匣の中の失楽 (講談社ノベルス)/講談社
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竹本健治『匣の中の失楽』(講談社ノベルズ)を読みました。
少し前に、日本探偵小説の「三大奇書」を紹介しましたね。夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』の3作品でした。
いずれも単なる推理小説とは違ったとんでもない作品で、まさに”奇書”と呼ぶにふさわしい作品になっています。
日本の”奇書”が、極めて珍しい、奇想天外な小説というイメージを持つ一方で、中国では「奇」は肯定的な、素晴らしい意味に使う語なので、”奇書”はすぐれた小説という意味になります。
元々は中国に「四大奇書」と呼ばれる作品があるんです。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』でしたね。どれも長い作品ですが、面白いのでそちらも機会があればぜひ読んでみてください。
日本探偵小説の「三大奇書」も、一つ増やして「四大奇書」にしようという動きがあったのかどうなのか、「三大奇書」に次ぐ作品として語られることが多いのが、今回紹介する『匣の中の失楽』です。
「三大奇書」なのか、それとも『匣の中の失楽』を加えて「四大奇書」にするのがよいのか、これは賛否分かれる所で、ぼくはどちらかと言えば、加えるのはどうかなあという、慎重派の立場です。
『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』が1930年代、少し遅れて『虚無への供物』が1960年代に発表された作品です。
それに対して、『匣の中の失楽』は1970年代後半と、まだ時代的に比較的新しいということがまずあります。時代を経ても読まれ続けるかどうかというのは、何より重要な要素だと思うので。
そして、「三大奇書」がそれぞれ独創的な作品であったのに対し、『匣の中の失楽』は実は、「三大奇書」を強く意識した作品になっているんですね。
とりわけ登場人物たちによる推理合戦がくり広げられる『虚無への供物』へのオマージュのような作品になっていて、『匣の中の失楽』もまさにそうした、推理合戦の作品なんです。
『虚無への供物』と同じ系統の作品であること、時代的にまだ新しいことから、「三大奇書」と並べるのはちょっとどうかなというか、まだ早いんじゃないかという気が、ぼくにはするわけです。
ただ、「四大奇書」に入れるかどうかはある意味ではどうでもいい問題で、重要なのは作品として面白いかどうかでしょう。これが面白いんですよ。そして、「三大奇書」に比べればかなり読みやすいです。
小説であること自体をネタにした小説を、「メタフィクション」と言うのですが、『匣の中の失楽』はまさにそうした、小説であることを強く意識した、「メタフィクション」的な推理小説になっています。
推理小説の中では殺人事件が起こります。読者にとってそれは「フィクション(虚構)」ですが、それは登場人物たちにとって「現実」の出来事ですよね。
「現実」の出来事として事件は起こり、名探偵によって解決されるわけです。
ところが、『匣の中の失楽』で起こる殺人事件は、推理小説好きの集まりのメンバーが被害者だったこともあって、まるで推理小説のようだというとらえられ方をするんですね。
そして、いかにして密室殺人事件は行われたのか、犯人は一体誰なのか、メンバーによる推理合戦が始まってしまうのです。
それはつまり、「現実」がまるで「虚構」のように語られ、「現実」が「虚構」のセオリーから読み解かれることに他なりません。
そしてそれだけでなく、実は起こった殺人事件は、登場人物が書いた小説での出来事だったことが明かされます。「現実」だと思っていたものは、「虚構」に過ぎなかったのです。
しかしやがては「現実」の方でも、「虚構」と同じく、殺人事件が起こってしまいました。読者は交互に進む「現実」と「虚構」の殺人事件の中で、何が真実なのか、くらくらさせられてしまって――。
推理小説としても勿論面白いですが、そうした「メタフィクション」としての構造が、何より魅力の作品です。
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
その時まで彼は、こんなに深い霧を経験したことがなかった。周囲のもの総てが、厚くたれこめたミルク色に鎖され、深海の光景のようにどんよりと沈みこんでいる、こんな霧を。(11ページ)
霧の中をさまよう曳間了は、なぜこうも世界というものは連続しているのかと不思議に思いながら歩き続けます。
2ヶ月ほど曳間を見かけなくなって、仲のよい友人たちは心配していました。久藤雛子と囲碁の勝負をしている倉野貴訓も、最近、曳間の姿を全く見ていないと言います。
囲碁の勝負は、同じことの繰り返しで無限に勝負のつかない三劫(さんこう)になり、何かしらの凶兆ではないかという話になりました。昔からそういう不吉な伝説があるのです。
一方、羽仁和久、布瀬呈二、一卵性双生児で、ナイルズと呼ばれる片城成と、ホランドと呼ばれる片城蘭の4人は、ロウソクで赤く光る部屋に集まっていました。
ナイルズは、今度自分が書く予定の小説を元に、推理小説好きの集まった仲間たちで、推理比べをしようと話します。
「ほんとだよ。それもさ、ただの小説じゃあ面白味に欠けるでしょ。それで、僕の考えたのは設定も登場人物も、何もかも現実そのままの実名小説なんだ。舞台は、勿論僕達ファミリーだよ。まだ実際には書いちゃあいないけどさ、いちばん大きなトリックはできてるし、エピローグの印象的な幕切れもちゃんとあるんだ。これはホランドにも話してないんだよ」(25ページ)
7月14日。出かけ先から帰って来た倉野が鍵を開けて家に入ると、見慣れぬ靴が2つありました。バスケット・シューズとグレーのデザート・ブーツ。
誰かが遊びに来ているのかと思って中に入ると、そこには胸に短剣を突き立てられた、曳間の死体があったのでした。
しばらく呆然としていた倉野でしたが、誰かに知らせに行こうとします。ところが、入り口では不思議なことが起こっていました。さっきまであったはずのデザート・ブーツが消えているのです。
それはつまり、犯人らしき誰かが、倉野が帰って来るまでこの家のどこかに潜んでいたことを意味します。犯人らしき誰かは、何故そんなことをしたのでしょうか。
この密室ならぬ密室には、一体何の意味があるのでしょう?
曳間が殺されたのは勿論悲しい出来事ですが、胸に短剣を突き立てられて殺されたということは、おそらく犯人は顔見知りの、推理小説愛好家の集まる、このファミリーの誰かだろうということになります。
そこで、ファミリーのメンバーは集まり、お互いのアリバイを確かめ合い、それぞれが殺人に使われたトリックや犯人の推理を発表していって・・・。
ナイルズは、相手が原稿用紙を読み終えるのを見ると、どうだったか感想を尋ねました。
すると、「まいったね、どうも」(111ページ)という声を漏らしたのは、小説の中で殺されてしまった曳間だったのです。今までの出来事は、小説の出来事だったのでした。
7月24日。ナイルズの書いた『いかにして密室はつくられたか』をタネにみんなで話そうとファミリーが集まっていると、おかしな音が聞こえ始めます。
「何だ、あの音は」
真先にそれに気づいたのは倉野だった。漆黒に封じこめられた匣とも見える『黒い部屋』のなかに、その奇妙な音は微かに響いていた。何千何万という白蟻が一斉に木材を食むような、あるいは同じくらいの羽虫の大群が蜚びかうような、わーんという、高い、絶え間のない唸りだった。それは隣から流れている『悪魔のトリル』のバイオリンの音に混じって、確かにはっきりと聞こえて来る。(124ページ)
一体何事かと音のする書斎に向かうと、書斎には鍵が掛かっていました。鍵を開けて中に入ると、つい先程まで部屋の中にいたはずの真沼寛の姿が忽然と消えていたのです。
密室状態の中で、真沼はどうやって姿を消したというのでしょうか。もしかしたら誰かに殺されてしまったのでしょうか?
ついに小説の中だけでなく、現実でも起こってしまった奇妙な事件。真沼の失踪について、ファミリーのメンバーたちはそれぞれの考えを述べ始めます。
一方、ナイルズの小説『いかにして密室はつくられたか』でも、殺人事件が続いていきますが、奇妙な形で現実とリンクしている部分があります。羽仁はこんな感想を漏らすのでした。
「ああ、雛ちゃんの御両親のことだね。……しかし、面白いね。逆に言えば、この小説のフィクションの部分の側から見ると、まさに、事実は小説より奇なりってことになってしまうんだなあ。……ナイルズのこの小説が何章まで続くのかは知らないけど、やっぱりこんなふうに、現実の出来事と架空の出来事とが互い違いに進行していく趣向なんだろう? そうするとだよ、仮に、小説が完成したとして、僕らのことを全く知らない第三者がこれを読む場合、一体どちらを現実のことだと思うんだろうか」(285ページ)
それぞれが自分の推理力に自信を持っているファミリーのメンバーたちは、架空の事件、現実の事件、両方の謎に挑んでいきます。
殺人のトリックに重点を置いた推理があれば、犯人の心理に着目した推理もあり、虚実入り混じる中、驚きの推理合戦が繰り広げられていって・・・。
はたして、それぞれの殺人事件の真相とはいかに!?
とまあそんなお話です。登場人物が多いですし、読みながら何が「現実」で何が「虚構」なのか、どんどん混乱させられてしまうような作品。そこにこそ、この作品の面白さがあるような気がします。
仲間が殺されているのに推理比べを始めてしまう所が、何だか奇妙と言えば奇妙ですが、巧みな推理に「なるほどなあ」と頷かされた直後にひっくり返される感じが、もうたまりません。
普通の推理小説とは全く違っていて、推理小説であることをネタにした推理小説とも言うべき作品。やはり独特の魅力がありますね。
いきなり『匣の中の失楽』を読んでも楽しめますが、作中でメンバーが語っていたりもするので、「三大奇書」(特に『虚無への供物』)を先に読んでいた方が、より一層楽しめるだろうと思います。
興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、『完訳 ペロー童話集』を紹介する予定です。