を動かした。少年は硬貨を探しに走り、土埃から拾いあげ、わずかにゆがんだ表面を弾帯でこすって将軍に返した。鷲の体を突きぬけ、まん丸い孔が開いていた。
(334ページ)


こうして名前も分からぬ老人、メキシコの人々が嘲りの意味を込めつつアメリカ人を呼ぶ時の言い方では、”グリンゴ”である爺さんは、トマス・アローヨ将軍の隊と、行動を共にすることとなったのでした。

やがて隊はミランダ家という富豪の家庭教師をするためにアメリカからメキシコへやって来た女性と遭遇します。ところがミランダ家は混乱を避けるためにフランスのパリへと行ってしまっていたのでした。

16歳の時にキューバに出征したきり帰らない父親のことを今でも考えるその女性、ハリエット・ウィンズローは現在31歳。8年間交際していた42歳の恋人ディレイニーと別れてメキシコへ来たのです。

異国のメキシコではグリンゴでありグリンガである老人とハリエット。それぞれアメリカを離れた理由を胸に抱えているのでした。ハリエットは、セルバンテスの本を持って来るなんて素敵だと言います。

「一度も読んだことがなかったんだよ」と年老いたグリンゴは言う。「思ったんだ、ここで……」
「古典を読むのに遅すぎるなんてことはありません」今度はハリエットがグラスを差しだす。グリンゴはそれを満たしてから自分のグラスにつぐ。四杯目か五杯目か……。「それに、現代作家を読むのも。あなたは同じ作家の本を持ってきてるでしょ、二冊、まだ生きてるアメリカの作家の本……」
「読むんじゃない」と老人は髭についたテキーラの刺すような味をぬぐいながら言う。「どうにも辛辣な作品だよ、悪魔の辞典……」
「それで、あなたは?」と彼女は繰り返す。舞踏室に入ったとき、鏡に映った自分を見たか? 鏡はどんな話をしてくれた? と老人が繰り返し訊いたように。
 それで、彼は? 自分の思っていることをすっかり話すのだろうか? わたしは死ににきた。わたしは作家だ。みてくれのいい死体になりたい。髭を剃っているとき頬を切ることには堪えられない。狂犬に噛まれ、無様な姿で死ぬのが怖い。鉄砲の弾丸は怖くない。死ぬまえに『ドン・キホーテ』を読みたい。メキシコでグリンゴであること、それがわたしの死に方、わたしは……。
(379ページ)


死に場所を求めてメキシコにやって来た老人、夢見がちで漠然としたなにかを求めてやって来たハリエット、革命に情熱を燃やすアローヨ。3人の関係は次第に、入り組んだ複雑なものになっていき……。

とまあそんな2編が収録されています。グリンゴである老人は、最後まで名前が出ませんが、ある作家を連想させるものになっています。セルバンテスの『ドン・キホーテ』以外の二冊は、自著でしたよね。

その内の一冊のタイトル、『悪魔の辞典』が明かされているわけですから。小説の代表作としては、芥川龍之介に大きな影響を与えたと言われる「アウル・クリーク橋の一事件」という短編などがあります。

作中では仄めかされているだけなので作家名はあげませんが、興味のある方は、調べてみてください。手に入りやすい翻訳もありますよ。

ただまあ、その作家の実際の出来事を元にしたというよりは、ほとんどすべてがフィクション。ラテンアメリカ文学ならではの、語りの複雑さのある作品です。文体や内容の濃厚さに魅力のある物語でした。

アメリカとメキシコの違いが浮き彫りになる興味深い作品ですし、恋愛とはまた少し違う独特の三角関係がどのように発展し、どんな結末を迎えるのか、気になった方には、ぜひ読んでもらいたい作品です。

明日は、辻仁成『海峡の光』を紹介する予定です。

辻仁成『海峡の光』

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海峡の光 (新潮文庫)/新潮社

¥420
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辻仁成『海峡の光』(新潮文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

太宰治の『人間失格』で忘れられない場面があります。語り手の大庭葉蔵が少年時代に鉄棒でわざと失敗して笑いをとった場面。それまで葉蔵は、そうして自ら道化になることで集団に溶け込んでいました。

人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))/新潮社

¥300
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ところがある友達が「ワザ。ワザ」と言ったのです。つまり、わざとやったんだろうと見抜かれてしまったんですね。その出来事は葉蔵に大きなショックを与え、不安に満ちた日々を過ごすこととなります。

道化を演じる葉蔵は愚かで滑稽ですが、それが彼の唯一の他者とのコミュニケーション方法であったことを考えると、哀しくもあります。そして、おそらく誰もが彼の気持ちが分かるのではないでしょうか。

集団の中で自分の居場所を確立するためには自虐的におどけてみる他なく、しかしそれが見抜かれてしまったが故に他者の前でどう振る舞えばいいか分からなくなってしまった恐怖。ぼくは少し分かります。

一言で言ってしまえば、自意識が過剰な状態なので、もっと自然に、あるがままに、自分らしく生きていけばいいわけですが、言うは易く行うは難しとはまさにこのことで、それができれば苦労はしません。

なりたい自分に、なれない自分。誰もが少なからず理想の自分と現実の自分との差に悩みながらながら生きていくものだろうと思います。だからこそ太宰治は今なお圧倒的共感を持って読まれるのでしょう。

今回紹介する『海峡の光』を読みながら『人間失格』を連想したのはこの作品もまた自意識というものがテーマになった作品だからです。

主人公の〈私〉が小学5年生だった頃、クラスに花井修という生徒がいました。成績優秀かつ品行方正で誰からも好かれる輝かしい存在。

ところが小学6年生になったある日〈私〉は、目の前で老婆が転んでも誰も自分のことを見ていないと思った花井が老婆を冷たく無視し、あろうことか、小犬を蹴飛ばした場面を目撃してしまったのでした。

 花井は老婆を見捨てたが、洋館の塀に凭れていた私に気がつき、立ち止まると背後でうずくまる老女を意識しながら不覚に青ざめ、視線を私に凝固させた。鈍色の瞳はますます曇り、暗く頭骨の内側へとどこまでも深く陥没した。私は、花井の張りぼての両目が溶けだし、奥に広がる暗澹たる内部が露出していくのを楽しんだ。やがて顔を伏せて小走りで駆け抜けた花井の、薄く上品な口許が歪んでいるのを私は見逃さなかった。
 残忍な苛めはその翌日からはじまる。私は突然仏の慈悲から見放され、彼が転校するまでの残りの数か月を、惨めに痛めつけられて過ごさなければならなくなってしまった。(8~9ページ)


仏の慈悲を持っているかのように光輝く花井に巧みに扇動されたクラスメート全員から、ひどいいじめを受けて、心に闇を抱えた〈私〉。

物語はその18年後から始まります。函館で刑務官になっていた〈私〉の前に、傷害事件を起こした花井が受刑者として現れたのでした。〈私〉は花井を観察し、その本性を探ろうとするのですが……。

いじめっこといじめられっこの運命的な再会を通して、かつては輝いていた花井のブラックボックスになっている(明かされない)心理、行動の謎に迫っていく作品。人間の心の、光と闇を描いた物語です。

作品のあらすじ


青函トンネルの開通により廃航になることを見越して、青函連絡船の船員から函館少年刑務所の刑務官へ転職した〈私〉。やがて海洋技士の免許を取るための船舶職員課にかつての同級生がやって来ました。

それは花井修といって、小学生の時は誰からも好かれた人気者でした。そして、他の人が知らない顔を〈私〉が見てしまったことで、クラスメートを巧みに操り〈私〉をいじめさせた張本人でもあります。

記録によると5年と半年前、24歳の時に花井は初対面のサラリーマンといさかいになって、所持していた登山ナイフで刺し、怪我を負わせたのでした。何故犯行にいたったのかは、よく分かっていません。

花井がやって来てからというもの〈私〉は密かに花井のことを観察し続けます。相変わらず模範的で周りからの評判がすこぶるいい花井。

今さら、いじめられたことに対して復讐しようという気はありませんが、花井が「ふとしたきっかけで虚飾の化けの皮を脱ぎ捨てて、裏側の性悪が露呈する瞬間を見極めたかった」(30ページ)のでした。

しかし花井はあくまで落ち着いた、真面目な態度を崩しません。花井に動きがなければ動きがないほど、〈私〉の苛立ちは沈殿していって船員バーで連絡船のかつての仲間との喧嘩へと発展してしまいます。

血で汚れたシャツを脱ぎ下着姿で歓楽街を歩いていると、元受刑者が客引きをしていました。案内された店でホステスの静と知り合います。手首を切った跡があり、やり直すために半年前青森から来た静。

「凄く泣きたいのにさ、溢れてくるものがなくて、それで手首を切っちゃった。そうすればね、私を取り囲むすべてのことから抜け出せる気がしたの」
 静の、傷を見つめる目は笑ってはいなかった。
「何が何でも死のうと思えば、あそこで加減なんかしなかったはず。血を見て満足してしまったのね。これであの人が私のことを生涯忘れられなくなるって」
 私は静の手首を摑み、引き寄せた。両方の手で優しく傷口を包み込んだ。そのまま言葉や笑みを横に退けて、沈黙した。少し手に力を込めると、どくどくと脈打ち、必死で循環しようとする血液の躍動が伝わってきた。(72ページ)


受刑者は刑期を終えれば刑務所を出ていきます。しかし刑務官の〈私〉は出ていく場所などないのでした。妻と子、病気で寝ている母を捨てて誰も自分を知らない場所へ行きたいと思うことがあります。

得体のしれぬ花井のことで苛立ちを抱えどこへも逃れられない生活の窮屈さから次第に〈私〉は静と親密な関係になっていったのでした。

ようやく、少しずつ花井が本性を現していきます。周りの人々の心をつかんで巧みに操る花井。花井によってヒエラルキー(階級)が築かれ、船舶職員課の中に、虐げる者と虐げられる者が生まれてきます。

しかしそれでも〈私〉が思っていたほど花井は目立った行動をとらず「自分が生活しやすい場所を確保したにとどまって、後はまた入所してきた当初の、おとなしい模範囚」(112ページ)になりました。

やがて、まわりにとって府に落ちない行動を花井が取って、思惑が分からない〈私〉は、振り回され続けることにうんざりします。そして、考える内に今では自分が優位な立場にあると気付いたのでした。

今の花井には私を拒む自由と権利はなく、私は彼を二十四時間見張ることができる地位にある。いつのまにか立場は逆転していたわけで、それが人生というものだ。この砂州の街に残り、勤勉に生きてきた私の勝利に他ならず、監視こそが私の復讐である。この私の持てる権力を花井修に見せつけることこそが、幼少期に受けた無数の暴力と支配に対する返報である。死闘ごっこで殴られ、父親を侮辱され、大勢のクラスメートの前で裸にされ、挙げ句は裁判で私の人権を侵害されたことへの報復だった。私はただ、この視察口を開けて、彼を覗くだけでいい。(126~127ページ)


花井の正体を探るべく〈私〉は花井の房を覗き込んだのですが……。

はたして、〈私〉は花井の本性を突き止めることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。ストーリーや設定も面白いですし、硬くしっかりとした文章も独特の風格があって魅力的。ただぼくがこの作品に惹きつけられるのは、かなり〈私〉のひとりよがりな物語である所。

花井の心理は描かれず行動の理由も明かされず、当然のことながら花井の歪んだ像というのはすべて〈私〉の中にあるものなわけですね。

客観的に見て歪んでいる花井が描かれるのではなくて、歪んでいるだろうという思いで見つめる目から描かれるのが興味深く、ある意味では〈私〉の目なしに花井の像は存在しないと言ってもよいでしょう。

辻仁成の作品を貫くモチーフに「インナーチャイルド」があります。心理学用語としての意味合いは置いておいて、物語的な文脈で言うとトラウマなどがきっかけで心の中にキャラクターを作り上げたもの。

辻仁成の小説で例をあげるとネタバレになりそうなので、わりと似た小説で言えば、ベン・ライスの『ポビーとディンガン』があります。

ポビーとディンガン/アーティストハウス

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少年アシュモルの妹ケリーアンには彼女にしか見えないポビーとディンガンという友達がいました。しかしある時ポビーとディンガンがいなくなってしまったと言い出したケリーアンの具合が悪くなり……。

妹のために見えない友達を探すというちょっぴり不思議で、心揺さぶられる物語です。映画にもなったようなので、関心のある方はぜひ。

『海峡の光』において花井は〈私〉の「インナーチャイルド」ではありませんが、役割としてかなり近い部分があるような気がぼくにはします。これが花井の物語ではなくて〈私〉の物語だと思うからです。

そういう風に読むと光か闇、そのどちらかではなく、どちらをもあわせもつ人間の複雑さが、この作品から浮かび上がって来るのでした。

文章は辻仁成の他の作品に比べると硬いですが、テーマや設定がかなり興味深い作品なので、関心を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、ディネセン/チュツオーラ『アフリカの日々/やし酒飲み』を紹介する予定です。

イサク・ディネセン『アフリカの日々』/エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』

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アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)/河出書房新社

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イサク・ディネセン(横山貞子訳)『アフリカの日々』/エイモス・チュツオーラ(土屋哲訳)『やし酒飲み』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

この「世界文学全集」には、アフリカを題材にしたものがいくつか収録されています。小説にJ・M・クッツェー『鉄の時代』、ルポルタージュにリシャルト・カプシチンスキ『黒檀』などがありましたね。

今回紹介するイサク・ディネセンの『アフリカの日々』は、小説ともルポルタージュともまた少し雰囲気の違った作品で、しいてジャンル分けをするならば、エッセイ(随筆)が一番しっくりくるでしょう。

作者のイサク・ディネセンはデンマークの女性作家で、夫についていく形で、独立前のケニアに渡り、ンゴング丘隆のふもとで17年間に渡って農園を経営しました。その思い出を綴ったのがこの作品です。

描かれているのは物語ではなく実際に起こったことであり、旅人ではなく現地の人々と共に生きていく姿が描かれているのが特徴的です。

ぼくはまだ観ていないのですが、物語として脚色されて、1985年には『愛と哀しみの果て』として映画化されました。メリル・ストリープとロバート・レッドフォードの共演は、かなり魅力的ですねえ。

愛と哀しみの果て [DVD]/ロバート・レッドフォード,メリル・ストリープ,クラウス・マリア・ブランダウアー

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『アフリカの日々』は五部構成になっていて、第一部ではアフリカで出会った少年カマンテとの交流、第二部では猟銃事故にまつわる出来事、第三部では農園にやって来た人々について、描かれていきます。

第四部はアフリカで見聞きした出来事の感想がスケッチのように短く綴られたもので、第五部は農園を去る時期の出来事が書かれたもの。

今回はより物語的な第一部と第二部を中心に紹介しようと思っていますが、ストーリーとして面白いのは第一部で、ヨーロッパとアフリカの考え方の違いが浮き彫りになる、テーマとして面白いのが第二部。

借地人の子供であるキクユ族の少年カマンテと親しくなった〈私〉。インドの言葉に由来する、白人女性に対する呼びかけ「ムサブ」で〈私〉のことを呼ぶ彼は、ある時、不思議なことを言い出しました。

タイプライターで文章を打っていた〈私〉に向かい、〈私〉には本を書くことができないと思うと言ったのです。そのはっきりとした言葉に困惑していると、彼はさらに思いがけないことを言ったのでした。

 自分の本について相談する相手は誰もいなかった。私は紙を置いてカマンテにたずねた。「どうしてできないと思うの?」カマンテがこの話しあいをあらかじめ考え抜いてきているのはいまやあきらかだった。彼には準備があった。カマンテの後ろの書棚に『オデュッセイア』があった。それを取りだして、カマンテはテーブルの上に置いた。
「見て、ムサブ。これはいい本だ。はしからはしまで、全部つながっている。持ちあげてきつく振ったって、バラバラにはならない。この本を書いた人はとても賢い。ムサブが書くものは――」と言いさして、カマンテは今度は軽蔑とやさしい同情のまじった調子でつづけた。「あっちこっちバラバラだ。誰かが戸を閉め忘れると風で吹きとばされて、床にちらばって、ムサブは腹をたてる。いい本になるわけない」(55ページ)


そう、「本」というのは普通中身に書かれていることを含めて考えられますが、文字が読めないカマンテにとって「本」のよしあしというのは、いかにしっかり作られているかという物体のことなのでした。

これはユーモラスなエピソードですが、思わずはっとさせられる新しい観点が含まれている感じもありますよね。こんな風に〈私〉とカマンテのちぐはぐで微笑ましいエピソードが綴られていくのが第一部。

第二部では、文化の違いというテーマがより深く描かれます。カペロという7歳の少年が、弾が入っていないと思って銃で遊んでいて友達を撃ち殺してしまったんですね。過失致死罪という感じでしょうか。

ところが、アフリカでは法律で罪が裁かれるのではなく、傷や死に対してラクダや羊などで賠償がなされるという掟があります。その賠償の多寡は「キャマ」という農園の長老会議によって決まるのでした。

〈私〉はこの「キャマ」に巻き込まれていくわけですが、思いがけない家族構成が出て来たり呪いが出て来たりと、ヨーロッパではありえない展開の連続。一風変わった法廷ものの面白さがあるのが第二部。

文化の違いに目から鱗となるのが、『アフリカの日々』なのでした。

一方、エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』は、神話を思わせる幻想的な物語で、作者は、ナイジェリアのヨルバ族出身。外部から見たアフリカではなく、内部から描いたアフリカと言うべき作品です。

たどたどしい英語ながら、その驚嘆すべき物語世界がヨーロッパで絶賛されました。しかし一方、現地のナイジェリアではまさにそのたどたどしい英語で書かれた故に批判の声があがったりもしたようです。

グリム童話の、悪魔の目をかいくぐる「こわがることをおぼえようと旅に出た男の話」や日本昔話の、やまんばと対決する「三枚のお札」などの、とんちを含んだ民話や昔話と似た面白さがある作品でした。

日本の作家で一番近いのはおそらく宮沢賢治で、シュールさや幻想性という言葉ではどこかしっくりこない土地性の強い作風が魅力です。

作品のあらすじ


イサク・ディネセン『アフリカの日々』


バッファロー、アフリカレイヨウ、サイなどが棲むケニアのンゴング丘陵で、コーヒー農園を経営していた〈私〉。農園以外の土地はトウモロコシやサツマイモなどを栽培したい現地の人々に貸しています。

北欧人は南国を愛するものであり、多くの芸術家が南国の雰囲気に魅了されて来たものですが、〈私〉もまた例外ではありませんでした。

 さて、自分のことを言えば、アフリカに着いて最初の何週間かで、私はアフリカの人たちに強い愛情を覚えた。それは強烈な愛情で、あらゆる年齢層の人を男女ともに当惑させる態のものだった。暗色の肌を持つ人種の発見は、私にとって自分の世界がめざましく拡がることにほかならなかった。生まれつき動物への愛着を持つ人が、動物のいない環境で成長し、長じて後に動物に接したとしよう。または、樹木や森が本能的に好きでならない人が、二十歳に達して初めて森に入ってみたとしよう。あるいは、音楽に耳の利く人が、たまたま成人になってから初めて音楽を聴いたとしよう。私の場合もこれらの場合と似かよっていた。アフリカ人たちに出遭ってこのかた、私は日常生活のきまりを彼らの持つオーケストラに合わせるようになった。(23ページ)


特に親しくなったのが、借地人の子供でキクユ族の少年カマンテ。病気だったのを助けてやったのが縁で、犬の世話などの下働きから始めて、後には〈私〉の家の主任料理人をつとめるようにまでなります。

文字が読めず英語も分からないカマンテには、料理の本は役に立ちません。しかしその日に起こった出来事「木に雷が落ちたソースとか、灰色の馬が死んだソース」(44ページ)などで記憶するのでした。

抜群の記憶力と驚嘆すべき器用さを持つカマンテは優れた料理人でしたが、唯一欠点があって、それはコース料理の順番を覚えようとしないこと。料理の本質と関わりのないことには、興味が無いようです。

やがて、〈私〉の家で幼いアンテロープ(羚羊)を保護することになりましたが、そのアンテロープの世話をしたのがカマンテでした。メスだったのでスワヒリ語で「真珠」のルルと名付けて可愛がります。

しかし、美しく成長したルルはある晩から姿を消してしまって……。

ある時、恐ろしい事件が起こりました。カベロという少年が主人であるベルナップの真似をしたのですが、手に取った猟銃には弾が入っており、パーティーに来ていた三人の子供が怪我してしまったのです。

ワマイという少年が亡くなり、どの程度の賠償がふさわしいかの会議を重ねた結果、カベロの父カニヌは四十頭の羊をワマイの父ジョゴナに渡すこととなり、これで万事、一件落着したように思われました。

ところが、次々と思いがけない出来事が起こっていったのでした。

ワマイがジョゴナの本当の息子でないことが分かり、姿を消していたカベロが実はマサイ族と一緒に暮らしていることが分かり、怪我で済んだ子供ワンヤンゲッリの祖母からカニヌは呪われてしまって……。

エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』


こんな書き出しで始まります。

 わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。
 父は、八人の子をもち、わたしは総領息子だった。他の兄弟は皆働き者だったが、わたしだけは大のやし酒飲みで、夜となく昼となくやし酒を飲んでいたので、なま水はのどを通らぬようになってしまっていた。(419ページ、本文では「タカラ貝」は太字)


父は〈わたし〉に専用のやし園を与えてくれ、専属のやし酒造りの名人を雇ってくれました。ところが、15年後に父が死に、その六ヶ月後にはやしの木の根っこでやし酒造りが死んでいるのを見つけます。

やし酒がなくなると、今まで〈わたし〉の家に集まっていた人はいなくなり友達も去っていきました。死んだ人はすぐには天国に行かず、まだどこかにいるはずだとやし酒造りを探す旅に出ることにします。

〈わたし〉は自分のジュジュ(juju)と父のジュジュを身にまとって旅を続け、ある町で老人の姿の神と出会います。普通人間は会えませんが、〈わたし〉も神でありジュジュマンだったので大丈夫でした。

やし酒造りの居場所が知りたかったら「死神」を捕まえて来いなどの難題を大きな鳥に姿を変えたり、命令を聞くヤムのロープとクイを使ったりして見事成し遂げたのですが、老人は姿を消してしまいます。

旅を続けて訪れたある町の長から、奇妙な生物にさらわれた娘を救い出しくれたらやし酒造りの居場所を教えてくれると約束されました。

その奇妙な生物は美しく、完璧な紳士であり、天使のように美しい娘は完璧さに惹かれて後をつけていってしまったのです。ところが、底なしの森を歩くたび紳士の様子はみるみる変わっていったのでした。

 この底なしの森を旅行していた時、市場では完全な紳士だった、そして娘が跡をつけてきたこの男は、借り賃を払いながら、自分の身体の借りた部分を所有主に返しはじめた。左足を借りた所へやってきた時、彼は左足を引っこ抜いて、所有主に渡し、借り賃を払い、彼らはまた、旅を続けた。右足を借りた所でも、左足と同じように、右足をもぎとって所有主に返した。そして両足を返してしまったので、彼はとうとう地面を這い出した。その時になって娘は、自分の町や父のもとへ帰りたくて仕方がなかったのだが、身の毛もよだつようなこの奇妙な生物、完全な紳士は絶対にそれを許そうとはしないで、「この恐ろしい奇妙な生物の所領である底なしの森に入る前に、わたしはちゃんとあなたに、ついてこないように申した筈だ。今、半体の不完全な紳士になったわたしを見て、あなたは家へ帰りたいというが、そんなことはもう許せない。あなたは誤ちを犯したのだ。まだまだ見せたいものが沢山あるから、ついてきなさい」と言うのだった。
 彼らはさらに奥へと進んで、腹・アバラ骨・胸などを借りた所へやってきた時、彼はそれらを引っこ抜いて、所有主に返し、借り賃を払って行った。(430ページ)


「頭ガイ骨」だけになった奇妙な生物からなんとか美しい娘を救い出した〈わたし〉はその娘と結婚し、妻となった娘と旅を続け、ついにやし酒造りが「死者の町」に住んでいることを突き止めたのでした。

しかし「死者の町」までは不思議な生物や精霊の棲む密林づたいに行かなければならず「幽霊島」や「不帰(かえらじ)の天の町」などで〈わたし〉と妻は奇妙な体験に巻き込まれていくこととなって……。

とまあそんな2編が収録されています。「やし酒飲み」は「スゲエエ! 面白そう!!」と思った方も多いのでは? 宮駿監督の『千と千尋の神隠し』を連想させるようなファンタジーっぽさもあります。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]/ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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原文を再現しているのだろうと思われる「―だった」と「―でした」の混合など文体が安定しないのも味があっていいですし、民話や昔話風のグロテスクかつ幻想的でぶっ飛んだ物語世界には圧倒されます。

なんらかの能力らしき「ジュジュ」とかそれを持つ人らしき「ジュジュマン」が意味不明なのがすごいですよね。「ジュジュマン」だから大丈夫って、そもそも「ジュジュマン」ってなんなんだよっていう。

そんな風にいたる所でツッコミどころ満載の作品なわけですが、そうした荒っぽいところも洗練された小説にはない素朴さがあっていいというか、むしろ逆にパンチが効いているというか、面白いわけです。

「アフリカの日々」もいい作品なので、この「世界文学全集」で読んでみるのもよいと思いますが、よりコンパクトに「やし酒飲み」だけを読みたいという方は、同じ訳が岩波文庫にも収録されていますよ。

やし酒飲み (岩波文庫)/岩波書店

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アフリカの作家の小説に興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、玄侑宗久『中陰の花』を紹介する予定です。

玄侑宗久『中陰の花』

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中陰の花 (文春文庫)/文藝春秋

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玄侑宗久『中陰の花』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作。

人は死んだらどうなるんだろうと考えたことが、誰もが一度はあるはずで、ある意味では死んだ後に対する不安をなくすために宗教はあるのかも知れません。答えが提示されていれば何も悩まずに済むから。

天国と地獄のあり様というのはそれぞれの宗教で違いますが、西洋の物語では天国が、東洋の物語では地獄が描かれることが多く、それぞれが現世をどう生きるべきかの教訓になっているような気がします。

つまり、キリスト教的な物語では、こうすれば天国に行けると語られ、仏教的な物語では、こうしなければ地獄に落ちるぞと語られることによって現実世界での生き方の指針を示しているということです。

天国へ行く物語なら古典的名作がたくさんありますが、おすすめの映画がロビン・ウィリアムズ主演、1998年公開の『奇跡の輝き』。

奇蹟の輝き HDニューマスター・エディション[DVD]/キングレコード

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事故で亡くなった主人公は天国へ行ったのですが、絶望して後追い自殺した妻は地獄へ行ってしまったんですね。その妻を救おうとする物語です。とにかく映像美に圧倒される映画なので機会があればぜひ。

地獄を描いた物語で印象に残るのが、中国の古典を元にした芥川龍之介の短編。仙人修行中に地獄へ連れて行かれる「杜子春」や地獄に救いの糸が降りて来る「蜘蛛の糸」は今なお新鮮な面白さがあります。

蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)/新潮社

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また、仏教には輪廻転生という考え方があって、輪廻転生を描いた物語というのも古くからたくさんあるのですが、こちらはネタバレになる可能性もあるので具体的な作品名は伏せておくこととしましょう。

中国には儒教というものもあります。孔子の教えですね。目上の者を大切にするものなので、日本でも江戸時代に用いられていて、儒学者は今でいう政治家のような形で政治の大きな役割を担っていました。

孔子と弟子との問答を記したのが『論語』という本なのですが、弟子から人は死んだらどうなるのかと問いかけられた孔子は、非常に巧みな答え方をしています。それが有名な言葉の「未知生焉知死」です。

論語 増補版 (講談社学術文庫)/講談社

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書き下し文にすると「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」で、まだ生きるということさえよく分からないのに、どうして死ぬということが分かるだろうかという意味です。面白い答え方ですよね。

さて、宗教と死生観について触れて来ましたが、そういった観点に関心をお持ちの方におすすめなのが、今回紹介する「中陰の花」。臨済宗のお坊さんによって書かれた、まさに死をテーマにした小説です。

タイトルの「中陰」とは耳慣れない言葉だと思いますが、「この世とあの世の中間」をさすものだそうで、たとえば死んでから49日の間は、魂はまだ現世にあるという風に信じられていたりもしますよね。

「中陰の花」は身近な人間の死によって、死について考えをめぐらすことになったお坊さんの物語。悟っているのではなく現代的な判断力を持ち、迷いながら考え続けていくのが、この作品の面白い所です。

仏教的な死をめぐる物語というテーマがテーマですし、地味な物語なので好き嫌いは分かれるだろうと思いますが、興味深い一冊でした。

作品のあらすじ


『中陰の花』は「中陰の花」「朝顔の音」の2編を収録しています。

「中陰の花」

神通力で悩み事を解決するおがみやをしていたウメさんは、病院に入院していました。自分の死ぬ日を予言していたのですが、一度目は病院の救命措置によって回復し、二度目の予言の日が近付いています。

則道は近頃なんだか不思議な夢を見るのを「虫の知らせ」のようなものだろうかと考えていました。肩が重く感じられるようになり妻の圭子は「頼られちゃったんじゃないの?」(15ページ)と言います。

そんな圭子が何故か四年ほど前からはまっているのが紙縒(こより)を作ること。暇さえあればお寺への頂きものの包装紙を細切りにして作るのです。色とりどりの紙縒りは、物置からあふれるようでした。

ウメさんの死期が近付いていることから圭子は則道に「なあなあ、人が死なはったら、地獄行ったり極楽行ったり、ほんまにあるんやろか?」(27ページ)と尋ね則道は渋々通夜でよくする話をします。

「仏教では、基本的に質量不滅の法則で考えてるんだ」
「質量不滅の法則?」
「そう。たとえばコップの水が蒸発する。そうすると水蒸気はしばらくはこのへんにあるやろ」
 ちょうど鉄瓶から立ちのぼる湯気を、二人は見上げた。
「それが中有とか中陰と呼ばれる状態」
「チュウウ?」
「つまり、この世とあの世の中間ってこと」
 湯気を見つめる圭子の目が緩く収束したかに見えたが、則道はかまわず続けた。
「それから水蒸気はどんどん広がる。窓から出てって空いっぱいに広がっていく。これは実に自然な現象だろ。それをインドの人はジューニャと呼んだ」
「それはなに?」
「膨らんでいくこと。広がっていくこと。世の中の物すべては膨らみ広がりつつある。このジューニャという言葉が中国で『空』という言葉になる。宇宙が膨張しつづけているという説は、これを仮説にして研究されたんだ」
「それで広がってどうなんの?」
「あまねくゆきわたる。コップの中の水は、コップからはなくなったけど、この地球上から無くなってはいないわけだ」
(30ページ)


ウメさんの入院している病院を訪れた則道がお経を唱える中、医者の蘇生も実らず、予言通りウメさんは亡くなります。八十九歳でした。やがて則道はウメさんと圭子の不思議な約束を知ることとなり……。

「朝顔の音」

コンビニで働いている30歳の結子は、トラックでコンビニに搬送しに来る垣田と親しくなり、結子が早番であがるのにあわせて、時折、垣田のトラックに載せてもらって、ドライブするようになりました。

 五月の初めだったと思う。垣田は結子が乗りこんだ空き地にこれまでどおり送ってくれ、別れ際、朝顔の種をくれた。
「平安時代に咲いてたのと同じ、なんかいちばん古い種類らしいよ」
 友達に貰ったというその黒い種は半透明なフィルムケースに入っていたが、垣田は自分は世話などできないから、結子に貰ってくれないかと言うのだった。「何色ですか?」結子は容器と一緒に触れた垣田の温かく太い指を意識しながら訊いた。「きれいな青だって言ってたなあ」そう言ったのが女性であるような気もしたが、結子は貰うことにした。(126~127ページ)


垣田にもらった朝顔を育てるようになってから、結子の人生はいい方向に向かい始めました。今まではあまり積極的に行動しなかったのですが、洋服を買ったり、散歩に出かけたりするようになったのです。

垣田とも親密さを増していきましたが、続けて垣田と会えないことがあり、結子は以前同僚にすすめられた「霊おろし」に行くことを決めました。結子が会おうとしたのはかつて自分が産んだ赤ん坊で……。

とまあそんな2編が収録されています。物語として面白いのが「朝顔の音」。何故か家族から離れて一人こっそり暮らす結子の悲しい人生が、少しずつ語られていく小説。胸に突き刺さるものがありました。

朝顔を育てること、そしてその朝顔から聞こえて来る音が結子の記憶と重なる構成が見事で忘れられない印象の残る作品になっています。

お坊さんが書いた小説ですが、そこまで宗教色は強くなく、わりと読みやすい一冊なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、残雪/バオ・ニン『暗夜/戦争の悲しみ』を紹介します。

残雪『暗夜』/バオ・ニン『戦争の悲しみ』

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暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)/河出書房新社

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残雪(近藤直子訳)『暗夜』/バオ・ニン(井川一久訳)『戦争の悲しみ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

まず初めにざっと映画のタイトルをあげてみます。映画好きの方は、共通点を探してみてください。カッコの中はアメリカでの公開年度。

『地獄の黙示録』(1979年),『プラトーン』(1986年),『フルメタル・ジャケット』(1987年),『グッドモーニング, ベトナム』(1987年),『7月4日に生まれて』(1989年)。

どれか一作でもご覧になった方はもうお分かりですね。そう、ベトナム戦争を描いた作品です。映画史に残る名作ばかりですが、どれも重い作品なので、観る時にはそれなりの覚悟をして観てみてください。

やはりこうしたハリウッド映画の印象は強いので、みなさんも「アメリカから見たベトナム戦争」のイメージをお持ちだろうと思います。

当時、冷静状態にあった資本主義の国であるアメリカと共産主義の国であるソ連の代理戦争という側面が大きかったのがベトナム戦争。アメリカは軍事介入することで問題の早期解決を目指すつもりでした。

ところが、ゲリラ戦へと持ち込む「ベトコン」と呼ばれていた南ベトナム解放民族戦線相手に苦戦を強いられて、ベトナム戦争は、勝者のいない戦争と言われるまでに、泥沼化していくこととなったのです。

アメリカにとってベトナム戦争は、自国を戦場にした戦争ではなかったので、ベトナム戦争に派遣され心が傷ついた兵隊たちと、アメリカで暮らしていた人々との間には温度差が生まれることとなりました。

そうしたベトナム帰還兵の心の傷を描いた映画にも名作が多く『タクシードライバー』(1976年)、『ディア・ハンター』(1978年)、『ランボー』(1982年)シリーズが特に知られています。

映画としてずば抜けて面白いのが、若き日のロバート・デ・ニーロと少女時代のジョディ・フォスターが共演しているマーティン・スコセッシ監督作品『タクシードライバー』。まだ観ていない方は、ぜひ。

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タクシードライバーをしているベトナム帰還兵トラヴィス。世の中は間違ったことばかりだと思っている彼は若い娼婦と出会ったのをきっかけに自分の目指す正義のために立ち上がろうとするのですが……。

それがいいことかどうかはともかく、共感しやすいというか、伝わってくるものが多い作品。拳銃を持ちながら鏡越しに自分に語りかける場面は、映画史上屈指の名場面と言われ、よくパロディされたりも。

そんな風にハリウッド映画などでは、「アメリカから見たベトナム戦争」として、アメリカが抱えたトラウマが描かれてきたのでした。では、「ベトナムから見たベトナム戦争」はどうだったのでしょうか?

そんな観点に興味のある方に、ぜひ読んでもらいたいのが、今回紹介するベトナムの作家バオ・ニンの『戦争の悲しみ』で、ベトナム人民軍に入って、アメリカ軍と戦った自身の実際の体験を元にした小説。

どちらが正しいかで語れないのが戦争というもので、アメリカに対する憎しみが描かれているというよりは、戦争によって歪められた主人公の人生そのものが描かれているという感じの物語になっています。

アメリカ軍と戦った側からベトナム戦争が描かれるというテーマ自体が非常に興味深いですが、何より小説として素晴らしい作品でした。

戦争が舞台なので、思わず目を背けたくなる残虐なシーンも多いですし、時系列が複雑で読みづらいですが、全体を通して愛と哀しみの物語になっていて、読む人の心を揺り動かさずにはおかない傑作です。

主人公のキエンは17歳の時に戦争に行き、10年後に帰って来ます。幼馴染の恋人フォンと再会し、一緒に暮らし始めるも別れ、フォンのことを忘れられないまま10年ほど後に小説を書き始めて……。

内容はそれだけのシンプルなものですが、若い時から中年まで順番に描かれていくのではなく、話はあちらこちらに飛ぶんですね。別れることは分かっていても、その理由が後から語られたりするわけです。

フーガのように同じ旋律が何度も繰り返される感じの美しい作品。事実は確定していても語られる出来事で事実そのものの見え方が変わってくるというミステリ的な面白さのある作品でした。おすすめです。

一方の残雪は中国の村を舞台にカフカ的な「不条理」世界を作り上げたことで評価された中国の作家。『暗夜』は短編集になっています。

作品のあらすじ


残雪『暗夜』


『暗夜』には、「阿梅、ある太陽の日の愁い」「わたしのあの世界でのこと――友へ」「帰り道」「痕」「不思議な木の家」「世外の桃源」「暗夜」の7編が収録されています。

「阿梅、ある太陽の日の愁い」

〈わたし〉は、爆竹で遊んでいる、父親と同じで尻が大きい大狗のことをしかりつけます。大狗は鼻の穴をほじって逃げ出していき、またどこかで爆竹を鳴らし始めました。〈わたし〉は綿で耳栓をします。

〈わたし〉が大狗の父親老李と結婚したのは八年前のことでした。しょっちゅう母の所へやって来てはこそこそ相談していた老李からある日突然結婚を申し込まれて、〈わたし〉は吹き出してしまって……。

「わたしのあの世界でのこと――友へ」

真夜中、どしゃぶりの雨の中、庭へがやがやと人が現れ樟(くすのき)を掘り起こし始めました。それは昨日〈わたし〉の部屋へ突然やって来て、油桐を植えるんだ! と騒ぎ始めたおかしな人々で……。

「帰り道」

このあたりのことをよく知っている〈わたし〉は、暗闇の中を歩いていき、一軒の家に着きました。明るくなってから帰ると言いますが、あるじは夜が明けることなどはとうになくなっていると言って……。

「痕」

むしろ織りの痕の所へ、不思議な買い付け人がやって来ました。普通よりも高く買って、誰も行かない山の中へと入っていくのです。買い付け人のおかげで痕一家は次第に裕福になっていったのですが……。

「不思議な木の家」

木でできたその建物は背が高く上半分は霧に隠れています。〈わたし〉はひたすら階段をあがっていきますが、各階ごとにある二戸の住居はどれも戸がしまっていたのでした。やがて最上階に着いて……。

「世外の桃源」

古くから村に伝わる伝説として語られる世外の桃源。一番詳しいのは90歳の老人の萕四爺でしたが、子供たちは誰もその話を信じようとしません。ただ一人、浮浪児の少年苔だけは真剣に耳を傾けて……。

「暗夜」

斉四爺がついに猿山に連れていってくれるというので、〈ぼく〉は大喜び。猿山は隣の烏県にあり、歩いて三日はかかる行程です。夜更けに出発した〈ぼく〉と斉四爺はまっくら闇の中を歩いていきました。

昨日、猿山に行くことを自慢したら、友達に馬鹿にされた〈ぼく〉

「猿山ってなんだ? 猿山なんてありはしない!」彼らはきっぱりといった。「あのじいさんに騙されているのさ」
 あのときぼくは傲慢にも連中は馬鹿だと思い、面倒くさくて説明もしなかった。これからは連中とこういう話をするのはよそう、腹が立つだけだからと誓いさえした。猿山はぼくと斉四爺の間の永久の話題なのだ。彼の家で過ごしたあの晩、彼はぼくにこの話をしてくれた。それは普通の猿山ではない。山の上の猿も本当の猿ではなく、人間と猿の中間の動物なのだという。身体には毛が生えているが、頭はつるつるで、しかも大きい。いちばん不思議なのは、その猿たち相互の間には、われわれが聞いてもわからない複雑な言語の交流があることだ。もし春のある日に猿山に行けば、数匹の猿が突然口を開き、人語で話しかけてくることだろう。
(136~137ページ)


期待に胸を膨らませて夜道を歩き続ける〈ぼく〉ですが、何も見えないまっくら闇の中で、次々と不思議な出来事が起こっていって……。

バオ・ニン『戦争の悲しみ』


こんな書き出しで始まります。

 戦後初めての乾季が、遅ればせながら静かな足音を立てて、B3戦区北部地域にやってきた。九月、十月、十一月は過ぎ去った。しかしポコ河の両岸には、雨季にあふれた水がまだ残っていた。天候は相変わらず不安定だった。昼間は晴、夜間は雨。小雨だが雨……雨……その中に山々はかすみ、遠くの峰がぼやけて見える。木々は濡れそぼち、森は静まり返っている。その森からは昼夜の別なく水蒸気がもくもくと立ちのぼり、海中のような青っぽい大気の中に腐葉土の匂いが漂う。(177ページ)


キエンは部下のティンのことを思い出します。ティンが肉を食うために大きな猿を撃ち倒すと、それは灰白色のざらざらした肌を持つ太った女性だったこと。やがてキエン以外の小隊の兵士は皆死にました。

脱走したカンのこと。人を殺し続けていたら人間らしさがなくなる、「俺は毎晩、自分の死ぬ夢を見るんだ。俺の魂が体から抜け出して、人の血を吸う魔物になるんだ」(196ページ)と姿を消したカン。

部下たちが少女たちと恋に落ちたのを黙認していたら、やがてスパイ兵たちに少女たちがさらわれて、無残な結果を引き起こしてしまったこと。10年の壮絶な経験を経て、28歳の時戦争は終わりました。

40代のキエンは小説家になっており初めての長編小説に取り掛かっています。しかし小説はなかなかうまく書き進められないのでした。

 ともあれ、この小説を書き始めて以来、キエンはただ一本のロープにすがって断崖にぶら下がっているような心境だった。書くことが自分の宿命なのだと信じながらも、彼はその宿命を成就するための自分の頭脳の明晰さを疑っていた。(中略)彼の小説は、しょっぱなからヴェトナム文学の伝統的な叙述形式を逸脱し、作品の中の時間と空間は不合理にかきまぜられ、物語の筋は乱れ、登場人物の人生は偶然性に委ねられることになった。どの章でも、キエンのペンは勝手に動いた。そのペンの描く戦争は、彼の同胞すら知らぬ戦争、彼一人の戦いのようだった。彼は書きながらその戦いに身を投じた。それは孤独で、超現実的で、キエンだけの情念と感覚に突き動かされた戦い、従って当然のことに過誤に満ちた戦いだった。(231~232ページ)


抗米戦後、ハノイへ帰郷したキエンは思いがけず、幼馴染の恋人フォンと10年ぶりに再会を果たし、ともに暮らし始めました。ずっとお互いを想いあっていた二人は、もう二度と離れないと誓ったのです。

しかしやがてフォンは「あなたとの間には小石があるだけで、そんなものは簡単に乗り越えられると思ってたけど、実際にあったのは小石じゃなくて山だったわ」(271ページ)と言い去っていきました。

小説に取り組むキエンは、戦争の思い出が頭から、フォンへの想いが心から離れません。画家だった父がアトリエとして使っていた屋根裏に住んでいる、口のきけない女性の所に、酔うと夜訪ねていきます。

その娘はキエンが自分を誰かと混同していると気付きますがキエンの「永遠に続くかと思われる長くて恐ろしくて、しかし彼女には明確な全体図が読み取れない話」(310ページ)に耳を傾けるのでした。

キエンが17歳の時に父が死にました。「あんたのお父さんが亡くなってから、あたしはあんたを本気で愛するようになった。そして、なぜ愛してるのかがわかってきたわ」(344ページ)と言うフォン。

当時の国情では認められていなかったキエンの父は、亡くなる時に、自作の絵をすべて燃やしたのですが、その気持ちが分かるというんですね。フォンは、自分自身が時代にあわない人間だと気付いたから。

フォン曰く時代に適応できるキエンは人民軍へ志願します。それを聞いたフォンは「あたし、今から、今夜から、あんたの妻になるの。あんたと一緒に歩くの」(347ページ)と言っていたのですが……。

とまあそんな2編が収録されています。残雪は、カフカと比較されることの多い作家ですが、カフカというのはぼくの印象ですが、土地性や感情など、どろどろしたものがあまりない作風だと思うんですよ。

残雪はカフカのようにどこか現実とは違う、異質な世界を作り上げていることは確かですが、あくまでちゃんとした生活が中心となっている部分があって、カフカほどの「不条理」性はないかも知れません。

読んでいてわりと連想させられたのは、むしろラテンアメリカ文学の持つ不思議さ、濃厚さで、そういった点では神話の持つ幻想性を取り込んだような「マジックリアリズム」の技法に近いものがあります。

最も面白かったのは、表題作の「暗夜」で、暗闇が持つイメージの喚起力は、これほどまでにすごいのかと、改めて気付かせてくれるような作品でした。不思議な雰囲気の短編を読みたい方におすすめです。

中国とベトナムの作家が収録された巻。日本ではアジアの小説はかえって読まれていないので、機会があれば、ぜひ読んでみてください。

明日は、小川洋子『妊娠カレンダー』を紹介する予定です。

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小川洋子『妊娠カレンダー』

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妊娠カレンダー (文春文庫)/文藝春秋

¥440
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小川洋子『妊娠カレンダー』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

描かれているのはわりとよくある風景でしょう。姉夫婦と同居する大学生の妹が、妊娠した姉との日々について記録した物語で、妊婦の姉はつわりで苦しんだり、その後は逆に太りすぎて心配したりします。

目立った出来事は起こらず、描かれているエピソードの一つ一つも目新しいものではなく、ただ淡々と過ぎていく姉の妊婦生活が描かれた小説なのですが、やはり小川洋子ならではの世界が作られています。

たとえば、姉がつわりで苦しむ場面の描写を紹介したいと思いますが、ちょっとグロテスクな感じもあるので、そういうのが苦手な方や、グラタンが好きな方はここは飛ばして読むのをおすすめします。

「もう食べないの?」
 わたしが聞くと、姉はうんとうなずいて頬杖をついた。
 ストーブの上でやかんがしゅんしゅん鳴っていた。姉は無口にわたしを見ていた。仕方なく、わたしは一人で続きを食べた。
「グラタンのホワイトソースって、内臓の消化液みたいだって思わない?」
 姉がつぶやいた。わたしは無視して氷水を一口飲んだ。
「その生温かい温度とか、しっとりとした舌触りとか、ぽたぽたした濃度とか」
(中略)
「マカロニの形がまた奇妙なのよ。口の中であの空洞がぷつ、ぷつ、って切れる時、わたしは今、消化管を食べてるんだなあという気持ちになるの。胆汁とか膵液とかが流れる、ぬるぬるした管よ」
 わたしは姉の唇からこぼれ落ちてくるいろいろな種類の言葉を、哀しい気持ちで眺めながら、スプーンの柄を指先で撫でていた。姉は好きなことを喋りたいだけ喋ると、ゆっくり立ち上がって部屋を出ていった。冷えたグラタンが、テーブルの上で白い塊になっていた。(22~23ページ)


そんな具体的にグロテスクなイメージをあげられたら、読んでいるだけのこちらまでグラタンを食べられなくなってしまいそうですが、こうした描写を読んでみてみなさんはどんな感じを受けたでしょうか?

つわり自体は妊娠のエピソードとして珍しくありませんし、それによってまわりの人が振り回されるというのもまああることでしょう。しかしここでは、どこか異質な雰囲気が生まれているように思います。

小川洋子は匂いなど感覚に対するずば抜けた言葉のセンスで紡がれる文章そのものに魅力のある作家ですが、姉の妊娠にまつわる一連の出来事は、ごくありふれた風景でありながらも、どこか変なんですね。

妊娠というのは、夫婦にとっては喜びの象徴であり、あるいは夫婦でない間柄の男女ならば、困難の象徴になるかもしれませんが、ともかく、妊婦とまわりの人に大きな感情の変化をもたらすものでしょう。

しかし、姉夫婦からは妊娠に対して喜び、あるいは不安が感じられず、それ故に主人公である妹も姉の妊娠を喜んでいいのか、どんな風に受け止めればいいのか分からないまま日々は過ぎていくのでした。

義兄が姉の妊娠を知っているかどうかで迷い、姉夫婦におめでとうと言いそこねた妹は「おめでとう」の意味を辞書で確認してみたほど。

この小説は本来ならば喜びあるいは不安のイメージを抱くはずの妊娠を、感情的なものから切り離された、極めてニュートラルな出来事として描いた作品で、そうすることで異質な雰囲気が生まれています。

期待や喜びなど興奮した感情のないニュートラルな目線で見れば、妊娠は楽しいばかりの出来事ではなく、観察すれば観察するほど妊娠という出来事が持つ非日常性はどんどん浮かび上がってくるのでした。

ありふれた風景を描きながらそこに異質感を持ち込み、読者をぞくぞくさせる読みようによっては怖い物語に仕上げた手腕は、もう見事と言う他ありません。一度読んだら忘れらない印象の残る作品でした。

作品のあらすじ


『妊娠カレンダー』には、「妊娠カレンダー」「ドミトリイ」「夕暮れの給食室と雨のプール」の3編が収録されています。

「妊娠カレンダー」

十二月二十九日(月)二年間つけ続けていた基礎体温のグラフを持って姉が病院にいって、妊娠二ヶ月であることがはっきりしました。姉が選んだのは子供の頃遊び場にしていた、古くからあるM病院です。

〈わたし〉は両親を亡くして姉夫婦と同居しているので、姉と義兄と三人でとる朝食の席で、姉の妊娠についてこんなことを考えました。

 きのう産婦人科に行ったことで、姉は正式に妊婦になったのだが、特別変わった様子は見せなかった。喜ぶにしても戸惑うにしても、もっと興奮すると思っていたので、意外だった。いつもはちょっとした変化、行きつけの美容院が店じまいしたとか、隣の猫が老衰で死んだとか、水道工事で一日断水したとか、そんなささやかな出来事にひどく動揺し、神経を乱されて、すぐ二階堂先生の所へ駆け込むというのに。
 姉は妊娠のことを、義兄にどう話したのだろうか。あの二人が、わたしのいない所でどんな会話をしているのかよく分らない。大体わたしには、夫婦というものがうまく理解できないのだ。それは何か、不可思議な気体のように思える。輪郭も色もなく、三角フラスコの透明なガラスと見分けがつかない、はかない気体だ。
(18ページ)


典型を嫌っている姉は「わたしはつわりになんかならないわ」(21ページ)と豪語していましたが、匂いが駄目でほとんどのものが食べられなくなり、クロワッサンだけを少しずつ食べるようになります。

〈わたし〉は赤ん坊について具体的なイメージが出来ないでいました。姉夫婦がまったく赤ん坊のことを話題にしないからかも知れません。つわりが終わると、今度は姉はたくさん食べて太り始めました。

しかも変なものを食べたがって、雨の降る夜に突然枇杷(びわ)のシャーベットが食べたいと言い出し〈わたし〉と義兄を困らせたりも。

〈わたし〉はスーパーでバイトをしているのですが、ある店員がワゴンを運ぶ時に、卵のケースを壊してしまいました。卵がかかって売り物にならなくなったグレープフルーツを、たくさんもらって来ます。

グレープフルーツを煮込んでジャムを作りながら〈わたし〉は、ゼミの友達に無理矢理連れて行かれた『地球汚染・人類汚染を考える会』の会合でもらったパンフレットに載っていたことを思い出して……。

「ドミトリイ」

夫が仕事でスウェーデンに行っており一人で暮らしている〈わたし〉の所に、歳の離れたいとこから電話がかかって来ました。四月から大学生になるのでかつて〈わたし〉がいた学生寮を紹介してほしいと。

〈わたし〉は六年ぶりに、寮生から「先生」と親しまれていた個人が運営する学生寮に連絡をしてみます。すると先生は学生寮は以前とは違う、複雑で困難な状況にあると、不思議なことを言ったのでした。

寮生が減って、食堂のコックには暇を出さざるをえず、風呂は一日おき、イベントは廃止されたと聞いた〈わたし〉は先生を励まします。

「そう、その通りです。こういう具体的な変化自体は、何の意味も持っていない。今喋ったことは、わたしがあなたに本当に伝えなければならないことの一番外側にある、頭蓋骨みたいなものです。問題の本質は、大脳の奥の小脳の奥の松果体の奥の髄に隠されているのです」
 先生は言葉を選びながら慎重に喋った。わたしは小学校の理科の教科書に載っていた『脳の構造』というページを思い出しながら、学生寮の陥っている状況について何とか理解しようとしたが、無理だった。
「これ以上、わたしには何も言えません。とにかくこの学生寮は、ある特殊な変性を遂げつつあるのです。しかしそれは決してあなたのいとこのような入寮希望者を、拒む種類のものではありません。ですからどうぞ遠慮なさらずにいらして下さい。本当はわたしはうれしいのです。あなたが学生寮のことを忘れずにいてくれて。いとこの方に戸籍謄本と大学の入学証明書を持って、あっ、それから保証人のサインを添えて、こちらにいらっしゃるようお伝え下さい」
「はい」
 わたしはあいまいな気持ちのままうなずき、受話器を置いた。(87ページ)


いとこの入寮をきっかけに、理由は聞いていませんが両手と右足がない先生と、〈わたし〉は再び交流をするようになったのですが……。

「夕暮れの給食室と雨のプール」

〈わたし〉は彼との結婚をみんなから反対されていました。一度結婚に失敗しており、十年も司法試験に落ち続けている、歳が離れすぎた相手だったから。それでも二人は新居を決めて、引っ越したのです。

〈わたし〉が浴室のペンキを塗り替えている時にやって来たのは、三歳ほどの子供を連れた三十代と思しき男。雨の中、おそろいのレインコートを着てやって来た二人は、どうやら宗教勧誘員のようでした。

やがて飼い犬のジュジュと散歩に出かけた時、給食室が見える小学校の裏門近くで親子と再会し、何回か顔をあわせる内に、男から給食室とプールにまつわる少し不思議な話を聞かされることとなって……。

とまあそんな3編が収録されています。独特の感性で紡がれる小川洋子の物語世界は、まさに好きな人は好き、嫌いな人は嫌いという感じだろうと思いますが、ぼくは好きなので、とても面白い一冊でした。

普通の小説と違って、簡単に伝えられるあらすじのようなものはほとんど何もないのですが、それこそまさに小川洋子の魅力で、なにげない日常風景に、ほんのちょっとの異質さを忍び込ませているのです。

引用した場面で面白そうだと思った方も多いだろうと思うのですが、学生寮をめぐるやや奇妙な物語「ドミトリイ」も実に面白い短編で、「複雑で困難な状況」がどんなものかぜひ覗いてほしいと思います。

巧みな比喩など小川洋子の文章技法は、リチャード・ブローティガンを思わせるものですが、同じくブローティガンを連想させるのが村上春樹。なので、小川洋子は村上春樹が好きな方にもおすすめですよ。

明日は、間に合えばまた「世界文学全集」を取り上げる予定です。

笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』

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タイムスリップ・コンビナート (文春文庫)/文藝春秋

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笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

特にネット用語や、お店の名前などがそうですが、読み方がよく分からなかったり、間違えて覚えて使ってしまったりするものですよね。

ぼくはWi-Fi(ワイファイ)は、ずっと普通に「ウィッフィ!」とマリオが叫びそうな感じで言ってましたし、「Francfranc(フランフラン)は店の中で、どや顔で「フランクフランク」と言ってました。

まあそんなちょっと恥ずかしい経験というのは誰もがあると思うのですが、これって実はかなり面白い現象で、言葉の読み方としては間違っていたとしても、指し示しているものはあっていたわけですよね。

似たような現象が起こるのが、夢を見ている時。姿形はまったく違くても、それが○○さんのことだと分かるなど、認識したものと、それが意味しているものに、ずれがある夢を見たことは、ありませんか?

言い間違いや夢などから人間の無意識を探れるとして発展していったのが、ジークムント・フロイトの心理学なのですが、その精神分析の方法などに影響を受けた流れに「シュールレアリスム」があります。

溶ける時計を描いたサルバトール・ダリなど、絵画も非常に面白いですが、文学に関心のある方は、原点とも言うべきアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」を読んでみてください。自動筆記に挑んだ作品です。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)/岩波書店

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そしてその「シュールレアリスム」の技法を巧みに取り込んでいるのが今回紹介する「タイムスリップ・コンビナート」。夢や幻想を思わせる作品世界ながら、わりとバランスがとれていて読みやすいです。

たとえば、ぼくが最も印象に残ったのは、こういう場面でした。

 ホームのベンチに座ると、誰かが捨てて行ったらしい折れた広告紙が、真っ白な裏をさらしてそのベンチの上に乗っかっていた。それが一冊の本に見えて仕方がなかった。その本の放つ銀色の光が、目の中に入って来て目が眩み始めた。眠ってしまうらしい。夢の中で広告紙の方に手を伸ばしていた。広告紙がどんどん膨れ上がって、本の形ばかりかその装丁や中の文字まで全部判った。最近流行っているらしい、細長い、ページ数の少ない、軽い本だ。白い艶の無い紙質の表紙で、中表紙が和紙のようなブルーグレー、文字が型押しした銀色で同じ色の模様があちこちに跳ねている。
(62~63ページ)


広告紙を本と見誤りそれが突如薄っぺらい本に変容するシュールさ。精神分析が出来そうでもありますね。「おおっ」とそのシュールさに惹かれた方は、ぜひ読んでみてください。きっと楽しめるはずです。

見誤ったもの、聞き違えたものがイメージを形作って、妄想がどんどん膨らんでいく独特の作品世界は好き嫌いは分かれるでしょうが、シュール好きにはたまらないもので、ぼくはかなり面白く読みました。

そしてこの作品のもう一つの大きな魅力は、海芝浦駅が舞台なこと。ぼくもこの小説を読むまでは知らなかったのですが、テレビに取り上げられることもあるくらい、有名な所みたいですね。こんな駅です。

――そこはJR鶴見線の終着駅で長いホームの一方が海に面している。もう一方に出口は一応あるものの、それは東芝の工場の通用口を兼ねたもので、社員以外の人間は立ち入り禁止である。つまり、一方が海で一方が東芝、外へ出ようとしたら方法はふたつ、海へ飛び込むか、東芝の受付で社員証を見せるか――というわけでその駅のホームに魚でもなく海蛇でもなく東芝の社員でもない人間が降り立ったとしたら、折り返しの電車が出るまでただホームに立ち尽くしている事しか出来ないのだった。(9ページ)


半分海で、もう半分は普通の人が入れない工場地帯。その対比が、未来社会のような現在と懐かしい過去、レプリカント(アンドロイド)のように働く人々と、物書きの自分のイメージと重なっていきます。

作品のあらすじ


『タイムスリップ・コンビナート』には、「タイムスリップ・コンビナート」「下落合の向こう」「シビレル夢ノ水」の3編が収録されています。

「タイムスリップ・コンビナート」

こんな書き出しで始まります。

 去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、いきなり、電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった。
(9ページ)


熟睡している時に電話がかかって来て、夢の続きのように話を聞いていると、電話の相手は「出掛けて戴かないと、……二十一世紀ですし」(13ページ)とよく分からない言葉で外出をすすめてきます。

電話の相手にも話の内容にも心当たりがないので、間違い電話だとも思いますが、相手は〈私〉のことをちゃんと分かっており、いつの間にか片側が海だという海芝浦へ行くことになってしまったのでした。

 ――ふうん、プラットホームで絵葉書なんかを売っているのかしら。
 ――え、……、そうじゃなくて、ともかくブレードランナーみたいなんですよ。
 唐突な言葉で、より一層わけが判らなくなった。ブレードランナーだと、東芝でブレードランナーがどうだとか言ってる。マグロは東芝で造っている人造マグロなのか。どうりでどこか、ロボット臭いと、思っていた。いや、ブレードランナーならばレプリカントだ。
 ――東芝でレプリカントを作っているんですか。
 ――いえいえいえ、いえいえいえいえいえいえっ。
 強い強い否定。ごまかすための否定か。ならば電話の相手こそがレプリカントなのだ。
 ……つまりね、そこは高度経済成長の名残の路線なんです。
 私は再び動揺した。ブレードランナーなどという外国語よりも、もっとわけの判らない単語が出て来たのだった。
(26~27ページ)


海が見え、工場が立ち並ぶコンビナートの町へと向かった〈私〉は、幼少時代の祖母との思い出など、時折過去の記憶を思い出して……。

「下落合の向こう」

電車に乗っていると不思議な感覚を呼び起こされる〈私〉。「電車の線路など本当は存在していないし、車窓に見える景色は全部作り物だなどと」(87ページ)考えるくらい外とは別世界に感じるのです。

床の下のごとんごとんと聞こえる音はもしかしたら「無数の巨大なザリガニがはさみをふり立てて伴走する、殻のぶつかり合い揺れる音」(87ページ)なのかもしれないと想像を膨らませてみたりします。

西武電車で高田馬場に出ようとしていた〈私〉は、かわいらしい制服に身を包んだ女子高校生らの会話を聞くともなしに聞いていて……。

「シビレル夢ノ水」

冬の比較的暖かい日の朝、家の前にわりと大きなメス猫がいて、勢いよく部屋に入り込んでしまいました。チャリネと名付けて、飼い始めましたが、気に入らないことがあると、なにかと暴れたりもします。

ようやくその気まぐれな乱暴ぶりに慣れ始めた半年後、掲示板を見た元々の飼い主がやって来て本当は兎虎(トコ)という名だと分かり、そのまま引き取られていきました。なんだか手持無沙汰になります。

今までは猫を中心に生活が回っていましたが、物書きの〈私〉一人だと別に朝も夜も気にしなくていいですし、掃除もしなくなりました。

すると、次第に増えたのが床の蚤(ノミ)で、なんとか対処しようとしたものの、蚤はどんどん大きくなり増えていってしまったのです。

 蚤は私の部屋の中でこれ見よがしに生殖行為をするようになった。いや、生殖行為の擬似行為や変態までもして、或いは変態の演技をしてみせてどれが生殖でどれが生殖でないか、判定の付かない私をあざ笑うのだった。蚤の生殖行為について無知だという事は、これまで少しも私を傷付ける事がなかった。が、蚤ですら人と同じように出来るのだと、そして、その蚤が様々な人間らしい擬似性交をしてみせてドレガ本当デショウと問い詰めて来るのには参ってしまった。(130ページ)


部屋を侵食し、自由気ままにふるまう蚤との奇妙な共同生活は続き、〈私〉は幻想なのか妄想なのか、そもそもこの部屋に入った時から起こった、不思議な出来事について思い出していくこととなって……。

とまあそんな3編が収録されています。「タイムスリップ・コンビナート」に出て来る『ブレードランナー』というのは、リドリー・スコット監督、ハリソン・フォード主演の1982年公開の映画のこと。

ブレードランナー ファイナル・カット 製作25周年記念エディション [Blu-ray]/ワーナー・ホーム・ビデオ

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「レプリカント」という人造人間がいる未来社会が舞台で、逃げ出した「レプリカント」を追う賞金稼ぎが主人公。任務を遂行している内に人間と「レプリカント」の違いに迷うようになっていく物語です。

原作は、フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、小説もおすすめですが、『ブレードランナー』は近未来的な映像が衝撃を与えた映画なので機会があればぜひ。

その近未来社会のモデルに、日本の都市が使われたことでも大きな話題となりました。SF小説やSF映画とあわせて、この「シュールレアリスム」な小説集を読むのも、また楽しいものかも知れませんよ。

シュールで面白い小説に興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、池澤夏樹個人編集=世界文学全集『短篇コレクションⅠ』を紹介する予定です。

池澤夏樹=個人編集世界文学全集『短篇コレクションⅠ』

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短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)/河出書房新社

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池澤夏樹=個人編集世界文学全集『短篇コレクションⅠ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

この「世界文学全集」には、短篇集が2冊あって、「短篇コレクションⅠ」には南北アメリカ、アジア、アフリカの短編20篇、「短篇コレクションⅡ」にはヨーロッパ圏の短編19篇が収録されています。

今回紹介する「短篇コレクションⅠ」は言ってしまえば、ヨーロッパ圏でない作品を集めたごった煮みたいな巻なのですが、これはこれですごくよく、何だか妙な言い方ですが、非常に勉強になる巻でした。

普段ぼくらが目にする小説というのは、やはりアメリカのものが多いと思うんです。なので、この巻に収録されているもので言えば村上春樹が訳しているレイモンド・カーヴァー辺りが馴染み深いんですね。

柴田元幸訳のバーナード・マラマッドも収録されていますが、現代アメリカ文学は、村上春樹と柴田元幸が訳すようなちょっと奇妙で、美しくクリアな雰囲気をもつ作品がよく読まれているように思います。

そうした、英語圏のわりとよく知られている作家が収録されているのがこの巻の魅力の一つ。リチャード・ブローティガンや、カナダの作家、アリステア・マクラウドの短編も鮮烈な印象を与えてくれます。

そうした英語圏の、整然とした印象の短編がある一方で、ラテンアメリカ文学のぶっ飛んだ短編が収録されているのもこれまた魅力です。

ぼくがラテンアメリカ文学にハマったきっかけになった本が2冊あって、一冊はG・ガルシア=マルケスの長編『百年の孤独』、もう一冊はフリオ・コルタサルの短篇集『悪魔の涎・追い求める男』でした。

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)/岩波書店

¥756
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日本の純文学では、リアリズムと言って、現実をありのままに描くものがわりと多く、現実がリアルに写し取られていればいるほど評価される傾向にあるように思います。ところが、コルタサルは違います。

コルタサルの短編では現実ではあり得ないことが起こるのですが、それが幻想を描いた「シュールレアリスム」のように荒唐無稽ではなくて、ありえなくもないかなあと強引に納得させられてしまうのです。

中でも面白いのが渋滞が延々動かずいつの間にか高速道路の上でそこにいる人々の生活が始まってしまうという「南部高速道路」。ありえない設定ですが、読んでいる間は気付かないぐらい引き込まれます。

この「短篇コレクションⅠ」に収録されていますし、岩波文庫の方にも収録されているので、好きな方で読んでみてください。ラテンアメリカ文学を読みなれない読者にとっては驚きの作品だと思いますよ。

整然とした英語圏の文学、混沌としたラテンアメリカの文学が収録されているというその魅力だけでも十分読む価値がありますが、ぼくが非常に勉強になる巻だと書いたのは、それ以外もよかったからです。

実はあまりアジアの作品やナイジェリア、レバノンなどの作家の作品を読むことってないですよね。知らない作家なのはもちろん、知らない世界が描かれていて、驚きとともに唸らされる感じがありました。

特に印象的だったのが、エジプトの作家によってイスラム社会に生きる一家の秘密の生活が描かれた「肉の家」。他の文化では生まれないであろう厳格な雰囲気の中、独特のエロスが漂う面白い作品でした。

次はどの国のどの作家を読もうかなあと迷っている方は、この「短篇コレクションⅠ」を手に取って探してみるとよいかも知れませんよ。

作品のあらすじ


『短篇コレクションⅠ』には、全20編が収録されています。

「南部高速道路」フリオ・コルタサル(木村榮一訳)


八月の日曜日。パリへ向かう南部高速道路は渋滞していました。渋滞はとても長く続き、待っている人々の間で交流が生まれ、食料を交換しあい、恋が生まれます。どれくらい月日が経ったか分かりません。

道路の外へ行こうにも土地の人間は外の世界の人間を受け入れず、石を投げて来ました。やむをえず高速道路の人々は共同体を作り、お互い支えあい協力しあい生きていきます。やがて寒くなって来て……。

「波との生活」オクタビオ・パス(野谷文昭訳)


海から上がろうとすると、ほっそりとして軽やかな波がついて来てしまいました。彼女に思いとどまるよう説得しますが、彼女はもう心を決めていたので、〈僕〉は彼女と共同生活をすることとなって……。

「白痴が先」バーナード・マラマッド(柴田元幸訳)


病気で長いこと生きられないメンデルは、なんとかして息子のアイザックをカリフォルニアの叔父の元へ送り出そうとしていました。アイザックは頭がよくないので、しっかり任せられる人物が必要だから。

ところが、切符を買うお金があと三十五ドル、どうしても足らないのです。時間にせかされる中、質屋で時計を売ろうとしたり、裕福な夫妻に寄付を頼んだりもしましたが、なかなかお金が手に入らず……。

「タルパ」フアン・ルルフォ(杉山晃訳)


手足のあちこちに紫色の水ぶくれが出来てもう助からないと思ったタニーロ・サントスは、タルパにある聖母像をお祈りしたいと言います。妻のナターリア、弟の〈おれ〉と一緒に旅立ったのですが……。

「色、戒」張愛玲(垂水千恵訳)


情報を聞き出し、必要とあらば暗殺するために、諜報機関の重要人物易(イー)先生へ近づくことにした組織。任務を命じられたのは、学生劇団で主演をつとめたこともある王佳芝(ワンチアチー)でした。

仲間の男と肉体関係を持って練習をした後、身分を偽って易夫人に近付いた佳芝は思惑通り易の愛人になることが出来ました。しかし恋愛を知らない佳芝は、少しずつ易に心が動いていくようでもあり……。

「肉の家」ユースフ・イドリース(奴田原睦明訳)


20歳から16歳までの三人の娘と暮らしている35歳の未亡人。娘たちは器量がよくないのと、男親がいないことから、結婚の話が持ち上がりません。母親は家に来る盲目のコーラン読みと再婚しました。

ある夜愛し合った後、夫から不思議なことを言われます。何故今日の午後はすっかり黙り込んでいて、おまけに結婚指輪を外していたのかと。母親は驚きを飲み込んで、相手が誰かを探ろうとしますが……。

「小さな黒い箱」P・K・ディック(浅倉久志訳)


国務省は、二千万人の信者を持つウィルバー・マーサーについて調べをすすめていました。信者たちは共感(エンパシー)ボックスを使ってマーサーの姿を見、マーサーの痛みを感じることが出来るのです。

禅を重んじるテレパスのジョーン・ハヤシは、国務省から任務を命じられてキューバーへと向かいました。一方、ジョーンのかつての愛人で、ハープ奏者のレイ・メリタンも思わぬ事態に巻き込まれて……。

「呪い卵」チヌア・アチェベ(菅啓次郎訳)


内陸の村出身でミッション・スクールで教育を受け、ヨーロッパ系の貿易会社の事務員としてウムルにやって来たジュリアス・オビは、婚約者ジュリアスからウムルの不思議な風習について聞かされて……。

「朴達の裁判」金達寿


しばらくぶりに南部朝鮮Kの刑務所から出て来た朴達(パクタリ)は、妻といっていい関係の丹仙(タンソン)ら馴染みの仲間たちから温かく迎え入れられます。朴達は学がない作男ですが妙な男でした。

初めはパルチザン(武装した一般市民)と共謀したとされて取り調べを受けたのですが、そこで思想犯と出会い、文字や歴史についてを習ったことで、わざと騒ぎを起こして投獄されるのが癖になって……。

「夜の海の旅」ジョン・バース(志村正雄訳)


「この旅はぼくが考え出したものか? そもそも夜は、海は、ぼくの経験とは別個なものとして存在するのか?」(283ページ)自問自答し〈創造主〉について考え続ける〈ぼく〉たちは泳ぎ続けて……。

「ジョーカー最大の勝利」
ドナルド・バーセルミ(志村正雄訳)


フレデリックはいつものように火曜日の晩、友人のブルース・ウェインの元を訪れました。ゴードン総監の合図バット・シグナルが夜空に浮かび、バットマンになったブルースとフレデリックは出掛けます。

仇敵ジョーカーの野望を食い止めようとしたバットマンでしたが、乗り込んだ装甲車の中にジョーカーがおり、気絶させられてしまったバットマンは、高笑いするジョーカーに素顔を見られてしまって……。

「レシタティフ――叙唱」
トニ・モリスン(篠森ゆりこ訳)


一晩中踊っている母親を持つ〈あたし〉と、病気の母親を持つロバータが出会ったのは8歳の時、孤児院の聖(セント)ボニーでのこと。塩と黒コショウのように見た目の違う二人ですが、仲良くなります。

しかし孤児院を離れると連絡も途絶えてしまったのでした。やがてウェイトレスで生計を立てるようになった〈あたし〉はボーイフレンドと一緒にお客としてやってロバータと再会を果たしたのですが……。

「サン・フランシスコYMCA讃歌」
リチャード・ブローティガン(藤本和子訳)


祖父から受け継いだ財産で悠々自適に暮らす彼が何より好きなのは詩。そこで、家の鉛管類をすべて詩に置き換えることに決めました。水道管にジョン・ダンを、浴槽にウィリアム・シェイクスピアを。

台所の流しにエミリー・ディキンソンを、洗面所の流しにはウラジミル・マヤコフスキーを、湯沸かし器にはマイケル・マクルアを。風呂に入るためにシェイクスピアの詩の中でムクルアの詩を温めて……。

「ラムレの証言」
ガッサーン・カナファーニー(岡真理訳)


ユダヤ人たちがラムレの街にやって来て〈ぼく〉らを二列に並ばせ両手を頭上で交差するよう命じました。銃声が聞こえ、みんなから「伯父さん」と親しまれているアブー・オスマーンの娘が殺されて……。

「冬の犬」アリステア・マクラウド(中野恵津子訳)


カナダの東海岸に住む家族が病気で、そのこと自体も心配ですが、もしも亡くなったら二千四百キロを、車で駆けつけなければならないことに悩みながら、〈私〉は雪にはしゃぐ子供たちを眺めていました。

ふと思い出したのは12歳の時に飼っていた犬のこと。ある冬の日曜日、〈私〉は犬にそりをつけ、仕掛けていた罠を見に行きました。ところが凍ったアザラシを見つけたことで流氷から落ちてしまい……。

「ささやかだけど、役にたつこと」
レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)


土曜日の午後、アンはショッピング・センターのパン屋で8歳になる息子のスコッティーの誕生日ケーキを予約しました。ところが、誕生日の当日である月曜日の朝、スコッティーは車にはねられたのです。

はっきりした原因が分からないまま眠り続けている状態のスコッティーを心配しながら、息子を見守り続けるアンと夫のハワード。しかし時折家に帰ると二人にとっては意味不明な電話がかかり続けて……。

「ダンシング・ガールズ」
マーガレット・アトウッド(岸本佐知子訳)


大家のミセス・ノーランが、子供たちにあなたの国の民族衣装を見せてほしいと頼んでいるのを聞いたことで、アンは新しい入居人に気付きました。バスルームを共有するので、どんな人物か気になります。

そこは外国からの留学生が集まる下宿屋で、アン自身もあまり意識されないものの、カナダからの留学生。ミセス・ノーランと「アラブのほう」から来たという男は、初めはうまくいっていたのですが……。

「母」高行健(飯塚容訳)


大学二年生だった彼は知識欲が旺盛で、夏休みに帰省する切符代として実家から送ってもらったお金も、急行から鈍行に変えて倹約し、本代にあてたほど。しかし実家に帰って知らされたのは母の死で……。

「猫の首を刎ねる」
ガーダ・アル=サンマーン(岡真理訳)


レバノンのベイルート出身の〈ぼく〉はパリで出会ったナディーンに求婚しようとしていました。ところが謎の老婆が現れナディーンとは対照的な純粋無垢で奴隷のようにかしずく花嫁をすすめられて……。

「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」目取真俊


何事も器用にできない〈うち〉は、小学二年生の時にトイレに閉じ込められるなどのいじめにあって、とうとう学校にいけなくなってしまいました。そんな〈うち〉にいつもやさしくしてくれたのがおばあ。

ある時ガジマルの木の下で、昔のような格好をした女の人と出会って話を聞いた〈うち〉はおばあから「あんたは霊力の高い生まれだからね、人の見えんものも見えるさ」(503ページ)と言われて……。

とまあそんな20編が収録されています。ではいくつか補足的事柄を。張愛玲「色、戒」は2007年に公開の、トニー・レオン主演、アン・リー監督の映画、『ラスト、コーション』の原作になります。

ラスト、コーション [DVD]/Victor Entertainment,Inc.(V)(D)

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R18に指定された大胆な性描写が話題になった作品だけにぼくはちょっと見逃してしまったんですが、機会があれば観てみたいですね。

P・K・ディック「小さな黒い箱」に出て来るマーサー教は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』など、ディックの他の作品にも登場するので、これをきっかけに、ぜひ他の作品も読んでみてください。

ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」はぼくはよく分かりませんでしたが、池澤夏樹によると、「べたな文体で再話して、ヒーロー物語としての虚飾」を取り去っている面白さがあるみたいです。

アメリカの黒人初のノーベル文学賞受賞者であるトニ・モリスン「レシタティフ」は二人の少女の内、どちらが黒人で、どちらが白人かが明記されていないのが重要で、非常に興味深いテーマの作品でした。

レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」は、朗読CDつきの対訳本『村上春樹ハイブ・リット』にも収録されています。英語の勉強をしている文学好きな方におすすめの一冊ですよ。

村上春樹ハイブ・リット/アルク

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多くの国から幅広いジャンルの短編が収録された『短篇コレクションⅠ』。今まで知らなかった作家や作品と出会えるおすすめの巻です。

明日も「世界文学全集」で、『短篇コレクションⅡ』を紹介します。

池澤夏樹=個人編集世界文学全集『短篇コレクションⅡ』

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短篇コレクション Ⅱ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)/河出書房新社

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池澤夏樹=個人編集世界文学全集『短篇コレクションⅡ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

この「世界文学全集」には、短篇集が2冊あって、「短篇コレクションⅠ」には南北アメリカ、アジア、アフリカの短編20篇、「短篇コレクションⅡ」にはヨーロッパ圏の短編19篇が収録されています。

「短篇コレクションⅡ」の作家の国を正確にあげるとイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、ロシア、ポーランドです。

国籍や活動している言語で言えば、間違いなくイギリス文学になりますが、日本にルーツを持つカズオ・イシグロ、インドにルーツを持つサルマン・ルシュディの短編が収録されているのもまた興味深い所。

短篇コレクションⅠ』の方は、ラテンアメリカが含まれていることもあって、リアリズムをぶっ壊している面白さがありました。小説の技法としての斬新さ、物語の衝撃度は明らかに『』が上でしょう。

『Ⅱ』の方は静謐で大人しい雰囲気の作品が多いですが、これぞ短篇というような教科書的な面白さがあり、これはこれで魅力的でした。

すぐれた小説がどういうものかを決めるのは難しいですが、「教科書的な」枠組みでよさを求めるならそれは簡単で、いい小説というのはそのままずばり、メッセージ性がしっかりしたものになるでしょう。

すなわち、読み終わった後に「この小説は何が言いたかったか?」という問いに対して、読者がそれぞれの感想を出せるようなものが、「教科書的な」すぐれた小説ということになるだろうと思うのです。

たとえば『』には、波に恋されてついて来られる話があったり、鉛管類を全部詩に変えてしまう荒唐無稽な話があったりしましたが、そこからメッセージ性を読み取って、感想を言うのは難しいでしょう。

『Ⅱ』の方はリアリズムの作品が多いので、読者それぞれの受け止め方によっても違ってきますが「これはこんなことを表している作品なんだ」という教訓を導き出しやすい面白さのある巻ということです。

たとえば、印象に残った短篇にポール・ガデンヌの「鯨」がありました。浜辺に打ち上げられた白い鯨の噂を聞いて、それを見に行くというだけの、ただそれだけの短編ですが、これが結構面白いんですよ。

なにが面白いかというと、その浜辺に打ち上げられ異臭を放っている白い鯨が単に生物としての鯨を表しているだけではなくて、人間の醜さや純粋さなど、もっと抽象的ななにかを指し示しているからです。

同じように、ハインリヒ・ベルの「X町での一夜」は戦地に向う青年と小さな町で暮らす女性の短い時間の交流を描いた短編ですが、物語としてはシンプルでも、そこから読み取れるものは大きいのでした。

そんな風に、シンプルな物語の奥に、指し示されているメッセージ的ななにかが感じられる魅力のある短編が多く、しかもそれは短い小説だからこそ、鮮やかな印象をともなって読者の心に強く響くのです。

ぼくなんかは短編が終わるごとに、心を動かされてしばらく余韻にひたってしまうことが多かったぐらいです。そうしたしみじみとした情感を誘われる感じは『』の巻の方では、あまりありませんでした。

地味な短編が多いので、その点はおすすめしづらいのですが、一つ一つがまさに珠玉と評するにふさわしいものばかりで、深い森の中で目をこらし耳をすますように、じっくり味わってもらいたい一冊です。

作品のあらすじ


『短篇コレクションⅡ』には、全19編が収録されています。

「おしゃべりな家の精」
アレクサンドル・グリーン(岩本和久訳)


雨宿りに入ったことで冷たいかまどの下に座っていた小さな、悲しそうな家の精と出会った〈ぼく〉。苦しげな家の精は、その家にはかつてフィリップとアニーという若夫婦が住んでいたと話し始めて……。

「リゲーア」
ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
(小林惺訳)


〈恋人〉一号が財布からお金を盗もうとして〈恋人〉二号の手紙を見つけ、揉めた挙げ句両方から捨てられた〈私〉はカフェ通いを始め、古代ギリシャ学の権威でもあるラ・チューラ上院議員と出会います。

そして氏の若かりし頃の話を聞きました。それは海で出会った古代ギリシャ語を話す美しいセイレーンとの出会いの物語。リゲーアと名乗ったそのセイレーンと、愛に満ちた日々を送り始めたのですが……。

「ギンプルのてんねん」
イツホク・バシェヴィス(西成彦訳)


あまり頭がよくなく「ギンプルのてんねん」とみんなから馬鹿にされる〈おいら〉。しょっちゅうみんなからいたずらされてばかり。やがて片足が悪く子供がいるらしい女と、結婚させられてしまいました。

奥さんのエルカは結婚して四ヶ月もしない内に子供を産み、知らない男を連れ込み、弟とやらの私生児は成長して殴りかかって来ます。ラビ(ユダヤ教の教師)に相談して、別れようと思ったのですが……。

「トロイの馬」レーモン・クノー(篠塚修一郎訳)


酒場に男が入って来ました。やがて女が遅れてやって来て代わり映えのしないみじめな生活の愚痴をこぼしあいます。カウンターにいた馬が、一杯ごちそうしたいと言いますが、二人は相手にしないで……。

「ねずみ」
ヴィトルド・ゴンブローヴィチ(工藤幸雄訳)


強盗、大酒飲み、刺客(せっかく)として聞こえたフリガン。あまりにも大っぴらな行動をするが故に村民の人気者で、警察も手を出せません。そこで元判事の老人が立ち上がり、フリガンを捕まえました。

フリガンの性根を入れ替えようとする判事でしたが、フリガンは拷問にめげず猿ぐつわが外されると大声で騒ぎ出すので、ほとほと手を焼きます。しかしようやくねずみが嫌いだという弱点を見つけて……。

「鯨」ポール・ガデンヌ(堀江敏幸訳)


浜辺に白い鯨(クジラ)が打ち上げられたという噂をいたる所で聞いた〈私〉は死んでいるのか生きているのかが気になり、伯爵夫人のお茶会の出席をやめて、オディールとともに見に行くことにして……。

「自殺」チェーザレ・パヴェーゼ(河島英昭訳)


時折カッフェに腰をおろして街を眺める〈ぼく〉。そうして孤独と苦しみを噛みしめながら、一年以上前に死んだカルロッタのことを思い出していきます。カルロッタは夫とうまくいっていない人妻で……。

「X町での一夜」ハインリヒ・ベル(松永美穂訳)


戦地へ向かう移動で乗り換えのために小さな駅で降りた〈ぼく〉はワインで酔っ払い、ハンガリーの女の子と一夜を過ごします。完璧な孤独感に包まれて目を覚ました〈ぼく〉は彼女と言葉を交わして……。

「あずまや」ロジェ・グルニエ(山田稔訳)


マウイ島に調査に来ていた地質学者のトマは、遺体が運び去られた飛行機事故の現場で折れた弓を見つけました。後にそれは世界的な女性ヴァイオリニストのアニューシカのものだったことが分かりました。

トマは学生時代に若き日のアニューシカと音楽学校の公開音楽会で、「クロイツェル・ソナタ」を演奏することになったことを思い出します。練習を重ねる内に少しずつ打ち解けていった二人でしたが……。

「犬」フリードリヒ・デュレンマット(岩淵達治訳)


みすぼらしい格好で聖書について語る男はいつも漆黒の犬を連れていました。その一人と一匹を観察し続けていた〈ぼく〉は、家に送っていったことで出会った男の娘と愛し合うようになったのですが……。

「同時に」インゲボルク・バッハマン(大羅志保子訳)


結婚寸前で別れた経験を持つ同時通訳のナディアと長い間離婚を考えている外交官のフランケルは、フランス語、英語、イタリア語、ドイツ語など様々な言語で会話をしながら車を走らせ、旅を続けて……。

「ローズは泣いた」
ウィリアム・トレヴァー(中野恵津子訳)


ローズの大学入学が決まり60代後半の個人指導教師ブーヴェリー先生を招いて食事会が開かれます。しかしローズは気が進みません。ブーヴェリー先生の夫人が不倫していることを知っていたからで……。

「略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」
ファジル・イスカンデル(安岡治子訳)


サンドロは友人のアスランの略奪結婚の手伝いをしようとしていました。無理矢理さらって身分違いでも強引に結婚を成立させてしまおうというのです。問題はサンドロもまたアスランの許嫁が好きなこと。

アスランの許嫁もサンドロの方を好きになってくれました。友情と恋愛の間で揺れるサンドロでしたが、略奪結婚で起こったちょっとした手違いから、アスランの許嫁を自分のものとする方法を閃いて……。

「希望の海、復讐の帆」
J・G・バラード(浅倉久志訳)


砂鱏(すなえい)狩りに出かけて怪我をした〈わたし〉はホープ・キューナードという女性に救助されて、リザード・キイという島で静養することになりました。〈わたし〉の肖像画を描くと言う、ホープ。

そのカンヴァスは顔料が選択されると露出された対象のイメージが少しずつ自動で描き出されていくものですが、やがて背景には見知らぬ人物が浮かび上がり、ホープは〈わたし〉を誰かと間違え始め……。

「そり返った断崖」A・S・バイアット(池田栄一訳)


ジュリアナ嬢とその兄トムの友ジョシュアは別荘にやって来る予定のロバート・ブラウニングのことを話題にしていました。どう思われるか気にするジュリアナにジョシュアは気に入ってくれると言います。

偉大な画家を目指しているジョシュアはジュリアナをモデルに絵を描き始め、その作業を通じていつしか二人の気持ちは通じ、愛し合うようになっていったのでした。ところが、思わぬ事態が起こって……。

「芝居小屋」アントニオ・タブッキ(須賀敦子訳)


1934年、アフリカのモザンピークの兵営にいた26歳の〈私〉の所へ、サー・ウィルフレッド・コットンを名乗る人物から、古風な招待状が届きました。興味を持ったので正装して出かけていくと……。

「無料のラジオ」サルマン・ルシュディ(寺門康彦訳)


父親が上等なサイクル・リキシャを残してくれ、輝かしい未来が約束されていたはずのリキシャワラ(車夫)のラマニ。ところがラマニが恋したのは、”盗っ人後家”と呼ばれる五人の子持ちの未亡人で……。

「日の暮れた村」カズオ・イシグロ(柴田元幸訳)


〈私〉は昔住んでいたコテージへ戻って来ました。20歳前後の女性たちは〈私〉があのグループのフレッチャーだと気付いて騒ぎます。しかし、〈私〉は今ではもうすっかり落ちぶれてしまっていて……。

「ランサローテ」ミシェル・ウエルベック(野崎歓訳)


年末の休日を無駄に過ごすことになりそうだと思った〈私〉は、旅行代理店のすすめで、カナリア諸島のランサローテへ向かいます。観光のマイクロバスで、ベルギー人と思しきリュディと知り合いました。

やがてリュディはルクセンブルク生まれで、ブリュッセルで暮らしている私服刑事だと分かります。〈私〉とリュディはドイツ人女性の二人連れ、パムとバルバラを誘って出掛けることにしたのですが……。

とまあそんな19編が収録されています。当然ながら短編というのは長編に比べて短い作品ですよね。しかしながら、文体だったり、作品のテーマだったりは、その作家固有の特徴が出ているものなんです。

この『Ⅱ』の巻に収められているのは、実はすぐれた長編作家が多いので、「あっ、この雰囲気はなんだか好きだな」と思った作家が見つかったなら、今度はぜひ、長編を読んでもらいたいと思うんですよ。

たとえば、この巻で明らかに異色なのは、ミシェル・ウエルベックの「ランサローテ」で、ちょっと卑猥というかどぎつい描写がある好き嫌いが分かれそうな短篇なのですが、興味を持つ方もいるでしょう。

そんな方にぜひ読んでもらいたいのが、ウエルベックの代表作『素粒子』。やるせない雰囲気だとか、作品のテーマに共通点があります。

素粒子 (ちくま文庫)/筑摩書房

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そんな風に気になった作家の代表作を読んでいくのがおすすめです。

ゴンブローヴィチなら『フェルディドゥルケ』、バイアットなら『抱擁』、タブッキなら『供述によるとペレイラは…』、カズオ・イシグロなら『日の名残り』、ルシュディなら『真夜中の子供たち』など。

ヨーロッパ圏の作家のエッセンスが味わえるお得な一冊なので、この短編集を入口にして興味を引かれた文体やテーマの作家の作品をどんどん読み進めると、さらに世界の文学を楽しんでいけると思います。

自分がヨーロッパのどの作家と波長があうかを確かめられる本なので、読みたい小説を見つけたい方は、ぜひ手に取ってみてください。

明日は、諏訪哲史『アサッテの人』を紹介する予定です。

諏訪哲史『アサッテの人』

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アサッテの人/講談社

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諏訪哲史『アサッテの人』(講談社)を読みました。芥川賞受賞作です。ぼくが読んだのは単行本ですが、今は文庫本でも出ています。

小説には「メタフィクション」と呼ばれるものがあります。小説であること自体をネタにしたもののことで、日本では筒井康隆が有名。主人公が気絶したページが空白になる『虚人たち』が特に面白いです。

虚人たち (中公文庫)/中央公論社

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作り上げられた物語を楽しみたい読者がいれば、「メタフィクション」に面白みを感じる読者もいることでしょう。そしてそんな「メタフィクション」好きにおすすめなのが、この『アサッテの人』です。

自分の幼い時からの記憶や叔父の日記などの資料を元にして、謎の失踪を遂げた叔父についての小説を書こうとする物語ですが、小説自体はいまだ完成されておらず、いくつもの草稿を前に悩んでいる状態。

たとえばある草稿では叔父の妻朋子さんの目線から書かれています。

 草稿はいかにも若書きらしく、無造作に悩みなく書き出されている。中央に一対の夫婦を配した都会の生活のありふれた情景描写で、私はこの場面を、在りし日の朋子さん本人からの聞き書きを元にして再現している。書いたのはたしかに私に違いないが、そのありようは、実際家庭におこった出来事の、彼女自身の手による文章スケッチということにさせてもらえればありがたい。
(30ページ)


そうして、朋子さんである〈わたし〉の語りで物語は進んでいくのですが、ここに普通のフィクションとは違う、大きな問題があります。

まず、普通の小説なら、部屋の中で起こったある出来事に対して、「作者」が神の視点から三人称で夫婦を描くか、あるいは一人称で「作者」=「夫」が妻を描くか「作者」=妻が夫を描くかでしょう。

ところが『アサッテの人』がどうなっているかというと、妻から実際にあったという話を聞いた〈私〉が、その場面を再現した草稿を書き、それをさらに現在の〈私〉が見ているという構造なわけですね。

この複雑な構造が面白いのは、草稿に嘘や間違いや虚飾が入り込んでいる可能性があり、さらにそもそも妻から聞いた話そのものに嘘や間違いや虚飾が入り込んでいる可能性もあり、事実とは妙に遠いこと。

つまり、叔父についての草稿が積み重ねられるほど、なにが事実でなにかそうでないか分からなくなり、虚実が入り混じる迷宮に入り込んでいくこととなるわけです。これぞ「メタフィクション」の醍醐味。

叔父がなんだかちょっと変な人なので、純粋にその変な感じを笑いながら楽しむことも出来る小説ですが、ストーリーよりも、そうしたごちゃごちゃした小説構造そのものに魅力を感じる人におすすめです。

叔父の変なところをちょっと紹介しておくと、急に「ポンパ」や「タポンテュー」など、意味の分からない言葉を言い出すんですね。妻の朋子さんはその意味を探ろうとしますがなかなかうまくいきません。

 その日は休日で、わたしはベランダで乾いた洗濯物を取り込み、選択カゴを持って夫の部屋の前を歩き過ぎようとした。そのとき、部屋の中から、本を閉じるパタンという音に続いて、ひとこと、「タポンテュー」ときた。わたしは思わず足を止め、部屋の扉から顔をのぞかせて、「タポンテュー?」と復唱した。
 夫は、おや、という顔で振り返ると、「ああ」と云った。わたしはかすかな手応えを感じたので再度尋ねた。
「いま、タポンテューって言ったの?」
「うん。まあ正確には、タポンテュー、だけどね」
「え? なあに、どこも違わないじゃない。だから、タポンテュー、でしょう?」
 彼は、そうじゃなくて、と手を振って、
「タポンテュー」と噛んで含ませるように言った。
「タポンテュー…?」
 いや、そうじゃないんだ、夫は自分の口元を指さして、
「タポンテュー」ともう一度言った。「朋子のはタポンテュー、僕のはタポンテュー。な? ちょっと違うだろ?」
(73~74ページ)


思わず吹き出してしまいそうなくらいユーモラスな場面ですよね。こんな風になんだかちょっと変な叔父について書かれた物語なので、初めは誰もが、変な人だなあとにやにやしながら読み進めるはずです。

ところが、いつしか他人事のように読めなくなって来て、現実の生活で「ポンパ」と思いっきり叫びたくなったり「アサッテ」に思いを馳せてみたくなったりしてしまうのでした。そんな不思議な小説です。

作品のあらすじ


いなくなった叔父のことを小説に書こうとしている〈私〉ですが、なかなか決定稿までいかずに、草稿ばかりを書き続けているのでした。

 要するに、私の書きたいのは叔父の話であり、叔父の話とはつまるところポンパを含めた大きな意味での「アサッテ」の話であり、この「アサッテ」が性質上あらゆる「作為」を拒むものであるからには、元に戻って小説自体が破綻せざるをえない木阿弥にたどりつく。(11ページ)


「しばらく旅行に出ます。仕事は戻ったらまた探します。万事心配無用」(26ページ)の書き置きを残して、姿を消してしまった叔父。

叔父が暮らしていた浮沼団地は取り壊しが決まり、〈私〉が荷物を運び出す手続きをしました。その時に手に入れたのが叔父の日記。みなは叔父が旅行中だと思っていましたが、〈私〉の考えは変わります。

叔父の日記を読むと、ただの旅行だとは、到底思えなくなったから。

叔父には、朋子さんという妻がいました。朋子さんは交通事故で亡くなっており、みんなは叔父が朋子さんとの思い出の地めぐりをしていると思っています。しかし叔父の様子は、前から変だったのでした。

その様子が草稿として朋子さんの視点〈わたし〉で再現されていきます。突然意味もなく「ポンパッ」と叫んだり、「チリパッパ」や「ホエミャウ」と言ったりする夫。意味を尋ねても笑ってごまされます。

大学時代の友人久美子が婚約者と遊びに来て、挙式のことについて尋ねた時も夫は「タポンテュー」と答え、久美子たちを戸惑わせました。〈わたし〉は言葉の意味を探ろうと夫の行動を観察し始めます。

どうやら反射的に発せられてしまうものと、意識的に反芻されるものの二種類があるようですが、依然どれも意味はよくつかめないまま。

 あと、この《ポンパ》には他に、よくはわからないけれど、例えば「ポンパに属している」とか、「ポンパ的なうんぬん」とかいうふうに使われるときもある。この間など、夫がひとりで本を読んでいて、それがどんな記述だったのかは分からないが、さかんに手をたたき喝采しながら、
「ハッハッハッハ、あーあ、それはおまえポンパだろう、いやもう完全にポンパだ、いくらポンパってたってそりゃポンパすぎる、ハッハッ」
 と笑い出し、すこし後には、
「ポンパるんならポンパるよ。おまえがどうしてもポンパりたいんならポンパるよ。よーし、ポンパれポンパれ。おれもポンパる」
 また、
「おれはポンパで一元だ? おれははっきりいってポンパで一元だ? …ポンパだ? はっきりいって一元だ? ポンパか? おりゃあポンパだし、ちょっと黙ってろよ、ちょっと、…ちょっとでいいから!」
「黙ってろったら黙ってろよ。黙んないのか? なあ、黙んないのか? ほんとうに黙んないのか? 黙んないなら黙んないよこっちだって。おれは黙るよ?」
 などと、いや、正確でないかもしれないけれどだいたいこんな感じで、まるで自らに言い聞かせるようにつぶやいていたことがあった。(64~65ページ)


草稿から離れて〈私〉は幼年時代の記憶をたどり、「ポンパ」の意味を探ります。「ポンパ」は実家の老祖父の口癖でもあったのでした。父は言わず、叔父が言う「ポンパ」。結局意味はよく分かりません。

やがて日記を元に、叔父が吃音の矯正をしようとしていたこと、ビルの管理の仕事で、エレベーターの内部をモニターパネルで監視していた時に、妙な行動をする男を目撃したことなどが語られていき……。

はたして、〈私〉は叔父についての小説を書き上げられるのか!?

とまあそんなお話です。この段階では叔父は完全に変な人に思えるでしょうが、興味を持った方は、ぜひ実際に読んでみてください。変な人はそのまま変な人ですが、最後まで読むと印象は変わるはずです。

エレベーターで妙な行動をする男は後に「チューリップ男」と名付けられることになるのですが、叔父とこの「チューリップ男」は「アサッテ」という観点で、奇妙な共通点が生まれることになるのでした。

そして、その「アサッテ」というのは、あながち我々の人生とも無関係ではないような感じもあるだけに、次第に「アサッテの人」は他人事の「アサッテの人」ではないように感じられていくことでしょう。

なんだかよく分からない紹介になっていってしまいましたが、あらすじをいくら説明しても、そこに意味はないような、一風変わった小説なんです。面白そうだとピンと来た方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、保坂和志『この人の閾』を紹介する予定です。
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