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E.M.フォースター『果てしなき旅』

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果てしなき旅〈上〉 (岩波文庫)/岩波書店

¥693
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果てしなき旅〈下〉 (岩波文庫)/岩波書店

¥693
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E.M.フォースター(高橋和久訳)『果てしなき旅』(上下、岩波文庫)を読みました。

E.M.フォースターは、世界の文学の中でもとりわけ印象に残る作品を残した素晴らしい作家です。しかしながら、同時に話題になることが少ない作家でもあるんですね。それは一体何故なのでしょうか。

文学的な評価は置いておいて、読書好きの間でフォースターが話題にならないのは、間違いなくイギリス文学に他に有名な作家、たとえばジェイン・オースティンやサマセット・モームがいるからでしょう。

フォースターは価値観があわない恋愛をテーマに小説を書くことが多かったのですが、それはまさにオースティンのテーマと重なります。また一方で、半自伝的小説というテーマではモームと重なるのです。

つまり、フォースターの『ハワーズ・エンド』よりもオースティンの『高慢と偏見』、フォースターの『果てしなき旅』よりもモームの『人間の絆』の方が人気があるのでそちらが話題になるということ。

人間の絆〈上〉 (岩波文庫)/岩波書店

¥987
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ぼく自身も、率直に言えばフォースターよりもオースティンやモームの方が好きです。理由ははっきりしていて、オースティンはユーモアやウィットに富んでいますし、モームは物語的で、より面白いから。

つまり、残念ながらフォースターはオースティンに比べるとウィットに乏しく、モームと比べると物語性に欠ける作家と言えるでしょう。

ですが、フォースターの面白さというのはまさにそうした地味で、とことんリアルな人生が描かれている所にあります。テーマの深さという点ではオースティンやモームをも陵駕している感じがあるのです。

物語的な面白さはともかく、写実的な作風なだけに、テーマとして考えさせられることが多く、読者がもう一度、自分の人生について考えてみたくなるくらい心を動かされる作家がフォースターなのでした。

決して派手さはないですし、人生の苦みを描く作品が多いので読んでいてあまり楽しい気分にはなりませんが、小説を読む喜びを感じさせてくれる作家なので、ぜひ作品を手に取ってもらいたいと思います。

さて、今回紹介する『果てしなき旅』は、理想と現実に苦しむ作家志望の青年の姿を描いた半自伝的作品。六作あるフォースターの長編小説の中でぼくが最も好きな小説で、何年かに一回必ず読み返します。

芸術肌の主人公リッキーが、結婚や仕事を通して徐々に現実に打ちのめされていくことに引き込まれる小説ですが、何よりもリッキーの親友のアンセルが印象的。ぼくはその変人アンセルが好きなんですよ。

好きというと少し違いますね。アンセルは偏屈者で世の中を斜めに見ている、哲学者気取りのやつなんです。自分が存在していると認識すればそれは存在し、認識しなければ存在していないとか言うタイプ。

実に扱いづらい、まさに変人ですが、その歪んだ性格や考え方がぼくは分からないでもないだけに、妙に惹かれる部分があるんですね。純粋なリッキーと対照的なアンセルにも、ぜひ注目してみてください。

芸術的な理想を追い求めれば生活は遠のき、生活を安定させようとすれば、芸術からは遠ざかってしまうもの。そうしたジレンマを抱えた小説家の半自伝的作品は傑作が多いですが、中でもおすすめの作品。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

「その牛はそこに存在する。」マッチに火をつけ、カーペットの上に差しだしながらアンセルが言った。誰も口を開かない。彼はそのまま、マッチが落ちるのを待ってから、ふたたび言った、「そこに存在するのだ、その牛が。そこに、いま。」
「まだ証明できてないじゃないか」と別の声。
「自分に対してはもう証明したのさ。」
「ぼくは牛はいないと自分に証明したぞ」とその声。「その牛はそこに存在してはいない。」アンセルは顔を顰めて、もう一本マッチを擦った。
「ぼくにとって牛はそこに存在するのだ」彼は言い放った。「君にとって存在しようがしまいが構わない。ぼくがケンブリッジにいても、アイスランドにいても、あるいは死んでいようと、その牛はまちがいなくそこに存在する。」(上、7~8ページ)


ケンブリッジ大学の学寮では、みんなが盛んに哲学談義を交わしていました。中心になっているのは、片足が悪いこともあり、ずっと孤独に生きてきたリッキーにとって、初めて出来た親友アンセルでした。

そこへ美しい女性がやって来ます。みんなは色めき立ちますが、アンセルだけは一人無反応。その女性はリッキーの知り合いのアグネスで、兄のハーバートと一緒にリッキーのことを訪ねて来たのでした。

リッキーに紹介されてアグネスは手を差し出しますが、アンセルはマッチを持ったまま微動だにしません。アグネスは気まずい思いをして、リッキーは後からアンセルの態度を謝ることになったのでした。

リッキー、アグネス、ハーバートは食事を取りますが、その席でアグネスから婚約のお祝いを言っていないことを指摘されたリッキーは戸惑います。お祝いの言葉どころか今婚約を始めて知ったのですから。

アグネスは、かつてリッキーをいじめていたこともあるジェラルドと結婚が決まっているのでした。幸せいっぱいのアグネスでしたが、ジェラルドはラグビーの試合で起こった事故で死んでしまったのです。

事故の直後リッキーは絶望しているアグネスの元に駆けつけました。

 彼は彼女のとなりにひざまずいた。彼女は言った、「一人にしてくれないかしら。」
「もちろん、すぐに行くとも、アグネス。だけどまず君が心に留めているってことを確認しなくてはね。」
 彼女ははっと息を飲んだ。彼女の目は足跡を追った。外へと向かっていく、確固とした、二度と戻ってこない足跡を。
 リッキーは喘ぎながら言った。「今度のことは君の人生で起こりうる最悪の出来事なのだ、だから君はそれを心に留めなくてはならない、忘れてはいけないんだ。みんながやってきて言うだろう、『じっと耐えろ、時間が忘れさせてくれる』と。でもそれは違う。みんな間違っているんだ。心に留めておくんだ。」
 打ちひしがれた気持ちのなかで彼女は、この若者がみんなの考えている以上の人間であることを悟った。(上、101ページ)


やがてリッキーとアグネスが婚約したことを知って、アンセルは怒ります。「わたしには分かりました」ではなく、「わたしたちには分かりました」と言ったアグネスをアンセルは気に入らなかったのです。

アグネスはリッキーを堕落させ、人生をめちゃくちゃにしてしまうと思ったアンセルは、何度も二人の結婚をやめさせようとしますが、アグネスを愛しているリッキーの耳にその言葉は聞こえないのでした。

リッキーは既に両親をともに亡くしているので、キャドヴァーで暮らしている伯母の所へ挨拶に行きます。父の姉にあたる人物。屋敷には伯母が面倒を見ている粗野な若者、スティーヴンの姿がありました。

そして帰り際に、リッキーは衝撃的なことを聞かされたのです。

スティーヴンはリッキーの片親違いの弟なのだと。リッキーは動揺し、冗談だと思ってそれを笑い飛ばそうとしますが、父親がロンドンに部屋を持っていたことを思い出し、体中に戦慄が走ったのでした。

小説家としてやっていきたいと思うリッキーでしたが、いつまでも芽が出ません。アグネスはひとまず教師になることをすすめます。長い休暇があるので、その間に好きな原稿を書くことができるだろうと。

「でもぼくの書いたものなど、だれも読みはしないさ。」そしてリッキーは『ホルボーン』誌の編集者との面談の様子を彼女に話した。
 アグネスはすっかり真顔になった。心の底ではついぞ彼の短編を評価したことがなかったのだが、いまや、目利きの人々が自分と同意見ではないか。リッキーは、いや彼に限らず、ギリシャの神々は生きているとか、若い令嬢が木に変身したらしいといった荒唐無稽なことを書いて、生計を立てていかれるはずがない。活気にあふれた社交界の物語で、そこに熱情と悲哀が十分盛り込まれていたら、話は違っただろうし、編集者も説得力があると思ったかもしれない
「でも彼はいったい、何が言いたいのかな?」リッキーが話していた。「人生という言葉で何を言いたいのだろう?」
(下、16ページ)


イーストン校の教師になり、アグネスと結婚したリッキーでしたが、学校では派閥争いに巻き込まれて疲弊し、アグネスとの心の距離は縮まっていかぬまま。小説の方はまったく書けなくなってしまいます。

遊びに来ないかとアンセルに手紙を書きますが、それが「何とも哀れっぽい――牢獄からの悲鳴」(下、57ページ)のように不幸を匂わせるもので、自分でも驚きました。そして招待を拒否したアンセル。

アグネスは遺産を手に入れるため、リッキーの伯母との関係を深める努力をし始め、やがて、自分がリッキーとは兄弟であるという真相を知ったスティーヴンははるばるリッキーを訪ねて来たのですが……。

はたして、リッキーとスティーヴンの関係はどう変化するのか? そして、リッキーは作家としての成功を手に出来るのか!?

とまあそんなお話です。リッキーは片足をひきずって歩くこともありますし、性格もやさしいので、簡単に言えばいじめられっこでした。なので、一人で物語を考えることが何よりの楽しみだったんですね。

しかしその才能はいつまでも経っても認められず、やりたくないこともしなければならない教師の仕事や結婚にまつわる問題で、リッキーの人生はどんどん窮屈で苦しいものになっていってしまうのでした。

リッキーとアグネスの結婚は熱烈な恋愛から始まったものではなかったですよね。リッキーの想いは美しいものに対する崇拝のようでしたし、アグネスの想いは信頼出来る相手に対する敬意のような感じで。

そうした結びつきはいくつかの出来事を経て、大きな危機を迎えることとなります。一つ一つの出来事はささいな事柄なだけにとてもリアルで、結婚について、しみじみと考えさせられるものがありました。

まさに人生そのものを描き出したと言うべき長編です。物語に入り込みやすい作品なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日もE.M.フォースターで『ハワーズ・エンド』を紹介します。

E.M.フォースター『ハワーズ・エンド』

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ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)/河出書房新社

¥2,730
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E.M.フォースター(吉田健一訳)『ハワーズ・エンド』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊。

20代、もしくは10代で読んだ時に鮮烈な印象を受けた小説なのに、年齢を重ねて読み返したらなんだか色褪せたように感じてしまったという経験を、もしかしたらみなさんもお持ちかも知れませんね。

シンプルな物語構造で、ストーリーとして面白い物語は夢中になって読めるものですが、年齢を重ねる内に、物語のわざとらしさが鼻につき、その派手さが気になるようになってしまうこともあるでしょう。

今回紹介する『ハワーズ・エンド』という作品はそういった小説とはむしろ真逆の印象の作品。複雑な物語構造、ストーリーとしてさほど面白くない小説ですから、若い世代には物足りないかも知れません。

しかしながら、人生に起こる様々な問題を内包した深いテーマの作品なだけに、年齢を重ねて読み返せば読み返すほど、この小説のよさがじわじわと分かって来る、そういったとても珍しい作品なんですよ。

物語に登場する誰かの行動が、正しいのか間違っているのか、普通の小説ならばそれは主人公の考えによって是非が下されるものですが、この小説ではそれが、プリズムのように乱反射しているのが特徴的。

物語には様々な問題が出て来ますが、何が正しくて何が間違っているのかの考えは登場人物それぞれで違い、まとまっていかないのです。

だからこそカタストロフィ(劇的な展開によって生まれる衝撃や感動)には欠ける物語ですし、登場人物と気持ちを同一化させづらい作品ですが、それ故に読者は自分の頭で色々と考えることが出来ます。

そういう風に自分で考えさせられる物語なので、ある程度人生経験を積んで、人間はどう生きるべきかの考えが自分の中にしっかりとあればあるほど、この『ハワーズ・エンド』は楽しめる作品なんですね。

非常に地味でしかも読みやすくはない小説ですが、何度も読み返したい素晴らしい作品なので、多くの方に読んでもらいたいと思います。

タイトルの「ハワーズ・エンド」とは家の名前。実業家のウィルコックス家が所持している家の一つです。そのウィルコックス家とひょんなことから交流することになったのがシュレーゲル家の姉妹でした。

ドイツ人の父親を持つシュレーゲル家の姉妹マーガレットとヘレンは、ちょっと変わっていて、慎み深くしていないといけない場面でもずばずばと本音を口にして、周りの人々を戸惑わせてしまったりも。

真面目で伝統を重んじるウィルコックス家と、芸術を愛し気ままに生きるシュレーゲル家は生活スタイルも違いますし、考え方も違うので水と油の関係のはずですが、不思議と交流は深まっていったのです。

「ハワーズ・エンド」をめぐるウィルコックス家とシュレーゲル家の物語が語られていくと同時に、いくら働いても暮らしが楽にならない下層階級の青年レオナード・バストとの出会いも描かれていきます。

マーガレットやヘレンと同じように芸術を愛するレオナードは働かなければ食べていけず、しかも仕事はうまくいかなくなっていきます。そして結婚相手を家族に反対されたことで窮地に追いやられて……。

文化の違う二つの家族、上流階級と下層階級の考えの違いをぶつかりあわせながら、愛とはなにか、生きるとはなにかを問いかけた名作。

作品のあらすじ


春にドイツの観光地で知り合ったウィルコックス夫妻に招待されて、ハワーズ・エンドという古いながら感じがいい赤煉瓦の家に滞在していた妹ヘレンから来た手紙を見てマーガレットはびっくりしました。

そこには、ウィルコックス家の次男のポールと愛し合う仲になったと書かれていたから。ヘレンに早まった行動をしないように言いたいところですが、弟のティビーが病気になっていて身動きが取れません。

そこで亡くなった母の妹にあたる伯母のマント夫人がヘレンに会い行きましたが、ハワーズ・エンドに着いた頃には状況が変わっていて、ヘレンとポールの婚約は、もうなかったことになっていたのでした。

ある時ベートーヴェンの演奏会で、その音楽が「彼女の一生でそれまでに起こったこと、またこれから起こり得ることの一切を要約してくれた」(46ページ)ように感じたヘレンは上の空で会場を出ます。

すると慌てたのが若い青年。ヘレンは青年の傘を間違って持っていってしまったのです。マーガレットはお詫びがわりに青年をお茶に招待しますが、不気味に思った青年は、傘を受け取ると帰ったのでした。

青年の名はレオナード・バスト。帰りながら彼女たちは淑女ではないだろうと考えます。もしそうなら唐突にお茶に誘うことはしないはずで、何らかの手でお金を巻き上げるつもりだったのかもと思います。

レオナードの部屋にはリボンや鎖のついた派手なかっこうをしたジャッキーという女性がやって来ました。33歳で20歳のレオナードからするとかなり年上ですが、ジャッキーは結婚を迫り続けています。

「もし兄さんに解ったら」彼は怯えた調子になるのを幾分、楽しんでいるようすでそれを繰り返して、「もし兄さんに解ったら、われわれはもうおしまいなんだ。わたしは世界中を向こうにまわしているんだよ、ジャッキー」
「そうなんだよ、ジャッキー。わたしは人がいうことなんか問題にしていないんだ。わたしは自分がすると決めたことをさっさとやって、わたしは昔からそうなんだ。ほかの臆病ものと違って、女が困っているのにほうって置いたりはしない。わたしはそういうことはしない質なんだ」
「もう一ついって置いてもいいのは、わたしは文学や芸術の教養を身につけて視野を広くすることを考えているんだ。例えば、きみが入ってきたときにわたしはラスキンの『ヴェニスの石』を読んでいたんだよ。わたしはそれを自慢していっているんじゃなくて、わたしがどういう人間かきみにも解ってもらいたいからなんだ。今日の古典音楽をわたしはほんとうに楽しむことができた」
 レオナードが何をいっても、ジャッキーはまったく無関心で
晩の食事の用意ができたときにようやく彼女は、「でも、わたしを愛しているのね」と言いながら寝室から出てきた。(73ページ)


寝る前に本を読みながらレオナードはもう一度あの姉妹について考えます。彼女たちは生まれ持った幸運で広い家に住んでいるが、自分はどんなに努力しても、ああいう生活をすることは出来ないだろうと。

マーガレットとヘレン、ティビーが暮らすウィッカム・プレースの向かいに高層建築が建てられていたのですが、そこの一室になんとウィルコックス家が入ることになったので、マーガレットは戸惑います。

ウィルコックス夫人が名刺を置いていったので、マーガレットはこれ以上の交際を断る手紙を書きましたが、ウィルコックス夫人は、ポールがもう外国に行ったこと知らせに来てくれたのだと分かりました。

自分の行動を恥ずかしく思ったマーガレットはすぐにお詫びをしに行き、それをきっかけにマーガレットとウィルコックス夫人との交流が始まります。お互いの家族のことなど色々なことを話し合いました。

ウィルコックス夫人がクリスマスのプレゼントを選ぶというので、一緒に買い物に行った時に、プレゼントはなにが欲しいかと尋ねられたマーガレットは、プレゼントは別にもらわなくてもいいと答えます。

「なぜなんですか」
「わたしはクリスマスというものについて他の人たちと違った考えを持っているんです。金で買えるものならばもうなんでもあるんですから。わたしは人はもっと欲しいけれど、ものは欲しくないんです」
「わたしは、あなたにお目にかかったことを記念するのにおかしくないものを上げたいんですよ、シュレーゲルさん。あなたはわたしが一人でいるとき、親切にしてくださったんです。わたしは一人になっていて、あなたのお蔭でくよくよしないですみました。わたしはくよくよするんです」
「もしそうならば、もしわたしが知らずにあなたのお役に立ったのなら」とマーガレットはいった。「それをものでお返しになることはできないんじゃないでしょうか」
「そうなんでしょうけれど、何か上げたいんです。そのうちにいいものを思いつくかも知れません」
 マーガレットの名前は表の一番上に残ったが、その脇に何も書きこまれなかった。二人は店から店へと行って、外の空気は白く見え、馬車から降りるとそれが冷たい銅貨のような味がした。
(110~111ページ)


それから間もなくして、ウィルコックス夫人が亡くなります。みんなには隠していましたが、病気だったのでした。ウィルコックス夫人は病床で、ハワーズ・エンドをマーガレットに遺すと書いていました。

しかしウィルコックス氏、長男チャールスとその妻ドリー、長女のイーヴィーは相談した結果、ハワーズ・エンドを他の人に渡したくないということにまとまりウィルコックス夫人の意志を握りつぶします。

それから二年ほどが何事もなく過ぎた時、一人の女性が突然ウィッカム・プレースを訪ねて来ました。夫が名刺を持っていたので浮気を疑ってやって来たのです。レオナードの妻になったジャッキーでした。

レオナード夫妻の生活が困窮していると知って、マーガレットとヘレンはなにかをしてあげられないかと思いますが、そんな中、ウィルコックス氏からレオナードがつとめる会社はあぶないと知らされます。

マーガレットはそれを教えてやり、他の会社に移るように言ってやったのですが、侮辱されたように思ったレオナードは腹を立てました。

ウィルコックス氏はレオナードを軽く見て笑ったものの、あの人にもいい所があるとマーガレットに反論され、「一人の女と二人の男が性の不思議な三画をなし」(205ページ)不思議な嫉妬を感じます。

やがて、ウィッカム・プレースを立ち退かなければならなくなり住む場所を探していたマーガレットに思いも寄らぬ申し出があって……。

はたして、マーガレットとヘレンは、それぞれ幸せを手に出来るのか? そして、ハワーズ・エンドは一体誰が手にするのか!?

とまあそんなお話です。ここからさらに物語は、複雑な形で展開していくこととなります。派手なストーリーこそないものの、なかなかに意外な出来事が続くので、面白く読める作品ではないかと思います。

一つの家をめぐる二つの家族の物語が、上流階級と下層階級との違いを浮き彫りにしながら描かれていく小説で、テーマ的に非常に面白いです。落ち着いていて、じっくりと進んでいく文章もいいですねえ。

身分の違いを描く『高慢と偏見』や常に冷静な姉と感情的な妹を描く『分別と多感』などジェイン・オースティンの作品と印象が重なる部分もありますが、オースティンほどの明るさとウィットはないです。

分別と多感 (ちくま文庫)/筑摩書房

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ですが、その分現実がリアルに、そしてシビアに描かれている感じがあって、フォースターの作品ならではの面白味もあります。人生について色々と考えさせられる作品なので、ぜひ、読んでみてください。

明日は、大藪春彦『蘇える金狼』を紹介する予定です。

大藪春彦『蘇える金狼』

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蘇える金狼 野望篇 (角川文庫 緑 362-2)/大薮 春彦

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大藪春彦『蘇える金狼』(角川文庫、全2巻)を読みました。

ぼくは「全集」や「選集」と名のつくものが何故だか無性に好きでして、1997年から1998年にかけて光文社文庫から全9巻で刊行された「伊達邦彦全集」を買ったんですよ。どんな作品かも知らず。

伊達邦彦というのは、大藪春彦のデビュー作『野獣死すべし』から登場するダークヒーローで、分かりやすく言うならイアン・フレミングの小説『007』に登場するジェイムズ・ボンドみたいな感じです。

007/カジノ・ロワイヤル 【新版】 (創元推理文庫)/東京創元社

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ただ一つ違うのは、英国のために組織で動くスパイのボンドとは違って、伊達邦彦は自分のために動き、ほとんど一人でミッションに挑むこと。より性と暴力、そして血の匂いが強い物語と言えるでしょう。

当時ぼくはこういう血生臭い冒険小説は読んだことがなかったですが、忍者を描く歴史小説に雰囲気として近いものがあるので、物語にすんなり入っていけて、すぐに夢中にさせられてしまったのでした。

暴力的で男性的な物語を書いた大藪春彦は、今ではあまり好んで読まれないようですが、好きな人にはたまらない独特の世界観が魅力。現在の作家で言うと夢枕獏、馳星周、花村萬月などに近い感じですね。

ぼくが大藪春彦を読み始めたきっかけについて書いてきましたが、そんな大藪春彦の代表作が今回紹介する『蘇える金狼』。角川文庫からは野望篇、完結篇の二冊で刊行されていますが、一続きの作品です。

主人公は朝倉哲也という29歳のサラリーマンですが、イメージとしてはほとんど伊達邦彦と重なると言っていいでしょう。昼は冴えない男のふりをして過ごし、夜になると暗躍し始める、ダークヒーロー。

何度も映像化されていることでも有名な小説で、1979年の松田優作主演による映画、1999年の香取慎吾主演によるドラマがよく知られています。残念ながらぼくはまだどちらも観ていないのですが。

朝倉哲也は苦労して生きてきた人物。両親を早くに亡くしアルバイトに明け暮れながら大学の夜間部を出て、なんとか大手商社に就職出来ました。ところがどんなに真面目に働いても先は見えているのです。

親会社の社長一族と天下りの役人あがりばかりが上にひしめいているので、たとえ出世した所でたかが知れているのでした。しかしやがて朝倉は上層部が共謀して不正な利益を貪っていることに気付きます。

 だが、それに対して朝倉が義憤を感じているなどと言えば嘘になる。その反対に、朝倉の計画は、彼自身が会社を食いものに出来る立場にのし上がることであった。
 まともな手段で野望が達成出来ないことは承知だ。しかし、暴力と姦計によれば、その野望が実現する可能性も無いとは言えないわけだ。
 だから朝倉は、表面は平凡で真面目な社員のポーズを崩さずに、チャンスをうかがっているのだ。週に二日、ジムに通っているのも暇潰しのためではない。朝倉はこの二年間、生活費以外の月給のほとんどを、体力の養成と特殊技術を身につけるために費してきたのだ。敗れてもともとの勝負だから賭けてみても悪くない。
(野望篇、14ページ)


力のある者がうまい汁を吸える腐った世の中なら、自分はさらに大きな力でのし上がってやろう、そう思った朝倉は、平凡な社員のふりをして過ごしながら、二年間かけて徹底的に自分を鍛え上げたのです。

サラリーマンの誰もが憧れる、権力への階段を、普通とは違った方法で登っていこうとする物語ですから、面白くないわけがありません。

腐った奴らに一泡吹かせようとすること、昼と夜とで別の顔を持つことの痛快さがこの物語の何よりの魅力。スリリングで息つく間もない怒涛の展開にぐいぐい引き込まれてしまうこと請け合いの作品です。

作品のあらすじ


京橋二丁目にある東和油脂東京本社経理部に勤める朝倉哲也は目立たないものの、その真面目さで周りから信頼されていました。しかし朝倉には裏の顔があり、来たるべき日に備え準備を進めていたのです。

同僚の飲みの誘いをかわすと、ジムに行って体を鍛えました。断っているものの、今ではプロデビューの誘いがあるほどの腕前。親会社である新東洋工業の銃器部門の工場から盗み、拳銃も用意出来ました。

何をするにも資金が必要ですから、朝倉は銀行の現金運搬人の動きをチェックし、綿密な計画を立て、やがてその計画を実行に移します。顔を見られてしまったので、やむをえず男は殺すことになりました。

そうして共立銀行から千八百万円を奪うことに成功した朝倉でしたが、無邪気に喜んでいられたのもほんのわずかな間。千八百万円はほとんどが続きナンバーになっていて、本店に控えられていたのです。

つまり少しでも使えば、そこから足がついて捕まってしまう、熱い金なのでした。しかも、犯行現場から移動する時に乗ったタクシーの運転手が証言をしており、顔を覚えられていたことも気にかかります。

横須賀へ行った朝倉は金を安全な金に換える方法を思いつきました。

 熱い札束を一度麻薬に替え、それを再び安全な紙幣に替えるわけだ。面倒な方法だが、それが最も安全と思える。朝倉から熱い札束を摑まされた連中は、たとえ警察の追及を受けたところで、それをどこから入手したかをしゃべるわけにはいかない。
 だが――そのかわり、俺を待つのは、暴力組織の執拗な復讐だ、と朝倉は心を曇らす。しかし、それに対しては別の手段を講ずればいい。怖れているだけでも何も産むことが出来ない。
 それから二時間後――朝倉は京浜急行を使って戻っていた。品川で国電に乗り替える。夜の帷はネオンとヘッド・ライトに押しかえされていた。(野望篇、55ページ)


一旦麻薬と換えるといったところで、そもそもどうやったら大掛かりな麻薬取引に介入出来るかが分かりません。おかしな所をつついてしまった朝倉は、暴力団の組同士の抗争に巻き込まれてしまったりも。

ようやく大物の政治家で、市会議員の磯川が麻薬の取引をしていると知った朝倉は、磯川に近付きますが、突如現れた朝倉という正体不明の男に警戒した磯川との取引は、なかなかスムーズにはいきません。

大金を持っていながらその金は使えず、動けば動くほど、その日の食事にも困るようになっていった朝倉は、当座の活動資金を手にし、自分の会社の上層部の情報をつかむ、一挙両得の方法を思いつきます。

自分の上司小泉が囲っている女に近付くことにしたのでした。髙いスーツを買い、高級車を借り、偶然を装って朝倉はその京子という女に近付きました。そして麻薬の力を借りて自分に惚れ込ませたのです。

「わたし、こんな変な気持ちになったの初めてよ。ね、お願い。どこにも行かないで……」
 京子は横向きになって、毛布を腰の上にずり上げた。明度を増してきた朝陽がカーテンの隙間から射しこむなかで、競走馬のような筋肉の躍動を見せて汗を拭く朝倉を、目眩いものでも見る眼差しで凝視する。
 朝倉は腕時計をつけた。もう午前七時近い。再びベッドにもぐりこむとタバコに火をつけ、京子にはヘロイン入りのほうをくわえさせてやった。火を移す。
 二人は互いの眼を見つめあって、ゆるやかに煙を吐いた。いつもは碧みがかっている白眼の部分が、かすかに赤らんだ京子の瞳には、女そのものの艶があった。(野望篇、193~194ページ)


朝倉は京子に偽名を名乗り大学で講師をしていると言います。会う度に二人の関係は深まっていき、朝倉は目的通り当座の資金と車を手にすることが出来ました。これで後は磯川との取引を成功させるだけ。

ところが会社で思いも寄らぬことが起こります。次長の金子の前に26、7歳の美しい顔をした青年の恐喝者が現れたのでした。久保と名乗ったその男は、金子と愛人の写真を持ってゆすりに来たのです。

二人の会話をひそかに盗聴していた朝倉の耳に、さらなる驚きのニュースが飛び込んできました。久保は乗っ取り屋として有名な鈴本と繋がりを持っており、しかも、金子の不正の証拠を握っているのだと。

「僕は、あなたが経理部長と共謀して横領した金額を書きこんだ手帳の一枚一枚を接写した写真を持っています。あなたが恭子の部屋でお眠りになっているあいだに、不作法ではありますがカバンを開いたのでしてね」
 久保の口調は、金子を愚弄するように馬鹿丁寧だ。
「ああ……!」
 金子は耐えきれずに呻き声をあげた。芝居もどきに頭を抱えこむ。
「会社を危機に陥しいれながら、あなたは女に溺れている。何も知らされていない善良な株主はどうなるんです? このことを鈴本先生が聞いたら、さっそく乗り出してこられるでしょうな」
(野望篇、394~395ページ)


鈴本が出て来るとなると金子の首だけではすみません。会社の重役たちは久保をどう対処するか、言われるがままに金を払うか、金を払えば本当にそれで解決するのか、或いは殺してしまうかを協議します。

東和油脂と久保の息つまる駆け引きの間で、自由に動き回ることの出来る朝倉はこの恐喝事件に自分のやり方で介入することにして……。

はたして、朝倉は磯川との取引を無事に終え、さらにその資金を元に、長い間思い描いていた成功を手にすることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。格闘技と銃器に精通した男がいくつもの危機を乗り越え、闇の世界で激しい戦いをくり広げる面白さのある小説ですが、意外と朝倉が間抜けなのも、ある意味醍醐味かもしれません。

まだプロフェッショナルになりきれていなくて、ぼろぼろミスが出て来るんですよ。金を強奪したのはいいけれど、続きナンバー故にその金が使えなくて食うのにも困ったり、しょちゅうとっつかまったり。

そうした爪の甘さには思わず笑ってしまいましたが、でもたしかに、麻薬取引なんてどうやってやったらいいか分からないですもんね。そうした「はじめての闇社会入門」みたいな所もこの作品の見所です。

いくつものスリリングな状況が重なり、大金と権力を手に入れるため相手を追いつめたり、追いつめられたりする朝倉の物語。小説として面白いですが、血生臭い感じなので苦手な人は駄目かもしれません。

『蘇える金狼』は、大藪春彦を読む最初の作品としても最適な本だと思います。今は絶版ですが、古本屋などで探せば本自体はわりと手に入りやすいと思うので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、大沢在昌『新宿鮫』を紹介する予定です。

大沢在昌『新宿鮫』

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新宿鮫 (光文社文庫)/光文社

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大沢在昌『新宿鮫』(光文社文庫)を読みました。

「新宿鮫」は、読んでいない方でもどこかで耳にしているのではないかと思いますが、それぐらい一度聞いたら忘れられない異質感とキャッチーさがあります。主人公である型破りな刑事鮫島のあだ名です。

新宿という海の中で、群れず、媚びず、一度食らいついたら決して離さない孤高の存在、そうしたイメージが重ねられたあだ名でしょう。

大沢在昌は今では押しも押されもせぬベストセラー作家ですが、ブレイクのきっかけになったのが、この『新宿鮫』。読者の人気に支えられてシリーズは書き継がれ、現在までに10作が刊行されています。

ワンパターンのくり返しではなく、毎回作品の雰囲気が違うことに魅力のあるシリーズでして、第2作の『毒猿』はミステリとして評価が高いですし、第4作の『無間人形』では、直木賞を受賞しています。

警察というのは、普通二人一組で動きますよね。物語ではそれが凸凹コンビとして描かれることが多く、腕力自慢と頭脳派、あるいはベテランと新人など、対照的な相棒として描かれるのが一般的でしょう。

ところが鮫島というのは警察という組織の中で一人浮いていて、たった一人で捜査を進めていくのでした。普通だったらありえないその設定が実によく出来ていて、鮫島は複雑な立場にいる存在なんですね。

分かりやすいと思うので、他の刑事もので例をあげます。1997年に織田裕二主演で放送され、翌年の映画も大ヒットしたドラマに『踊る大捜査線』がありました。その中のあの名台詞を覚えていますか?

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そう青島刑事が叫ぶ「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!!」ですね。何故そんな台詞が出るかというと、現場の刑事たちとキャリア組の刑事たちの間で考え方にずれがあるから。

優秀な経歴を持って警察に入り、現場の刑事を駒のように動かしたいキャリア組と、目の前の現状に立ち向かう現場の刑事たちとの対立が描かれていくことに『踊る大捜査線』の面白さはあったと思います。

また、警官から刑事になった、とにかく熱い青島刑事(織田裕二)と常に冷静でキャリア組の室井管理官(柳葉敏郎)という、本来は決して絆が生まれないはずの二人の絆もこのシリーズの醍醐味でしたね。

さて、『新宿鮫』に話を戻しますが、「新宿鮫」こと鮫島警部は、たった一人で犯罪の捜査にあたり、行動だけ見るとどう見ても叩き上げの刑事です。ところが、実は鮫島は元々はキャリア組だったのです。

キャリア組は現場に出ないものですが、自ら進んで現場に出たことである事件に巻き込まれた鮫島は、首に傷を負ってしまいました。その傷を隠すために伸ばした後ろ髪は、後にトレードマークになります。

そして、警視庁公安部の内部争いによって自殺した同期の警視から手紙を預かっていることが何より大きな問題となりました。その手紙に書かれている事実が表沙汰になれば、大スキャンダルになるのです。

関わった事件のせいでキャリア組の出世コースから外れ、しかし現場の刑事たちとも馴染めず、なおかつ手紙という爆弾を抱えているが故に誰も手を出すことが出来ない存在。それが「新宿鮫」なのでした。

キャリア組の頭脳と現場の腕力とを兼ね備えた独立独歩のヒーロー鮫島は、複雑な思いを抱えているだけにやや暗い印象はあるものの、動作や台詞の一つ一つがとにかくしびれるほどかっこいいわけですよ。

鮫島の恋人で、鮫島から「ロケットおっぱい」と評されるバストを持つロックシンガーの晶、鑑識の藪、やる気がないように見えるので「マンジュウ」と呼ばれている上司桃井など、脇役も光る作品です。

作品のあらすじ


男同士で愛し合う趣味を持つ連中にとっては有名なサウナ店に行って、木津という男の情報を集めた後、鮫島は22歳の恋人晶を迎えにライブハウスへ向かいました。一年前にある事件で出会ったのです。

鮫島と晶は区役所通りのゲイバー「ママフォース」に行くことにしました。カウンターにいたのは、顔見知りの飛田。刑事事件専門の弁護士です。ある男が来たら教えてほしいと、鮫島はママに頼みました。

「何をやった奴?」
「拳銃の密造」
 知らぬふりをして聞いていた飛田がさっと顔をあげた。鮫島はかまわずつづけた。
「そいつの売った銃でひとりが死に、ひとりが重傷を負った。三週間前に」
(中略)
「左肩にガマンしょった奴か」
 鮫島はようやく、飛田を振り返った。
「そうだ。あんたが長六四を値切ったおかげで、去年の暮れ、出てきたんだ。やさがえして、またぞろ、もとの商売に励んでる」
 長六四とは長期刑のことだ。飛田は鼻白んだ。鮫島はいった。
「だが、あんたのせいじゃない。奴は根っからのチャカ作りが好きなんだ。ム所にいたって、道具さえあれば、鉄格子と歯ブラシでチャカを作るだろう。奴は、自分が作っちまえば、あとのことは知っちゃいない。それで人が死のうが、一生、車椅子の体になろうがな」(39~40ページ)


「ママフォース」のママの紹介で、木津が出入りしていた「アガメムノン」という店で働く男の子と会えることになりました。木津の姿を少しずつとらえつつあった鮫島でしたが、新たな事件が起こります。

それは、巡回警ら中の警察官二人が何者かに射殺された事件でした。交番勤務の警察官で、顔見知りの二人が殺されたことに痛む鮫島の胸。犯人は一体なんの恨みがあって二人を殺したというのでしょう?

鮫島は課長の桃井に、木津の密造所を見つけたら逮捕する許可をもらいました。桃井はかつて優秀な警官でしたが、14年前に交通事故で6歳の息子を亡くしてからというものやる気を失ってしまった人物。

今では書類仕事をするだけで、部下たちからも「マンジュウ」(死人)と揶揄されているほど。しかし他の部署が受け入れを拒否する中桃井の防犯課だけは鮫島を受け入れ、自由にさせてくれたのでした。

新宿署にはやがて特別捜査本部が設置され、鮫島の同期で今は警視になっている香田がやって来ました。同期とは言え今では身分の差がある香田は鮫島に、大人しくしていれば取り立ててやると匂わせます。

「廊下で会ったら、敬礼しろ、か」
「規律を尊ぶのは悪いことじゃない。もしお前が望むなら、捜査本部にひっぱってやるぜ。うまくすりゃ本庁一課には戻れる」
 鮫島は考えるふりをして、煙草に火をつけた。煙をゆっくりと香田に吹きかけた。香田はたじろいだように一歩さがった。
(中略)
 香田の目がすっと冷たくなった。怒ってみせるのも、演技のひとつだった。
「二十年たってようやく警視でいいのか。へたするとずっと、警部のままだぞ」
「お前には関係がない」
 香田はぐっと顔を近づけた。
「お前じゃない、警視どの、だ。上官には敬語を使え。いいか、お前は昔から気にいらない奴だった。俺にそんな口のきき方をしていると、一生、このデカ部屋から出られなくしてやるからな。トルエンの売人やシャブ中どもとつきあって、人生を楽しむがいい」(126~127ページ、本文では「お前」に傍点)


鑑識の藪は、弾丸からすると事件に使われたのはライフルだと言います。ライフルは拳銃と比べてかさばるので、計画的犯行と見るほかありませんが、事件自体は突発的に起きたもののように見える奇妙さ。

犯罪者だけでなく、警察からも目をつけられている鮫島は、万が一に備えて自分の家に晶を呼びたがりませんが、晶はついに強引にやって来て料理を作ってくれました。束の間の楽しいひと時を過ごします。

警察の威信をかけて、捜査にあたる警察でしたが、一週間後にまた警官殺しが起こってしまったのでした。そしてかかってきた犯行予告の電話――。警察は電話の声から犯人像を絞り込んでいこうとします。

一方、特別捜査本部と離れて行動する鮫島は、ついに木津の居場所を突き止めました。やがて二つの事件にある繋がりが見えて来て……。

はたして、鮫島は犯人を捕まえ、連続警官殺しを止められるのか!?

とまあそんなお話です。新宿を舞台に展開するスリリングな警官殺しの物語。鮫島は型破りですが、一本芯が通っているんですよね。普通だったら長い物に巻かれる所を巻かれないからこそ型破りなわけで。

アウトローであると同時に組織として腐ってしまった警察の中で鮫島だけが本当の正義という感じがなくもないだけに、その言動は読者の目にひたすらかっこよく映るのでした。孤高の刑事を描く物語です。

蓮っ葉なように見えて、まっすぐ想いを伝えて来るロックシンガーの恋人晶に振り回される鮫島も見所で、危険に巻き込んではいけないから距離を置こうと思いつつ、愛してしまう姿がとても印象的でした。

言わずと知れたベストセラーですが、まだ読んだことがないという方も、意外と多いはず。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、馳星周『不夜城』を紹介する予定です。

馳星周『不夜城』

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不夜城 (角川文庫)/角川書店

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馳星周『不夜城』(角川文庫)を読みました。

映画や小説には、「ノワール」と呼ばれるジャンルがあります。簡単に言えば犯罪者を描いた物語のことです。ギャング同士の争いや、裏社会のごたごたが描かれたもので、熱狂的なファンを持つジャンル。

同じように犯罪を描いた物語でも、何が「ノワール」で何がそうでないかを明確に分けるのは難しいのですが、その作品が何かしらの「情念」を描いたものの場合、「ノワール」と呼ばれる傾向が強いです。

アメリカの探偵小説や犯罪小説がフランスで独自の発展を遂げて、フランス語で「黒」を意味する「ノワール(Noir)」が生まれました。そうして今度は、その「ノワール」が世界中に影響を与えたのです。

たとえば、映画で言えば香港でもかなり「ノワール」が撮られていて「香港ノワール」と呼ばれています。『男たちの挽歌』シリーズのジョン・ウー監督が有名ですが、ぼくが好きな監督はジョニー・トー。

刑事と犯罪者との息詰まる心理戦を描いた『暗戦』シリーズも捨てがたいですが「香港ノワール」の傑作を一本選ぶなら、裏社会の仲間の絆を描くジョニー・トーの『ザ・ミッション 非情の掟』でしょう。

ザ・ミッション 非情の掟 [DVD]/ケンメディア

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ン・ジャンユーを筆頭に数々の映画で悪役を演じて来た人々が集められた作品で、もうキャスティングの時点で興奮しまくりですが、少ない台詞、渋いアクションのおすすめ映画なので、機会があればぜひ。

一方、小説に目を向けると、有名なのがアメリカの作家ジェイムズ・エルロイ。映画化された『L.A.コンフィデンシャル』『ブラック・ダリア』を含む「暗黒のL.A.四部作」が知られていますね。

まあそんな風な「ノワール」の流れがあるわけですが、「香港ノワール」の持つクールさと、ジェイムズ・エルロイの持つ独特の文体、どろどろした世界観をあわせ持つ作家が今回紹介する馳星周なのです。

眠らない街新宿を舞台に、裏社会の壮絶な争いを描いたデビュー作が『不夜城』。金城武主演で映画化されたことでも話題になりました。こちらも、キャスティングがなかなかいいので、機会があればぜひ。

不夜城 [DVD]/金城武,山本未來,椎名桔平

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「ノワール」について書いて来ましたが、実を言うとぼくが初めて読んだ「ノワール」がこの『不夜城』。衝撃的でした。そして馳星周を通してエルロイを知り「ノワール」というジャンルを知ったのです。

当時高校生だったぼくはそれだけこの小説に引き込まれたわけですが、『不夜城』は「ノワール」のことを知らない読者をも魅了する作品と言えるでしょう。今読んでも新しさを感じる部分がありました。

特徴的なのは、主人公の劉健一が中国のマフィアではないこと。日本人の母親と台湾人の父親を持つ故買屋で、ちょっとしたごたごたで中国のマフィアたちから、命を狙われることになってしまったのです。

生き延びるために頭をフル回転させ、対立するマフィア同士を罠にかるなど、自分が描いた絵の通りに周りを躍らせようとする、劉健一。

そう、この小説は裏社会を描いた「ノワール」の魅力があるだけでなく、詐欺師がターゲットを罠にかけ、二転三転する展開に誰が勝つのか最後まで分からない「コンゲーム」の面白さもある作品なのです。

絶体絶命の危機に陥った主人公が、頭の回転だけで事態を乗り切ろうとする物語なので、単なる「ノワール」よりもスタイリッシュで読みやすいです。クライム・サスペンス好きにもおすすめの一冊ですよ。

作品のあらすじ


新宿で暮らし、盗品など裏ルートで回って来たものを売る故買屋をしている〈おれ〉劉健一。日本人の母親を持ち、台湾人の父親を持つが故に、日本人の社会にも台湾人のコミュニティにも溶け込めません。

それでも日本語と北京語が話せ、ちゃんとした日本国籍を持つ〈おれ〉は街を案内したり、外国人では手に入れづらいものや不動産を扱えたりするので、日本で暮らす中国人から重宝がられる存在でした。

ある時、知らない女から携帯に電話がかかってきました。「王さんから紹介してもらったんです。劉さんなら力になってくれるかもしれないって」(14ページ)と。話になんだかきな臭いものを感じます。

待ち合わせ場所を決めると、自分ではそこに行かずに知り合いに尾行させて夏美というその女の正体を探らせることにした〈おれ〉は、台湾マフィアからも一目置かれる存在である楊偉民の元を訪ねました。

かつて父の縁で、楊偉民から身内のように可愛がられていた〈おれ〉でしたが、自分の身を守るために取った行動で楊偉民から怒りを買ってしまい、台湾人のコミュニティから締め出されてしまったのです。

しかし、お互いになにかと利益があるので、以前とは違ってビジネスライクな関係ではあるものの、つかず離れずの関係は続いていました。その楊偉民から〈おれ〉は思いもよらないことを聞かされます。

「呉富春が戻ってきたそうだ」
 煙草を落としそうになった。胃の真ん中にでっかい石が生じて、その石の重みが下腹部にずしりとのしかかっているようだった。楊偉民は、老人を大切にしないからそうなるんだといいたげに、唇を意地悪く歪めていた。
「まだほとぼりは冷めてないだろう。元成貴が黙ってないぜ」
「あいつの考えていることなど、だれにもわからんよ。それとも、おまえならわかるのかね、健一?」
 おれは黙って首を振った。頭の中がショートしそうだった。夏美という女からの電話だけでも頭が痛いというのに、富春までもがトラブルを携えて帰ってきている。さっきまで、おれは足元に大きな穴が開きかけていると感じていた。実際には、すでにその穴に落っこちてしまっているのかもしれない。(19ページ)


日本人と中国人のハーフで「半々」と嘲られる境遇だった〈おれ〉と富春は意気投合し、かつては行動を共にしていたのです。しかし、富春は人を殺して新宿から逃げ出さざるを得なくなっていたのでした。

部下を殺され、感情的にも面子的にも富春を殺さなければならない上海マフィアの大物元成貴は、〈おれ〉が富春の居場所を知っていると見て、三日以内に連れてこなければ〈おれ〉を殺すと言ったのです。

富春の居所を探しますが、なかなか見つかりません。やがて富春は元成貴の店で暴れ回り、女を探していたことが分かりました。偶然を信じない〈おれ〉は富春と夏美は、何かしらの繋がりがあると見ます。

調べていた夏美のアパートに忍び込んだ〈おれ〉は帰って来た夏美に銃を突きつけ話を聞き出しました。夏美は富春の女でしたが、別れたがらない富春を殺すために、あえて新宿へやって来たというのです。

自分を追いかけて富春が新宿へ来れば、元成貴に殺されるだろうと。

「その話のどこにおれが絡んでくるんだ?」
「元成貴って、大物なんでしょう? わたしみたいなのがのこのこ出かけていって会いたいといっても、会ってくれるわけないじゃない。で、富春があなたのことをいってたのを思いだしたの。台湾と日本の半々で、富春の元のパートナー、台湾華僑と上海マフィアに顔が利く人だって」
「顔が利くってほどじゃない。迷惑かけないかぎり見逃してもらえるってだけのことだ」
「そんなこと、わたしにわかるわけないじゃない。とにかく、わたしはその劉健一って男を利用するべきだと思ったのよ。富春を相棒にするぐらいだから、頭の方はたかが知れてるじゃない。わたしの思うように動かせるかもしれないって」
「やれやれ」(134~135ページ)


〈おれ〉は、いつ自分を殺すか分からない元成貴を牽制するために、元成貴と敵対している北京の流氓(リウマン。ごろつき連中のこと)を取りまとめている崔虎を、この件に引きずり込むことにしました。

富春をめぐって台湾のコミュニティと上海マフィア、北京の新興勢力がぶつかりあう三つ巴の構図の中を、うまく泳ぎ切ろうとする〈おれ〉は自分が生き延びるためにそれぞれを罠にかけることにします。

力をあわせて事に当たることになった夏美に〈おれ〉は、この世には法則があると言いました。世の中には、二種類の人間しかいないと。

この世の中にはカモるやつとカモられるやつの二とおりしかいないんだってことさ。自分のアイデンティティがどうだのといったことに頭を悩ますやつは一生だれかにカモられるだけだ。だからおれは悩むのをやめた。カモることに専念したんだ。(217ページ)


急ごしらえで大雑把な計画ながら、活路を見出した〈おれ〉には、二つの不安要素がありました。一つは、平気で嘘をつき、何かを隠しているらしい夏美がいつ自分を裏切るか分からず、信頼出来ないこと。

そしてもう一つは、ある意味では自分によく似ている、計算高い夏美を、〈おれ〉はどうやら愛し始めてしまっているらしいことで……。

はたして、〈おれ〉はそれぞれを罠にはめる計画をうまく実行し、自分の命を守れるのか? そして、夏美との愛の結末はいかに!?

とまあそんなお話です。この小説のもう一つの面白さは恋愛要素にあります。複雑な家庭環境で育ち、自分以外は信じず自分の身を守るためだったら、裏切りでもなんでもするのが〈おれ〉の生き方でした。

同じように複雑な環境で育った夏美もまた、そんな〈おれ〉と合わせ鏡のようにそっくりなんですね。頭の回転が速く、嘘がうまく、計算高く、自分が助かるためなら平気で他人を蹴落とすような人間です。

一緒に過ごす内に、お互いを愛し始めた〈おれ〉と夏美。しかし悲しいことに信頼したいのに、心のどこかで信頼しきれない二人なのでした。矛盾を抱え込んだ愛の形が、とても印象的な作品でもあります。

「ノワール」に興味を持った方に読んでもらいたい作品ですし、先の読めない犯罪ものが好きな方にもおすすめです。主人公は違いますが、続編が二作あるのでそちらもその内紹介したいと思っています。

ちなみに「馳星周」は、香港の俳優「周星馳(チャウ・シンチー)」からとられています。馳星周を先に知ったので、周星馳を知った時、随分似た名前の人がいるものだなあと思ってしまったものでした。

監督・脚本・主演をつとめた『少林サッカー』と『カンフーハッスル』の大ヒットで、今ではチャウ・シンチーも有名になりました。

明日はコードウェイナー・スミス『ノーストリリア』を紹介します。

コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』

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ノーストリリア (ハヤカワ文庫SF)/早川書房

¥1,029
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コードウェイナー・スミス(浅倉久志訳)『ノーストリリア 人類補完機構』(ハヤカワ文庫SF)を読みました。

コードウェイナー・スミスは、1930年代から1960年代にかけて活躍したアメリカのSF作家で、「補完機構」という組織によって統治されている、人類の未来史を描いたシリーズで知られています。

「人類補完機構」シリーズは短編が多く、『鼠と竜のゲーム』『シェイヨルという名の星』『第81Q戦争』という短編集が同じくハヤカワ文庫SFに収録されていますが、今は絶版で手に入りづらい状況。

シリーズに唯一の長編があって、こちらは2009年に新装版が出たので、今でも手に入ります。今回紹介する『ノーストリリア』です。

そういう事情があるので、ぼくもいきなりこの『ノーストリリア』から読み始めてしまったのですが、世界観や登場する人物が、どうやら「人類補完機構」シリーズの他の短編集とリンクしているようです。

物語自体は『ノーストリリア』だけで独立しているので、この作品から読み始めても大丈夫ですが、訳者あとがきを見ているとシリーズの他の短編集とあわせて読むと、より楽しめそうな感じがありました。

さて、今回紹介する『ノーストリリア』の物語の舞台となるのは、オールド・ノース・オーストラリア。縮めてノーストリリアと呼ばれている星です。人類の生活を一変させた薬が取れる、ノーストリリア。

「とてつもなくむちゃくちゃにでっかい奇形の羊」(8ページ)に繁殖するウイルスから作られる、サンタクララ薬(別名ストルーン)によって、人間の寿命は無期限に延長させられるようになったのです。

儲かったノーストリリアはあえて自ら高い税金を課すことによって、開拓者風の質素な生活を続けていました。ところが問題となったのが人口問題。人間が死なない世界なので増え過ぎてしまうわけですね。

そこで16歳になると試験されて、不適格者は「しあわせな、しあわせな死」(28ページ)へと送り出されることになっているのです。

そして物語の主人公である少年ロッド・マクバンは、障害者として不適格者の烙印が押され、その命はまさに風前の灯なのでした。それというのも、ロッドのテレパシー能力にはなにやら不具合があるから。

この未来世界では相手の意識を受け取る「キトる」、相手に意識を伝える「サベる」での交流が当り前で実際の会話はほとんどしません。

ところがロッドは、うまく「キトる」ことが出来ず、とんでもない騒音を「サベる」ことがあって、それで障害者に認定されてしまっていたのでした。不適格者は生きていけないのがこの世界の決まりです。

生きのびようとして取った行動がロッドを地球の冒険へと導き、それがやがて人類の未来を左右することとなる――そんな物語なんです。

テレパシーがうまく使えないために迫害される主人公というのは非常に感情移入がしやすく、ノーストリリア育ちのロッドの目線から未知なる未来世界の地球が描かれているので、設定も分かりやすい作品。

地球では、ロッドは姿を変えて冒険することになるのですが、それがまたファンタジー的な味わいもあって、わくわくどきどきさせられました。SF初心者にもおすすめ出来る、未来世界での冒険SFです。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 お話は簡単だ。むかし、ひとりの少年が地球という惑星を買いとった。痛い教訓だった。あんなことは一度あっただけ。二度と起こらないように、われわれは手を打った。少年は地球へやってきて、なみはずれた冒険を重ねたすえに、自分のほしいものを手に入れ、ぶじに帰ることができた。お話はそれだけだ。(7ページ)


ロッド・マクバン少年は、運命の日を迎えていました。〈死の館〉へ放り込まれて幸せな笑い声をあげながら死んでいくか、それとも〈没落農場〉という、ノーストリリア最古の土地の相続人に選ばれるか。

誰もが出来るテレパシーに不具合のあるロッドは、今まで三回判決を保留されており、その度に、もう一度赤ん坊からやり直して来たのですが、四回目となる今回こそは、本当に最後のチャンスなのでした。

ロッドは死ぬことになるだろうと誰もがそう予測していたのですが、審問の場でロッドは思いも寄らぬ「サベる」力を発揮して認められ、様々な制限つきではあるものの生き延びることが認められたのです。

しかしそれが気に食わなかったのが、連邦政府で名誉秘書官をつとめているオンセック。寿命を延ばす薬であるストルーンが効かないオンセックは、かつて別の生の時のロッドの子供時代の知り合いでした。

何度も子供時代をやり直したロッドに対して、老人になっており、死ぬことが定められているオンセックは、ロッドの命を狙ったのです。

一体どうしたらオンセックの謀略から逃れられるか、古い時代からあるコンピューターに相談すると、一時的にノーストリリアを破産させて、母なる地球を買い取り、交渉すればいいだろうと言われました。

コンピューターは、ニュー・メルボルン取引所にアクセスして、売買を繰り返し、四時間あれば、莫大な利益を上げられるというのです。

「どうしてそんなことができるんだ?」
「わたしは純コンピューター、時代遅れの機械です。ほかの機械には、エラーを見越して、動物の脳が組みこまれています。わたしにはそれがありません。その上、あなたの12曾祖父が、わたしを防衛ネットワークに連結されたのです」
(中略)
「もし、いまおまえが失敗したらどうなる?」
「あなたは恥をかき、破産するでしょう。わたしは売りとばされて分解されるでしょう」
「それだけかい?」ロッドは陽気にいった。
「そうです」
「母なる地球そのものの持ち主になったら、たんたん小僧をとめられるわけか。よし、行け」
「わたしはどこへも行けません」
「そうじゃない。はじめようといってるんだ」

(126~127ページ、本文では「たんたん小僧」に「ホット・アンド・シンプル」のルビ。オンセットのあだ名です。)


こうして、前代未聞なほどの莫大な富を手に入れ、地球を買う予約まで入れてしまったロッドは、オンセットから逃れるため、補完機構のロード・レッドレイディの保護を受けながら、地球へと渡りました。

ロッドを誘拐し金を奪おうとする者、或いはロッドになりすまそうとする者などがたくさんいるため、ロッドはロッドのままでいられません。そこで、下級民(アンダーピープル)に変装することにします。

下級民というのは、動物から作られた人間そっくりの存在。ロッドは猫人になりすましました。一緒に行動をすることになったのは雌の猫の下級民で、ク・メルという”もてなし嬢”(ガーリイガール)です。

彼女の先祖は、地球一の魅惑的な美女を生みだすように交配されたのだ。その願いはかなった。休息しているときでさえ、彼女は官能的だった。幅広いヒップと鋭い目は、男の情熱をそそった。猫に似た危険さは、彼女の出会うすべての男へのチャレンジだった。どの真人も、一目で彼女が猫であることを知るが、それでも目が離せなくなる。人間の女たちは、まるでなにか恥ずべきもののように彼女を見る。(241ページ)


召使いのエリナ―と、鼠が動かす九体のロボットによって十人のロッドの影武者が作られ、ロッド本人は自由に動けるようになりました。

妻役を演じ、地球の文化や下級民の風習を知らないロッドにひやひやさせられるク・メルは、次第に無邪気さと勇気をあわせ持つロッドに心を許していき、一方、ロッドもまたク・メルに惹かれていきます。

やがてロッドは下級民と過ごし、下級民の人々の考えや地球の文化に詳しくなったことで、ある大きな決断を迫られることとなって……。

はたして、ロッドは地球で何を見て、一体何を決断するのか!?

とまあそんなお話です。猫人に扮して地球を冒険する少年の物語。ロッドとク・メルの間にはいつしか心の交流が生まれるわけですが、人間と、動物から作られた下級民なので、種族が違うわけなんですよ。

ある意味では禁断の関係とも言うべき二人の関係の行方からも目が離せなくなる物語なのです。物語の設定としてかなり面白いですよね。

圧倒的なスケールで描かれた未来世界が舞台となっている面白さがあるのは勿論、アクションあり、ラブロマンスあり、笑いあり涙ありで、最後にはなんだかちょっと考えさせられてしまう名作SFです。

変身して見知らぬ町を歩くという点では、SFというよりは、ファンタジーのような読みやすさがあるので、普段あまりSFを読まないという方にも、手に取ってもらいたい作品。ぜひ読んでみてください。

明日はポール・ギャリコ『ジェニィ』を紹介します。猫つながりということで、こちらも少年が猫になってしまう小説を選んでみました。

ポール・ギャリコ『ジェニィ』

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ジェニィ (新潮文庫)/新潮社

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ポール・ギャリコ(古沢安二郎訳)『ジェニィ』(新潮文庫)を読みました。

猫が登場する物語で、思い出深い作品と言えば、斉藤洋の『ルドルフとイッパイアッテナ』。元々は飼い猫だったルドルフが間違って見知らぬ町へと行ってしまい、そこで野良猫と仲良くなる児童文学です。

ルドルフとイッパイアッテナ/講談社

¥1,365
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ルドルフが仲良くなった野良猫は場所や人間によって違う名前で呼ばれていて、ルドルフから名前を尋ねられた時に「いっぱいあってな」と困ったことから、イッパイアッテナと呼ばれるようになりました。

飼い猫ながら野良猫の世界へ入っていったルドルフとそんなルドルフを温かく見守るイッパイアッテナ。二匹の絆がいいんですよね。ぼくは子供の頃夢中になって読んでいました。みなさんはどうでしたか?

ぼくは1987年に刊行の『ルドルフとイッパイアッテナ』と翌年に出た続編の『ルドルフともだちひとりだち』しか知りませんでした。

今では2002年に『ルドルフといくねこくるねこ』、2012年に『ルドルフとスノーホワイト』が出て、四作のシリーズのようです。

一方、映画で印象的なものと言えば、スタジオジブリによるアニメ映画『猫の恩返し』でしょうか。こちらは、猫を助けて感謝された女子高校生の吉岡ハルが、猫の国を冒険することになるというお話です。

猫の恩返し / ギブリーズ episode2 [DVD]/宮崎駿

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ジブリには柊あおいのマンガ『耳をすませば』を映画化した作品があるのですが、その主人公である月島雫が作った物語が『猫の恩返し』という設定になっています。色々な繋がりがあって、面白いですよ。

『ルドルフとイッパイアッテナ』や『猫の恩返し』が好きな方、そして猫が大好きという方に読んでもらいたいのが今回紹介するポール・ギャリコの『ジェニィ』。8歳の少年が猫になってしまうお話です。

突然人間から猫になってしまったので、猫の掟が分からないピーターは、散々な目にあいます。そんな時に助けてくれたのが、ガリガリに痩せていて美しくはないものの、心やさしい雌猫のジェニィでした。

人間の言葉が分かり人間を信じすぎるピーターと、人間に捨てられたことで人間を信じようとしないジェニィ。それぞれの信条のために失敗を重ねながら、いつしか二匹の猫は、強い絆で結ばれていきます。

最初はもっぱらジェニィに教わってばかりいたピーターが、少しずつ一人前の猫に成長していくのもこの小説の醍醐味で、絶体絶命の危機に陥った時に今度はピーターがジェニィを励ましたりするのでした。

「さあ、さあ。ともかくぼくたちはまだ生きているんだろう。それにぼくたちにはお互いというものがあるじゃないか。大事なことはそれだけなんだよ」
 ピーターのそのことばは、たちまちむくいられたのである。ジェニィはかすかにほほえみ、小さなやさしい音をたてて、ごろごろのどを鳴らした。そして弱々しい声で言った、「それだからあんたが好きなのよ、ピーター」(208~209ページ)


全体的には二匹の猫の絆を描きながら、「野良猫はつらいよ」とも言うべき厳しい生活が意外とリアルに描かれていく作品ですが、ジェニィの愛に包まれているだけに、とても心温まる物語になっています。

愛くるしい猫の姿を描いたメルヘンチックな物語ですが、ポール・ギャリコは元々プロボクサージャック・デンプシーのインタビューで名を馳せたスポーツライター出身。スポ根的な熱い展開も見所ですよ。

人間から猫になったら一体どんな風景が見えるのか、猫が従わなければならないルールにはどんなことがあるのか、そんなことを知ることのできる、わくわくどきどきの冒険譚。かなりおすすめの一冊です。

作品のあらすじ


物心ついた時から猫を飼いたいと思っていたピーターですが、猫嫌いのばあやの反対で飼うことが許されません。そしてある時、猫を見つけて駆け寄ったピーターはトラックにはねられてしまったのでした。

ベッドの上で寝ていたピーターは、不思議な感覚にとらわれ、気が付いた時には、一点のしみもない純白の毛皮の猫になっていたのです。

「ほんとにいけすかない坊ちゃんたら、ありゃしない! またぞろ通りからのら猫を引きずり込むなんて! こら! シッ! 出て行け!」
 ピーターも大声で叫んだ――「でも、ばあや! ぼくピーターだよ。猫じゃないよ。ばあや、いけないよ、お願い!」
「文句があるのかい?」とばあやはわめいた。「そんならほうきだ」ばあやは廊下に出て行き、ほうきを持って戻って来た。「さあ、これだ。出て失せろ!」(17ページ)


こうして家を追い出され、ロンドンの町をさまようピーター。雨に降られて苦しみ、黄色い猫にはぼこぼこにされ「このつぎにやって来たら、必ずきさまを殺してやるからな」(32ページ)と脅されます。

心も体もずたぼろの状態でたどり着いたのは、家具が置いてあるどこかの倉庫でした。その中にいたのは胸に白い斑点を持つ痩せた雌猫。

雌猫は意外にもピーターを追い出そうとせず、傷を舐めてくれ、それは傷をやさしく撫でてくれた母親の手をピーターに思い出させます。

 今もかわいらしい、ざらざらした舌に、自分の傷ついた耳をくまなくなめまわされ、ついで下のほうの肩とわき腹の、皮膚を引き裂かれてできた、長い、深い爪跡をなめまわされているうちに、もう大丈夫だという、それとおなじ安心感が、ピーターの心にわいてくるのであった。そして彼女の舌が傷跡の上をなめまわすたびごとに、そこにあった痛みはまるで魔法にかけられたように、たちまち消えていくのである。(39~40ページ)


ピーターはその雌猫がジェニィという名前だということ、ピーターをいたぶった黄色い猫は、この辺りのチャンピオンのデンプシィであることを知りました。ピーターは自分の身に起こったことを話します。

人間から猫になったという奇想天外の話に半信半疑のジェニィでしたが、言われてみればピーターは、猫にとって当たり前の行動をとらないことが多いので、一つ一つ猫のしきたりを教えてくれたのでした。

まずなんといっても大切な規則は、なにかあったら身づくろいをすること。こんな時には身づくろいをするという例をジェニィはたくさんあげてくれたのですが、ピーターはとても覚えきれないと叫びます。

するとジェニィは「疑いが起きたら――身づくろいすること」(70ページ)だけ覚えておけばいいのだと言い、身づくろいの仕方を何一つ知らなかったピーターに、やり方を丁寧に教えてくれたのでした。

ピーターがおなかをすかせていたので、ジェニィは港の老人のところへ連れていってくれました。一人寂しく暮らすその老人は、出来ることなら飼いたいと思うくらい、ジェニィをかわいがっているのです。

二匹の猫がやって来ると老人は大喜びし、自分の分のご飯をわけてくれました。ペロペロ舐めるのではなくがぶがぶ飲もうとして苦戦していたピーターは、ジェニィからミルクの飲み方を教えてもらいます。

親切な老人にすっかり心許したピーターでしたが、ご飯が終わるとジェニィの合図で逃げ出さざるをえませんでした。とてもがっかりした様子の老人を見て、まるで騙したようだとピーターは心が痛みます。

しかし飼い主に捨てられた経験を持つジェニィの考えは違いました。

 ジェニィは低い唸り声をたてた。「すべて人間というものは意地悪なものよ。あたしは人間とちっとも関係したくないの。はじめてあんたに会ったとき、そう言ったでしょう、その理由もいっしょに。いまだってあたしおなじ考えよ」
「じゃ、なぜ君は相変わらずぼくにかかわりあっているの?」とピーターは尋ねた。「ぼくは人間だし、それに――」
「違うわ!」とジェニィは叫んだ、「あんたは普通の白猫よ。そのうえあんまり思いやりのある猫じゃないわ。あたしがこれほど努めているのに――あれまあ大変、ねえ、ピーター、あたしたちにはじめて意見の食い違いができたんだってことに、今やっと気がついたわ。しかも人間のことで! 自分たちの生活の中に、人間がはいり込んできた場合、どういうことになるか、これでわかったでしょう?」(143~144ページ)


さらなる自由な生活を求めて、こっそりと船にもぐり込んだピーターとジェニィは、水夫に見つかった時、ネズミを取る役に立つ存在だと思ってもらえるように、ピーターがネズミを取れるよう練習します。

訓練の甲斐あって、大ネズミと死闘をくり広げ見事ピーターが勝利した時のこと。ピーターが大ネズミをくわえている姿を見て、状況がよくつかめなかったジェニィは、すっかり動顛してしまったのでした。

そして、なんと高いところにいたのに後じさりして、海へ落ちてしまったのです。それを見ていた水夫はピーターに、船長はたかが猫一匹のために船を回すことはないから、お友達は助からないと言います。

しかしピーターは既にジェニィを救うべく海へ飛び込んでいて……。

はたして、水が嫌いな猫が海へ投げ出されるという、絶体絶命の危機においやられたピーターとジェニィ、二匹の運命やいかに!?

とまあそんなお話です。500ページほどと、結構ボリュームがあるのが難点かもしれませんが、笑いや涙、ラブロマンス、アクション、興奮、感動と様々な要素がバランスよく詰め込まれた、面白い小説。

バランスがいいだけに、やわらかくファンシーな雰囲気の小説が好きな方と、そしてそれとは真逆にハードでシリアスな雰囲気の小説が好きな方の、その両方を満足させるような作品ではないかと思います。

この物語のスポ根要素、ハードでシリアスな部分について、少しヒントを出しておくとですね、デンプシィという猫が出て来ましたよね。

とにかく喧嘩が強く、辺りをしきっているボス的存在。ピーターはかつてずたぼろにやられ二度と近づくなと警告されていました。はてさてこのデンプシィとの関係はどうなっていくのか……という所です。

物語として引き込まれ、描かれている猫の世界は魅力的。そして何よりジェニィの愛らしさに心をわしづかみされること請け合いの一冊。猫好きの方は勿論、そうでない方も、ぜひ手にとってみてください。

明日は、藤沢周平『よろずや平四郎活人剣』を紹介する予定です。

藤沢周平『よろずや平四郎活人剣』

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よろずや平四郎活人剣〈上〉 (文春文庫)/文藝春秋

¥700
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よろずや平四郎活人剣〈下〉 (文春文庫)/文藝春秋

¥714
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藤沢周平『よろずや平四郎活人剣』(上下、文春文庫)を読みました。

藤沢周平の人気シリーズに「用心棒日月抄」があります。『用心棒日月抄』『孤剣』『刺客』『凶刃』の四作からなり、訳あって脱藩し、江戸での暮らしを余儀なくされた青江又八郎の奮闘を描くシリーズ。

侍は主君から扶持をもらわなければ暮らしていけませんから、藩を離れると食べていくのはとても大変なんですね。そこで腕に覚えのある又八郎は、用心棒として様々な事件に首を突っ込んでいくのでした。

今回紹介する『よろずや平四郎活人剣』は、「用心棒日月抄」の流れをくむ作品と言ってよいでしょう。こちらの主人公神名平四郎もまた日々の暮らしのためにやむなく望まぬ仕事をすることになるのです。

武士は長男が家督を継ぎますから、次男三男となると部屋住みといって、いい婿の口が見つからない限りは、ずっと肩身の狭い居候の身なんですね。しかも、平四郎の母は下婢だったので、なおさらのこと。

そこで剣の腕が立つ平四郎は一念発起。仲間たちと剣術道場を立ち上げることにしたのでした。そうすれば、好きな剣で自由にのびのびと暮らしていくことが出来るわけです。こんなにいい話はありません。

ところがまだまだうぶな平四郎は、海千山千の浪人者に資金を持ったままどろんされてしまい、かといって今さらおめおめと家にも帰れず、裏店(裏通りの長屋)で暮らしながら仲裁屋を始めたのでした。

「何で食していると言ったぞ? よろず屋とか申したかえ?」
「義姉上、それは違う」
 平四郎は閉口した。
「よろず屋と申すのは、俗に言う便利屋のことでござろう。あちこちに物をとどけたり。いや、あれは違うかな。何の品でも売る小店のことですかな。ともかく、それがしの商売はそれとは違います」
「どう違うのじゃ」
「よろず揉めごと仲裁でござる。世の揉めごとを引きうけ、うまく仲裁して駄賃をいただく。これが商売でござる」
「奇妙ななりわいよの。なにやら雲をつかむような」
 嫂の里尾は頼りなげな眼で義弟を眺めた。
「そのようなことで口を養って行けるのかえ。心配でなりませぬ」
(上、88~89ページ)


兄嫁の心配通り食べていくだけの稼ぎを出すのは大変ですが、ともかくたわいない夫婦喧嘩の仲裁から商店の恐喝事件まで、時に失敗し、時に剣を抜き、平四郎は八面六臂の活躍をくり広げていくのでした。

独立した事件を解決していく連作形式ですが、背景に大きな流れがあるので長編小説のようにも読めます。そういう感じも「用心棒日月抄」と似ていて、ドラマ化される時はあわせて使われたりもします。

「用心棒日月抄」とどちらが面白いかと言うと、一つ一つの事件が用心棒の方が仲裁屋よりも物騒ですし、大きな陰謀に巻き込まれるのでスリリングさでは段違い。やはり、「用心棒日月抄」が上でしょう。

しかしながら、『よろずや平四郎活人剣』にはゆるやかさとコミカルさの魅力があって、これはこれでいいんですよ。男女の道にも詳しくなく、世間ずれしていないまだうぶな平四郎はなにかと失敗ばかり。

たとえば、間抜けなシャーロック・ホームズを想像してみてください。「事件の真相はこうだ!」と思って一生懸命行動し、無事に事件を解決したかと思ったら、真相はまるで全然別だったというような。

剣の腕は立つものの、まだまだ世間を知らないが故の平四郎の失敗に、思わずにやりとさせられてしまうこと請け合いの物語。上下巻とやや長いですが、事件ごとに少しずつ読み進めることも出来ますよ。

作品のあらすじ


雲弘流の高弟である神名平四郎は母親の身分が低かったこともあり、肩身の狭い暮らしをしてきました。そこで賓客待遇で道場にやって来ていた明石半太夫と北見十蔵と三人で道場を開くことにしたのです。

明石が二十両、北見が十両、平四郎が五両を出し、言いだしっぺの明石にほぼすべての準備を任せていたのですが、ある時道場を訪ねてみるとつけを残したまま、明石一家の姿は忽然と消えていたのでした。

元々、寺子屋の先生をしている北見は、蓄えをなくしたとはいえ食うには困りませんが、弱ったのが平四郎。道場を開くと言って勢いよく飛び出した手前、今さら、おめおめと家に帰るわけにもいきません。

そこで思いついたのが、世の中には自分たちのような目にあっても泣き寝入りしている人々がたくさんいるに違いないということ。わずかの手間賃で、揉めごとの仲裁をしてくる人がいたらどんなにいいか。

善は急げと平四郎は北見に「よろずもめごと仲裁つかまつり候」という看板を書いてもらいました。喧嘩五十文、口論二十文、取りもどし物百文、さがし物二百文など、細かい値段を細字で書いてあります。

ところが、全然お客はやって来ませんし、長屋の連中からは忍び笑いされる始末。これはもう頭をさげて家に帰るしかないと思うものの、案外平四郎は、のんびりした暮らしに魅力を感じてもいるのでした。

 ――それに……。
 かくも自由だと、平四郎は思うのだ。生家では、こんなふうに畳にひっくり返って鼻毛を抜いたりとしていることは思いもよらない。
 昼はむろん、夜も道場稽古でどんなに疲れていようと、甥や姪が挨拶に来るまでは、しかつめらしく書物ぐらいはひろげていなければならないし、それでいて喰い物は別、風呂はしまい湯である。そうして、なお婿の口はないかと、じっと生家に寄食しているのはやり切れなかった。
 生家を出て、まだひと月にも足りないが、平四郎はこの裏店が気に入っている。路地に出ると、いつもかすかに小便くさい臭いが漂っているのは難だが、ここではいつ起きようと、またはいつ寝ようと文句を言う者はいない。(上、28~29ページ)


目付(旗本・御家人の監視の役目)をしている兄監物の頼みで旗本の辻斬りの捜査にあたったことを皮切りに、ゆすりやたかりなどの揉めごとの仲裁に乗り出し、少しずつですがお客が入るようになります。

やがて消えた明石の手がかりをつかみますが、北見は妙に明石に同情的で「明石は妻子持ちだ。必死で世を渡っておる。妻子の前であの男に恥をかかせるのはやめとけ」(上、56ページ)と言うのでした。

怒りにまかせて明石を探しに出かけた平四郎は、ふと北見の過去についてあまり知らないことを思います。妻子への情愛が分かるところを見ると、北見は国元に妻子を置いて浪人しているのかも知れません。

まだ若い平四郎は妻について考えたこともありませんでしたが、心に残っている女性が一人いました。旗本だった塚原家の娘の早苗。かつては結婚が決まった間柄でしたが、塚原家は潰れてしまったのです。

十四歳の少女だった早苗はそのまま行方知れずとなり、五年の月日が経ちました。この間、嫂がたまたま早苗を見かけたという話を聞いて、平四郎はあれからどうしただろう今は幸せだろうかと考えます。

人妻の身なりだったというので気にしても仕方がないのですが、道場仲間の伊部金之助にどこに嫁いだのか調べてもらうことにして……。

町人の揉めごとを解決していく一方、平四郎は高野長英ら蘭学者が捕えられた「蛮社の獄」にまつわる武士の世界のごたごたにも巻き込まれていきました。長英が記した書をめぐって争いが起こったのです。

監物に連れられて老中堀田正篤の屋敷を訪ねた平四郎は何者かに尾けられていることに気付きました。路地に隠れて刀の鯉口を切ります。

 気配は消えたように見えた。だがしばらくして平四郎が息を解いたとき、路地の入口の前を黒い人影がゆっくりと通り過ぎた。夜目にも二本差しの姿に見えた。平四郎はふたたび息を殺した。
 すると一度通りすぎた黒い影がもどって来て、またゆっくり眼の前を通りすぎた。平四郎はずいと道に出た。平四郎が斬りかけるのと、相手が振りむくのが同時のように思えたが、平四郎の剣は強くはね返された。
 黒い影は音もなく走ると、橋を渡って対岸の闇に消えた。おどろくほどすばしこい相手だった。手にはね返されたときのしびれが残っている。平四郎は刀を鞘にもどすと、手を押し揉んだ。
 ――これは、これは。(上、82ページ)


走り去った男の正体は分かりませんが、老中水野忠邦にべったりとつき添っている目方、鳥居耀蔵の配下には手ごわい敵がいるようです。

本業である「よろずもめごと仲裁屋」ではたとえばこんな依頼がありました(「一匹狼」)。あづま屋という料理屋の女主人おこまから頼まれたのは、三年前に女房を亡くした吉次とその三人の子供のこと。

元々、吉次とおこまは幼馴染で、お互いに想い合っていましたが、両親を亡くしたおこまは妾奉公に行くことになってしまったのでした。

職人の修業を積んでいた吉次は荒れに荒れて道を誤り、今では貸金の取り立て人になってしまっています。旦那を亡くして自由の身になったおこまは、吉次と子供たちを引き取りたいと思っているのでした。

仲介に入った平四郎でしたが、うますぎる話だと初めは警戒し、おこまからの話だと分かると今度は依怙地になった吉次は「女の世話にゃならねえよ」(上、442ページ)と取り付く島のない様子で……。

またこんな依頼もありました(「浮草の女」)。雪駄屋の娘おなみが相談に来て、真面目だった父親が去年の暮からお金を持ち出して飲みに出かけるようになったと言います。どうやら女が出来たようです。

悪い女に捕まったのではというおなみの心配通り、父親の弥助がおもんという女に渡している金は、そっくりそのまま別の男に渡っているのでした。おもんの元に通うのは、もうやめるように言った平四郎。

ところが弥助は曖昧宿(売春婦を置く料理屋)で働くおもんは「誰にも言っていませんが、あたしの別れた女房なのです」(下、392ページ)と言ったのです。実は死んだとされていたおなみの母で……。

剣術道場の資金を持ち逃げした明石、行方知れずになっていた早苗、老中や目付の権力争いに結びついている高野長英の書物など、様々な問題を抱えながら、揉めごとを仲裁するために奔走を続ける平四郎。

はたして、成長を遂げた平四郎は自分の進む道を見出せるのか!?

とまあそんなお話です。小さな事件が積み重ねられた連作のスタイルですが、「蛮社の獄」や水野忠邦による改革「天保の改革」など、背景には大きな歴史の流れがあるので、長編小説のようにも読めます。

男女の機微にうとい平四郎の失敗に笑わされ、その剣の腕前に唸らされる物語。堅苦しくない時代小説なので、時代小説が苦手という方にもおすすめの一冊です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、山本周五郎『さぶ』を紹介する予定です。

山本周五郎『さぶ』

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さぶ (新潮文庫)/新潮社

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山本周五郎『さぶ』(新潮文庫)を読みました。

時代小説界の大御所、山本周五郎は作品数が多く、しかもただ多いだけではなくて名作・傑作と言われる作品が多く、代表作がいくつもあります。ですが、最も読者から読まれているのは『さぶ』でしょう。

今なお愛され、読み継がれている時代小説の傑作。感涙必至ですよ。

物語の舞台となるのは、江戸の下町。何でも器用にできるが故に他人から反感を買ってしまうこともある栄二と、頭が少し弱く何をするにも不器用なさぶという二人の職人の、奇妙な友情を描いた長編小説。

一人では何もできないさぶをいつも栄二が勇気づけます。経師屋(書画や屏風などの表装をする仕事)の芳古堂での修業時代、自分は足手まといになるばかりだというさぶに栄二はこんな夢を語るのでした。

「――にんげんは一寸さきのことだって、本当はどうなるか見当もつきあしねえ、まして五年さき十年さきのことなんか、神ほとけにだってわかりゃあしねえだろう、けれどもな、おめえがそう云うからおれの気持も聞いてもらうんだが、このまま順当にゆくとして、もしもおれが自分の店を持つようになったら、おめえといっしょに仕事をしようと考えているんだ」
 さぶはゆっくりと栄二の顔を見あげ、栄二はさぶと並んでしゃがみこんだ。
「どんな店が持てるかわからねえが、二人でいっしょに住み、おめえの仕込んだ糊でおれが表具でも経師でも、立派な仕事をしてみせる、お互いにいつか女房をもらうだろう、そして子供もできるだろうが、それからも二人ははなれやしねえ」と栄二はひそめた声に感情をこめて云った、「――いつまでも二人でいっしょにやっていって、芳古堂に負けねえ江戸一番の店に仕上げるんだ、おれはこう考えているんだが、おめえはどう思う、おれとやるのはいやか」(44ページ)


ところがそんな栄二を思いがけない運命が襲います。仕事先で金襴の切を盗んだ疑いをかけられて、出入り禁止になってしまったのです。

身に覚えのない栄二は荒れに荒れ、誤解を解こうとした行動が元で芳古堂を首になり、終いには人足寄場に入れられてしまったのでした。

人足寄場(にんそくよせば)は、無宿人や刑期を終えた浮浪人に社会復帰のため、仕事の技術を覚えさせるところで、池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公としても有名な長谷川平蔵の立案で作られたもの。

ひたすら真面目に生きて来た栄二は、突然ごろつき連中の中に放り込まれ、厳しい肉体労働を課せられることになってしまったのです。自分の人生は終わったと思い、恨みと怒りだけを抱えこみ過ごす日々。

ここまでは同じように無実の罪で投獄され、職も名誉も婚約者も奪われて、やがて大きな富と権力を手に入れて、復讐を始めるアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』と共通するものがあります。

モンテ・クリスト伯 7冊美装ケースセット (岩波文庫)/岩波書店

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しかしながら栄二には強い絆で結ばれた人物がいましたよね。そう、さぶです。いつか栄二と二人で一緒に店をやるという夢を持ったさぶは心を閉ざし会おうともしない栄二の元に何度も面会に訪れて……。

ヒットする小説には、二つの大きな要素があります。まずは感動的な作品かどうか。いわゆる”泣ける”小説はヒットしますよね。もう一つは、意外な展開があるかどうか。驚きの結末の小説もヒットします。

『さぶ』は実はこの二つの要素を兼ね備えた小説なんです。どちらか一つの要素だけでもヒットするのに、二つの要素があわさった小説なのですから、今なお愛され、読み継がれているのにも納得ですよね。

『さぶ』が泣けるのは悲しいからではなく感動するからなのですが、これは実際に読んで体験してもらうこととしましょう。理不尽な出来事に翻弄される栄二に、共感しやすい作品なだけにほろりと来ます。

そして、栄二が盗んだとされた金襴の切は、何故栄二の道具袋に入っていたのか? という謎からも目が離せません。金襴の切をめぐる謎が、やがてはこの物語を意外な展開へと運んでいくこととなります。

時代小説を初めて読む方にもいいと思いますし、またとにかく面白い小説が読みたいという方にも自信を持っておすすめできる一冊です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。
 双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛をしめ、頭から濡れていた。雨と涙とでぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑になっている。ずんぐりした軀つきに、顔もまるく、頭が尖っていた。――彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。(5ページ)


仕事でまたもや失敗し、おかみさんに叱られた十五歳の少年さぶは、泣きながら奉公先を飛び出したのですが、同じく芳古堂で奉公をしている同じ年の栄二が後から追いかけて来て、慰めてくれたのでした。

実家に帰って百姓になるというさぶに、栄二は自分には家族がいないと言います。今年の春、うなぎのかば焼き食べたさに帳場の銭箱から金を盗んだのが見つかって居づらいが、他に行く場所がないのだと。

それ以来心を入れ替えて金も盗まず、一生懸命仕事に打ち込んでいるのだという栄二の話を聞いて、さぶはようやく帰る気になります。そんな二人に傘を貸してくれようとした十二、三歳の少女がいました。

その少女のことはそれきり忘れていた栄二とさぶですが、二十歳になってようやく主人から外で酒を飲むことが許され通い始めた小料理屋「すみよし」で再会したのです。そこで少女は働いていたのでした。

はたちになったら抜けると信じている八重歯を持つ、十八歳になっていたその少女の名はおのぶで、栄二とさぶと親しくなります。その押しの強い性格と魅力的な顔立ちに、いつしか心惹かれていったさぶ。

他の仲間ほど仕事が上達せず、周りから馬鹿にされて落ち込んでいたさぶに、たくさんのことが器用に出来なくても、一つのことに集中する時はすごい、糊作りでは誰にもひけをとらないと栄二は褒めます。

そして栄二はいつか二人で店をやろうとさぶを勇気づけたのでした。

その頃綿文という両替商のふすまの張り替えを任されていた栄二。小さい頃からずっと来ているので綿文の二人の娘とも親しい間柄です。

態度にこそ表しませんが何より嬉しいのは、そこで中働きをしていて、十六歳になるおすえと会えること。おすえは栄二がひそかに心に決めている女性なのでした。ところが思いがけぬことが起こります。

綿文への出入りが突然禁じられたのでした。理由を尋ねると、栄二の道具袋から綿文の古金襴の切見つかったというのです。身に覚えはありませんが、子供の頃の盗みの件があるので、信じてもらえません。

やけになった栄二は酒と女に溺れ、ついには店を首になってしまったのでした。栄二を心配したおすえが駆けつけてくれますが、自分自身を汚らわしく思った栄二は、おすえを冷たく突き放してしまいます。

自分の身の潔白を証明しようと綿文へ乗り込んだことで人足寄場へ入れられてしまった栄二は心を閉ざし、自分の人生をめちゃくちゃにした綿文や、自分をここへぶち込んだ人々への復讐を考え続けました。

誰が自分の道具袋に金襴の切を入れたのだろうと考えていた栄二は、おぼろげに事情が分かってきたのです。綿文の二人の娘と栄二は仲が良く、いずれはどちらかと夫婦になるのではないかと噂されたほど。

綿文は単なる職人である栄二を娘たちから離させるために、あんな行動を取ったに違いありません。やがてさぶがやって来ましたが会おうとせず、さぶから聞いておすえがやって来た時には別れを告げます。

「そうきめないで、栄さん」嗚咽しながらおすえはかぶりを振った、「そんなふうにきめてしまわないでよ」
「死んじまった鳥にうたわせることができるか」
「栄さんは鳥でもないし死んでもいないわ」とおすえは云い返した、「あんたがどんな辛いくやしいおもいをしているか、覚えのないあたしにはわからないかもしれないけれど、あんたがいなくなったあと、さぶちゃんがどんな気持であんたを捜しまわったか、さぶちゃんの手紙を読んで、あたしがどんな気だったかも、あんたにはわからないでしょ、――そこをお互いにわかり合おうとすればこそ、友達があり夫婦があるんじゃありませんか」
「無事にくらしているうちはな」と云って栄二は立ちあがった。「――おれの気持はもう話した、おめえもこれっきり来てくれるな、さぶにも来るなと云ってくれ、いいな」
(190~191ページ)


さぶから手紙が来ます。病気になって田舎に帰っているというのです。手紙では毎回字のへたなことが詫びてあるのですが、栄二はその不器用な字にえらい坊さんの書と似た独特の味があると思いました。

おすえはあれからも足繁く会いに来ますが、栄二は会おうともしません。やがて、おのぶがやって来て、栄二に衝撃的なことを告げました。栄二の元へ来ていたことでさぶは店を首になったというのです。

なにかと栄二に目をかけてくれる役人の岡安嘉兵衛は、風は荒れることもあれば、静かに花の香りを運んで来ることもあると言いました。

「おまえは気がつかなくとも」と岡安はひと息ついて云った、「この爽やかな風にはもくせいの香が匂っている、心をしずめて息を吸えば、おまえにもその花の香が匂うだろう、心をしずめて、自分の運不運をよく考えるんだな、さぶやおすえという娘のいることを忘れるんじゃないぞ」(237ページ)


それでも復讐心を捨てられない栄二でしたが、ある時作業中に崩れて来た石垣に押しつぶされてしまいます。体中の痛みは思わず気を失うほど。みんなは助けようとしますが、潮がどんどん満ちて来て……。

はたして、絶体絶命の窮地においやられた、栄二の運命やいかに!?

とまあそんなお話です。盗みの疑いをかけられて、やけになって自ら自分の人生を棒に振ってしまった栄二と、そんな栄二と一緒に店をやるという夢を、かたくなに守り続けようとするさぶの強い絆の物語。

さぶはおのぶのことが好きですが、おのぶはさぶを異性としては見れず、実は栄二のことが好きなんですね。しかし栄二はおすえが好きなわけで。その辺りの、複雑な恋愛模様からも目が離せない作品です。

おのぶはおのぶで身売りされそうになったり好きでもない相手と結婚させられそうになったりと色々と大変なエピソードがあるんですよ。

あと、人足寄場での様々な出会いや、起こる出来事が少しずつ栄二の心を変えていくので、その辺りがこの小説のなにより見所だったりもするのですが、まあそれは、実際に読んでもらうこととしましょう。

時代設定には馴染みがないかもしれませんが、非常に感情移入しやすい物語。普段あまり小説を読まないという方にもおすすめですよ。素直に感動出来る長編小説なので、最近、涙してないという方もぜひ。

本文ではさぶ、おすえ、おのぶにはそれぞれ傍点がつきますが、この記事では傍点をつけられないので、省いたことを付記しておきます。

明日は、ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を紹介する予定です。

ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

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巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)/河出書房新社

¥2,940
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ミハイル・ブルガーコフ(水野忠夫訳)『巨匠とマルガリータ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

ソ連時代のウクライナ出身のブルガーコフは、20世紀のロシア文学を代表する作家の一人で、SFや幻想文学を思わせる奇抜な発想を巧みなストーリーテリングで綴ることに、その大きな特徴があります。

ブルガーコフには「モスクワ三部作」と呼ばれる中編三作、「犬の心臓」「悪魔物語」「運命の卵」があるんですね。短くて読みやすいですし、とにかく発想が突飛で面白いのでそちらも機会があればぜひ。

しかし代表作と言えば何と言っても今回紹介する『巨匠とマルガリータ』。ブルガーコフの作品はソ連時代には発禁になることが多く、生前は未発表で作者の死後26年経った1966年に発表されました。

1930年代のモスクワに、悪魔らしき一行が突然現われて暴れ回るというこの物語は、社会主義の国であったソ連時代の”現実”を諷刺している所もあり、舞台化などもされて大きな話題となったようです。

『巨匠とマルガリータ』は一言で言えば奇想天外な小説。本の帯のからそのまま持って来るとですね、「黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会」が登場する物語です。

次から次へと巻き起こる事件が荒唐無稽でもうすごいんですよ。とにかく圧倒されてしまいます。また、ローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の歌詞に影響を与えた作品としても知られていますね。

ベガーズ・バンケット/USMジャパン

¥2,200
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とにかくぶっとんだ文学作品を読んでみたいという方におすすめですが、いくつか読みづらい要素もあります。まずは、600ページ前後とかなりのボリュームがあること。読むのに結構時間がかかります。

物語は二部構成になっていて、第二部に入ると一人が中心となるのでぐっと読みやすくなる(同時にファンタジーっぽくなる)のですが、第一部はたくさんの登場人物が出て来るので、大変かもしれません。

まあ「悪魔の一行がショーを開くために色々動いているんだなあ」ぐらいに思って、ある程度読み飛ばしても大丈夫な感じはありますが。

そしてもう一つは、ソ連時代の”現実”の諷刺という点もそうですが、何よりも”神と悪魔の戦い”というテーマがキリスト教的な価値観を持たない日本人にとっては、やや分かりづらいということがあります。

古代ローマのユダヤ総督ピラトをご存知でしょうか。物語にはピラトゥスの表記で登場しますが、神の子イエスの処刑を言い渡した人物。

祭りにあわせて誰か一人、罪人が特赦で解放される伝統があったのですが、ユダヤの民衆に応える形で、ピラトは、殺人犯である罪人バラバを解放し、イエスはそのまま磔の刑に処すように命じたのでした。

ピラトがどんな人物であったかは『聖書』の中でも福音書ごとに少しずつ違いますが、ピラトは本当はジレンマを抱えていたのではないか? というのが『巨匠とマルガリータ』で一つのキーとなります。

物語の中では「巨匠」という小説家が、ピラトを主人公にした小説を書いているのですが、そこではイエスに罪がないことを知りながら処刑を命じたことで、苦悩し続けるピラトの姿が浮かび上がるのです。

神を信じる者はどうなり、信じない者はどうなるのか、またそれとは反対に悪魔を信じる者はどうなり、信じない者はどうなるのか――。

そうしたテーマが、悪魔一行によって起こったモスクワの混乱、ピラトを描いた「巨匠」の小説、そして、「巨匠」を愛する女性マルガリータの奇想天外な冒険を通して、描かれていくこととなるのでした。

荒唐無稽な出来事にただただ圧倒されるだけでも面白い作品ですが、悪魔一行が当時のソ連の何を表しているのか、そして神と悪魔のテーマについて色々考えながら読むと、より楽しめる作品だと思います。

作品のあらすじ


五月の夕暮れ時。文芸綜合誌の編集長ミハイル・ベルリオーズと〈宿なし〉というペンネームを持つ詩人イワン・ポヌイリョフは売店で買ったアプリコット・ソーダを飲むと池のそばのベンチに座りました。

イワンはイエス・キリストを描いた叙事詩を書いたのですが、ベルリオーズはその生き生きとした描写が気に入らず、全面的に書き直す必要があると言います。そもそもイエスは存在しなかったのだからと。

 編集長の語るすべてのことが初耳であったが、詩人はすばしこい緑色の目で相手の顔をみつめながら、一言も聞きもらすまいと耳を傾け、ごくときたましゃっくりをしてはアプリコット・ソーダを低い声で呪っていた。
「東洋の宗教のどれをとったって」とベルリオーズは言った。「すべて、原則として純潔な処女が神をこの世に生み落とすことになっていて、そうでない例なんてひとつもない。キリスト教徒にしても、なにひとつ新しいことを考え出せず、まったく同じやり方でイエスを創り出したのさ、実際には存在しなかったイエスをね。こういうことなのだ、重要視しなければならないのは……」
(12ページ)


するとそこへ、グレーのベレー帽をかぶり、左側にはプラチナ、右側には金の義歯をはめ、黒い右目と緑の左目を持つ、四十歳を少し越したほどの外国人風の男がやって来て、イエスは存在すると言います。

黒魔術を研究している教授を名乗った男は、ユダヤ駐在ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスが、ナザレの人ヨシュアを裁いた時の様子をまことしやかに語り、その現場に立ち会っていたのだと言いました。

そして教授はベルリオーズはロシア人の女に首をはねられて死ぬだろうと予言します。勿論、ベルリオーズは信じませんでしたが、帰り道に足をすべらせて線路に落ち、電車にはねられてしまったのでした。

舗道ではねた切断されたベルリオーズの首。電車を運転していたのは女性運転手でした。驚愕したイワンは教授を探しますが、二本足で歩く見事な口ひげの猫を目撃して気を取られて、見失ってしまいます。

やがてヴァリエテ劇場ではヴォラント教授のショーが始まりました。

予定外の出来事に戸惑う経理部長リムスキイですが、支配人リホジェーエフも総務部長ヴァレヌーハも謎の失踪を遂げていて状況がつかめません。電話をかけようとするも故障で不通という状況なのでした。

手品で十ルーブル札が現われ会場は大盛り上がり。アシスタントのコロヴィエフ=ファゴットの合図でさらに不思議なことが起こります。

「そいつを私にもやってくれよ!」一階席の中央あたりにいたふとった客が、調子づいて頼んだ。
「喜んで!」とファゴットは答えた。「それでも、あなたお一人だけに? みなさま全員に参加していただきましょう!」そして号令をかけた。「上をご覧ください!……一!」手にピストルが現われ、ファゴットは叫んだ。「二!」ピストルが高く持ちあげられた。彼は叫んだ。「三!」閃光とともに銃声が響き、それと同時に、円天井から空中ブランコの網の目をくぐり抜けながら白い紙幣が客席に落下しはじめた。
 白い紙幣はひらひらと舞い、あちらこちらに散りながら桟橋席に舞い降り、オーケストラ・ボックスや舞台に落ちてきた。ほどなくして、紙幣の雨はいっそう強く降りしきり、客席にまで落ち、観客たちは紙幣をつかみとろうとしはじめた。

(185ページ、本文では「喜んで」に「アヴェク・ブレジール」のルビ)


混乱した場内をおさめるため、慌てて司会者のベンガリスキイが舞台に出て、トリックがあると説明したのですが、ファゴットの合図で飛びかかった黒猫のベゲモートに首を引き抜かれてしまったのでした。

辺りには血しぶきが飛び散りましたが、首は喋り続けます。ヴォラント教授の許しを得て、首が元に戻されると再び繋がり、血の跡も消えたのでした。それからも、不思議な魔術のショーは続いていきます。

一方、おかしなことばかり言うとして精神病院に入れられてしまった詩人のイワンは、一年前にピラトゥスについての小説を書きあげたという、隣人の巨匠(マースチェル)と親しく話すようになりました。

夫のいる女性と出会い、恋に落ちた巨匠。執筆に明け暮れる巨匠のささやかな暮らしを、いつも決まった時刻にやって来る女性が彩ります。巨匠の小説を女性は愛し、二人は幸せな日々を送っていました。

ところが小説が完成したことで幸せな日々は終わりを告げます。一生懸命書き上げた原稿が編集長に認められなかったから。自分の作品に自信が持てず、絶望した巨匠は小説を暖炉で燃やしてしまいました。

爪を痛めながらノートを引き裂き、薪のあいだに縦にして押しこみ、火かき棒で紙をかきまわしました。ときどき灰に苦しめられたり、炎に息がつまりそうになったりしましたが、それと闘いつづけると、小説は執拗に抵抗しながらも、やはり滅んでゆきました。見覚えのある言葉が目の前にちらつき、どのページも下から上の部分へと勢いよく黄色く変わってゆきますが、それでもやはり、言葉は黄色くなったページの上に浮き出ていました。紙がまっ黒になり、私が怒りにかられて火かき棒で最後の息をとめたときに、それらの言葉はようやく消滅したのでした。(221~222ページ)


ある朝、何かが起こる予感とともに目覚めた、30歳のマルガリータ。町へ出ると、ベルリオーズの葬列に出くわしました。ベルリオーズの首が何者かに持ち去られて大騒ぎになっていることを知ります。

自分の人生から突然姿を消した巨匠を探しているマルガリータは巨匠に会う方法を知っているという赤毛の男アザゼッロと出会いました。

アザゼッロはマルガリータにクリームを渡し、夜九時半、一糸まとわぬ姿になってクリームを体に塗り、電話を待つようにと言って……。

はたして、マルガリータに起こった思いも寄らない出来事とは? そして、マルガリータは巨匠を見つけ出すことが出来るのか!?

とまあそんなお話です。マルガリータという、巨匠の愛する女性の名前が登場するのは第二部からですが、そこからは、そのマルガリータが中心となって物語が進んでいくので、ぐっと読みやすくなります。

アザゼッロもヴォラント教授の一味なので、マルガリータもまた教授が巻き起こす不思議な騒動に巻き込まれていくこととなるのでした。

第一部では、支配人リホジェーエフや総務部長ヴァレヌーハの奇妙な失踪など色々な出来事が起こるので、やや読みづらいかもしれませんが、ショーをするための行動だと分かっていれば、大丈夫でしょう。

イエスを処刑したピラトゥスの苦悩を小説に書き、自信を失ってその原稿を焼いてしまった巨匠と、その愛する女性マルガリータ。モスクワに突如現れたヴォラント教授とその一味が巻き起こしていく混乱。

それらを通して1930年代のソ連の”現実”と、神と悪魔について描かれる物語です。とにかくボリュームがすごいですし、決して読みやすい小説ではありませんが、奇想天外な発想がとにかく面白い作品。

興味を持った方は、ぜひ挑戦してみてください。読み通すのはなかなかに骨が折れますが、きっと忘れられない読書体験になるはずです。

明日は、吉田修一『パーク・ライフ』を紹介する予定です。

吉田修一『パーク・ライフ』

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パーク・ライフ (文春文庫)/文藝春秋

¥452
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吉田修一『パーク・ライフ』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

世の中には目に見えないものがあります。まずは人間の臓器。心臓はとくとく音を立てますが直接は見えません。それから、都市で暮らしていても、自分が住んでいるその都市全体を見ることは出来ません。

宇宙飛行士が「地球は青かった」と言っても、その地球とぼくたちが暮らしている場所は同じだとピンと来ないのではないかと思います。

そう考えると、体の内部を見られるほどの小さな視点を持たず、かと言って世界全体を眺められるほどの大きな視点も持たないぼくらは一体何を見て過ごしているのだろう? と不思議な感じがしますよね。

さて、今回紹介する『パーク・ライフ』は何も起こらない小説として有名で、物語では出来事らしい出来事は何も起こりません。ですが、そうした目に見えないものを描こうとした小説のような気がします。

物語の舞台となるのは日比谷公園。そこにはいつも誰かがいます。そこにいる人々は、同じ空間で同じ時間を過ごしているわけですが、向いのベンチにいる人との関係を尋ねられたら困ってしまうでしょう。

家族でもなく、友達でもなく、知り合いですらないわけですから。赤の他人に他なりませんが、同じ空間で同じ時間を過ごしているので、ばっさりそう言い切るには、少し戸惑う感じもあるかもしれません。

物語ではやがて、サラリーマンの主人公が、同じ公園で時間を過ごしていた女性と言葉を交わすようになり、他人から知り合いになったのですが、お互いのことを話さないので、関係は深まっていきません。

名前も仕事も、今までどんな人生を送って来たかも、そしてこれからの人生の目標も、お互いに何も知らないのです。それだけに、友達にも恋人にも発展しそうにない、微妙な関係性が続いていくのでした。

そんな風に、近くにいながらどこか空虚な関係性を描いた物語なのですが、よく考えてみたらこれは学校や社会、住んでいる場所でもあることですよね。繋がっているような、繋がっていないような関係性。

公園での他人のような他人でないようなという曖昧な関係性は、たとえばマンションの住人の関係性ともよく似ていて、そうした空虚な関係性を通して、都会というものを表した小説だとも言えるでしょう。

どことなくユーモラスでありながら、クリアで都会的な雰囲気の中に何度もくり返される臓器のグロテスクなイメージ。それがやがては都会そのもののイメージとも重なっていくという、興味深い小説です。

そうした重なり合って響くイメージの連鎖に注目してみてください。

それから、この小説のもう一つの魅力は、主人公と女性とのやや奇妙な会話。主人公が「スタバ女」と呼ぶほど、いつもスターバックスでコーヒーを買っている女性は、なんとスタバは嫌いだと言うのです。

「たばこが吸えないから嫌いなんですか?」
「そうじゃなくて、なんていうんだろう、あの店にいると、私がどんどん集まってくるような気がするのよ」
「え?」
「ちょっと言い方がヘンか? だから、あの店に座ってコーヒーなんかを飲んでると、次から次に女性客が入ってくるでしょ? それがぜんぶ私に見えるの。一種の自己嫌悪ね」
「ぜんぶ自分に?」
「だから、どういうんだろうなぁ、たぶんみんなスターバックスの味が判るようになった女たちなのよね」
「スターバックスの味?」
「ほら、よく言うじゃない、これは子供を産んでみないと判らない、これは親を亡くしてみないと判らない、これは海外で暮らしてみないと判らないなんて、それと同じよ。別に何したわけでもないんだけど、いつの間にか、あそこのコーヒーの味が判る女になってたんだよね」(32~33ページ)


普通のコーヒー店とは違うスターバックスならではの「コーヒーの味が判る」ことによって、かえってスターバックスの中ではステレオタイプ(画一的なイメージ)な女性像になって、埋没してしまうこと。

言っていることは妙ですが、分からないではない感じもありますよね。まわりの”空気を読む”ことや、ファッションなどの”流行”に乗るのも大事なことですが、それは実は個性を失うことでもあるわけで。

目立った出来事がほとんど何も起こらない小説なので、物語的な面白さはそれほどありませんが、人間と人間の繋がりが持つ奇妙さや、都会そのものが抱える空虚さを描き出した所に面白さのある作品です。

作品のあらすじ


『パーク・ライフ』には、「パーク・ライフ」「flowers」の2編が収録されています。

「パーク・ライフ」

電車の中で先輩社員の近藤さんに話しかけたつもりで「ちょっとあれ見て下さいよ。なんかぞっとしませんか?」(10ページ)とドアにある日本臓器移植ネットワークの広告を指差し振り返った〈ぼく〉。

しかし近藤さんは六本木駅で降りていたので、そこにあったのは見知らぬ女性のきょとんとした顔。今にも周りから失笑が起こりそうという時に、女性が問いかけに親しげに応じてくれたので助かりました。

新製品のポスターを届けに行った近藤さんを日比谷公園の広場で待っていると、先程の女性がスターバックスのコーヒーを片手にベンチに座っているのを見つけます。〈ぼく〉は何も考えず駆け寄りました。

駆け寄ってみたものの、なにを言えばいいか戸惑っていると、向こうから話しかけてくれ、30を少し越えたばかりのようなその女性は〈ぼく〉のことをこの公園で見かけて、気になっていたと言います。

「私ね、この公園で妙に気になっている人が二人いるのよ。その一人があなただったの。こんなこというと失礼だけど、いくら見ていてもなぜか見飽きないのよね」
「見飽きないって……、ただベンチに座っているだけですよ」
「それはそうだけど……」
 女がじっと見つめてくるので、思わず視線を霞ヶ関合同庁舎ビルへ逸らし、「で、もう一人は?」と空に向かって尋ねた。
「もう一人は噴水広場でたまに見かける男の人。六十代かな、いつも小さな気球みたいなものを飛ばそうとしてて……」
「あ、その人なら見たことあるな」
「ほんと?」
「ええ。あれって何やってんですか?」
「私もよく知らないんだけど、とにかくあの小さな気球を真っ直ぐ上空に飛ばしたいみたい。ほら、普通は風に流されたり、上がるときに回転したりするでしょ? そうならないように改良してるみたい。理由は知らないけど」(23~24ページ)


その頃〈ぼく〉は、自宅近くの宇田川夫妻のマンションで暮らしていました。奥さんの瑞穂さんが大学の先輩にあたる知り合いですが、宇田川夫妻はうまくいかなくなって二人とも家を出てしまったのです。

残されたのが愛猿のラガーフェルド。〈ぼく〉はその世話を頼まれたのでした。田舎から上京して来た母親が自宅のベッドを占領していることもあって、〈ぼく〉はラガーフェルドと一緒に過ごしています。

宇田川夫妻の寝室のダブルベッドに寝転んでレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体解剖図」を眺めたり、ラガーフェルドの散歩に出かけ、駒沢公園に向かう途中の雑貨屋で不良品の「人体模型」を物色したり。

やがて、日比谷公園で再び彼女と再会した〈ぼく〉は、小さな気球を飛ばそうとしている老人に一緒に話しかけてみることになって……。

「flowers」

22歳になったばかりの〈僕〉と妻の鞠子。鞠子が突然、東京の劇団に入って喜劇女優になると言い出したので上京して、最初くらいは豪勢にと帝国ホテルに泊まって、一週間で就職先と住居を決めました。

〈僕〉が働くことになったのは飲料水の配送会社。色々教えてもらうことになった先輩社員の望月元旦は、仲のいい従兄の幸之介と雰囲気がどことなく似ていて、なんだか妙に吸いよせられる感じがします。

九州で叔父が経営する墓石専門の石材屋で働いている幸之介。〈僕〉もかつては同じ店で働いており、幸之介とは、病気になった祖母の最後の願いを叶えるため、二組同時の結婚式をした間柄でもあります。

両親を亡くして祖母と暮らしていた〈僕〉が、祖母から影響を受けたのは、生け花。なんとなく祖母の真似をするようになったのでした。

 花には性情がある。それを生かしてやればいい、とばあさんは言っていた。いつの頃からか、縁側で寝転んでいる時、ばあさんが花を生け始めると、ついつい手を出すようになった。蚊に食われた足を掻きながら、胡坐のままで花を生けた。ばあさんも真剣に教える気など更々なく、僕が自分用の花器に水を張って横に座ると、子供におもちゃを与えるように花を渡してくれた。そして口を出すこともなく、熱心に生ける僕を完全に放っておいてくれた。ただ、何度も挿し直す僕に呆れて、「あんたも執念深い男やねぇ。そう何度も挿したら、花が傷む」と、ときどき叱ることはあったが。
(131~132ページ)


〈僕〉と祖母が暮らしていた家は、〈僕〉の上京を機に取り壊され、幸之介夫婦と両親が暮らす二世帯住宅になる予定でした。洋風の住居ということなので、生け花を飾るような床の間はないことでしょう。

新しい仕事にも少しずつ慣れていき、〈僕〉は元旦の家に遊びに行くようになりましたが、元旦の家には小さいながら床の間があり、我流ではあるものの生け花が飾られていたので〈僕〉は意外に感じます。

ある夜元旦の家に連れられて行くと、女が背中を向けて眠っていました。下りている赤いワンピースの背中のファスナー。元旦が愛撫を始め、〈僕〉はその女が先輩社員永井さんの奥さんだと気付いて……。

とまあそんな2編が収録されています。「パーク・ライフ」が都会的な空気を巧みにとらえた作品だとするなら、「flowers」は濃厚な花の匂いに包まれた、官能的、そして暴力的な物語と言えます。

この後、どんどん意外な方向に進んでいくので、起こる出来事の迫力や、物語に引き込まれる感じとしては「flowers」の方が面白いですが、「パーク・ライフ」の洒脱な会話もとても印象的でした。

どちらの作品も、どこにでもいそうな人間を描き、現実の持つ空気をリアルに描きながら、どことなくずれた不思議な空間を作り出していて、独特の世界観は吉田修一ならではの魅力を感じさせてくれます。

今やベストセラー作家である吉田修一が注目されるきっかけになった本なのでファンの方は勿論、初めて読むという方にもおすすめです。

明日は、ウラジミール・ナボコフ『賜物』を紹介する予定です。

ウラジーミル・ナボコフ『賜物』

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賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)/河出書房新社

¥2,730
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ウラジーミル・ナボコフ(沼野充義訳)『賜物』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

ウラジーミル・ナボコフと言えば、中年男性とロリータという少女の関係を描いた衝撃作『ロリータ』で有名な作家。そうです、「ロリコン」こと「ロリータ・コンプレックス」の由来となった小説ですね。

ロリータ』はミステリ仕立てな要素もありますし、実際読んでみるとかなり面白い小説なので、機会があればぜひ。独特の色気はありますが、エロティックというよりはむしろ真面目な雰囲気の作品です。

ロリータ』は英語で書かれ、アメリカでは出版を拒否されてフランスで出版されたといういわくつきの作品ですが、元々ナボコフの母国語が何かというと、ロシア語です。ロシアの貴族階級出身なんです。

市民が、社会主義政権を樹立させるべく起こした「ロシア革命」によって、亡命を余儀なくされたナボコフは、ドイツ、フランスでの生活を経てアメリカに帰化し、英語で執筆活動をするようになりました。

母国語とは違う言語での執筆なんてすごい話ですよね。ちなみにナボコフと似た境遇で母国語以外の執筆活動をした作家は他にもいます。

ミラン・クンデラ(『存在の耐えられない軽さ』など)はチェコからフランスに亡命し、アゴタ・クリストフ(『悪童日記』など)はハンガリーからスイスに渡り、どちらもフランス語で執筆を始めました。

これらの作家を「亡命作家」と一くくりにすることにあまり意味はありませんが、一つの国の言語や文化を背負って書かれた作品とはやはり違うので、興味のある方は、読み比べてみてはいかがでしょうか。

ナボコフに話を戻しますが、『ロリータ』が世界に衝撃を与えるまでアメリカの大学で文学の講義をしていたんですよ。その講義を元にした本があるんですが、河出文庫に入って手に取りやすくなりました。

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)/河出書房新社

¥1,365
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ヨーロッパの文学を中心にした『ナボコフの文学講義』(上下)とロシアの文学を中心にした『ナボコフのロシア文学講義』(上下)があります。ナボコフの文学観も分かりますので、文学好きの方はぜひ。

さてさて、そんなナボコフがドイツのベルリンに亡命していた時期に執筆されたのが、『賜物』。母国語であるロシア語で執筆されたこともあり、構成の複雑さとロシア文学に関する叙述で知られています。

これがもうとんでもない作品で、すごい小説であることは確かですが、読書にストーリーとしての面白さを求める人は、安易に近づかないのが吉です。ストーリーとしての面白さは、まったくありません。

その難解さを他の作家の作品でたとえるなら、ナボコフ版のマルセル・プルースト『失われた時を求めて』であり、ナボコフ版のジェイムズ・ジョイス『若き芸術家の肖像』と言うことが出来るでしょう。

日本の作家で言えば、大江健三郎が自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置付ける一連の作品に、雰囲気としてはかなり近いです。

プルースト、ジョイス、大江健三郎と並ぶとこの本の難解さがなんとなくイメージしてもらえるかと思うのですが、もう少し噛み砕いて言うと、「文学作品を書くこと」を強く意識した小説ということです。

『賜物』は、ナボコフ自身を思わせる部分もある、蝶とチェスを愛する詩人フョードル・ゴドゥノフ=チェルディンツェフの亡命生活を綴った作品なのですが、語られていくのは人生の物語ではないんです。

自分の詩の批評に対する批評、ロシア文学への様々な考察など詩や小説に関する叙述が多い作品なんですね。本文に組み込まれた文学作品の引用自体も多いですが、ぼくは訳注でようやく分かる感じでした。

そして、全5章からなる小説ですが、4章では主人公が書いたチェルヌィシェフスキーの伝記的小説を、そのままぶち込んでしまうというものすごさ。まさに文学のために書かれた文学と言うべき長編です。

二度と帰らぬ父への想いや、下宿先の娘との恋のエピソードが美しい文章で描かれる魅力もありますが、基本的にはロシア文学に詳しい人向けで、ロシア文学の知識があればあるほど楽しめる作品でしょう。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 曇っているのに明るい午後、四月一日のもうすぐ四時になろうとする頃、年は一九二…年(ある外国の批評家がかつて指摘したように、たいていの長篇小説は、例えばドイツのものはすべてそうだが、正確な日付から始まっているのに、ロシアの作家だけは――わが国の文学特有の正直さのせいで――最後の桁までは言わないのである)、ベルリンの西部、タンネンベルク通り七番地にある家の前に家具運搬用の有蓋貨物自動車が停まった。

(7ページ、本文では「有蓋貨物自動車」に「トラック」のルビ)


新しい下宿先へやって来た詩人のフョードル・コンスタンチノヴィチの元へ、知り合いのアレクサンドル・ヤーコヴレヴィチから電話がかかって来ました。新聞に詩集の好意的な書評が載ったというのです。

詳しく見せてくれるというので家を訪ねて行くと「日付を見てごらん、きみ!」(54ページ)と言われフョードル・コンスタンチノヴィチはエイプリルフールのジョークだったことに気付いたのでした。

フョードル・コンスタンチノヴィチは、数年前に亡くなったアレクサンドル・ヤーコヴレヴィチの息子、ヤーシャのことを思い出します。ドイツ人の男子学生とロシア人の女子学生と親しくなったヤーシャ。

あまりにも仲の良かったので、「三人でいっしょに姿を消して、今度は地上ではない次元で、ある種の理想的で非の打ちどころのない円となって蘇ったらどうだろうか」(74ページ)という話が出ました。

誰が言い出し実際にどのようなことが起こったのかは分かりませんが結果的に三人の中でヤーシャだけが自殺に成功してしまったのです。

家庭教師か翻訳の謝礼が入るまでのお金を借りようと思っていたフョードル・コンスタンチノヴィチですが、それも結局言い出せず、書評に期待していただけに、ぼんやりとした絶望を抱えて帰宅しました。

しかし鍵があいません。レインコートに入っていたのは前の下宿屋の鍵でどうやら新しい鍵は部屋の中に忘れて来てしまったようで……。

やがてフョードル・コンスタンチノヴィチは、蝶や蛾の研究をする学者だった父のことを思い出していきます。父と過ごした日々のこと。

 父といっしょに森や野や泥炭の沼地を歩き回ることのこの上ない幸せや、父が旅に出たとき夏中ずっと抱き続けた父への思いや、何か発見をしたい、その発見で父を出迎えたいという果てしない夢を、どうしたら言葉で説明できるだろうか。父はあれこれのものを捕った場所をすべて――そして一八七一年にクジャクチョウを捕まえた、腐りかかった橋の丸太も、またあるとき、ひざまずいて(しまった、逃げられた! もう二度と捕まえられない)泣きながら祈った、川へおりていく斜面も見せてくれたが、そういったときぼくが味わった感情を、どうしたら描写することができるだろううか。それにしても、父が自分の研究対象について語るときの口調には、その一種独特の滑らかで均整のとれた語り口には、なんという魅力があったことだろう!(172ページ)


調査旅行に出かけた父からは、一九一八年の初めに手紙が来たきり、連絡が途絶えてしまいました。状況からすると、おそらく亡くなっているようですが、はっきりしないだけに死んだという気もしません。

父に関する資料を集め、その冒険に思いを馳せながら、父に関する本を書きたいと思うものの、自分が手を加えると博物学者の本来の詩情から遠ざかると思うだけに、なかなか書き出せないでいるのでした。

家主からやんわりとした追い立てをくらって、今度はマリアンナ・ニコラエヴナの下宿に移ったフョードル・コンスタンチノヴィチ。時間があれば、チェス・プロブレム(チェスの手のパズル)を作ります。

フョードル・コンスタンチノヴィチはすぐむきになりながらも絶妙手を目指してしまう凡庸な指し手ですが、チェス・プロブレムを作るのは好きで、文学の修行に通じるものがあるとも思っているのでした。

引っ越してから二週間ほどが経ったある夕方のこと。マリアンナ・ニコラエヴナの娘のジーナが、かなり読み込まれた自分の詩集を持って来て、サインをしてくださいと言ってくれたのでうれしく思います。

それからというもの、フョードル・コンスタンチノヴィチとジーナの間には、心の交流が生まれましたが、何故かジーナは家の中では親しげな様子を見せず、今後一切、会話すらしないと宣言したのでした。

「どうして?」二人でベンチに腰をおろしたとき、彼が尋ねた。
「そのわけは五つあるわ」と、彼女が言った。「第一に、わたしはドイツ女じゃないから。第二に、先週の水曜日に婚約者と別れたばかりだから。第三に、そんなことは、きっと、何のためにもならないから。第四に、あなたがわたしのことをまだ何も知らないから。第五に……」彼女は口をつぐみ、フョードル・コンスタンチノヴィチは彼女の熱く、溶けてゆくような憂いを帯びた唇に慎重にキスをした。「ほら、こういうわけだから」と彼女は言って、自分の指を彼の指に絡ませ、ぎゅっと握りしめた。
 そのときから、二人は毎晩会うようになった。
(287~288ページ)


ある時、チェスの雑誌の中にチェルヌィシェフスキーの日記を見かけ、その独特の文体と思考に魅せられたフョードル・コンスタンチノヴィチは、チェルヌィシェフスキーの伝記的小説に取り掛かります。

ところが、詩を掲載してくれた雑誌の編集長ワシーリエフからは「これは恥知らずで、反社会的で、自分勝手なおふざけじゃないか」(327ページ)とけんもほろろに原稿を突き返されてしまい……。

はたして、フョードル・コンスタンチノヴィチは小説を発表することが出来るのか? そして下宿先の娘、ジーナとの恋の行方は!?

とまあそんなお話です。異国であるドイツに亡命している詩人の生活を綴った物語ですが、悩み苦しみながら成長していくという感じではなく、とにかく他の文学作品からの膨大な量の流れ込みがある小説。

本文には詩句が盛り込まれ様々なロシアの文学者について語られていくのでした。ざっと拾っただけでも以下の作家への言及があります。

プーシキン、ゴンチャローフ、レスコフ、ドストエフスキー、トルストイ、トゥルゲーネフ、アクサーコフ、レールモントフ、ネクラーソフ、ゴーゴリ、アプーフチン、ベールイ、チェーホフ、などなど。

特に主人公が影響を受けたプーシキンとゴーゴリについては知っておいた方がいいですが、ロシア語の言葉遊びがたくさん組み込まれた作品でもあるので、そもそも完璧に理解するのは難しい小説でしょう。

なので、あまり難しく構えずに読んでみるといいのかも知れません。読書を楽しみたいという方にはあまりおすすめしませんが、ロシアの文学が好きな方ならば、難解ながら興味深い作品だろうと思います。

詩や文学について書かれた第一章と、父との思い出について書かれた第二章はかなり読みづらいですが、ジーナとの恋が描かれる第三章からは、物語の要素が入って来るので、多少は読みやすくなりますよ。

明日は、絲山秋子『沖で待つ』を紹介する予定です。

絲山秋子『沖で待つ』

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沖で待つ (文春文庫)/文藝春秋

¥480
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絲山秋子『沖で待つ』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作。

男性が女性作家の小説を読む時と、女性が女性作家の小説を読む時とでは、やはり共感の度合いが違いますから、自ずから受け取り方も変わって来ると思います。この「沖で待つ」もそういう作品でしょう。

「沖で待つ」は、住宅設備機器メーカーで働く女性社員である〈私〉と同期入社の太っちゃんこと牧原太との奇妙な絆を描いた中編です。

男性社員の手伝いという位置づけではなく総合職として入社しているので男性社員と同じように転勤があり重要な仕事を任される〈私〉。むしろ不器用な太っちゃんよりもバリバリ仕事をこなしているほど。

仕事の様子や、性質的には正反対ながらお互いに支え合う同期の絆など、おそらくは作者自身の経験が投影されているだけにとてもリアルで、同じ境遇の女性から、かなり共感を呼ぶのではないでしょうか。

そして、絲山秋子の小説が面白いのは、女性読者が読んで共感出来るというだけでなく、男性読者が読んでも突き刺さるものがあること。

女性作家の作品と言えば、やわらかく詩的な印象のものも多いですが、絲山秋子の作品はそれとは対照的に、強く握ったら手の平を傷つけるくらい、文体にせよ内容にせよ、尖っている感じがあるのです。

独特の言葉のセンスで紡がれていく、ぎざぎざした異質感のある世界に共感の有無とは関係なく引き込まれてしまうのでした。それは必ずしも心地いいものでもないのですが、忘れられない印象を残します。

「沖で待つ」ではやがて飲みに行った〈私〉と太っちゃんとで、自分以外に見られたくないものについての話を交わすこととなりました。

 太っちゃんがトイレから戻ってきたところで、帰る? という意味で百円ライターをタバコの箱に詰め込んでみせましたが、太っちゃんは自分の箱からもう一本タバコを出すと、店の人にレモンハートを頼みました。終電までは時間があったので、私も同じものを頼みました。
 太っちゃんが低い声で、
「おまえさ、秘密ってある?」と言いました。
「秘密?」
「家族とかさ、恋人とかにも言えないようなこと」
 太っちゃんは秘密の話がしたくて、今日私を誘ったのだな、と思いました。けれど聞いてどうなるもんじゃなし、まあ話して気が楽になるんだったら聞いてやるか、くらいの気持ちでした。
「まあ、ないとは言えないけど……見られて困るものとか?」
「おまえもある? そうかそうか」
 太っちゃんは嬉しそうな顔をしました。(85~86ページ)


太っちゃんは秘密を打ち明けたいのではなく、誰にも見られたくないものを、ずっと誰にも見られないようにするために、家族でも恋人でもない〈私〉だからこそ出来ることを、頼もうとしていたのでした。

そのこと自体はさほど大したことではありませんが、それをきっかけに人間が生きること、そして死ぬことについて描かれていくのです。意表をつく始まり方をして、不思議な余韻が残る面白さのある作品。

リアルな生活が描かれながら、そこにファンタジックでもある異質なものが混じり込んで来るという興味深い作品で、共感しやすい女性読者は勿論、一風変わった小説が読みたい男性読者にもおすすめです。

作品のあらすじ


『沖で待つ』には、「勤労感謝の日」「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」の3編が収録されています。

「勤労感謝の日」

二ヶ月前、自転車に乗っていた時に一時停止無視で出て来た車にはねられてしまった36歳現在無職の〈私〉。ただおろおろしていただけの運転手の代わりに救急車を手配してくれたのが長谷川さんでした。

その長谷川さんが、〈私〉と同じ大学の出身でジャパンイースト商事につとめる38歳の男性、野辺山清を紹介してくれることになりました。十一月二十三日、勤労感謝の日、大安吉日。日取りは完璧です。

母と長谷川さんの元を訪れ、窓から外を見ながら相手を待っていると「アイツじゃないな、ないといいな、ありませんように」(16ページ)と思っていたガムを噛んでいる太り気味の男がやって来ました。

 野辺山氏は、敢えて表現するとあんパンの真ん中をグーで殴ったような顔をしていた。あんが寄ってふくれた部分に水っぽい眼と膨らんだ紅い唇がついていて、ほほは垂れ下がっている。髪が中途半端に伸びていて、洗ったのかもしれないがキタナイ感じだ。しかし愛があれば多少の不細工は補える。ここは礼儀としても人となりに触れてみよう。もしかしたらこんなご面相でも、すごいいい人かもしれないよ。(17~18ページ)


しかし、最初の質問が〈私〉のスリーサイズを尋ねる下品なものだったり、自分の自慢話だけを延々するわりにこちらの話を全く聞いていなかったりと、話せば話すほど野辺山氏に幻滅を感じてしまい……。

「沖で待つ」

転勤が決まり来月の初めには浜松に行ってしまう〈私〉は、思い切って五反田にある太っちゃんの部屋に行ってみることにしました。あっさりとドアは開きましたが、部屋には机もベッドも何もありません。

「太っちゃん」
 私は、子供に言い聞かせるようにゆっくりと言いました。
「どうしてこんなところにいるの?」
「、わからない」
 怖さを感じることはありませんでした。
「タバコ吸ってたんだ?」
「おう。ひろった、んだ、前で。それで吸ったけ、ど味ねえや」
「お腹は? すいてない?」
「ああ腹はだいじょうぶ」
 まるでそれは、福岡営業所で机を並べて残業していたときの会話の一部を切り取ってきたようで、私はなんとも言えない気持ちになりました。
 なぜかと言うと、太っちゃんは三ヶ月前に死んでいたからです。
(59ページ)


東京の大学を出て住宅設備機器メーカーに就職した〈私〉。牧原太は同期入社でした。感覚で仕事をこなす〈私〉とは対照的で、不器用でミスばかりしている太っちゃんでしたが、何故か馬があったのです。

福岡に配属された〈私〉と太っちゃんは、外からやって来たことによる仲間意識もあり、何よりも同期のよしみでお互いに支え合いながら仕事に励みました。ご飯がおいしいと、どんどん太った太っちゃん。

そんな太っちゃんが周りを驚かせたのは、井口珠恵というベテランの事務職の女性とこっそりつきあっていて、結婚までこぎつけたこと。

仕事が出来、きびきびした性格で知られる井口さんは太っちゃんにはもったいないと誰もが思い、〈私〉は「捨てないでやって下さいね、かわいそうだから」(67ページ)と思わず口にしてしまいました。

〈私〉の転勤でしばらく疎遠になっていましたが、やがて太っちゃんも東京に転勤になり、妻子を福岡に置いて単身赴任で出て来ます。久し振りに飲んだ時、〈私〉と太っちゃんはある約束を交わして……。

「みなみのしまのぶんたろう」

デンエンチョーフというまちにすんでいる、しいはらぶんたろう。ブンガクもやればヨットにものり、マツリゴトもするさまざまなさいのうにめぐまれたじんぶつで、でんりょくだいじんをつとめています。

そして、だいにほんブンガクしょうというしょうのせんこういいんもしているのでした。せんこうかいはいつもちゅうかりょうりてんでおこなわれるきまりなので、ねこじたのぶんたろうはくしんさんたん。

だから、ブンガクしょうのせんこうかいのとき、ぶんたろうはいつもふきげんで、くちにいれるといたいくらいからいマーボドーフや、ぐつぐつにえたスープがなかにはいったショーロンポーをくちにいれるたびに、ふぇほふぇほしながらまっかなかおをして、
「そもそもだいめいがきにくわんのだ!」
 とか、
「みじかすぎてしょうせつとはおもえんな!」
 などとどなりちらすのでした。(130~131ページ)


ぶんだんでいちばんきむずかしいせんこういいんとしてしられるようになったぶんたろうは、わなにかかって、そうりだいじんのおべんとうをたべてしまい、げんぱつのあるしまでくらすこととなって……。

とまあそんな3編が収録されています。小説として面白いのは「勤労感謝の日」。女性が充実して生きることの難しさを巧みに描いた作品で、痛快さとまでは言えませんが、突き抜けている魅力があります。

働くことの難しさ、結婚という幸せの形を押し付けられることの窮屈さ、半ば女性を捨てながら女性であることを意識せずにはいられない苦しみ。男性作家では描けない観点が描かれた面白さがありました。

「あんパンの真ん中をグーで殴ったような顔」などユニークかつシニカルな表現もこの作品の醍醐味。一番絲山秋子らしい作品でしょう。

「みなみのしまのぶんたろう」は勿論「だいにほんブンガクしょう」を「芥川賞」に入れ替えれば「しいはらぶんたろう」にあたる文学者兼政治家が浮かび上がるという、かなりおちょくってる短編ですね。

ユーモアを感じて楽しめるかどうか、絲山秋子のメッセージを読み取ってにやりとさせられるかどうかは受け取り手次第ですが、あえて受賞作とこの短編を併録する所が、絲山秋子のすごさかも知れません。

『沖で待つ』は「沖で待つ」「みなみのしまのぶんたろう」がですます調で書かれていて、自ずから勢いが封じられてしまっていることもあって、絲山秋子のベストではないですが、興味を持った方はぜひ。

明日は、メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』を紹介します。

メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』

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アメリカの鳥 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)/河出書房新社

¥2,730
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メアリー・マッカーシー(中野恵津子訳)『アメリカの鳥』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊。

ピーター・リーヴァイという19歳の青年が、新しい環境で色々と思い悩みながら成長していく姿を描いたのが、今回紹介する『アメリカの鳥』です。ジャンル分けをするならば、青春小説になるでしょう。

しかし、変わりゆくアメリカを象徴するかのようにアメリカワシミミズクの死から始まるこの物語は文化・政治的な問題をいくつも孕んだ陰鬱な雰囲気立ち込める作品。爽やかな小説ではありませんでした。

ピーターはフランスのパリにあるソルボンヌ大学に留学したり、イタリアのローマに観光しに行ったりするのですが、フランス人の友達はまったく出来ず、ローマの観光地では混雑に不満ばかりが募ります。

文化の違う場所で生活するということは、自ずから自分の国について深く考えさせられることになるわけですが、イタリア系ユダヤ人の父を持つピーターのアメリカに対する想いは、複雑に揺らぐのでした。

しかも、この物語の舞台である1960年代半ばには大きな変革の時を迎えていたアメリカ。その中心となった3つの出来事があります。

まず文化的な面から言うと「ビート・ジェネレーション」の全盛期。「ビート・ジェネレーション」の説明は難しいですが、既存の価値観や社会そのものに背を向け、自由を求めた芸術活動という感じです。

精神世界に傾倒し、酒やドラッグに溺れ、放浪する「ビート・ジェネレーション」の作品は、ヒッピーの文化に大きな影響を与えました。

有名な作品にはこの世界文学全集にも収録されているジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』がありますが、関心のある方にぜひ読んでもらいたいのは、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』です。

裸のランチ (河出文庫)/河出書房

¥1,050
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物語が語られるのではなく、「カットアップ」という文章をバラバラにして組み直す手法が使われた驚愕の一冊。意味不明な感じもあるので、面白いかどうかはともかく知っておいて損はない一冊でしょう。

アメリカの変革の二つ目。政治的な面で言うと盛んだったのが公民権運動。公民権運動とは、「私には夢がある」の演説で有名なキング牧師やマルコムXが中心となった、黒人の権利を主張する運動のこと。

そして三つ目は、アメリカがベトナム戦争に介入し始めたことです。ピーターはまだ学生なので、徴兵は猶予されていましたが、いつ戦争に駆り出されてもおかしくない、そういうきな臭い状況なのでした。

フランスという異国の地でピーターは、公民権運動についてどう思うか、ベトナム戦争についてどう思うかを、何度も尋ねられるわけです。そうする内にアメリカに対しての思いは変化していくのでした。

友達も知り合いもいない、慣れない文化に戸惑う、心寂しい状況の中で、寄り所にしたい自分のアイデンティティーや祖国アメリカへの思いが揺らいでしまうピーターのどことなく苦い青春の物語なのです。

青春小説に政治的なテーマが重なりあった作品なので、読者を選ぶ小説だと思いますが、3つの変革が起きたアメリカの時代背景に興味を引かれた方は、ぜひ読んでみてください。きっと楽しめるはずです。

ぼく自身は面白いというよりは、興味深いという感じで読みましたが、フランスに行ってもフランス人の友達が全く出来ず、色々と考えすぎる生真面目なピーターにはなんだかすごく共感させられました。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 あの野生生物保護区で、アメリカワシミミズクは死んでいた。森の端にあるパーマー邸を見せてくれた女は、その出来事をはっきりと覚えていた。鳥はおととしの冬に亡くなった。大学三年生になるピーター・リーヴァイは、喉仏をゆっくりと上下させながら、この知らせをごくりとのみこんだ。悲しみと驚きで息が詰まりそうだった。口もきけずに戸口から去ろうとしたピーターの背に、「何事も変わってゆくものよ」と厳しい口調で言う女の声が聞こえた。
(7ページ)


夏休み、母と一緒に数年ぶりにロッキー・ポートを訪れたピーター。鳥が好きなピーターは、アメリカワシミミズクとの再会を楽しみにしていたのですが、いつの間にか、亡くなってしまっていたのでした。

間もなくフランスへの留学が決まっているピーターは自分のルーツを確かめたくてロッキー・ポートにやって来たのですが、ロッキー・ポートでは、ささやかながらとても大きな変化が起こっていたのです。

ほとんどの家に建物の歴史的由来が書かれた看板が出ていること。冷凍や缶詰でない生のものを料理に使いたくても、加工してあるもの以外手に入らないこと。昔ながらの道具は使われなくなっていること。

ピーターの母は、スイカのピクルスを作ろうと思いますが、ビンも石灰も手に入らず苦労します。そして、家の前にある邪魔な看板を引っこ抜いてしまったことで、警察に捕まってしまうこととなって……。

プロの演奏家の母とイタリアから亡命したユダヤ人の父を持つピーター。両親は離婚し、それぞれ別の相手と再婚したので、ピーターは寄宿学校に入れられましたが、両親からは、大きな影響を受けました。

寄宿学校のイカれたルームメイトは外国人を信じず、旅行に行く時は靴下に金を入れると言っていましたが、ピーターの両親は、それとは全く逆で、人を疑うことは何より恥ずかしいことだと教えたのです。

フランスへ着き、両親のその教えのことを思い出した、ピーター。

 ピーターは、自分の両親は逆の意味で間違っていると思った。何かを盗られた(あるいはおもちゃを壊された)と言ってお手伝いや掃除のおばさんを責めるのは、いちばんやってはいけないことだとたたき込まれたのだ。父と母の意見は、この点では完全に一致していた。ピーターが泣きながら、「誰かがぼくのボールを盗った」と父に訴えたりすれば、体を揺さぶられて、「ライ・ペルサ! ライ・ペルサ!(こら、忘れたのか)」と怒鳴られた。(中略)今では彼らの言おうとしていることが理解できた。人を疑うのは、物を盗られるよりも悪いことだ。ピーターはルームメイトのようなイカレたやつといつもいっしょに暮らすのはいやだったが、いつもいっしょにいる友は、悲しいかな、自分しかいないのである。
(125ページ)


宿も決めていなかったピーターを心配して、道中知り合ったアメリカ人たちが何かと助けてくれようとしますが、ピーターは言い訳に苦労しながらその好意を断り、自力でなんとか住居を見つけたのでした。

副専攻科目として哲学を選んでいたピーターが心の拠り所としていたのは、カントの倫理学。「他者は常に究極の目的である――汝の行動原則」(8ページ)と書いた紙を財布に入れて持ち歩いているほど。

しかし外国の生活では、カントの倫理学がうまく応用出来ずに戸惑います。たとえばメイドにチップを渡せば使用前に共同トイレの掃除をしてくれるなどよりよいサービスが受けられることが分かりました。

しかしこれは、チップを渡すといいサービスが受けられる反面、チップを渡さない人を、不利な立場に置くということでもあるわけです。

「あなたの行動原理が普遍的法則であるかのようにふるまいなさい」(162ページ)と言ったカントならどうするだろうと考えますが答えは出ず、結局メイドがいなくなるまで待つようになったのでした。

折角フランスに来たのだから、フランス人の友達が欲しいと思ったピーターでしたが、どこでフランス人と出会えるのかが分かりません。

フランス人のたまり場だという噂のカフェに行ってみても、同じような噂を聞いてやって来たアメリカ人ばかり。映画館に行ってみたら、案内係に渡すチップを知らなかったが故に顰蹙を買ってしまいます。

ピーターは、母への手紙に、いかに自分が孤独かを書き綴りました。

 そしてこのパリで、ふいに、本当に孤立している自分に気づきました。出会う人たちの大部分と、共通の言語(非常に驚いていることですが、僕のフランス語はひどいものです)も共通の社会的背景も政治的展望ももたないだけでなく、僕が全人類と共有していると思っていた最も基本的な行動原則も共有してはいないのです。僕の言おうとしていることを説明しましょう。あの一連の安ホテルのことです。(中略)僕がなぜアパートに移るしかなかったかわかりますか? なぜ現在のような自分だけの世界に閉じこもらなければならなかったか? その一端についてはすでに話しましたが、共同トイレのせいなんです。(191ページ)


汚い便器に我慢がならず、かといってメイドに掃除も頼めず、自分で掃除をしていたら時間がかかって周りから怒られ、消臭スプレーを買ってきて置いておいたら盗まれと、散々な目にあって来たのでした。

やがて、感謝祭の食事に招かれたピーターは、七面鳥を食べることを拒否して、「ウェット・ブランケット」(濡れ毛布)のように周りをしらけさせてしまった菜食主義者ロバータ・スコットと出会います。

社会的圧力をはねのける力を持つロバータに惹かれたピーターは「これは恋にちがいない、でも、こんなひょろひょろした大学三年生に彼女は目を向けてくれるだろうか?」(256ページ)と思って……。

はたして、フランスとイタリアを巡ったピーターは、どんな真理を見出すことになるのか? そして、ロバータとの恋の結末は!?

とまあそんなお話です。真面目さ故に、普通の人が気にしないようなことを気にし、難しく考えて、かえって失敗をしてしまうピーター。物語の主人公としては魅力に乏しく、どことなく冴えない青年です。

ですが、それだけに異国の馴染めない環境で戸惑うピーターはとても身近な存在に感じられて、非常に共感しやすい小説でもありました。

青春小説というよりは時代的なものが色濃く反映された作品ですが、ちょっと変わった所のあるピーターが気になってしまった方は、ぜひ読んでみてください。文化について色々考えさせられる一冊でした。

明日は、長嶋有『猛スピードで母は』を紹介する予定です。

長嶋有『猛スピードで母は』

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猛スピードで母は (文春文庫)/文藝春秋

¥420
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長嶋有『猛スピードで母は』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

ぼくが今までに読んだ歴代の芥川賞受賞作の中でとりわけ印象に残っているのが、この『猛スピードで母は』です。いや、より正確に言うと長嶋有という作家ですね。初めて読んだ時は、かなり驚きました。

長嶋有は、似た作家が見つからないくらい、独特の雰囲気の作品を書く作家。その魅力を伝えるのはなかなかに難しいのですが、あまり感じたことのない小説の面白さを感じさせてくれる作家だと思います。

物語というのはざっくり言うと喜劇か悲劇かに分けられます。コミカルなタッチやドタバタな展開で大笑いさせてくれるか、或いは、シリアスな雰囲気や衝撃的な出来事で心を揺り動かすものかのどちらか。

コミカルさとシリアスさのどちらが文学賞に向いているかと言えば、それは勿論シリアスさで、芥川賞の受賞作というのは、人間心理に潜む恐ろしさを描き、読者を戦慄へと誘う作品が多い傾向にあります。

長嶋有の受賞作「猛スピードで母は」は小学五年生の少年の目から母子家庭を、併録されている「サイドカーに犬」は小学四年生の少女の目から父が連れ込んだ愛人を描く中編でテーマ的には結構シリアス。

ところがどっこい、本来はシリアスなはずなのに、全然シリアスになっていかないんですよ。かといってコミカルでもないんですが、長嶋有の独特の文体は暗さとは無縁で、ユーモアが滲み出て来るのです。

どことなく豪快なところのあるキャラクターが描かれていることもありますが、真面目でシリアスな雰囲気を保ちながら、どことなく変で、それがなんだかユーモラスな小説なんて、あまりないですよね。

たとえば、「猛スピードで母は」で慎は、母の恋人慎一に紹介された時、将来の夢を聞かれて漫画家だと答えます。深く考えたことはなかったのですが、漫画が好きなのでついそう答えてしまったのでした。

自分の夢がなにかよく分からないという時点でもう面白いですが、翌朝母は突然思い出したように自分も漫画家になりたかったのだと言い出し、Gペンや烏口、雲形定規など漫画の道具を出して来たのです。

「なんで、ならなかったの漫画家」
「反対されたからさ」
「誰に」愚問だった。
「私が反対を押し切ってまでしたのは、結婚してあんたを産んだことだけだ」といった。なんと応じていいか困ったが、母はきにせずにパンをかじった。
「あんたはなんでもやりな。私はなにも反対しないから」そういうとパンを皿に置いて、両手を大きく広げてみせた。
「若いときは、こんなふうに可能性がね。右にいってもいい、左にいってもいいって、広がってるんだ」母はだんだん両手の間隔を狭めながら
「それが、こんなふうにどんどん狭まってくる」とつづけた。
「なんで」
「なんででも」母はそういうと両手の平をあわせてみせた。母が珍しく口にした教訓めいた物言いよりも、その手を広げた動作の方が印象に残った。
 慎は初めて名前を知った雲形定規をもう一度手に取り、天井を覗いてみた。(123~124ページ)


コミカルではありませんが、真面目な場面にしては、「母が珍しく口にした教訓めいた物言いよりも、その手を広げた動作の方が印象に残った」がなんだか妙な感じがしたりもしてどこかユニークですよね。

この場面だけでは長嶋有の味が伝わりづらいかも知れませんが、リアリズム風だけどなんだかちょっとずれていて、そのずれがユーモラスだけどかと言ってコミカルすぎないという絶妙なバランスなんです。

この本を読んで、人生が変わるほどの衝撃を受けることなどはまずないですが、真面目な雰囲気かつ滲み出るユーモアが楽しめるおすすめの一冊。長嶋有ワールドを未体験の方は、ぜひ読んでみてください。

作品のあらすじ


『猛スピードで母は』には、「サイドカーに犬」「猛スピードで母は」の2編が収録されています。

「サイドカーに犬」

高校卒業後に上京し、アメリカに渡ったらしいもののどこで何をしているのかよく分からない弟と数年ぶりに会うことになった〈私〉は、コンビニで麦チョコを見つけて、小学四年の夏休みを思い出します。

その頃、両親は喧嘩ばかりしていて、ついに母が出ていってしまったのでした。冷蔵庫からは食べ物がどんどんなくなっていき、不安に駆られる中、七月の終わりに突然現れたのが、洋子さんだったのです。

盗まれるのが心配だからと自転車の懐中電灯を持ってずかずかとあがりこんで来た洋子さんが「私、今日から晩御飯つくるから。買い物付き合ってくれる」(12ページ)と言うので買い物にでかけました。

何故か麦チョコがはやり、「ムギーチョコ」と「ムーギチョコ」のどちらの銘柄がおいしいか言い争っていた〈私〉と弟。しかし、両方同時に買ったことはなかったので、結局いつも結論は出ないままです。

欲しいものがないか聞かれ、麦チョコと答えると、洋子さんがどさどさと三、四袋くらいカゴに入れたのでびっくりし、いざ食べるという時には、晩御飯用のお皿に入れたので、さらにびっくりした〈私〉。

 深皿はつい先刻までは晩御飯に使われていたものだった。母はカレー皿に菓子を盛るようなことはしなかった。菓子の時は菓子用の器、惣菜には惣菜用の器というのが決まっていた。ずっとそういうものだと思っていた。
 だから洋子さんが晩御飯のカレー皿を洗って布巾で拭うとすぐそこに麦チョコをざらざら盛ったときは驚いた。
「いいのかな」受け取った私は小声でいった。
「なにが」洋子さんはなにをびくついているのだろうという表情だった。
 洋子さんはラーメンの丼にサラダを盛ったり、コーヒーカップにお茶をいれたりした。父はなにもいわなかった。
 一度やぶられると、これまで守っていたルールに守るべき必要性など実はなにもないことに気付いた。そうすると今度は食器に関する母の不文律を不思議に思うようになった。(21ページ)


夕方になると自転車に乗ってやって来て晩御飯を作り、父と仲間たちが麻雀を始めると、台所で煙草を吸いながら本を読んでいた洋子さん。時折おつかいついでに二人で夜、散歩をすることもありました。

ある夜、山口百恵の家を見に行こうという話になったのですが……。

「猛スピードで母は」

北海道の南海岸沿いのM市の団地で暮らしている母と小学五年生の慎。冬が近付いて来たので車のタイヤをスパイクタイヤに変え、冬用の靴を買いに出かけました。慎はタイヤの感触の違いに気付きます。

慎は本当は金具をひっくり返すとスパイクになる靴が欲しかったのに言い出せず、試してみた靴は「きついのかぶかぶかなのか、きついのが我慢できるのかできないのか」(88ページ)よく分かりません。

以前はM市から四十キロ離れたS市にある祖父母の家で暮らしていた母と慎。東京で結婚に失敗し慎を連れて実家に転がり込んだのです。

昼は保母の資格を取るために学校に行き、夜はガソリンスタンドで働いていた母は、わずかな時間を縫って絵本を読んでくれましたが、いつも急ぎ気味の朗読で、しかも、抑揚をつけるのが苦手なのでした。

 手に取ったのがつまらない本だと、母は読みながら作者を小声で罵った。読み終えた後で感想をいうのも慎ではなく母だった。
「面白かったね」とか「こんな王子と私なら結婚しないね」という感想に慎は大抵同意した。自分で自分がどう思ったか分からないこともしばしばだった。教訓めいた話は大抵母にはうけなかった。絵柄の趣味が悪いのも駄目で、そういうのは大抵最初から読まないか、あるいは途中で放り投げてしまった。母はよく物を放る人だった。
 読み終わると、じゃあねといって出かけていった。玄関の扉の閉じる音がすると慎はカーテンをあけ、家の門から原付バイクを押して出ていく母を見送った。(92ページ)


新しいブーツを買いご機嫌な母と映画に行くことになりましたがバイザーから母と見知らぬ男性の写真が落ちて来ます。すると母は「私、結婚するかもしれないから」(95ページ)と言い出したのでした。

慎はびっくりして何故か母が追い抜いた軽自動車を見てしまいましたが少し遅れて「すごいね」と言い、その返事は母を面白がらせます。

母に恋人らしき男性がいたことは何度もあり、紹介されることもありましたが、二度三度と重ねて会うことはあまりなく、いつも母の不機嫌そうな様子から、交際がうまくいかなかったことを察して来た慎。

しかし結婚すると言い出したのは初めてのこと。相手の男性である慎一は、慎がぼんやりと漫画家になる夢を持っていると知ると、「手塚治虫漫画四〇年」と「君も漫画家になろう」という本をくれました。

登下校中にいつも通る水族館に二人で行くなど、少しずつ距離を縮めていきます。やがて、母と慎一は、ジープで富良野に出かけることになりました。食事の支度をしに来てくれた祖母が帰ると、一人きり。

母の帰りを待っていた慎でしたが、いつまで経っても帰って来ません。零時を過ぎても、連絡すらないのです。事故にでもあったのではないかと不吉な想像がめぐり、一時を過ぎる頃には泣き始めました。

しかしやがて、自分は置き去りにされてしまったのだと閃いて……。

とまあそんな2編が収録されています。どちらも重いテーマが長嶋有独特のユーモアが滲み出る文体で綴られた作品。「サイドカーに犬」の洋子さんと「猛スピードで母は」の母はその豪快さが似ています。

洋子さんの豪快さを表すエピソードとして、自転車のサドルの話があります。以前、自転車のサドルを盗まれたことがあったというんですね。当然、疑問を感じた〈私〉は、その後どうしたのかを尋ねます。

すると洋子さんは「隣に停めてあった自転車のサドルを盗んで、取り付けて帰った」(14ページ)というのでした。ひどい話ですよね。

〈私〉はそれからサドルのない自転車とか、サドルのない状態をリレーしていく世界について考え始めて、それもなんだか変で面白いのですが、ともかく洋子さんというのは、そういう豪快な人なんですよ。

そしてそんな洋子さんや、同じく豪快な「猛スピードで母は」の母が見せる意外な一面が描かれたりもして、読者はにやりとさせられて、はっとさせられて、最後には、しみじみと考えさせられるのでした。

芥川賞受賞作というのは無味乾燥でつまらない作品や、難解な作品が多いと思っている方にこそ手に取ってもらいたい、趣深い一冊です。

明日は、ジョン・アップダイク『クーデタ』を紹介する予定です。

ジョン・アップダイク『クーデタ』

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クーデタ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-5)/河出書房新社

¥2,520
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ジョン・アップダイク(池澤夏樹訳)『クーデタ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

まるで自分のことが書かれているようだと物語に共感出来るのも小説の面白さなら、まったく自分が知らない世界へ連れていってくれるのもまた、小説の醍醐味でしょう。『クーデタ』はそういう小説です。

物語の舞台となるのは、アフリカにある架空の国のクシュ。物語の語り手兼主人公はクシュの独裁者で、ムスリム(イスラム教徒)なので四人の妻と一人の愛人を持つ、ハキム・フェリクス・エレルー大佐。

アフリカの独裁者の物語で、しかも、四人の妻を持つ男の物語だなんて、どんな生活なのか想像がつかないだけに興味を引かれませんか?

実を言うと、語りが複雑な作品なので読みやすくはなく、また物語としてそれほど引き込まれる作品でもないのですが、何より遠い国の未知の文化が描かれている面白さがある、とても興味深い一冊でした。

翻訳を担当した池澤夏樹が月報で、ラテンアメリカ文学の「独裁者小説」と言える一連の作品をあげて、その影響について触れています。

その辺りに関心のある方にはG・ガルシア=マルケスの『族長の秋』をおすすめしたいと思いますが、さらに似たテーマを持つ池澤夏樹の『マシアス・ギリの失脚』をあわせて読むとより楽しめるでしょう。

ただ、ラテンアメリカ文学の「独裁者小説」と『クーデタ』には大きく違う点があって、それはこの小説の作者アップダイクはアメリカの作家であること。自分の国の独裁者を書いたわけではないんですね。

わざわざ架空の国を設定し、その独裁者の半生を通して、アップダイクが何を描きたかったかというと、アフリカの歴史でも文化でも勿論なくて、実はアフリカから見た、裏返しのアメリカの姿なのでした。

主人公であるエレルー大佐はアメリカで大学時代を過ごし、同じ大学に通う生徒で当時から交際していたアメリカ人のキャンディーを第二夫人に迎えています。それだけアメリカをよく知っているわけです。

ところがそれなのに、いやむしろそれ故にかも知れませんが、派手な宣伝と過剰な消費にあふれたアメリカの資本主義を嫌悪し、エレルー大佐は、イスラム風の社会主義国家を確立させようとするのでした。

しかし、旱魃(かんばつ。雨が降らず作物が取れないこと)に苦しむクシュは、アメリカの文化が浸食して伝統をなくしていきつつあり、エレルー大佐と四人の妻の間には様々な問題が浮かび上がって……。

内部からでは分からない、外部から見たアメリカが描かれた長編。

冷戦(第二次世界大戦後のアメリカとソ連の緊張状態)時代、二つの大国に翻弄されるクシュ、そしてアメリカに対しアンビバレントな(愛憎入りまじる)感情を持つ独裁者エレルー大佐を描く物語です。

さて、この小説の語りの複雑さに触れておかなければなりませんが、基本的にはエレルー大佐の一人称〈わたし〉の語りという設定。しかし客観的な描写も多く、自分を「エレルー」と書くこともあります。

言わば、主観的表現である一人称と客観的表現である三人称が入りまじる物語なんですね。その理由について本文にこう書かれています。

最高委員会の議長にして軍の最高司令官、また国防大臣および大統領の諸職を兼務するのはハキム・フェリックス・エレルー大佐であった(「である」と政務年鑑には記してある)――つまり、わたしだ。
 しかしながら兵士として身についた自己滅却の性癖、デカルト的学校教育、ならびにアフリカに伝統的にある自我放棄の傾向などが一体となって、この記述を三人称のままにとどめようとする。二つの自己があるのだ――行動する者と、経験してゆくところの「わたし」と。(11ページ)


〈わたし〉とエレルーの表記が入りまじり、またクシュを旅する「現在」とアメリカの学生時代の「過去」がカットバックされる(交互に描かれる)複雑な時系列が、少し難解に感じられるかも知れません。

そうした点でおすすめしづらいのですが、描かれる未知の世界に驚きがあり、裏返しのアメリカを描くテーマが非常に興味深い小説です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 わたしの国クシュはザンジおよびサーヘルという、共に雑種的な新資本主義の傀儡国家にはさまれた内陸国で、アフリカの国としては小さい方だがヨーロッパのどの二国を合わせたよりも大きい。北の半分はサハラ砂漠、南の方にはそこだけはフランス人の定規によって引かれたのではない自然の国境としてグリオンド河が流れ、貧弱ながら定住農業が可能になっている。(7ページ)


緑一色の国旗を持ち、主な輸出穀物はピーナツであるクシュは元々は立憲君主制の国でしたが現在は君主は廃位され、憲法は一時停止の状態にあり、《非常事態革命軍事最高委員会》が国を支配しています。

その委員会の重要な諸職を兼務して、国を牛耳っているのが、〈わたし〉ハキム・フェリクス・エレルー大佐でした。1933年、ヌビア人の侵入者にサルー族の女が強姦されたことによって生まれた黒人。

17歳から軍隊に入ったエレルーは順調に出世していき、やがては《ワンジジの王》国王エドゥムー四世から厚く信頼されるようになりますが、1968年のクーデタで王を幽閉して大統領になりました。

変装して各地を回り、人々の生活を探るエレルー。何かあるといつも乗っているメルセデスを来させ、エレルーであることを証明します。

そうした旅の途中で、井戸掘り人夫の頭ワダルの愛人になっているサラ族の女クトゥンダと出会い、関係を持つようになったエレルー。やがてエレルーはクトゥンダを旅の一行に加え、愛人にしたのでした。

1973年。姿はなくとも王が生きている限り本当の革命はならないと判断して、ついにエレルーは、「広範囲におよぶ食料欠乏、混乱、および苦難をひきおこし」(79ページ)た罪での処刑を決めます。

「クシュは虚構だ、白人の見た邪悪な夢だと。従ってクシュを治めると広言する者は二重に曲りねじくれているのだ。顔に黒い仮面をかぶってはいても、本当は彼等は白人である」(82ページ)と叫ぶ王。

群衆が集まる広場で、半月刀は振り下ろされ、王の首は落ちました。

やがて王の遺体に思いも寄らないことが起こります。アラブ馬に乗り頭布(タゲルムスト)で顔を覆った集団が突然広場に現われて、王の首を奪っていったのでした。エレルーは、群衆にこう語りかけます。

「クシュの市民よ! 恐れることはない! 自称《ワンジジの王》は死に、彼を救わんと試みた者どもはその肉体の口にするもいまわしい残滓をもって満足するほかなかった! 彼の魂は永遠の業火のもとへ送られた! 帝国主義と反動の力はここに再びくじかれた! あれら厚顔なるテロリストたちがアメリカの張子の虎の手先であり、ないしトゥアレグの長衣に身を隠した狂信的な資本主義者であることは疑いを容れない! 我々、非常事態革命軍最高委員会は彼等の僭越を笑い、社会主義を誇るクシュの民に、彼等の利己主義的香具師的暴力行為の記憶を排泄するよう勧める!! いまわしき窃盗に対しては報復を加えよう! 恐れることはない! それぞれの家に戻って大雨を待つがよい! アラーにも心の底から喜んでいただけ、我等の心地よき緑の国にとっても益少なからざる浄化の儀式を目のあたりに見たのだから!」(89ページ)


やがて奇妙な噂が流れます。「王の首が魔法によって霊的な身体とつながれて、山の中の洞窟で預言を語っている」(105ページ)と。

内務大臣のミカエリス・エザナは止めたのですが、エレルーは噂の真偽を確かめるために、その場所、リビアとザンジに接する北東の道なき地域、《悪しき地》ことバラクへと向かうことを決めたのでした。

旅立つ前にエレルーはメルセデスに乗って、妻の元へと行きます。エレルーの16歳の時の結婚相手で、《庭園区》(レ・ジャルダン)で暮らしエレルーをいつまでも子ども扱いする第一夫人カドンゴリミ。

4歳年上のカドンゴリミはエレルーを、アマゼグ氏族の名「ビニ」で呼びます。カドンゴリミは、産まれた子供はみなエレルーの子ではないと言いますが、いつ帰って来ても、歓迎すると言ってくれました。

全身を艶のない黒のブイブイで包み、《くるまれし者》と呼ばれているのが、第二夫人のキャンディー。子供はありません。エレルーのことを大学時代のあだ名「ハッピー」と呼ぶ、元々はアメリカ人です。

キャンディーは他の夫人のことで怒り、またイスラム教のしきたりにうんざりしてエレルーに離婚を求めますが、エレルーは応じません。

第三夫人のシッティナは、トゥツィ族の酋長の娘で、競技会に出場するほど足が速く、エレルーはかつて、そのふくらはぎの動きとももの長さに魅了されたのでした。エレルーを「フェリクス」と呼びます。

元々、エレルーから逃げまわっていたような結婚生活でしたが、今では、エレルーが生ませた子供というふりもしなくなったシッティナ。

エレルーがバラクへの旅に連れて行くことにしたのは、若い第四夫人シェバでした。一行は星空の下を朝になるまでラクダに乗って進み、太陽があがると天幕をはって、頭のぼんやりした午後を過ごします。

エレルーとシェバは天幕の中で愛し合おうとしますが、砂が入りこんで性器にすり傷を作ってしまうのでうまくいきません。そしてエレルーは次第に、アメリカにいた学生時代を思い出していったのでした。

艶のある髪をいつも凝った形に編みあげながら、二日続いて同じ編みかただったことのないシェバの愛しい頭をぺたんと腹の上に載せ、渇きでふくれあがった彼女の灰の色の舌が、わたしの反応しないペニスを見はなさずにからかい続けるにまかせながら、わたしの思考はレモネード・リッキーの川や、コップからあふれて泡立ちながら注口の下のクローム格子へとしたたっているライム・ジュース、濃縮液から作られて氷片の上へ注がれるCoca-Cola、水よりも色の淡い7-Up、そしてCokeの帝国主義に対する黒い謎の挑戦者でわたしが同じ負け犬として共感していた神秘的なpepsiなどの中を泳いでいった。(154ページ)


マッカーシー大学時代に出会ったブラック・ムスリムの仲間たちとのこと、そして後に第二夫人となったキャンディーとの甘い日々を回想していると、突然銃声が響き、エレルーは何者かに襲撃されて……。

はたして、エレルーの運命は? 王の首の噂の真相ははたして!?

とまあそんなお話です。ほとんど触れられませんでしたが、内務大臣ミカエリス・エザナもかなり重要な人物で、カリスマ性はないですが財政など実務的な面で政治を動かしているのは、エザナなんですね。

むしろエザナは、「本当に人類のあり方を変えるようなことは、正しい事実を集め小さな改良を重ねる無名の男たち」(199ページ)だと思っているのです。つまり指導者ではなく役人のような人々だと。

指導者には向いておらず、また、時代の流れによって一瞬で消え去ることもある指導者にはなりたいとも思っていないエザナ。行動する独裁者エレルーとは対照的な存在エザナにも、注目してみてください。

複雑な語り、馴染みのない世界観の小説なので、なかなかに読みづらい作品だとは思いますが、エレルーとエザナ、エレルーの四人の妻と一人の愛人さえ押さえておけば、登場人物の把握はもう大丈夫です。

テーマ的に面白いので興味を持った方はぜひ読んでみてください。なんでも好き勝手に出来るという独裁者のイメージが変わる一冊です。

明日は、大道珠貴『しょっぱいドライブ』を紹介する予定です。

大道珠貴『しょっぱいドライブ』

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しょっぱいドライブ (文春文庫 (た58-2))/文藝春秋

¥420
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大道珠貴『しょっぱいドライブ』(文春文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

たまに女性作家の作品は良さが分からないことがあって、60歳を少し過ぎた老人と34歳の女性とのやや奇妙な関係性を描いた「しょっぱいドライブ」も、ぼくは正直良さがあまり分からない作品でした。

これはぼくだけの感想ではなくて、芥川賞賞の選評を見ても男性の選考委員と女性の選考委員との間で評価は真っ二つに分かれています。おそらく、女性の読者の方が、感情移入しやすい作品なのでしょう。

歳の差が開いた恋愛の物語自体なら古今東西無数にあり、この小説が恋愛を描いた作品ならば、男性女性かかわらずある程度感情移入できるはずですが、この小説は恋愛を描いたものではないのが厄介です。

半ば失敗に終わった一度だけの肉体関係はあるものの、主人公と老人九十九さんの間にはほとんどまったく恋愛感情はなく、主人公が考え続けているのは初めて肉体関係を持った劇団のスターのことばかり。

では、主人公と九十九さんとの間にどういう絆があるかというと、それがよく分からないんですよ。尊敬や信頼をしているわけでもなく、むしろ弱々しく情けない老人として、主人公の目には映っています。

恋愛感情はなく、人間として特に好きなわけでもない相手と何故主人公が一緒にいようとするのかが、ぼくにはよく分かりませんでした。

ところで、いつも馴染みの居酒屋で顔をあわせる、70歳前後の老人と37歳の女性との奇妙な関係性が描かれた、わりと似たようなシチュエーションの小説があります。川上弘美の『センセイの鞄』です。

センセイの鞄 (文春文庫)/文藝春秋

¥560
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そちらは、恋愛感情ともまた少し違う複雑な感情が描かれている面白さのある作品なので、関心のある方はぜひ読み比べてみてください。

「しょっぱいドライブ」に話を戻しますが、この作品のハイライトとも言うべき場面は、ドライブデートで出かけて行った港での一コマ。

 釣りびとの一人がふぐを釣りあげる。それは食べられない種類だ。コンクリートのうえに投げつけた。きゅううとふぐは鳴いた。猫がやって来て、匂いを嗅ぎ、知らんぷりしてまたいでいく。干からびて張りついたふぐ、半分は生きているふぐ、いま釣りあげられたばかりのまんまるなふぐ、が何匹もコンクリートのうえにいる。
 わたしは息がつまる。喉がふさがりそうになる。圧迫をかんじる。のけ者扱いされたときみたいに苦しい。
 九十九さんは、口をぱくぱくしているふぐを、ブーツの先でちょっとずつ移動させ、海のなかへ落とした。どっぽん、と音が立った。それで釣りびとの一人が、振り向いた。
「おっさん、いまなにした」
 怖い顔して言ってくる。
(中略)
「もうしないでくれ」
「はあい」
 叱られている九十九さんの横でわたしは海のほうだけを見ていた。もう息はちゃんとできている。潮の匂いがからだに心地よく入ってくる。(44~45ページ)


食べられない種類のふぐですが、他の魚を釣るためのえさだけは食べてしまうので、わざとそうやって、ひからびさせているわけですね。

「しょっぱいドライブ」が恋愛ではなく、何を描いた小説かというと、つまりはこういう小説なんです。厄介者のふぐに自分を重ね合わせるほど人生に行き詰った女性が、ほんのちょっとだけ救われる話。

恋愛も仕事もうまくいかず、人生に疲れてしまった三十代半ばの女性である主人公は、男性としてはものすごく頼りないけれど、心やさしい九十九さんと一緒にいることで、心の安らぎを得られるわけです。

そうしたささやかな幸せの形というのは、自分の力で何かをつかみとる物語話型を好む男性読者からすると、やや逃避的に感じられてしまう部分があって、そういった点でも共感しづらい作品なのでしょう。

ぼくはあまり良さが分かりませんでしたが、女性読者に感想を聞いてみたい作品なので、読んだ方は気軽にコメントしていってください。

作品のあらすじ


『しょっぱいドライブ』には、「しょっぱいドライブ」「富士額」「タンポポと流星」の3編が収録されています。

「しょっぱいドライブ」

六十一か二か三かその辺りながら、もっと年寄りに見える九十九さんとドライブに出かけた三十四歳の〈わたし〉。助手席には木の玉が連なってできたカバーがかけられていて、つぼ圧しで背中が傷みます。

いつもやさしげで自信がなさげに喋る九十九さんは、頼まれると断れない性格で、〈わたし〉の父や兄はその甘さにつけこんで、お金を借りてはいいカモだと九十九さんのことを笑い者にしているのでした。

〈わたし〉もお金を借りることがあり先週ひょんなことから男女の関係になりましたが、それはなんだか妙な思い出として残っています。

 一度、わたしたちは寝床を共にしたけれど、あれが性交なのかなんだったのかいまだにわからない。わたしはたびたび思い返している。いまこのひとときもガムを噛みながら思い返している。
「漏れそうです」
 と九十九さんは声をふりしぼるようにして言った。
 先週、借りていた十万を返しに来た流れで、だった。
 機会が悪かったのか、妙に厳かな儀式のようになってしまった。
 おたがい、最中は、敬語だった。からだとからだのかすかな接触だけで、やけに緊張していた。
「大変。どうしたらいいんですか」
 とわたしは訊いたがもう遅かった。ことはすべて終ってしまっていた。「ああ」とか「うう」とか、九十九さんはからだをまるめたまま唸っていた。
 わたしは男のひととそういうことをするのが三回目だったし、以前の二回とも、はるか四年ほど前のことなので、その方面のこととなると素人も同然だった。なにもしてあげられなかった。後悔している。(15~16ページ)


四年ほど前、同級生だったキバちゃんと兄が結婚し、兄夫婦が立てる二階の物音に触発されたこともあって、〈わたし〉は高速バスで四十五分ほどかかる町へと移り、劇団のスターの追っかけを始めました。

劇団の手伝いをする内に、念願叶って、遊さんと肉体的に結ばれた〈わたし〉でしたが、気に入った女性をとっかえひっかえしているスターの遊さんにとっては〈わたし〉は何でもない存在だったのです。

もう何年も関係は途絶えているもののぼんやりと遊さんのことを想い続けている〈わたし〉は九十九さんの運転する車で港に向かい……。

「富士額」

九州場所が行われている国際センターの売店でバイトをしていたことでお相撲さんと知り合ったイヅミ。取り組みが終わると中州へ繰り出し、映画、中華料理屋、ゲイバーと周り、ラブホテルに入りました。

 イヅミは売店のおばちゃんの話を思い浮かべる。
「勝つときゃ勝つばってん、根気がないけんウエにはあがりきらんもんな、東ちゃんは。おばちゃんおばちゃんて、気さくに話しかけてくれるし、やさしいし、あたしはあの子がいちばん好いとうが、相撲とりがやさしいってのは、良くないったい。あんたもう二十六やし、十年やってそこまでなんやから、すっぱりあきらめて田舎に帰って、良か嫁さんもらって安泰に暮らしんしゃいってあたしは言いようっちゃけどねぇ」
 九州場所のたびに売店をまかされるおばちゃんは、下っ端の力士たちになにかと声をかけては、店の物をそっと後ろ手にくれてやり、長年にわたって慕われているようだった。イヅミと東ちゃんのキューピッド役になったのも、このおばちゃんであった。
(84ページ)


学校に行かなくなり、年齢を誤魔化して働く中学二年生のイヅミ。14歳だと打ち明けた時、自分との関係が猥褻行為にあたるという構えもなく、のんびりした反応をしたお相撲さんに好感を持ちました。

お相撲さんの体を身近に感じながらイヅミはゲイバーでの一幕、学校に行かなくなった時の周りの反応、自分の将来について考えて……。

「タンポポと流星」

成人式の振り袖は貸衣装にした〈私〉。嬉野毬子は自分の着物は買ったものだというアピールをしつこくし、「おまえさあ、遊女みたいやん。やめろ、その歩きかた」(103ページ)と馬鹿にしてきます。

嬉野毬子とは幼稚園から一緒の仲ですが、〈私〉が嬉野毬子を知ったのは小学校高学年の時。力関係はすぐにはっきりしました。わがままな嬉野毬子に、いつも〈私〉が、振り回されることになったのです。

〈私〉の日常生活すべて、特にオトコ関係を洗いざらい聞き出すことに執念を燃やし、首をつっこんでアドバイスをしたがる嬉野毬子。成人式を抜け出した〈私〉と嬉野毬子は長崎ちゃんぽんに行きました。

「ううう、やっと落ち着いたなあ」
 と、まぶたをもんで唸っている。袖から伸びた腕には脂肪がぶあつくつき、指の節も太く、ずんぐりし、中年にさしかかったオンナのようだ。しかしこのひとは私より十カ月ほど遅く生まれているので、私のほうがいつも先にひとつ歳をとるオネエサンなのだった。十八歳未満お断りのお店に入れなかったり、バイクの免許をとれなかったり、たかが誕生日のせいで、私より何度も損をし、かなり激昂していたものだ。
 ウインドーのむこうの、みぞれから霧雨へと変わったしずかな夜に、ときおり車が通った。タイヤを追いかけるようにしてしぶきが立ち、さあっと波のような音がした。
「やっぱりふたりがいちばん楽やなあ」
 毬子はしゃべりつづけている。私はきき流している。ふたりが楽だなんて、とんでもないこった、と思っている。もうふたりきりには飽きあきしとるんだ。(111~112ページ)


毬子を避けるように福岡から上京し、東京で働き始めた〈私〉。同じ会社で働く恋人も出来て充実した日々を過ごしていたのですが……。

とまあそんな3編が収録されています。小説として一番面白いのはやはり「タンポポと流星」でしょう。〈私〉は恋人との関係なら、嫌になったら嫌になったと言って、ばっさり関係を断つことが出来ます。

ところが、女同士の友人関係というのは奇妙なもので、なかなかはっきりと関係を断つのは難しいのでした。毬子の悪意から逃れようと今まで様々な手を打ったのですが、どれもうまくいかなかったのです。

男性なら、「嫌なら付き合わなければいいじゃん」で済んでしまいそうですが、女性の友情ならではの難しさみたいなものがあって、アリジゴクにはまり込んでしまったような逃れられなさはかなりリアル。

上京することでようやく離れられて、自由の身になった〈私〉にどんなことが起こり、毬子に対する感情はどのように変化するのか注目してみてください。人間心理の複雑さが描かれる面白さがありました。

やさしすぎる老人とどことなく人生に行き詰っている女、不登校になった中学二年生の少女と先が見えないお相撲さん、わがままな女友達に振り回され続ける女。そうした、奇妙な人間関係が描かれた一冊。

読後感はあまりよくなく、人生の行き詰りが描かれた作品ばかりですが、シチュエーションに共感出来そうという人は読んでみて下さい。

明日は、リシャルト・カプシチンスキ『黒檀』を紹介する予定です。

リシャルト・カプシチンスキ『黒檀』

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黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)/河出書房新社

¥2,730
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リシャルト・カプシチンスキ(工藤幸雄、阿部優子、武井摩利訳)『黒檀』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

そもそもこの全集自体が、選者が池澤夏樹一人であること、そして、名作と讃えられるスタンダードな作品が収録されているわけではないという、ある意味では世界文学全集らしからぬ、一風変わったもの。

そして、そんな異色な世界文学全集の中でおそらく最も異質なのが、カプシンチスキの『黒檀』。何故かと言うと、そもそもこれは小説ではなく、ポーランド人がアフリカを取材したルポルタージュだから。

物語ではなく、実際に起こったことを記録するルポルタージュは文学足り得るのかという疑問はありますよね。実際にカプシチンスキはノーベル文学賞の候補にあがりながらも、受賞にいたりませんでした。

月報の中で池澤夏樹が興味深い分析をしています。ノンフィクションとルポルタージュは違うこと。そして日本ではルポルタージュはあまり好まれず、むしろ日本人は、ノンフィクションが得意であること。

ノンフィクションとルポルタージュは、同じように事実をありのままに書くものですが、元々フランス語のルポルタージュ(reportage)は、直接現地に行って体験したことを描く、より限定的なものです。

ノンフィクションでは、”誰が書いたか”よりも、書かれた事実そのものに注目が集まるのに対し、書き手の目を通して描かれるルポルタージュでは、書き手の個性が色濃く作品に反映されることになります。

情報を網羅的に集め、無機質な印象のノンフィクションに対し、ルポルタージュは時に局部的で、取材対象が主観的解釈に歪むこともあるものの、作者の思い入れがより熱く語られるものと言えるでしょう。

ルポルタージュ文学に近い雰囲気を持つ日本の作品と言えば、沢木耕太郎の『深夜特急』があります。インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗り合いバスを使って旅した、実際の経験を綴った作品。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)/新潮社

¥452
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実際の経験が綴られた作品ということは、逆に言えば、経験していないことに関しては書かれないわけで、ガイドブックとしては役に立たないかも知れません。けれど、読み物として抜群に面白いわけです。

今なお輝きを失わない面白い作品なので、まだ読んだことがないという方はぜひ。思わず旅に出たくなってしまうかも知れませんけれど。

初めて『深夜特急』を読んだ時、小説とはまた違う興奮を感じたのを覚えていますが、その感覚を思い出させてくれた本こそが何を隠そう今回紹介する『黒檀』。物語とはまた違った魅力がある作品でした。

見知らぬ国の見知らぬ文化が、驚きと共に綴られたとにかく面白い作品で、初めてルポルタージュ文学を読むという方にもおすすめです。

かつてはポーランド領で、現在のベラルーシ共和国にあるピンスクで生まれたカプシチンスキは、ポーランド通信社の特派員になって第三世界(アフリカなどの発展途上国)を中心に世界を飛び回りました。

命の危険すら感じる場面に遭遇しながらも、アフリカの人々の中に入って取材したのが『黒檀』。ポーランドもまた数々の侵略を受けた国なだけに、アフリカの黒人が抱える苦しみを他人事とは思えず……。

それぞれの章は短く、またほとんどが独立した内容なのでどこから読んでも大丈夫です。アフリカに興味のある方は勿論読み物として面白いので、アフリカに興味の無い方でも楽しめる一冊になっています。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 真っ先に、目に飛び込むのが、陽の光だ。辺り一面の陽光。そこらじゅうが眩しい。どこもかしこも太陽。雨にそぼ濡れた秋の日のロンドンは、ついきのう――大型旅客機は秋雨に打たれ、冷たい風が吹き、どんより薄暗かった。ところが、朝まだき、ここに着くや、見渡す限りの空港はぎらつく陽を浴び、到着客を日光が射し貫く。(8ページ)


1958年。初めてアフリカに足を踏み入れた〈ぼく〉は、突然の熱気に驚かされました。ガーナで様々な人々と出会い、色々な経験を重ねる内に、アフリカならではの文化や風習について知っていきます。

祖先を敬い、家族を大切にし、神など目に見えないものの存在を信じ、ゆるやかな時間の中で生きるアフリカ人。バスは満員にならないと出発せず、政治集会ですら、みんなが集まらないと始まりません。

アパルトヘイト(人種隔離政策)の問題が、〈ぼく〉を苦しめます。白人が支配者として黒人を縛り付け、差別的な法律で権利を押さえつけていただけに、逆に言えば黒人も白人をいい目で見ないからです。

 罪の問題から、ぼくは逃れようもない。彼らからすれば、白人すなわち罪人だ。奴隷制度、植民地主義、五百年間の屈辱、すべてが白人どもの罪業だ。白人どもの? それなら、ぼくの罪ともなる。ぼくの罪?(中略)ぼくら、ポーランド人だって、同じだよ! 三つの国家の植民地とされたポーランドだもの、それも百三十年間もだ。相手は同じ白人の国さ。アフリカ人たちは、笑い、おでこを叩き、ばらばらに散っていった。こいつ、騙す気なのだと疑われ、ぼくは腹が立った。(中略)彼ら黒人は、かつて一度たりとも、だれかを征服せず、占領もせず、他人を奴隷の身におとしめもしなかった。だから、優越感の目でぼくを見ることができた。黒人種に違いないが、潔白な存在である。ぼくは茫然と彼らの間で立ち尽くし、言うべき言葉を喪った。(53~54ページ)


アテネ各紙の通信員でギリシャ人のレオと、ダルエスサラームからウガンダの首都まで、車で行くことになりました。どんなに急いでも三日はかかる行程です。やがて、セレンゲティの大平原に入りました。

シマウマ、キリン、ライオン、ゾウなど野生動物が辺りを駆け回っています。大地と天空、動物たちが一体になったその信じがたい光景は〈ぼく〉に、アダムとイヴすらいない天地創造の瞬間を思わせます。

やがて正午になり炎暑となると世界は死んだように静まり返り、動物たちは木陰に隠れました。ところが、一千頭ほどもいるヌーの大群だけは隠れることが出来ず、花崗岩のようにただ立ちすくんでいます。

困ったのは、〈ぼく〉たちの車の進行方向にその大群がいたこと。大群が移動するのを待っていたら何時間かかることでしょう。かといってUターンなどすれば、刺激して襲いかかって来る恐れがあります。

そこでやむをえず〈ぼく〉は、地平線まで広がっているヌーの群れの中へ、ゆっくりと車を進ませます。さすがに、車が近づくと避けてはくれるのですが、地雷原を走る思い。レオは目をつむっていました。

一難去ってまた一難。冷や汗まじりでヌーの群れを抜け、途中で見つけた小屋で休憩していると、今度はエジプト・コブラが寝床に現れたのです。猛毒を持つコブラなので、もし噛まれたら、一巻の終わり。

ガソリン缶でコブラを潰そうとしますがうまくいかずその強さは「缶の下にいるのはヘビではない。折れも潰れもせず、振動し撥ねんとする鋼鉄のバネのごときなにものかだ」(62ページ)と思ったほど。

様々な困難を乗り越えてウガンダにたどり着いたはいいものの、〈ぼく〉はマラリアで倒れ、その後は結核にかかってしまいます。入院するお金はなく、強制帰国されそうな状況の中、医師に頼み込みます。

すると医師は、現地の人のための市立診療所を紹介してくれたのでした。そして病気になり、白人という特権的な階級から転落したことによって、〈ぼく〉は初めて親しい黒人の友人を作ることが出来ます。

1967年、ナイジェリア。黒人たちの中で暮らしたいと思った〈ぼく〉は、知り合ったイタリア人から二階に使用人のための宿舎がある農具倉庫を貸してもらいました。ところが入居して一時間後に停電。

そして、家を空ける度に必ず空き巣が入っているのでした。北ナイジェリア出身の男にその悩みを相談すると魔除けの白い羽を買うようにすすめられ、それを戸口につけたところ物取りは治まったのでした。

ある時、サハラ砂漠のウアダン・オアシスからヌアクショットに向かうため、モーリタニア人の運転するトラックに乗り込んだ〈ぼく〉。

サリムと名乗った運転手は、標識一つない砂漠の道を走っていきます。やがて眠ってしまった〈ぼく〉が静寂にふと目を覚ますとなんとトラックが止まっています。エンジンが故障してしまったのでした。

ボンネットを開けるのすら四苦八苦のサリムを見て、思わずぎょっとします。どうやらサリムはプロの運転手でも、この辺りの土地に詳しい人間でもないようです。サリムは、エンジンを分解し始めました。

見渡す限りの砂漠。残された水はあとわずか。もしもサリムが水を分けてくれなかったら、今日か明日にでも〈ぼく〉の命はなくなります。分けてくれたところで二人とも生き延びられるのは数日ですが。

太陽が少しずつ昇り、すべての影が縮んで薄れ出しました。目にうつるのは、何も存在せず、死を思わせる、光と白熱の真っ白な広がり。

 その時がきた――そう思っているぼくの眼前に、出し抜けに展開されたのは、まったく違う光景だった。炎暑の重みに押し潰され、もはやなにも現れずなにも起こるまいと見えた、死せる不動の地平線。それが、一瞬にして生命を取り戻し、緑を獲得した。目の届く限り、亭々たる美しい椰子の木が聳え立ち、地平線に沿って、途切れることなくそれが密生している。見えたのはそれにとどまらない。湖がある。広大な藍色の点在する湖沼群が現れ、生き生きと波立つ水面までが目に映る。灌木もある。瑞々しい、濃厚な緑の頼もしい枝々を交差させながら……。ただし、それらのすべては、震えてちらちらと光り、脈動し、薄もやのかかったように、ぼんやりと目に映るだけで、捉えようもない。そのうえ、大気を支配するのは――ぼくらの周りにも、向こうの地平線も――森閑とした深い沈黙のみであった。無風状態、枝に遊ぶ鳥一羽さえいない。
「サリム!」ぼくは叫んだ「サリム!」(150ページ)


サハラの楽園を見つけて喜んでいましたがサリムは黙って〈ぼく〉に水を飲ませます。渇きが癒えるとみるみる内に幻影は消えていったのでした。それでもほっとします。サリムが悪い奴ではなかったから。

トラックは直る気配はなく、状況は変わりません。〈ぼく〉とサリムは頼りない黄褐色の日陰であるトラックの下でただ寝そべって……。

はたして、砂漠で立ち往生してしまった〈ぼく〉の運命やいかに!?

とまあそんなお話です。特にぼくが好きだった、冒険小説的な雰囲気もあるスリリングなエピソードを中心に紹介しました。セレンゲティの大平原でヌーの大群と対峙するのは、「コブラの心臓」という章。

そして、砂漠で絶体絶命の危機を迎えるのが「サリム」という章。それぞれ独立した作品としても読めるので、そこだけ読んでも大丈夫です。平原の動物と砂漠。どちらもアフリカのルポならではですよね。

評価が高く、特に有名な章が「ルワンダ講義」。支配階級であるツチと農民階級であるフツについて説明し、1959年のフツの蜂起を綴ったもの。アフリカの歴史について関心のある方におすすめですよ。

ぼくが最も印象的だったのは、象の死のエピソード。象牙を手に入れるために、白人は象の死体の場所を知りたがりますが、他の動物に殺されない象の死体はなかなか見つけることが出来なかったんですね。

現地人は知っていたのですが、象は神聖な生き物なので、その場所を教えませんでした。どんな場所でどんな風に象は死ぬのでしょうか。

これはあえてふせておくことにしましょう。「氷の山のなかで」という章の最後に書かれているので、象の墓場に興味を持った方は、ぜひ実際に読んでみてくださいね。とても印象に残るエピソードでした。

ルポルタージュ文学と聞くと構えてしまいがちですが、アフリカならではの風景や文化が描かれ、それぞれのエピソードが面白く、読んでいてルポならではの興奮を感じさせてくれる、おすすめの一冊です。

明日は、津村記久子『ポトスライムの舟』を紹介する予定です。

津村記久子『ポトスライムの舟』

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ポトスライムの舟 (講談社文庫)/講談社

¥420
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津村記久子『ポトスライムの舟』(講談社文庫)を読みました。芥川賞受賞作です。

2008年に、ある一冊の本が再び脚光を浴びて、ベストセラーになりました。夏目漱石や太宰治のように、コンスタントに売れ続ける作家もいますが、日本文学でこれほど爆発的に売れるのは、稀なこと。

その本はプロレタリア文学を代表する作品である小林多喜二の『蟹工船』。プロレタリアというのは労働者階級のことで、蟹工船(カニの缶詰を作る船)で働く労働者たちの苦しい日々を描いた物語でした。

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)/新潮社

¥420
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何故、作品発表から79年の時を経て、再び『蟹工船』がベストセラーになったかと言うと、やはり圧倒的な共感を持って読まれたからでしょう。現代社会に生きる会社員も、実は似たような境遇なのだと。

蟹工船』ブームが覚めやらぬ中、第140回(2008年下半期)の芥川賞が発表されると、また大きな話題となりました。モラルハラスメントで会社を辞め、工場で働く29歳の女性の物語だったから。

一生懸命働いても暮らしが楽にならない「ワーキングプア」の問題を描いた作品として話題になったのです。まさに時代の波に乗った作品。それが今回紹介する津村記久子の「ポトスライムの舟」でした。

主人公の長瀬由紀子は、とあるNGOが主催する世界一周のクルージングのポスターを工場で見つけて、あることに気付きます。そしてそのことを、カフェを経営している女友達のヨシカに話したのでした。

「一六三万やん、あれ。よう考えたらあたしの工場での年収とほとんどおんなじやねん。去年おととしとボーナス出んかったしさ。そしたらほんまに二万六千円とかしか違わんねやんか。帰りのバスで計算したら」
 ナガセの言葉に、ヨシカは一瞬だけ顔を上げて、ああー、とぼんやり言った後、食器を拭く作業に戻る。
「あんたの一年は、世界一周とほぼ同じ重さなわけね。なるほど」
 二万六千円は、おやつ代とパンツ代やね、とヨシカは一人ごちる。
「それって重いと思う? 軽いと思う?」(26ページ)


生きるために働いているナガセは、「自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分」(27ページ)なったのです。そこで世界一周のための貯金を決めましたが、思わぬことが起こり……。

ナガセは工場勤務の他に、ヨシカの店でパートをさせてもらい、土曜日にはお年寄り相手のパソコン教室の講師をし、家ではデータ入力の内職をしていますが、それでも、行き詰まったような生活なのです。

新卒で入った会社を、心が折れて辞めているだけに正社員で働ける気はせず、交際している男性もいないので、結婚も夢のまた夢の状況。そんなナガセの辛い日々を、ほんの少しの希望と共に綴る物語です。

ナガセの現実が明るいものではないだけに、ちょっと憂鬱な気持ちにさせられますが、誰もが共感出来る物語だろうと思うんですよ。ナガセにとっての世界一周のような憧れを誰もが持っているはずだから。

そして、大学時代の仲良し四人組が、就職、結婚とそれぞれの道を選んだことで、四人四様の幸せ(あるいは不幸せ)の形が浮かび上がるのが、この小説の何より素晴らしい所。しみじみ考えさせられます。

「ワーキングプア」を描いた小説を読みたい方におすすめですが、物語としても引き込まれる、人生の重みを感じさせてくれる本でした。

作品のあらすじ


『ポトスライムの舟』には、「ポトスライムの舟」「十二月の窓辺」の2編が収録されています。

「ポトスライムの舟」

こんな書き出しで始まります。

 三時の休憩時間の終わりが間もないことを告げる予鈴が鳴ったが、長瀬由紀子はパイプ椅子の背もたれに手を掛け、背後の掲示板を見上げたままだった。いつのまにか、A3サイズのポスターが二枚並んで貼られていたのだった。共用のテーブルの上に飾ってある、百均のコップに差した観葉植物のポトスライムの水を替えた後、そのことに気がついた。(9ページ)


一枚は、世界一周クルージングのポスター。もう一枚は、うつ病患者の相互扶助を呼びかけるポスター。ナガセが見つめていたのは世界一周の方で、かかる費用の一六三万円に釘付けになっていたのでした。

新卒で入った会社を、上司のモラルハラスメントで辞めてしまったナガセは一年間何も出来ずに過ごし、コンベアで流れてきた乳液のキャップを閉める作業などをする工場で働き始めて、四年が経ちました。

月給十三万八千円の契約社員で、生活の足しにするためにいくつかのアルバイトを掛け持ちしています。ポスターを見たナガセは、工場での年収が世界一周にかかる費用とほぼ同じだと気が付いたのでした。

カフェを経営している女友達のヨシカの所でのアルバイトの帰り、誰かが自転車にいたずらをしたらしく、ブレーキがききません。電柱にぶつかって、一瞬死ぬかと思う経験をした後、ナガセは決意します。

「わかった。貯めよう」(30ページ)と呟き、工場のお金は使わずになんとか生活することにしてそっくりそのまま貯め、一六三万円を貯金することにしたのでした。久し振りに生きていると実感します。

やがて大学時代の仲良し四人組で久々に再会することになりました。

工場で働くナガセ、総合職として五年勤めた後念願のカフェを開いたヨシカ、大学卒業後すぐに結婚して七歳になる息子と五歳の娘がいるそよ乃、三年弱経理として勤め来年小学校にあがる娘を持つりつ子。

働くことを選んだナガセとヨシカ、結婚の道を選んだそよ乃とりつ子では生活サイクルや考えに違いが出ていて、ヨシカはしょっちゅう聞かされるそよ乃の家庭の愚痴にうんざりさせられていたりもします。

りつ子は、子供を迎えに行かなければならないと言って、早めに帰ろうとしますが、そよ乃が何気なく言った「えー、旦那は? 日曜休みやないの?」(37ページ)という言葉で、妙な空気になりました。

帰り道、思いの外出費をしてしまったと感じたナガセは、これからはもっと引き締めてお金を貯めようと決め、それから一ヶ月間はなんとかやりくりして、工場の給料を使わずに生活することが出来ました。

そのまま順調にいきそうだと思った矢先、夫とうまくいかなくなって家を飛び出してしまったりつ子が娘を連れて転がり込んで来て……。

「十二月の窓辺」

印刷会社に入社し、都心の支社に配属された女性社員のツガワ。一ヶ月間の工場出向で離れていたこともあり、また職場の先輩のほとんどが高卒で、何歳か年下なこともあって、職場に馴染めずにいました。

辺りには通り魔が出るという噂なので、女性社員はまとまって帰りますが、輪にうまく入れず、女性上司のV係長が持って来たヨーグルト菌の培養がはやっているのに、ツガワ一人だけ分けてもらえません。

そんなツガワが心安らぐ一時は、三階上の薬品会社に勤める四歳年上の女性ナガトさんと時折一緒に食べるお昼ご飯でした。心許せる先輩社員がいないツガワの唯一頼れる存在が、ナガトさんだったのです。

V係長からミスを責められる日々。先輩からは「Vさんね、ツガワのことを思ってああ言ってるんだよ。ある意味目をかけられてて幸せだよ」(126ページ)と励まされますが、とてもそうは思えません。

仕事が山場を越えたので、一安心して自宅でくつろいでいると、必要なフィルムが一枚ないとV係長から携帯に電話がかかって来ました。

 そこからの三十分は、思い出すだけでも体温が下がるような罵倒の砲火が電波を通して浴びせられた。冷たい汗が足の指の間から湧き出し、腕に鳥肌を立てて目に涙を浮かべながら、ツガワは耳に飛び込んでくる一言一句の語尾にすみませんと添えた。
(中略)
 すみません。
 すみません以外になんか言うことあんじゃないのっ?
 ……。
 何とか言えよ!
 申し訳ありません。
 あんたなんかやめてしまえばいいのに。
 ……。
 やめればいいのに。ねえ、やめれば? やめるべきよ、やめれば? 稼いでる金のぶん働かないんだったらやめれば?
 ……本当に申し訳ないです。
 まともにはたらく五感は聴覚だけになり、ツガワは自分が存在しているのかしていないのかすらあいまいになっていくのを感じていた。(139ページ)


V係長のあまりにも理不尽な叱責に、ついに耐えきれなくなったツガワは、退職届を作成して会社に持って行くことにしたのですが……。

とまあそんな2編が収録されています。「ポトスライムの舟」の前日譚のようにも読める「十二月の窓辺」は、恐いくらいリアルな話ですよね。なんとなくの空気で、集団の輪から外されてしまう恐ろしさ。

ツガワはここでうまくやっていけないのならそれはツガワ自身の問題で、どこにいってもうまくやれないと色んな人から言われますが、それが本当なのか、自分に落ち度があるのかどうかよく分かりません。

女性の登場人物が中心となって会社という組織で働くことの辛さが描かれた作品ですが、理不尽な要求に苦しめられる状況というのは誰もが少なからず経験することなので、共感しやすい作品だと思います。

興味を持った方にぜひ読んでもらいたいですが、いくらリアルでもフィクションぐらいは楽しませてほしいという感じもありますよね。だからこそ痛快さのある「倍返しだ!」がはやったのかも知れません。

明日は、間に合えばですが、「世界文学全集」のどれかを紹介しようと思っています。

ポール・ニザン『アデン、アラビア』/ジャン・ルオー『名誉の戦場』

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アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)/河出書房新社

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ポール・ニザン(小野正嗣訳)『アデン、アラビア』/ジャン・ルオー(北代美和子訳)『名誉の戦場』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。

解説の澤田直によれば『アデン、アラビア』は小説ではなくパンフレ(pamphlet、風刺的小論文)で「現体制や有名人を徹底的にこき下ろすことを主たる目的とする」(299ページ)ジャンルとのこと。

ヨーロッパの知識人に否(ノン)を突き付けて、アラビアのアデンに旅立った、極めて政治的、そして怒りに満ちあふれた文章なのです。

一方、月報の中で池澤夏樹は二十歳というナイーヴな時期に戸惑う書き手に共感を寄せていて、この作品を一種の青春小説のように受け止めていることが分かります。この両極端の反応は興味深いですよね。

『アデン、アラビア』はつまりはそんな作品で、小説だと思って読むとストーリーがない分多少読みづらく、かと言って小論文にしては堅苦しくなく、書き手の感情があふれ出している作品になっています。

作品の中では、故郷を離れて異国を放浪する自分を、トロイア戦争後に帰郷するために放浪するホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデッユセウスと重ね合わせてもいる、文学的香り豊かな作品。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)/岩波書店

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ただ、現代風に噛み砕いて言えば、いわゆる若者特有の「自分探しの旅」に他ならない感じもあるんですね。生きることの意味を問いかけると空虚さを感じざるを得ず、自分の居場所が見つからない〈僕〉。

 僕は何度人間という言葉をくり返すのだろう。ほかの言葉を与えてほしい。問題はこういうことだ。人間という言葉のなかに何があるのか、そして何がないのかはっきり述べること。
 夢想が通りすぎるのまで透けて見えるような、こんなガラスでできた存在をどうしたらいいのか? 彼らはエドガー・アラン・ポーの水晶でできた狂人だ。でもガラスだったら壊れる。連中は透明な深海魚のようでもある。でも魚だったら釣れる。
 数が多くて、たがいにくっついているものだから、彼らのなかに入りこみ理解するなんてことは無理じゃないかという気がしてくる。透明なものも数が多ければ影ができる。これが雲母の説明図だ。劈開面を見つけさえすればいい。すると、はがれた個々の薄片のひとつひとつ、個々の人間が透明になるのだ。
(78~79ページ)


共産党員として活躍し、離党し、第二次世界大戦で戦死してしまったポール・ニザンの思想を読み取るもよし、先が見えないナイーヴな青春時代をとらえた作品としてシンパシーを感じるもよしの作品です。

一方のジャン・ルオーはデビュー作であるこの『名誉の戦場』でフランスの権威ある文学賞ゴンクール賞を受賞し、時の人となりました。

母方の祖父母、そして父方の大伯母のエピソードを中心に、主人公の親戚に起こったささやかな出来事が綴られていく物語ですが、その背後には、第一次世界大戦という、悲惨な現実が見え隠れしています。

登場人物や家族構成が把握しづらく、また時系列もやや複雑なので、決して読みやすい作品ではありませんが、家族の歴史と戦争が抱える様々な問題とを巧みに縒り合せて描く、とても印象深い作品でした。

北代美和子の解説によると『名誉の戦場』は、半自伝的な五部作の第一部にあたる作品だそうですが、巻末の主要著作リストには邦訳のタイトルがないので、他の作品は現段階ではまだ翻訳はないようです。

作品のあらすじ


ポール・ニザン『アデン、アラビア』


こんな書き出しで始まります。

 僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。
 何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツいものだ。
 僕たちの世界が何に似ていたかって? それはギリシア人が、創造の雲につつまれた宇宙の始まりにあるとしていた、あの混沌とやらに似てなくもなかった。ただ僕たちがそこに見ていると思っていたのは、終わりの、本当の終わりの始まりなのであって、そこから何かが始まろうとしている終わりではなかった。(5ページ)


師範学校(エコール・ノルマル)に進学し、哲学を学び始めた〈僕〉でしたが、すぐに学校にも哲学にも飽き飽きして、単なる怠惰と他にすることのない不安のなせるわざで学校に通い続けていたのでした。

ブルジョア(富裕層)のエリートが「精神」について語っている間、プロレタリア(労働者)の人々が悲惨な労働で次々死んでいく矛盾。

「ヨーロッパの没落と腐敗が火を見るよりも明らかなとき東洋の復活と繁栄はきわめて当然のことだ」(24ページ)と思った〈僕〉はヨーロッパを抜け出し、船でアラビアのアデンへと向かったのでした。

東洋と大英帝国が交じり合う街で、〈僕〉はすべてのものから自由になります。他の人々たちのように生活や宗教の掟に縛られないから。

 僕に関しては、肉であれ酒であれ服装であれ、あれこれのカーストの女性であれ慎みであれ放蕩であれ、こうしなさいとかこうしちゃいけないとかいうことは何もなかった。(中略)こんなふうに神も天使もいなかったので、敬虔の徴とか掟とか教理問答とか崇拝とかスローガンから僕は自由でいられた。いかなる行為も一本の木に茂る葉の動きより道徳的なものだとは思えなかった。僕は自然のなかに生きており、人間、動物、事物は何の変容をこうむることなくその一部をなしていた。ハゲタカはハゲタカであり、雄牛は雄牛であり、フランス領事館の旗は一枚の布切れに過ぎなかった。
(57ページ)


やがて〈僕〉は流刑地のようなアデンで暮らすヨーロッパ人を見る内に、ここは圧縮されたヨーロッパだと思うようになりました。「目に見えない機械仕掛けの交換部品」(72ページ)のように働く人々。

「賃借対照表とか収支とか融資とか資本の循環とか商業的成功とか職業上の義務」(77ページ)とかいう抽象的な対象に対する意志しか持たない人々は、人間らしからぬ単なるぬか袋のように見えて……。

ジャン・ルオー『名誉の戦場』


こんな書き出しで始まります。

 それは要するに級数の法則、悲しき倍々ゲームで、ぼくらはその秘密を突然発見しているところだった――世界が闇だった太古の昔から風に吹かれて露にされながら、でもそのたびごとにまた覆い隠されてきたひとつの秘密が、乱暴に明るみに出され、ハンマーで打ちこまれたので、ぼくらは悲しみでぼうっとなり、ただぽかんと口をあけていた。級数を閉じたのはおじいさん。こいつをしっかり頭にたたきこんでおけ、というわけだが、まったく大きなお世話だった。(136ページ)


おじいさんが死んだのは七十六歳の時のこと。いつも2CV(シトロエンの小型車)を乗り回していたおじいさん。《ぽこぽこ丸》の異名を持つ車は、激しい雨が降ると幌(ほろ)の穴から水滴が漏れます。

滅多に喋らないおじいさんは、水滴が鼻の先についた時に、「みずっぱな」と言って子供たちから見事に笑いを取ったこともありました。

おじいさんとおばあさんが結婚したのは一九二九年、おばあさんが二十五歳の時。両家の親同士がまとめた話でした。おばあさんは2CVを雨の多い土地には向かないと思って嫌い、それがいつも喧嘩の種。

毎年夏になるとおじいさんとおばあさんは娘のリュシーを訪ねに南仏へ行くようになったのですが、ある時おじいさんは姿を消して……。

元々教師をしており、身近な人間の死がきっかけかどうか、生涯独身で過ごしたおばちゃん(パパの父の姉にあたるマリー)は、一度死にかけたものの奇跡的に回復して、〈ぼく〉らの元に帰って来ました。

ぼくらにあんないたずらを仕かけたことでばつの悪い思いをしているみたいに、あの偽りの退場についてほとんど謝っていると言ってもよく、感覚世界の境を越えてしまった人に特有の恐ろしいほどの距離の向こうから、おばちゃんはぼくらをじっと見つめていた。意識のないおばちゃんを発見したときに受けた印象は正しかったと確認された。この人は、ぼくたちのおばちゃんじゃない。それはまるで、おばちゃんの一部、ぼくらの目に、おばちゃんをおばちゃんだと見分けさせていた一分が、黄泉の国の片すみを通りかかったときに、ぼやかされ、消されてしまったかのようだった――そして、このおばちゃんもどきの前で、おばちゃんの特徴を捨てさったこのシルエットの前で、ぼくらは、そう、意識を失ったみたいになっていた。(231ページ)


それ以来、おばちゃんは亡くなった人のことを思い出すようになります。ジョゼフという名前が出てきたので、交通事故で死んだパパのことかと〈ぼく〉らが思っていると、21歳で死んだ弟のことでした。

戦争で死んだジョゼフとエミール、生還したものの妻の死に耐え切れず逝ってしまったピエールなどおばちゃんの兄弟の死の話をエミールの妻マティルドの説明を受けながら〈ぼく〉らは聞いていって……。

とまあそんな2編が収録されています。『名誉の戦場』は死を中心に〈ぼく〉の家族の歴史が綴られていく物語。登場人物のほぼすべてが死にますが、別の思い出では普通に登場してくるので変な感じです。

登場人物の説明がないので関係性が分かりづらいのですが、整理すると、ビュルゴー氏ことおじいさんとおばあさんの三人の娘が、マルト、ママ、リュシー。おじいさんの友人がウスターシュ修道士です。

おばちゃん(マリー)の兄エミールとマティルドの息子がレミ、兄ピエールとアリーヌの息子がパパ、弟がジョゼフ。〈ぼく〉の姉がニーヌ、末っ子がジズー。墓堀り人がジュリアン、その息子がイヴォン。

ちょっとあちらこちら時系列が飛んだりする小説なのですが、登場人物さえしっかり把握していれば大丈夫。覚えきれないという方はメモなどを取りながら読むと、すらすら読んでいけるだろうと思います。

戦争で死んだエミールは死体が見つからなかったんですね。空っぽの墓を前に夫は生きているのか死んでいるのかと迷うマティルド。その死体をめぐるエピソードが印象的なので、注目してみくてください。

それぞれ個性的なフランス文学を収めた一冊。『アデン、アラビア』は思想性、『名誉の戦場』は文体の面でフランス文学らしさを感じさせてくれる作品でした。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』を紹介する予定です。
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